澄んだ空気が夜を透明にしていた。
天辺を通り過ぎた月は白く、その光はリアンの部屋の窓へ届き、明かりはなくとも充分に準備ができるほどだった。
暗い場所でも、白い肌と色の薄い髪はぼやりと浮き上がって見える。
リアンは月光のような自分の肌に、昔の体の色を思い出して、口の端を持ち上げる。
男物の衣装は無駄なひらひらがないので動きやすい。兄と同じようなぴたりと体に沿った衣装の上に、丈の短い外套を羽織った。
夏だろうと空の上は寒い。
薄くゆっくりと息を吸い、少しずつ静かに吐いていく。
どんどんと何度か胸の上を拳で叩いた。
階下の雰囲気が一段と慌ただしくなる。
そろそろ時間だと部屋を見回して、きれいに片付けられ整っていることを確認すると、リアンは笑顔のままで自分の部屋を出た。
「おはよう、みんな!」
口々に返ってくるあいさつに、ひとりひとり名を呼び、顔を見てにこにこと頷いた。
騒がしく泥臭い男ばかりだった厩舎の中が、打って変わっていっぺんに華やかになる。
その中でひときわ高い鳥の歌声が聞こえる。
「チタ!! 久しぶり!!」
いつもより長く複雑な鳴き声は、本当に歌をうたっているようで、その声にリアンはうふふと笑って応えている。
チタの首を両腕で抱きしめ、ぐりぐり頭を押し付けると、紅い翼竜も同じように押し付け返している。
「……本当にリアンが好きだな、チタは……いつ見てももやっとする」
「なんだ、嫉妬か?」
「主人は俺だぞ」
「リアンは特別だ」
「……見れば分かるから、もやもやするんだ」
そもそもチタに触れる女性はリアンだけしかいない。
男ですら怖がって必要以上には近寄らない。
それ以前にチタが人を近付けさせない。
人を見て選ぶ。誰にでも愛想がいい訳ではない。
「準備はいいか? リアン」
「うん、完璧!」
「リアンはアドニスとチタに乗れ……行くぞ、表に出せ!」
「……兄さん」
「なんだ?」
「ありがとう」
ディディエは鋭く息を吸い込んで、ぎりと奥歯を噛み締めた。それでも出そうになる言葉を飲み込む。
両手でリアンの頬を撫で、そのまま摘んでぐいぐい動かした。
「リアン……」
「大丈夫だよ」
「リアン」
「ちゃんと準備してるし」
「リアン」
「行こう、兄さん」
家の裏手にある広場に出された翼竜たちは、翼を伸ばして広げ、飛び立つ準備を始めた。
背中の筋肉がもごもごと動き、その手前にある誰も乗っていない鞍がぐらぐら揺れている。
「おいでリアン。前に乗るか? 後ろか?」
「アドニスの後ろは景色が見えない……」
「じゃあ前だ」
リアンの腰を持ち上げて先に鞍に乗せると、その後ろに跨ってリアンの腰に腕を回した。
「手綱はどっちだ?」
「わたし!!」
「……はいはい、どうぞ」
「行くよ、チタ!」
くいと手綱を引くと、長い首を持ち上げて、体を低くして蹲る。
翼を広げてふわふわと二、三度羽ばたいた。
「兄さん、とりあえず北! 西よりの!」
「分かった!」
「……山沿いに飛ぶのか? 西からだと風上だぞ?」
「そうだよ?」
獲物を追うなら風下から追い上げるものだ。
風上にいたのでは、先に気取られて獲物に逃げられるに決まっている。
いまいち真意がわからないアドニスは、ディディエの方を見た。
忙しそうにしてこちらを見てもいない。
うーん、とついでにその向こう側の空を見た。
夜明け前の地平近くは、いつの間にか薄紫に朱の縞模様が走っている。
目の前を見下ろせば、リアンは襟巻きを持ち上げて、口元と鼻を覆っていた。
ついでに後ろからフードを被せてやり、ぐいぐいと前を閉じてやる。
「チター! しゅっぱーつ!!」
ぐわりと下に沈む感覚に、アドニスも慌てて態勢を整えると、自分も襟巻きを引っ張り上げた。
