深い深い谷合いの底に群れがあった。
岩肌は白く、夜には薄ぼんやりと光って見える。
大きな木は一本としてない。
木と草の間のような植物が繁茂して、普段はそこになる小さな実を少しばかり食べて、時には仲間たちと交代で獲物を狩りに行った。
昼と夜が半々ではなく、夜が長い。
短い昼の間は、空にはふたつの太陽が昇る。
ひとつは眩しく照らし、もうひとつはそのすぐ横、黒い点が寄り添い、空を穿つ小さな穴のように見えていた。
酷く暑い時季も厳しく寒い時季もない。
命を脅かすような外敵はいなかった。
自分たちより大きな生き物はおらず、時には別の群れや種の違うものと争うこともあったが、恐ろしい敵となり得る程でもない。
我ら以外、どの生き物も小さく、弱く、それらとは共存していた。
時に仲間は減ったが、それを補うように新しい命が増える。一定の数を保つように、そう決まっているようだった。
生まれてから死ぬまでのほとんどをその谷の底で過ごした。
仲間たちと穏やかに、何かあれば協議をしてその先を決めていた。
幼いものも老いたものも発言をし、その全部を聞くという定めがあった。
力を合わせて生きる共同体だった。
日がな一日寝そべって、夜には星を数え、退屈したら空を駆ける。
穏やかで、とても優しい時間の中にいた。
お館様の問いには、とうとう答えることが出来なかった。
毎夜お館様に竜であった頃の話をする度に、そこはとても素敵で、何の憂いもない、素晴らしく良い場所に思えた。
魂か身体のどちらかに釣り合わせてやろうと言われて、どちらを選ぶべきか、はっきりと答えが出ない。
竜であった頃に生きていた世界に戻れる訳ではないことは分かっている。
リアン自身でさえ、紗のかかったような薄れた記憶しかない。そこがどこにあるのか、本当にそんな世界があるのかすらはっきりしない。
お館様もリアンが生きるのならこの世界で、人であるか、竜であるか、どちらかを選べと言った。
人である今、人として生きるのが本来だとリアンは思っている。そうあるべきなのだと思っていても、即答が出来なかった。
人でいることがもどかしいし、ずっと苦しくもあった。
上手く生きていけそうにない、病気がちな身体が許せなかったし、何より辛くて苦痛が多い。
周囲に支えられ、大事にされても、心が擦り切れ、崩れるのももう目前に思えるほど。
竜であった頃の憂いの少なさが、リアンの手を強く引いている。
薄暗い通路をひとりで歩く。
等間隔で燃えている灯りは、足元まではっきり照らす程の光量はない。
窓の外の月に照らされた雪景色の方が明るく感じる。
みんな寝静まっているのかと思っていたが、人の気配が通路を伝わって聞こえてくる。
国外からの心配が少ないのんきな砦でも、不寝番は常に置かれていた。
リアンは他の騎士たちに気付かれないようにこそりと音を立てずに歩き、静かに、自分が入れる分だけ扉を開ける。
部屋の中は暗く、暖炉は火の気が無く寒かった。
寝台には誰も居ない。
上掛けは皺ひとつなく、冷んやりとした風情で月の明かりを跳ね返していた。
奥の仕事部屋を除いてもそこには誰もおらず、リアンはさらにその奥のアドニスの私室に向かう。
初めて覗いたその部屋の寝台にも誰も居ない。
しかし絞られた橙の灯りは部屋を暖かく見せて、人の気配を感じる。
アドニスは壁際の長椅子の上で、顔の上に本を被せて、肘掛に足を投げ出して寝転んでいた。
そっと側に近寄って、腹の上に乗った手を掴んで揺らした。
「アドニス……こんなところで寝たら風邪ひくよ」
その声が聞こえたのか、揺らしているリアンの手に目を覚ましたのか、逆にリアンの手をぐっと掴み返した。
