目の前の小さな黒い塊は燻り、隙間から橙の火が見えている。



白い煙が炭になった残骸を、それでもまだ燃やし尽くそうと、表面を舐めるように這っていた。

この地を朝日が照らすまでは、人々の家であり、集い祈りを捧げる神殿であり、糧を得る果樹園であり、それで生計を立てていた人々であったものだ。


小さな集落は跡形もなく燃やされていた。


相対しているのは、隣国の紋を身につけた兵士。

こちらが十二人、十二騎の翼竜分隊に対して、あちらは騎馬兵と歩兵の混ざった中隊だ。

奪った食料や金品、女性たちを担いでいる。
ざっと見た限り十倍以上の人数がいた。

これ以上、この国の人々の、決して穏やかとは言えない営みを、更に踏み躙るような真似は許せない。
竜たちを盾にして、逃げ損ねた人々に手を貸しながら、この地域内で食い止めようと戦った。

数の差を考えても早々にケリを着けないと分が悪い。


加えてこちらは前夜まで、国境の地区で起こっていた紛争の鎮圧に加わっていた。
帰途の上空で見つけた煙に、何かあったのかと様子を確認しに来てのこの現状だ。



深刻ではないが怪我をした部下もいる。
そうでなくても全員が、翼竜たちも含めて疲れの色が濃い。

長引けば長引くだけ、最初から良くない形勢は悪くなる一方だ。

この地区の住人の避難を最優先に、この場をなんとか凌いで、即時撤退だと副長に命を出した。

なぜここに百を超えるような敵の中隊が居るのか、そんな情報は聞いていない。
そもそもこの地域はそこまで戦略的に重要な場所では無いはずだ。


今考えたところで仕方がないと、目の前の事態に集中することにした。

始まりから余裕なんて一欠片も無い。
応援を呼んで待つような悠長な時間も、なんとかなるだろうと思える楽観さも、もちろん微塵も無い。

人々を逃せるまでの時間稼ぎが精々だと、この場でどうにか敵を踏み留めるに徹する。



長の意を汲んで部下たちも、その相棒の翼竜たちも、それに応えようとしていた。

大きな人集りの中心で、猛った竜の声が響く。風に吹かれた木の葉のように、周囲に人が飛ばされていく。

「おうおう……。気合入ってんなぁ……」

黒みがかった紅の翼竜を中心に大きく広がった人の輪は、間を置いてぎゅうと縮まり、人が吹き飛んでは輪が広がる、というのを繰り返していた。

いくら竜でも寄って集られていては、いつまでも保たない。ますます時間をかけていられなくなってきた。

新たな負傷者も出た。
ただの怪我も大きな傷になっていく。

目の前の歩兵を数人を倒して、周囲に目を走らせる。撤退の時機を判断しなくてはならない。

避難した住民は遠くまで逃れられただろうか。その知らせはまだ来ない。

構えを解いて、少し背筋を伸ばした。



「ふむ……なるほどな」

すぐ背後から聞こえた、透き通った軽やかな声に、悪寒が走る。

長剣を握った手がぴくりとも動かない。
不意を突かれた、そんなことは言い訳にはならない。
簡単に背後を取られるなど、この場面であってはならないというのに。

地についた両足の、かかとから頭の先に向けて、痺れるほどの身震い。
うなじの毛が逆立つ感覚。

同時に背後へ倒される。
地面に強かに尻を打ち付けて、痛みに顔を歪める。

どすりと重たい音がして、自分が今まで居た場所に長槍が突き立った。

見上げたすぐ先で黒一色のローブが翻る。

ちらりと見える真っ白の小さな手が、襟首の後ろを掴んで引き倒したのだと。それが飛来した槍から回避させてくれたのだと気が付いた。

回転が止まったような頭の中で、なんとか状況を察する。



漆黒のローブはよく見ると、その端に同じく黒の蔓草の刺繍が施されていた。
目深に被ったフードの奥で、真っ赤な唇の端が、片方だけ持ち上がる。

戦場を駆ける噂を思い出して、あれは本当の話だったのかと目を見開いた。

「良くやったと褒めてやろう……後は任せて、ゆるりと見物でもしてろ」
「……あんた、まさか」
魔 女 (そのまさか)だ……シャロル、負傷者の手当て。オリエッタ、アウレーテ、ついてこい。ソノヤ、敵陣の中央に飛ばせ」