心の中で主人とは、と考えている間に風を巻き上げ、浮かび上がり、すぐに空高くまで昇っていた。
通常は竜を狩る際、複数人で森に入り、数人ずつに別れて捕らえる。
地を走る竜なら周りを囲んで、その範囲を狭めていく。
翼竜ならまず住処を探し、帰って来る前に罠を仕掛けることの方が多い。
手順を簡単に言えばこの通りだが、相手は人なんて文字通り蹂躙できる力の持ち主だ。
こちらがいくら経験を駆使して知恵を絞っても、思い通りにいくことの方が少ない。
そもそも翼竜の住処を見つけることすら容易ではない。
空が白んでくる頃には、眼下は緑深い森だけになって、左手にある高い山肌の灰色が間近まで迫っていた。
リアンは両側を飛んでいる仲間に、腕を振って合図を送った。
ディディエと仲間たちは指示通り先行して、大きな三角を描いて東に向かう。
「チタ! 大きい声!!」
ぺしぺしと首を叩くと、チタは低音と高音を混ぜた鳴き声を上げた。
威嚇をする為の声だ。
すぐに周囲の森がばさばさ揺れるのが上空からでも分かった。大きな木が揺れ、鳥が飛び立ち、騒然といった光景だ。
リアンはあちこちに頭を向けて、最後に上空を見上げた。
釣られてアドニスも上を見るが、真っ白く霞んだ空しかない。
長い首をもう一度ぺしぺしと叩く。
「チタ、上から来るよ、もう一回」
チタは背筋に寒気が走る声を上げる。
恐怖と畏怖が混じり合ったようなこの感覚は、人もちっぽけな生き物なのだと思い知ることができる。
従えているはずの竜が、本当はこの世界で一番強いのだと、人の本能がそう言う。
きた、とリアンは小さく呟いた。
「アドニス、掴まって」
寒さと恐ろしさで固まったような指をぎりぎりと根性で動かして、鞍の上に張られた革紐を掴んだ。
直後、上から矢のように降るものを追って、チタも急降下を始める。
アドニスは突然のことで息もままならないが、リアンは前傾姿勢でこのことを予見していたようだった。
上手くチタと疎通をしているようで、なんだか面白くない。
リアンの細い腰に回した片腕にぐと力を入れた。
矢のように降った何かは、急に落下の速度を緩めて体を反転し、追うチタに向かって両足を突き出した。
四本に分かれた鋭い鉤爪が、チタの肉を掴んで裂こうと開かれている。
爪を避けてぐるりと回り込もうとするのにも器用に付いて来る。
体はチタよりも小さいので、小回りが利くように見えた。速度を上げるのもゆっくりになるのも、翼をこまめに動かして器用に操っている。
尚も爪を突き出して伸ばしている足のすぐ横を両端に錘がついた縄が掠めてゆく。
「あ゛ーっっくっそ!! 外したーーー!!」
大袈裟に悔しがる声と、縄が飛んできた方向に気を取られ、竜はそちらに方向を変えようとする。
すぐさま逆側から網が投げられ、それは薄く透けそうな両の翼を絡め取った。
揚力を失った竜は短く鳴き声を上げ、ゆっくりと落下を始める。
「チタ! お願い!」
ぐるると返事をして、その竜を追いかける。
誰に教えられたのか、チタは器用に翼に絡まった網の部分だけを口に咥えた。
まあ俺が教えてないんだから、こんなこと教えたのはリアンに違いないけど、と面白くないに拍車がかかってくそくそ思っている間に、森が少し拓けた場所に、半ば乱暴に突っ込んでいった。
チタにしても自分と人と少しの荷物を乗せて飛ぶのが精々で、余分に別の竜まで持ち上げて飛ぶのは難しい。
それでもなるべく何も傷付けないように、気を遣って頑張っているのは感じられた。
着陸すると、チタは横倒しになったが、口に咥えていた網は離さなかった。
リアンはチタの背から転がるように落ちて、その勢いのまま、立ち上がって走り出す。
「リアン!!」
「静かにして! アドニス」
ぎちぎちと歯を鳴らすのは、警告の音。