跳ね起きる拍子に本がごとりと床に落ちる。
「リアン?!」
「……うん」
「どうした、こんな……時間に」
「うん……内緒で来た」
椅子に座り直して向き合ったアドニスは、両膝の間にリアンを挟んで、両手を下から掬うように握り直した。
「何かあったのか、お館様に何か言われたか?」
リアンは静かに首を横に振ると、薄っすらと笑みを浮かべる。
「ちょっとだけでいいから、アドニスの顔が見たかっただけ」
「…………そうか。あっちは……どうだ、その……上手くやれてるか?」
「うん……侍女さんたちはみんな優しいよ。おしゃべりするのも楽しい」
「そうか……お館様はどうだ?」
「ふふ! 面白い話いっぱいしてくれる」
「…………うん。辛かったりしんどかったりしないか?」
「ぜんぜん……でもアドニスとか、みんなに会えないのは寂しい」
「ああ…………俺もだ」
アドニスは立ち上がって、リアンを腕の中に囲い込んだ。
「お前の顔を見られて、少しだけ安心した」
「…………わたしも…………アドニス」
「なんだ?」
「…………じゃあね、アドニス。わたし行かないと」
少し腕を緩めて身体を離すと、アドニスはリアンの顔を覗き込む。
「…………リアン?」
「なに?」
「…………どこに行くんだ」
「お城に戻るんだよ、黙って出てきたから……」
「本当か?」
「ほんとだよ、他にどこに……」
「ならどうしてそんな顔を」
「そんな顔って、いつもと同じでしょ」
「…………雪に埋もれに行く気じゃないだろうな」
「そんなことしないよ」
「……じゃあね、行かないと、なんて、別れの挨拶みたいだ」
「じゃあね、は……言うでしょ、普通に」
「そんな顔で言われてもな」
「そんな顔なんて知らないったら」
「何を決めたんだ」
「何も決めてないってば」
「どうする気なんだ」
「どうってなにを?!」
「それを聞いているのは俺の方だ」
「知らない! 何言ってるのアドニス!」
「何に怒ってるんだリアン」
「知らない!」
「リアン……ちゃんと話せ」
「話なんか無い!」
「リアンリアン……もう前と違う。ゆっくりでいい……全部話せ」
「リアンリアンじゃない! リアン!」
「リアンリアンリアン?」
「ちーがーうー!」
地団駄を踏んで、腕の中でリアンは暴れる。
アドニスはリアンを持ち上げて抱きかかえると、とんとんと背中を叩いた。
足をばたつかせるからリアンの室内履きは飛んでいって、ひとつは壁に、ひとつは長椅子にぶつかって床に落ちた。
「あったことも思ってることも全部話せ」
顔を見上げると、リアンの目からぽろぽろと水の球が転がり落ちる。
「……おい、泣くなよ。頼むから」
「うぅぅ…………いや!」
「なんだこのでっかい子どもは」
ぐしゃりを顔を歪ませると、リアンはめい一杯に息を吸い込んで、涙をぼろぼろ零しながら肺の中の空気を全部 声に変えた。
「あーーーーーー!!」
声の続く限りで叫ぶようにして、息を吐き切ると大きく吸い込んで、また叫ぶように声を上げる。
「……おい、止めろ。ディディエと親父さんがすっ飛んで来る」
全力でしがみついているリアンをぎゅうと抱きしめ返して、ゆっくりと足を踏み換えて横に揺れた。
昔と変わらない姿を思い出して、アドニスは小さく笑う。
しばらくしてリアンの声が小さくなって、そのうち聞こえなくなると、アドニスはふうと息を吐く。
「……駄目だ……腕が疲れた」
ゆっくりと長椅子に腰掛けて、ゆっくりとリアンごと寝転ぶと、抱えていた腕を緩めた。
おとなしく腹の上に乗っているリアンを、首を傾けて覗くように見る。