呼ばれたそれぞれが揃って短く返答をし、すぐに魔女と名乗った者と、数人がその場から転移で消えた。

身の丈ほどもある武器を構えた者や、手の上に火球を浮かせた者が敵と己の間に立つ。

ローブは黒、縁取りの刺繍は血の赤。

仲間を下がらせろと聞こえた声は、やはり女の声だった。

慌てて退避の声を上げ、笛を吹いて翼竜たちも退がらせた。



「はい、では貴方様はこちらへどうぞ〜」

地面に座った格好のまま、首の後ろを掴まれて、ずるずると引き摺られそうになる。

「ちょ!……待て! 待ってくれ!! やめろ! 何するんだ!!」
「何って、お怪我の手当てをします。今の話を聞いていませんでしたか? 理解できませんか? バカですか?」
「……何だその三択は」
「あら……余裕があるみたいですね」

魔術師団は漆黒のローブ。
女性のみで構成されており、その長たる者はこの大陸一の魔術師。

『魔女』と呼ばれていた。

闇色のローブの縁には刺繍、その糸の色で役割が示されている。

白い刺繍は治療専門。その白い蔓草の縁取りの奥で、楽しそうに笑う声がする。

「思ったより元気ですね。来るのが少し早かったでしょうか」
「性格悪いって言われないか」
「あぁ、私はまだ可愛いもんですよ」

口の中で舌打ちをして、襟元の手を除け、立ち上がる。

反対にローブ姿を見下ろした。

「俺の傷は大したことない。手当てなら他のヤツらから頼む」
「……隊長章を付けていらっしゃいますが?」
「だったらなんだ。先に重傷者から治療するのが本来じゃないのか?」
「あら! まともな方は久しぶりな気がします! それではお言葉通りに……失礼、隊長様」




半刻も過ぎないうちに、敵兵は撤退を始めた。

牧草地に放っていた羊のように、周りを囲まれてひとつに纏められると、背後から追われ、速度は簡単に止まれない速さに見えた。

人の数倍はあろうかという程の、地竜の姿をした白い光が敵兵を急追する。

小高い丘の上で様子を見ていたが、余りの呆気なさに、見ているのが辛くなってきた。

「……うぅぅぅん。……俺たちの苦労……」
「隊長、生き残った人たちは近隣の町まで送り届けたと知らせが」
「ああそう……なら無駄ってこともなかったか」
「無駄なんて考える自体が無駄ですよ。というかそもそもこんなクソみたいな国が無駄ですからね」
「……口に出すんだもんなぁ……」
「根が正直の集まりだと、遠慮が要らなくて楽ですね」
「俺が苦労するとかは考えないのな」
「私は隊長の倍は働いてますから? 軽口くらい笑顔で受け止めて下さいよ」
「うぅぅぅん…………あ。火は消し止めたか?」
「そうですね、もうほぼ燃えた後ですし」
「だな……竜たちを休ませとけ……始めるぞ」
「ええ……四人ほどまだ動かせないのがいますけど」
「八人も居れば明日の朝までにはなんとか方が付くだろ」
「ちょっと待って下さい? 昨夜もまともに寝て無いんですけど」
「俺もだよ?」
「知ってます」
「じゃあ聞くけど、お前このまま帰ってお家でぐっすり眠れるのか?」
「休むくらいは許されると思いますけど? 誰も彼もがあんたみたいな無尽蔵な体力持ってないってんですよ」
「誰が英雄豪傑だよコノヤロウ」
「どんな耳してんですか。おめでたいな、阿呆ですかコノヤロウ」
「お前、こんな焼け野原のどこで休む気だよ」
「あっちに天幕できてますよ」
「はあ?!」
「魔術師団の方がどうぞとおっしゃって下さいました」
「……あぁ……ありがたい……ありがたいけど……情けないな」
「今さら面目を気にしますか」
「面目っていうか……自負心だな」
「ありましたか、そんなもの」
「なけなしのやつが、さっき無くなった」
「身軽で結構」
「……はは……」
「さ。その軽い頭を地面に押し付けて、魔女様にお礼をして下さいよ」
「……ふぇい……」
「こういう時の為の隊長ですから」
「わかってらぃ」



天幕には負傷者が寝かされていた。
そうでない者も地面に座り込んでいる。

「シャロルさんお水……」
「うるさいですね……そこにあるから自分で飲めばいんですよ……あら、隊長様」

水差しから器に移し替えて、持っていく。体を起こすのを手伝ってやり、器を持たせてやった。

「わぁ……隊長じゃなくて、シャロルさんに飲ませてもらいたかった」
「お前、別の場所切り刻んでほしいのか」
「治してもらうから平気。シャロルさーん」
「新たにできる傷は知りませんよ……隊長様はこちらに……腹と腕が血みどろです」
「ん? もう止まってるだろ」

