「てめぇ、どういうことだ! このくそばばあ!」
「うん、ちょうどだな。リアン、茶を淹れろ」
「え? あ、はい」

お館様の仕事部屋の扉を、許可も取らず勢い良く開けて、アドニスは声を張り上げる。

笑いを含んだような落ち着いた声に、リアンはアドニスの抱っこから床にすとんと降りて、部屋の端、茶器の場所に向かった。

ポットからは蒸された茶葉のいい香りがしている。
すでに用意されていた三客にお茶を注いで、お館様の前に運んだ。

「……何つっ立ってるんだ、座れ」

そう言われても目の前には椅子らしきものはない。
アドニスは辺りを見回して、背もたれのない椅子をふたつ引っ張りだす。ひとつをリアンの前に置き、作業台を挟んだ場所で、自分もどかりとお館様の真ん前に座った。



リアンがアドニスに伝えたのは、詩の一節だった。

鳥は歌を忘れ、飛べるはずの空は遠く、季節が巡っていく。

リアンは砦に行って、そんな内容の詩をアドニスの前で諳んじた。

聞くなり怒りの表情も顕に、勢いよく椅子から立ち上がる。
面白くなってきましたねと笑ったコンラッドをひと睨みして、出ると一言残して部屋を後にした。

リアンを抱えて廊下を走るような勢いで城に向かう。

どうしたのかとリアンが聞いても、アドニスはそれに答えることはなかった。



まだあちこちで紛争が続き、絶え間なくどこかで煙が上がっていた頃の詩。
他国に人質同然で嫁がされた姫君が、故国を想って紡いだものだと云われている。

ーー故郷ははるか遠く、思うままに言葉も告げられない場所に行かされ、何年も月日が流れる。もう故国の言葉を話すこともなく、忘れゆくばかりーー

姫君は悲嘆のうちに亡くなったと伝えられている。後に物語として、平穏になった昨今では芝居の演目にもなっている。

教養としてアドニスは知っていたし、付き合いでその芝居に招かれたこともあった。
高位の者は常識として知っているが、リアンはその風雅を理解していない。



向かい側を睨んでいるアドニスと、平然としてそれを受け止めているお館様を、リアンは交互に見る。

「……どういう意味か説明しろ」
「お前が飛んでくると思ったからな」
「は?」
「思った通りだろ?」
「違う、そうじゃない! 何故あの詩をリアンが……」
「何を考えた?」
「何をって」
「特使の顔が浮かんだか?」
「違うのか」
「ふーん……まぁなぁ……そういう話はある」
「……やっぱり」
「手ぶらでは帰れんからなぁ……何かしら土産でもと考えるだろう」
「隣国王はもう五十過ぎだろ?」
「我が歳を気にする男とは思えんな。今でも結構な人数を侍らせてるって話だし。よしんば王が気に入らなかったとしても自分が貰う気なんじゃないのか?」
「ふざけるな!」
「……そう思うか?」
「だったら何だ」
「何不自由ない暮らしだぞ? 上手くすれば贅沢三昧だ。それくらいの機知も愛嬌もある。私が病を治せばその心配もいらん」
「それは俺との約束だ」
「対価だよ」
「なんだと?」
「それ相応の対価があれば、私はお前だろうが、誰であろうが、構わないんだ……そういうことだ、リアン」
「はい……え?」

急に自分の名が上がり、話を振られて、リアンは狼狽する。
ふたりが話しているのは自分のことだろうとは思っていたが、意味がよく分からなかった。

今までの話を振り返ってみても、解せない部分がいくつもある。

「わたし……が、マブルーク様がいる、隣の国に行くんですか?」
「行くわけないだろ!」
「……そうだな、その話は私が断った」
「何だよ、断ったんなら何より先にそれを言え」
「えっと……じゃあ、わたしの体は、相応の対価があれば、誰がお願いしても聞いてもらえるということですか?」
「……そうだな、こいつである必要は無い」
「アドニスが約束を守る必要は無いんですか?」
「待ってくれ、リアン。どうするつもりだ」
「対価って何ですか? お金ですか?」
「そうだな……金でも構わんが、それに変わるものはいくらでもあるぞ?」
「例えば?」
「待てリアン、お前、自分で何とかできると思ってるのか?」
「……だって」
「金を工面するにしろ、このばばぁの言いなりになるにしろ、一生かかるぞ」
「だからだよ。アドニスはその一生をかけようとしてるでしょ」
「……いいんだ、俺は。一生騎士でいる気だったんだから。仕える相手が変わるだけの話だ、大したことでも無い」
「……こいつが赴任してすぐからずっと誘ってたしな」
「……そういうことだ、気にするな」
「……でも、アドニス」
「リアンは俺が俺の人生を棒に振ると思ってるのか?」
「だって……」
「そんなことするかよ。俺の人生だぞ、勿体ない」
「アドニス……」
「わんちゃんはうまい具合に来た渡りに船に乗っただけだもんな?」
「そんな良い船でも無いけどな」
「言ったな、覚えてろよクソガキが」
「うるせぇばばあ」
「アドニスはお館様の騎士になりたかったの?」
「いや、前にも話した通り、お前たち兄妹の側に行きたかった」
「これもまた運よく妹の方からこっちに来たしな!」
「わたしがここに来て、だからそれでいいの?」
「……タダで仕えるんでもないからな」
「ほら見ろリアン、こいつ、お前を大義名分にしたかったんだ。バカだなぁ。可愛いだろう?」
「……うるせぇわ」

