それから数日、洸と帰ったり一緒に出かけようと連れ出されたりした。
そして、前のように私が相槌を打たなくても喋り続けるところは変わらなかったが、沈黙ができることが多くなっていった。
洸は何か考え込むように俯く。
私から話を振らない。それは前と変わらないのに洸は不満げな顔をするようになった。
おしゃれなカフェで辛気臭い顔をしている洸に向かって
「なんだ、お前から誘ったんだぞ。そんな顔されちゃかなわない」と私は嫌味たっぷりに言った。
佐久間が洸と一緒にいればそのうち解放されると言っていた意味がようやく分かった。
私は変わってしまったのだ。
あのアホ佐久間に絆されて。
「俺の前で玲は、前と変わらない振る舞いをしている」
洸は言った。
「そうだな、前のように戻ったんだから、当たり前だ」
「以前だったら俺は何とも思わず、俺の話を静かに聞いている玲を見るだけで満足していた」
「そうだ。お前はお人形のように、何でも自分の言ったことを貫き通せる相手が御所望だった。
私はお前が嫌いだと散々言ってきたが、必ずその言い分を否定したし、結局は思い通りになる私のことが大好きだったもんな」
佐久間は唇を噛み締め、私をきっと睨んだ。
「でも! あんなのを見せられた後でこの仕打ちは、いくら俺でも堪えるって……」
「あんなのって、なんだ」私は首を捻る。
「図書室で、玲と佐久間が俺を差し置いて楽しそうに談笑していた。そんな玲は見たことがなかった」
「私にとってあいつは特別だ」
そう言いながら佐久間の無防備で何も考えてなさそうな笑顔を思い出した。
「一緒にいると落ち着くし、あいつが家を出た後はとても寂しい。最近私は毎晩不安でよく眠れなくなった」
私は頬杖をついて窓の外を見る。ぼんやりとしていたら、洸が椅子を勢いよくひいて驚いていた。
「玲とあいつは一緒に住んでたのか!?」
洸は毒気を抜かれたようにへなへなと椅子に腰を下ろして項垂れた。
「もう同居は解消したさ、洸にバレてなんかされちゃ困るからな。
お前の願いは叶ったんだぞ、私が縋り付くような場所になれた。
もうちょっと喜んだらどうだ」
洸は喜べって言われても、できないなあと苦笑いした。佐久間に負けたんだな、俺、と。
「前の玲は野良猫みたいだった。
誰にも懐かないで、人自体に興味がない。
なのに、今はただの飼い猫だ、検査についてきて、なんて言うような甘えたじゃなかった。俺はただ佐久間に嫉妬してたんだ」
甘えたって、そこまで堕落してないだろうと思った。
「そうやって玲は変わったのに、俺といる時は以前のまんま、もう自分が惨めすぎて笑えてくるわ」
「で、飼い猫の私は飼い主のところに返そうって?」
「そう。懐かない飼い猫なんてさっさと元の場所に帰ればいい」
視線をふいっと逸らした洸の横顔は寂しそうに見えた。それを見ながら私は席をたち、
「じゃあ、お言葉に甘えて。さようなら、洸」
と声をかけた。
洸はしっしと猫を追い払うように手をひらひらさせた。その手の隙間から見えたのは、頬を伝う雫だった。
私は洸が泣いたりするとは思わなくて足を止めた。
「何してるんだよ、俺の気が変わらないうちに早く行きな」と言われ私は立ち去る。
人はいつも誰かを傷つけて、傷つけられた人もまた誰かを傷つける。
私はかつて洸に傷つけられたが、私もまた彼の心に傷を残したのだ。被害者はまた加害者になりうる。
つまり、加害者と被害者は紙一重なのだ。
帰り道、私は何故かスッキリした気持ちだった。洸が涙を見せたとき、私と洸にのしかかっていた憑き物が落ちたようだった。
紅く染った空も、冷えた空気も全てが優しく私を包み込んでいる。帰路に着く足取りが軽くなり、明日を急かすように家に帰った。
はやく佐久間に会いたい、ふわりと笑う佐久間の笑顔がみたい。そう思った。
洸に別れを告げた次の日、私は昼休みに佐久間の教室に行った。
一体どういう顔をして佐久間に会えばいいのか分からなかったが、教室を覗くと佐久間がすぐにこちらに気づいた。
「おかえり、玲ちゃん」とだらしない笑顔で私を手招いた。