ぶんぶん腕を振ると、あちこちに血の水玉が飛んで、振りかけられた者から非難の声が上がる。
ふへへと笑い返しておいた。

「止まってないじゃないですか。とりあえず傷だけ塞がせて下さいよ」
「他に怪我人は居ないのか?」
「もう隊長様だけです」
「……じゃあ、頼む」
「先にお腹の傷を見せて下さい。防具外してシャツを捲って……」
「はいはい……」

竜騎士は全身を覆うような甲冑は身に付けない。竜の負担にならないように、最低限の部分が守れる程度の防具に留めている。

額、胸の部分、肘から先、膝から下といった程度だ。
守られている部分の防具はズタボロ、それ以外の場所に傷を負っている。

腕の防具を外して、軽く動きやすくなったので、革帯を外すのが面倒な額当ても外した。
幅の狭い日除があるので、天幕の中では視界が暗くなる。

近くに控えた副長に防具を手渡す。

血で貼りついたシャツを捲り上げ、腹を出すも、魔術師はこちらの顔を見ていた。

「……なんだ? 顔は怪我してないぞ」
「……若いですね」
「おう……優秀なもんで……貴女も若そうだ」
「…………優秀なもんで」

シャロルと呼ばれた魔術師もやはり、天幕の中なので、フードは脱いでいた。
それほど歳が変わらない、つい最近少年少女を脱したような顔を見合わせる。

シャロルは自らの言葉通り優秀で、大きな太刀傷だったが大した時間もかけずに、傷口を塞ぎ終えた。
薄らとある傷痕も、時が経てば消えてしまいそうな程僅かだ。

通常なら魔術で傷を塞いでも、皮膚より内側や筋には鈍痛が残ってしばらくはそれが続く。
だがそれもほとんど感じない。
化膿止めと熱冷ましの薬も飲まされる至れり尽くせりぶりだった。

「すごいな」
「凄いんです、私」
「ありがとう」
「いいえ……さぁ、お館様がお待ちです。奥へどうぞ」
「……奥?」

天幕の奥に向かって目線を向けた。
日が差している天幕の壁面には、外側にいる人の影がゆらりと映って見えていた。

切れ込みが入った幕のこちら側に立った人が、こっちだと首を傾け、ひらりと手招いた。



引き上げられた幕の向こう側は、今まで戦っていた焼け野原の景色ではなく、室内。

それも高価そうな調度の揃った、貴人のお屋敷の一室。

通された場所でううんと唸る。

ばさりと幕が下がった音に振り返ると、そこに天幕は無く、一枚板の立派な扉があった。

「えぇぇぇえ? どこに連れてこられたんだコレ」
「王宮の客室だ」
「……おっと……後で帰してもらえますよね」
「もちろんだ」

部屋の中央に向かって振り返ると、いつの間にか現れた魔女様は窓辺の小さな円卓で、手ずからお茶を淹れていた。

もうすでにローブ姿ではなく、この部屋に合った身なりをしていた。

「お前も飲むか?」
「はぁ……頂きます」
「うん。いいだろう、ここに座れ」
「失礼します」

目線に促されて椅子に座ると、茶の入った優美な白磁の器を差し出され、向かい側に魔女様は腰掛けた。
卓にぶつける勢いで頭を下げる。

「助かりました、ありがとうございます」
「うん、まぁ気にするな」
「いえ、部下を誰も失わずに済んで、本当に感謝しかありません」

向かい側でふと笑ったような気配を感じて、そろりと頭を上げる。

「なんだ、思ったより若いぞ……いくつだ、小僧」
「十七です」
「は! その歳で分隊長か! 金でも積んだか!」
「金も人脈も使える分だけ使いました」
「そこまで人手不足だったか?……金や人脈如きでのし上がれるほど我が国の騎士は甘くないはずだが」
「竜乗りとしては卓越してますので」
「お?! さてはお前、馬鹿だな? 愛らしいぞ!」
「え? 罵っ……褒めてます?」
「都合の良い方に解釈しろ」
「あぁ、じゃあ……ありがとうございます」