しばらくお館様の城で、お館様や、その侍女たちと接して、そこがどんな場所なのかを少しだけ分かっていた。

穏やかで優しくて、温かい場所は、ここにもあった。

アドニスが憎まれ口を叩きながら、文句を言いながらもお館様を慕っていることも、その理由も分かる気がする。

「……わたしもお館様の役に立てますか?」
「おお?! 聞いたか、可愛いなぁ、おい!」
「やめとけ、リアン。こき使われるだけだ」
「リアンが居たら、漏れなく竜が一緒に付いてくる。お得だな!」
「勘定が汚い」
「お前が居たら、お前の部下も付いてくるしな! ちょうど良い」

はははと笑ったお館様は、ぬるくなったお茶をぐびりと飲んだ。

思い出したようにアドニスもリアンもカップに手を伸ばす。

ことりとカップを置いたお館様は、にやりと笑うと頬杖を突いてリアンに目をやる。

「リアン……答えは決まったみたいだな」
「……はい」
「よし。じゃあ、お前は用済みだ。犬小屋に帰れ」

追い払う仕草でアドニスに向かって手を振る。
反射で立ち上がって、アドニスはリアンの方を向いた。

「は?! なんだよ、どういうことだ!」
「……結局アドニスに背中を押してもらった気がする」
「説明しろ、話せって」
「全部終わったらね」
「お前、いつもそれだ」
「そうだっけ?」
「はいはい、ほんと邪魔だから。さっさと帰って王城にする報告を急げ。遅れてるんだから」
「お前の所為だろうが!」
「辞任の意向も添えとけよ」
「……このくそばばあ……リアンをお願いします!」
「大船に乗った気でいろ」
「……そんな良い船でも無いけどな」

軽く息を吸って吐き出すと、アドニスは持っていたカップを机に置いて、その手でリアンの髪を一房掬った。

もぎもぎと無心で髪を握る。

「……何か言葉をかけないのか?」

髪を離してリアンの頬を撫でて手を添えた。

「お、口付けでもするか」
「黙ってろ、ばばあ……」
「気になってたけど……お館様は全然ばばあじゃないよ、アドニス」

ふはと笑うとアドニスはリアンの唇を親指でなぞって、そのまま部屋を静かに出て行った。

「甲斐性無しめ……リアン、ありゃ男じゃないぞ」
「でもアドニスが好きなんでしょう?」
「犬としては優秀なんだよなぁ」
「ふふ……」
「アレには詳しく話してないのか? お前がどうなるのか」
「自分で決めないとと思ったので」
「後悔は無いな、リアン」
「後悔は……どちらを選んでもしそうです。でも、決めました」
「うん。答えを聞こう」
「はい……」

リアンは姿勢を正すと、きちんとお館様に向き直って、その決意を口にする。





これより一年の間、城の主人には誰一人として取り次ぎは為されないとの知らせが砦側に届いた。

城側からは扉が閉ざされて、降りかかるものは全て砦側の裁量で処理されることになる。

王も王城も例外ではない。
北の要、大陸一の魔女の意思を覆せる者など誰もいない。
先の戦でこの国の損失が他国と比べて格段に軽微で済んだのは誰の功績だったのか。

今も一番に過酷で、一番にきな臭い山奥にこもり、国防に尽力する魔女のおかげで、枕を高くして眠れるのだ。
そのことを王もその周囲もよく理解していた。


しばらく後に、砦の長以下、騎士のみならず、砦の全員が魔術師に仕えると上申される。
ストックロスの砦から届いた知らせに、一時王城内は騒然とした。

騎士のうちの誰かを王城側の繋ぎに置くべきと焦り、王城の重臣の娘との婚約や婚姻の話が持ち上がったが、半数以上はすでに妻帯者。
残りも決まった相手がいると、話は見事、跡形も無く流れる結果に終わる。

国での出世など関係無くなったので、こちらには何の旨味も無いというのが本当のところだった。

どこぞのご令嬢が山奥に来させられ、無体にも雪山に閉じ込められることも気の毒だ。
かといって騎士の妻たちのように、山の麓で、町の人々と同じような生活が、生粋のご令嬢たちにできるとも思えない。

一応は耳に障らぬように返答をしたが、まだまだ諦める気は無いらしい。

若い者から籠絡していこうと、見習いのエドウィンとオキーフに白羽の矢が立っていたが、エドもオキーフもその真面目さから、一向に靡かない態度にいよいよ焦りを隠せなくなっている様子だった。


わたわたと慌てる様を楽しむだけ楽しんで、コンラッドは北の魔女からと遣いを買って出た。

貴国の騎士では無くなるが、我が新たなる主人が王と国に逆らうことは無い。
主人がこの国への恩を忘れるまで。
その恩はまだしばらくは続くであろう。

お館様の言いそうな言葉を独断で進言したが、誤ったことは言ってない確信はある。

お館様からは裁量権をもらっているので、文句を言われても、見込み違いだったと返せば良い。
そもそもこの程度のことで、お館様が怒るとも思えない。こうなることも織り込み済みのはずだ。

砦では国の騎士としての仕事が格段に減ったので、のんきさに拍車がかかったようになる。

ゆるゆるになった手綱を引くように、国防の役割は変わりなく続けた。

日々の警邏に、隣国との橋渡しと駆け引き。
王城からの度重なる与件の対応をしているうちに、ひと月、ふた月と過ぎていく。



麓の町では山から下りてくる風で、冷え込みが厳しくなる頃。
お山の上では雪の激しい時期は終わり、あとは積もった雪がゆっくりと無くなっていくばかりになっていた。






ふと窓から外の様子を見て、立っていた膝から力が抜けそうになる。軽くよろけて倒れそうになったあと、アドニスは部屋を飛び出していった。


釣られて同じく外を見ていたコンラッドは、アドニスの慌て様にふはと笑い声を上げる。