恥ずかしながらも佐久間の席まで歩いていくと「待ってたよ」とふわりを抱きしめられた。
佐久間の友達だろう人が
「やっぱこええよ、この豹変ぶり」と自分の肩を抱いて言った。
「僕の読み通りだったね」腕を緩めると佐久間は嬉しそうにそう言う。
「もしかして佐久間がなんかしたのか?」
「何もしてないよ。書いてたでしょ?僕は待つことしか出来ないって。だってもう外堀は埋められてたんだから」
「どういうこと?」
「君は僕と出会った時とだいぶ変わったってことだよ。
明るくなったし、口数も増えた、それが何よりも彼を驚かせたんだろう。
そして、僕に外堀を埋められて、過ごしていくうちに玲ちゃんは僕のことが大好きになった。違う?」
「よく自分でそんなことが言えるな」
私は呆れて見せた。
「……え、違うの」
佐久間が固まり、私はプッと吹き出す。
「違うくない。好きだよ、へなちょこ佐久間のこと」
「僕のこと嫌いって言ったのに?」
なんだよ、根に持ってたのかよ。そんな風に意地悪なことを言いながらも佐久間は花が開いたような、私がずっと見たかった笑顔だった。
「私はそう言ったのに、あんな手紙をよこしてきたじゃないか」
「だって玲ちゃんにあんな顔で嫌いなんて言われても信じれないよ。むしろ、なんかキュンとしたし、僕」
「お前って、結構やばいな」
その様子を見ていた、焼きそばパンを持っている人が
「宮代さん、こいつほんとにやばいっすよ」とニヤニヤしながら言ってくる。
佐久間は「余計なこと言うな神田」と何だか私の知らない親しみのある、
でもちょっと鬱陶しいような感じで言い返したのが新鮮だった。
神田は肩をすくめて、ほらな俺らにはこんなに冷たいんだぜ? と後ろにいるもう一人の男に同情を求めている。
「玲ちゃん、こんなやつの話聞かなくてもいいんだよ」
「いいや、気になるな。佐久間のこと教えてくれよ神田」
私はウキウキした気持ちで神田のもとへ行く。神田は私じゃなくその後ろを見ていた。
どうしたのかと聞けば顔を引き攣らせて
「あー、えーと。やっぱり佐久間はクラスでも優しいなあ、ニンキモノだし」と挙動不審に答えた。
予想通りの回答にうんうんと頷く。
「やっぱ佐久間は誰にでも優しいよな。でも誰彼構わず優しくしてたら、それはそれでなんかちょっと焼ける。浮気するなよ」
と佐久間を振り返る。
佐久間は顔を真っ赤にさせて頷いた。
「するわけない!」とまた私はぎゅっと佐久間の腕に逆戻りして、犬のようにすりすりしてくる佐久間のされるがままになっていた。
佐久間は体温が高いから、今の寒い季節は一緒の布団に入ったらあったかいだろうなあと思った。
今後一緒に暮らすことがあればこっそり布団に忍び込んでみるか、と私は二人であったまってぬくぬくになった布団を思い浮かべた。
佐久間に頭を撫でられて目を閉じると、不意に眠気が襲ってきた。
最近あんまり眠れてなくて、夜が明ける頃にいつも眠っていたせいだろう。
「玲ちゃん、眠いの?」
「少しだけな」
「保健室かどこかで仮眠する?」
「うーん。どこか開いてそうな教室に行く」
眠気はピークに達していたが私はのろのろと立ち上がり、佐久間から離れた。
「僕もついて行っていい?」
佐久間に尻尾がついていたら今ものすごい勢いで振っているだろう。私はそんな尻尾が見えた気がしてふふっとした。
「ああ、もちろん」
教室を出る直前「どうやってあの無愛想な犬を忠犬にしたんだ」とどこからともなく聞こえてきた。
結局一度は解消した佐久間との生活もまた彼は私のうちに戻ってきていた。
秋子さんから連絡が入り、年明けに日本に帰れるめどがたったと聞かされたのはクリスマスが過ぎた頃だった。
そして、今日は佐久間と暮らす最後の日だった。
大晦日、佐久間がにしん蕎麦を作ってくれた。
ニシンと出汁の香りがキッチンから漂い、
ほくほくとした湯気を立てながら「できたよー」と佐久間が運んでくれる。
「あけましておめでとうございます」
12時になると二人で正座して向き合いながら言い合った。
そして「いただきます」をして蕎麦を啜った。