気取ったり畏ったりせず、会話を続ける。

如何に話し相手が伝説の魔女様であろうが、仕えている訳でもないので、気分はかなり楽だった。
格式ばった話し方ではなく、気安そうな雰囲気もそれを手伝っている。



目を見つめられただけで生まれや育ちを見透かされ、冷たくなった器の中身を飲み干すまでは、取り留めもなく会話を続けた。

「……あの、魔女様」
「なんだ」
「何故あの場にお越しになりましたか」
「うん……あそこまで憎悪が溜まるとな……土地に穢れが根付くんだ」
「……はぁ……穢れ」
「あの者たち……国や兵からも逸れた、鼻つまみ者の集まりだったぞ」
「そうなんですか?」
「声のでかい統率者がひとりで率いてたみたいだ。通りすがりの村や町を襲ってはやりたい放題していたらしい」
「………………くそ」
「ああ……本当にクソだな」
「あいつらどうなりましたか」
「頭の奴は縊り殺してやった。残りは記憶を書き換えて元の国へ送り返してやろうと思ってな……まぁ、今頃 死にものぐるいで走ってるだろ」
「記憶を書き換えた?」
「自国を敵国だと思ってる……同士討ちでもして潰し合えばいい」

にやりと笑っている顔に、冷たいもので背筋を撫でられた思いがするが、同時に味方で良かったと安堵もした。

「……そろそろ私を元の場所に戻して下さい」
「うん? まだいいだろう、もう少し付き合え」
「いえ……やることもあるので」
「なんだ?」
「亡くなった民があの場のあちこちに……あそこまで焼けてしまっては、誰が誰だか分からないでしょうが、残された人たちの大事な人だったはずです」
「……いいぞ……気に入った!」
「はい?」
「お前、私の騎士になれ!」
「……え?」
「お前、どこの所属だ。そこ辞めてウチに来い」
「いや……は?」
「『北の果て』だよ、知ってるか? ストックロス砦だ」
「いやいやいやいや……何言ってんですか?」
「お前の部下もそのまま連れて来い。ウチの竜騎士もじじいが増えたからな。調度 頃合いだから総入れ替えだ」
「魔女様?」
「良いぞストックロスは……一年の三分の二は雪の中だ……良い具合に引き篭れる」
「あのですね……」
「良い具合に敵も多いから飽きないぞ?」

浮き出ていた汗が一度に体温を下げた気がした。血の気の引く感じに、手足の先が痺れ、頬にぴりぴりとした痛みが走る。

「良い顔つきになったぞ?……お前、名は?」
「アドニス……アドニス シトニック グラスローダ」
「ああ、グラスローダ家か……お前の曾祖父……ん? その親父か? あれは良い騎士だったな」
「…………………………はい?」


その後、ほぼ時を置かずして王命が下る。

アドニスとその部下たちはそっくり北の砦、ストックロスへ異動になった。

立場的には、斬り捨てられても惜しまれない先鋒隊から、砦を守護する騎士団へ大幅な昇格を果たした。

程なく他の騎士たちから『魔女の野良犬』と揶揄されることになる。





「……とまぁ、この小さな集落で起きた事件が切っ掛けになって、ここにあるエンブルク決戦に繋がる訳です」

コンラッドはにこにこしながら、開いたままの本の一部を指でとんとんと叩いた。

リアンが読んでいたこの国の歴史書は、もうほぼ最後の頁、近代も近代、ここ十年ほど前の話だった。

「えっと……今の、誰と誰の話ですか?」
「お館様と団長の話ですね」
「お館様ってウチの?」
「はい」
「団長ってアドニスのこと?」
「そうですよ」
「…………ぉぉぉおお。あれ? もしかして凄い話を聞きましたね?」
「まぁ、お館様の存在は、ちょいちょいこの本の中にも感じますからね。はっきりと書かれては無いですけど」
「うぉぉぉおお……格好良い……」
「でも本に書かれていない、その他のたくさんの人たちのひとつひとつの小さな行動が、歴史を作っていると私は思いますよ?」
「……わぁぁあ……コンラッドさんも格好良い……」
「あ、良いですね。もっと褒めて下さいよ、団長の嫉妬は大好物です」
「よ! 男前!! すてき!!」
「……お前らうるさいから出て行け」
「よ! アドニス! 顔真っ赤っか!!」
「お前この……愛で倒してやろうかリアン! 抱っこするぞこら!!」
「ぅやー!!」



ひとしきり部屋の中を走り回ったあと、ふたりはそのまま飛び出していった。
通路の先で、楽しそうに笑うリアンの声が、遠くの方から聞こえている。



それを聞きながらコンラッドは開け放たれた扉を閉じた。


これでしばらくは落ち着いて仕事が進むと小さく笑い声を漏らす。