「…………一年とか言ってなかったか?!」
「お館様は一年くらい余裕で休めるって!」
「ばばあの休暇の話かよ…………」

天を仰いで大きくため息を吐き出した。
空の青に息の白が混ざって溶けていく。

なんとか気を取り直して、アドニスは出入り口の石段から、大きく一歩を踏み出した。



湖の淵、ちょっとした陸地のある場所で、リアンは雪に埋もれたり、跳ねたりしている。
どんなに外に出たいとごねても、今まで誰も雪遊びは許してくれなかった。
これまでを取り戻してやれとばかりに雪まみれになっている。

アドニスは防寒着も無いまま、腿まである雪をもどかしく掻き分けて進んだ。
すぐ目の前にいるのになかなかその距離が縮まらない。

ようやくたどり着いて、リアンを力一杯に抱きしめる。

もごもごしながらも回った手で、リアンはびしびしとアドニスの背を叩た。

「……くるしい……折れる……逆向きに折れる……」
「……おお……わるいわるい……でももうちょっと!」

緩まったと思った途端にまた締め上げられて、リアンは唸り声を上げた。

「……もう良いんだな?」
「もう良いよ!」
「……そうか!」

いつものように担ぎ上げると、アドニスはリアンの頭や服に付いた雪を払い、改めて顔を見上げる。

「いくら体が丈夫になったからって、風邪は普通にひきますからね! リアン様!! もうそろそろ戻りますよ!!」
「……はぁい……」

壁際にいるシャロルが、腰に手を当てて、さあさあと大きな声を上げている。

「どっちに戻るんだ?」

リアンはわざとらしく首を傾げて、にやにやと笑う。

「どっちって?」
「お前、この!!」

踏み固められてない雪の上に、アドニスはリアンを抱き上げたまま、背中から倒れていく。

楽しそうな高い声を上げながら、一緒に倒れこんで、リアンはついでに寝転んだアドニスの腹の上に跨った。

「お城は今、誰も居ないよ。空っぽで寒いから、砦に戻ります」
「誰も居ない?」
「うん。あったかい場所に行くぞーって、お館様が。わたし海、初めて見た! きれいなとこだったなぁ……」
「お前も行ったのか」
「うん、今 帰ってきた。お館様も皆んなもまだ残ってるよ。わたしとシャロルさんだけ先に戻ったの。楽しかったぁ……あ、お土産あるからね!」