喉の奥もぐるぐると地に響く低音で、竜は怒りを表していた。
警戒したチタもぐるぐると喉を鳴らしている。
「チタ、大丈夫。静かにね」
鼻先をぽんぽんと叩いて、労をねぎらうように、とんとおでこをくっつけた。
そのままチタを撫でるとすぐにきゅるきゅると鳥の声に変わる。
チタはこれぞ竜といった姿をしている。
捕らえて落としたのは、チタよりも一回り小さな見慣れない姿の竜だった。
口の先は硬そうで尖り、嘴のように見える。
その足も鳥のように細く、前に三本、後ろ向きに一本指があった。
その見目で余計に鳥に近く感じるが、長い尾も鱗も、竜のそれだ。
目の周りから横に青い筋、それが尾の先まで伸びている、灰色の竜。
陽の下で見ると、銀色に見えるに違いない。
初めて見る種に、アドニスは小さく感嘆を漏らす。
翼を絡め取られてもがく竜の目の前に回ると、リアンは爪も牙も届きそうな位置まで行って、そこで腰を下ろして胡座をかいた。
にこにこと笑って、何も言わずに、じっとその竜を見つめている。
無茶なことを止めたいが、邪魔になるような気がして、アドニスはその場を動けない。
人に慣れてない竜がどんなに危険な生き物なのか、そんなこと言われるまでもなく知っているというのに。
本来なら時間をかけて徐々に近付いて、餌を与えてやり、そのうち触れられるようになるまで、相当に気を遣う。
そこからやっと人を乗せたり、荷車を引かせたりの調教が始まる。
アドニスがぐだぐだと余計なことを考えている間に、ぐるぐると鳴っていた喉の音が小さく、消えそうになっている。
変わらずぎちぎちと警告音はしていた。
目を逸らさず、リアンは竜を見つめている。
にこにこと笑って、時々ふふと笑い声を漏らしている。
嘘じゃなかったのか。
あの酒の席で聞いた、リアンの竜の捕らえ方は、酔った奴が、大袈裟に話を盛っているのだと思って、適当に聞いていた。
語っていた話こそ、半分だったとアドニスは眉を顰めた。
むしろもっと端折らずに語っとけ、と昨日の酔った男の顔を思い出して、心の中で悪態を吐いた。
いつしか森には朝の光が届いていた。
木の葉をすり抜けて、白い筋が何重にも真っ直ぐな線を引いている。
足元の白い靄をかき分けて、ディディエと仲間たちがやってきた。
「アドニス……」
「おお……うん」
「俺たちが見守ったところで何も変わらないぞ」
「……そうか?」
「この周りに他の竜がいないか探らないと」
うっかり他の竜の縄張りに入りでもしていたら、いつ襲われてもおかしくない。
「そうだな……俺も行こう」
「ああ、いい。あいつらに行かせる。まぁ、チタより強い個体ならどの道全滅だしな」
縄張りに入ったものを襲うのは、弱いものが入り込んだ時だ。
己より強いものがやって来たときは、身を潜めてひたすらに通り過ぎるのを待つ。
それは大概の生き物が生き抜くために持っている知恵だ。
チタに縄張りを荒らされたとやってきたあの銀色の翼竜は、チタと同等、またはそれ以上だろう。
煽られて逆撫でされた部分もあっただろうが、空を駆ける速度と、小回りの利く身のこなしで、勝てると踏んで降ってきたに違いない。
改めて、とんでもないなとリアンの方を振り向いた。
「……俺たちは風下に回る。火を起こすから手伝え」
「うん? 火を使うのか?」
「腹が減った、喉が渇いた。寒いしひもじい」
「……まぁ、そうだけど。ちょっとは我慢し……」
「ってそのうちリアンが駄々を捏ねだすから、用意をしとくんだ」
「おお。そりゃ用意しないとな」
火を使って食事の用意を始め、全て万端整っても、リアンは銀の竜の前から動かなかった。
やっと立ち上がったのは、太陽が中天を過ぎて、陽の光が白から黄色になり始めたころだった。