「……リアン……お前が城の方に行った後は、何も楽しく無くなった……シイやチタも、みんなも…………いや、他はどうでもいいか……俺はドブに落ちたパンになった」
「…………パン?」
「ただのパンじゃないぞ、ドブに落ちたんだぞ」
「……なに、それ」
「コンラッドにそう言われた。何の役にも立たないどころか、ゴミ以下だってよ」
「そんなこと?」
「はは……はじめは何言ってんだって思ったけど、そうなんだよなぁ……ゴミ以下に使えなかった」
「……ふぅん」
「ふぅんて……まぁ、そこまで使えなくなる自分にびっくりしたし、さらに気分が下がっていくわな?」
「それで?」
「少しでもいいからお前と話が出来たら、ちょっとは気分が変わるのにと思ってた」
「ふふ……わたしも」
「そうか……そしたらお前が来るだろ? で、ぎゃんぎゃん泣き出すし」
「だってアドニスが!」
「何だよ……俺のせいか?」
「…………違うけど」
「話せないのか?」
「迷ってるの」
「何をだ」
「…………言いたくない」
「…………そうか」
アドニスが大きく息を吸い込んで、吐き出した。リアンの身体がそれに合わせて上下する。
「ひとりで考えて決めたいのか? それとも俺に背中を押して欲しいのか?」
「……自分で考えて答えを出したいの。出さないと、いけないの……でもアドニスにどうにかして欲しいんじゃなくて。ほんとに、ほんとに、アドニスの顔が見たかっただけ」
「リアンお前…………それは駄目だろ」
「え? ダメだった?」
「……そりゃ、お前。……それは口説き文句だ。他所で他の男に言うなよ。勘違いされるぞ」
「誰も勘違いしないし。アドニス以外 誰に言うのって」
「……おぅ……なら、よし…………んん?」
「んん?」
「んんん?」
「んんん?」
「…………いや、何でもない」
「…………アドニスだって話さない」
「俺も自分で考えて答えを出すの」
「ああ、そうですか」
「そうですよ」
朝の時間が過ぎても姿を見せないことを心配したコンラッドが、アドニスの私室を覗く。
今までのように少々叩いたくらいで扉を開けるのはこれからは控えようと、長椅子でぎゅうぎゅう詰めになっているふたりを見下ろした。
ちっとも起きる様子がないので、リアンの方に特に厳重に毛布を掛けて、知っているだろうが一応 城の方にリアンが砦に居るという知らせを出す。
有能な副官は通路に紙でできた兎を放ち、自分の余計なお世話に鼻で笑いながら、ぴょこぴょこ跳ねていく姿を見送った。
もうしばらくしてもふたりが起きてこないようなら、大声でも上げながら部屋に乗り込んで行かなければと思っていたら、大声を上げながらシャロルが乗り込んできた。
「お部屋におられた形跡がありませんが?!」
隣の部屋からの扉を開けて喚く声に、コンラッドの耳が痛くなる。きつく目を閉じて、この部屋の反対側にある扉を指差した。
「あら、まあ!」
ずんずんと部屋を横切って、こんこんと扉を叩く。
取手に手を掛け、開けようとする前にシャロルはコンラッドを振り返る。
「開けても大丈夫ですよね?」
「……さあね。君も侍女ならそのくらいの察しはつくだろう?」
「私は別に、どの様な状態でも仕事は出来ますとも」
「……さっき見た時は何ともなかった」
「見たんですか?! なんてこと!!」
「……さっきは何ともなかったって言ってるだろ? リアンさんが居るなんて思いもしないしね」
「……ああ、まぁそうですけど」
両方の眉を持ち上げて、だろうと言う顔をすると、コンラッドは手元にある紙にペンを走らせる。
シャロルがもう一度改めて扉を叩くと、内側で動く人の気配を感じて、扉が開くのをしばらく待った。
アドニスはシャロルを見下ろして、おっとと小さく声を出す。