ぎゅうと目を瞑ると、アドニスは口の中でくそくそつぶやきながら、心の中で大悪態を吐いた。

起き上がってリアンを抱きしめる。

「アドニスそんな格好で寒くないの?」
「寒いわ! 帰るぞこら!」

きちんともこもこに着ぶくれたリアンを担いで、アドニスは立ち上がる。

大きな声で笑いながら、リアンは久しぶりに砦に戻った。



暖炉の前で、少しずつ大きくなる火に当たって、部屋が暖まるのを待ちながら、これまでのことを話す。

魔術はアドニスが乗り込んだ時点で、もうほぼ完成していた。
術に必要な魔力は膨大で、足りない分は侍女たちに少しずつ分けてもらった。

ことが済んだそのすぐ後に、全員で城から出て、色々な場所を転々としながら暖かい地方に国内を南下していく。
海がきれいで静かな町に一番長く滞在した。

お館様たちは更に海の向こう側まで遊びに行くと言うので、先んじて砦に戻れるように頼んだ。

さすがにこれ以上は竜たちを放ったらかしにできないとリアンは話を締めくくる。

「……シイやチタの心配か?」
「だってわたしの仕事だもん」
「……まあな」

部屋が暖まってきて、上着を脱いだリアンの首元を見ながら、アドニスは自分の首元を指先でとんとんと叩いた。

「それは?」
「あ、これ? わたしの余った部分」
「は?」
「釣り合ってなかった分を切り離して、ぎゅっとまとめたんだって」

リアンは両手でその辺りの空気を包むようにして閉じ込め、そのまま潰すような仕草をした。

「わたしには大きかった魂を別にしたって」
「……ほう。分かるような、分からないような」

指の先ほどの大きさの球は、玻璃でできているように艶があった。
濃い乳白色で、中に模様が入っている。
猫の目のように、縦に細長く、血のように赤い筋。

リアンが竜であった時の配色。

「お館様が身に付けといた方がいいだろうって、首飾りにしてくれた」
「……なるほど?」

手に取ると指の先で弄んで、アドニスはその珠に見入っている。

「これすごいんだよ。この鎖、どこにも切れ目がないの。ずっと切れないんだって。取ろうと思ったら、わたしの頭を取らないと無理なんだって」

銀の細かな鎖の輪は、リアンの首回りをゆるく一周しているが、確かに輪の中は頭が通りそうにない。

「おう……ほんとだ外せないな」

女性の装飾品に疎いアドニスでも、鎖の端と端に、互いを繋げる金具があるのは知っていた。

くるりと一周回してみても、リアンの首飾りにはその金具が無い。

「まあ外す必要もないんだろ? 無くさなくて済むからいいじゃないか」
「だよね!」
「よく似合ってるよ」
「わたしから出たやつだからね!」
「出たやつって……これもお前だろ?」
「うん」
「大切にしないとな」
「……うん!」

一から十まで、全部を説明しなくても、アドニスはそれとして飲み込んでくれる。
がばっと両腕を広げると、体当たりの勢いでリアンは抱きついていった。


軽々と受け止めて、アドニスはゆるく抱きしめ返す。
リアンの頭の上に顎を乗せて落ち着けて、そのことにふと首を傾げた。

「お前……背ぇ伸びた?」
「あ! 本当?!」
「うん……少しな」
「今まで負担がかかってたから色々小さめだけど、これから大きくなるかもって言われてたんだ!」
「そうか……じゃあ、もしかして重くなったのか?」

いつものように抱え上げてみても、重さの違いはあまりよく分からない。

「……こっちは変わった気がしないな」
「すぐ重くなるからね」
「おう、そうか」
「背もアドニスより高くなって」
「いや……うん。それはどうだ?」
「もう抱っこするのも嫌になるぐらいに」
「……その分鍛えるぞ。嫌になんかならん」
「わたしもう子どもじゃない!」
「言ってる間はまだまだだな」
「くそー! おーろーせー!!」
「おいこら、暴れるな。危ないだろ」

じたばたして下ろすの下ろさないの言い争っていると、荷物を抱えたシャロルがやってきて、いつものようにアドニスはきちんと怒られる。



「……少しはマシになるかと思ったんですけど、見当違いでしたね」
「……ならさっさと次を寄越せ」

仕事机にだらりと半分伏せたようになって、アドニスはにやけた顔を抑えようとしていた。
またその半笑いの顔にコンラッドはますます苛ついてくる。

アドニスの手の中にはそこにすっぽり収まるほどの、透明な玻璃の球があった。
中には薄紅の小さな平貝や白っぽい巻貝がいくつか浮かんでいる。

リアンが海辺で拾い、それを閉じ込めたものらしい。

お土産のそれを、書類を押さえる重しに使えと渡されたはずなのに、ほとんどがアドニスの手の上に乗っていた。

「済ませとくんで、後で纏めて処理して下さい」
「あ、それ得意」
「その顔が鬱陶しくて、こっちも効率が上がりません」
「……不思議だな、全然腹が立たないぞ」
「……さっさと出てって下さい」

雪に濡れた服を乾かした程度で、荷解きが始まり、シャロルに部屋から追い出されていた。
仕方なくコンラッドの横でだらだらと時間を過ごしていたが、片付けはもうとっくに終わっている頃だろう。

嬉々として部屋に戻るが、誰もいないように見える。
冷えた空気を感じて扉を見ると、少しだけ隙間が開いている。出かけたのかと思いながらアドニスは扉を閉じて、部屋を振り返った。