「おはようございます、団長様」
「……んん。はい……おはようございます……リアン?」
後ろを振り返った部屋の奥の方で、もごもごとしたリアンの声が聞こえる。
「失礼しても?」
「ああ、はい、どうぞ」
「団長様はどうかさっさとお仕事をしやがり下さいませ」
「うわぁ……はい……」
入れ替わりで部屋を出たアドニスは、大きく欠伸をしながら伸びをして、背中からばきばきと音を出していた。
「……ちゃんと服を着ていますね」
「……まだな」
「今度からは鍵をお願いしますよ」
「…………お前いちいち鍵かけるのか?」
「……掛けませんね」
「なら言うなよ」
今までに捌いた書類の束をアドニスの机の上に乗せると、ぽんぽんと叩く。
「おい、何をこんなに裁可の要ることがあるんだ」
「お館様から回って来たんです。今回の特使の件ですね……王城に報告しとけと」
「は?!」
「ひと月分あります」
「はぁ?!…………あんのくそばばぁ!」
「怒れば怒るほどお喜びになりますよ」
「知ってるわ!!」
「そりゃ可愛くて堪りませんね」
「うるせぇ!!」
「……よく寝たしで効率も上がるでしょう、さっさと仕度をして始めて下さいよ」
服を改めて朝の仕度を整え、浴室から出てきた時には、部屋の中にリアンは居なかった。
執務室に戻って席に着き、のろのろと一番上に乗った紙を手元に引き寄せる。
「……さっきの勢いはどこに行ったんですか」
「……うるせえな」
「めんどくさ」
「……だまれ」
内容を確認して修正があればコンラッドに突き返す。
黙々と紙の山を減らすことに集中した。
「……で? 答えは決まったのか?」
「いいえ……」
「はは。何しに砦に行ったんだ、リアン」
「アドニスに……会いに、です」
「ふぅん?」
シャロルに攫われるように連れ戻されて、着替えを終え、食事を食べているとお館様に呼ばれた。
仕事部屋へ入ると、お館様は昨夜と違わぬ格好のまま、作業台に頬杖を突いてにやにやと笑っている。
「……別れを告げに行ったのか」
「……そんなつもりは」
「……無かったとははっきり言えない顔に見えるけどな。……それじゃあ人として生きることを決めたのか」
「……わかりません」
「ふーむ……何がお前を惑わせるんだ。どちらを選ぼうと、今の苦痛からは逃れられるんだぞ?」
「……ずっと」
「うん?」
「それと上手に付き合うことばかりでした」
「うん、まぁそうだろうな」
「すぐ後ろには、死ぬことが付いて回ってて、振り向いたらすぐそこにいて……いつか追い付かれることばかり考えていました」
「……私が追い払ってやろう」
「死ぬなら誰にも迷惑がかからないようにって、そんなことばっかり気にして」
「他に考えることがなかったのか?」
「…………はい。だから急に大丈夫だから、とか、安心だからって言われても、どうしていいのか」
「騎士団長の決意を無駄にしてやるか?」
「……それもです」
「何がだ? かわいいリアン」
「わたしのために、アドニスが手放すものが大き過ぎる」
「ははは! そんな心配してるのか、アレから話は聞いてないのか?」
「え? だから、お館様の騎士になるって」
「ああ、そうだ」
「国の騎士を辞めるって」
「うん、そうだな」
「それじゃあアドニスに申し訳ないです。わたしは何も返せない」
「……ふーん。アレの口下手もお前の気の回し方も、下手くそにも程があるな」
「……え?」
「リアン、お前また私の鳥になって、言葉を伝えに行っておくれ。相手は私のわんちゃんだ」
伝えるべき言葉を教えられて、リアンは砦に戻った。
アドニスに一言一句違わないように伝える。
ぴーぴよと鳥の声も、言われた通りに付け加えた。