暖炉の前の床の上に、こんもりとしたふかふか号の塊がある。
ちょうどリアンひとり分の塊だ。

すっぽり頭まで毛布を被って、眠っているようだった。
すぐそばまで近寄って屈み込み、床で波打っているリアンの髪を手に取る。

寝台に移すべきかと毛布を少し捲ったら、ぱっちりとした大きな目がこっちを見ていた。

「…………ルオ……扉を開けたのはお前か」

驚きで止まっていた息をふうと吐き出す。

ルオはちい、と鳴いて毛布の奥へ行こうと、後ろに下がっていく。

「おい、待てこら。お前エドのとこに帰れ」

毛布から引っ張り出して脇に抱え、部屋の外に出す。

「いいか。エドのところだぞ」

言い聞かせてじっと見ていると、ルオは渋々といった感じで、通路を歩きだした。見えなくなるまで見送って、アドニスは扉を再び閉じた。

「……アドニス?」
「お? 起こしたか。まだ寝てたいなら寝台に行けよ」

床の上に座り直して、リアンはふかふか号を体に巻き付ける。

「いつの間に寝たんだろう……」
「疲れてるんだろう? 帰ったばっかりで」
「……ふふーん。わたしはもうそう簡単に疲れないのです」
「そうか?」

アドニスはリアンの真後ろに来て、抱えるように座り込む。

「もう走っても泳いでも、平気なのです」
「泳いでも?」
「ケイティンさんがね、そこの海辺の町出身で、教えてくれたの」
「ケイティン? ああ……あの人の侍女か」
「海の中きれいだった! アドニス見たことある?」
「いや、海は無いな」
「泳げる?」
「まあ一応な」
「いつか一緒に行きたいね!」
「……連れてってやるよ」
「ほんと?!」
「ああ」
「約束?」
「約束」

アドニスはリアンをぎゅうと抱きしめる。
リアンからこの先の話が出たことが、いつかの約束ができたことが胸の奥を熱くさせた。

じわりと目に浮かんできたものを誤魔化すように、リアンの肩に頭を乗せ、ふかふか号に顔を擦り付ける。

湧き出るように生まれて、急激に膨らんでいく衝動を、行動に移すべきかどうか、迷っているうちに大きく扉が開かれた。

「さあ、リアン様! お待ちかねのシャロルですよ!」
「…………ちっ」
「…………あら団長様……お邪魔ですね」
「……お前がな」
「アドニスひどい! そんなことないもん! ……そんなことないですからね、シャロルさん。……引越しは終わったんですか?」
「はい、もう完璧です」
「引越し?」
「城にいちいち帰るのは面倒ですからね、すぐ近くの空き部屋を私用に頂きましたよ」
「聞いてないぞ」
「今言いました」
「…………あぁ?」
「近くなって便利ですね」
「これで余すことなくリアン様とご一緒できます……至福の極み!」
「シャロル、茶を淹れてくれ」
「あ、わたしが!」
「お前はここ」

立ち上がりかけたリアンを、行かせないように床に押さえる。
アドニスはシャロルにくいと頭を振った。
無言の圧力を見ていたリアンは、再び立ち上がろうとするも、また押さえられる。

「お前は、こーこ!」
「いい歳こいて駄々っ子とは……気持ち悪いですね……仕方ありません……いい時間なのでおやつにしましょう。リアン様、今日は城都で人気の焼き菓子ですよ!」
「わ、わーい、やった。お願いします!」

もぞもぞと振り返って、リアンはアドニスと対面した。

「……どうしたの? アドニス」

心配そうにしているリアンに、ふへと力無い笑いを返す。

「……どうしたんだろうな」

そう返しながらも理由は分かっているので、情けないに情けないが上塗りされていく。




その日の夜は、リアンの帰りを祝って、食堂でいつもと変わらない食事を賑々しく食べた。




特別でも豪華でもない食事が美味しく感じた理由も、ただリアンが心配だったからだけではないと、そこでも気が付いた。











おまけ