リアンが目を覚ましたのは、いつもより遅い時間だった。
部屋には誰もおらずひとりで目覚めて、もちろん隣にアドニスは居ない。
いつもならシャロルの声で起きられるのに、今朝はそれも無かった。
何かあったのだろうかと不思議に思いながら、着替えを済ませて砦内を食堂の方へ進む。
その途中で壁を這っていた子竜が飛びかかってきたので、一緒に食堂に行くことにした。
「エドはどうしたの? ルオ」
ルオと名付けられた子竜は、リアンの肩に登るとぐるりと回って体を落ち着ける。ちぃと鳴いて大きな目をぱちりと瞬いた。
知らないと短く返事をして、鮮やかな色の尾をリアンの首の周りにゆるく巻き付ける。
「ふーん……何かあったのかなぁ」
朝が少し遅いとはいえ、いつもと違って通路には全くひと気が無い。誰とも出会わないのは珍しい。
窓の外は青が眩しいほど晴れていた。
くっきりと形の見える雲は白一色。
地を覆っている雪も、きらきらと陽の光を跳ね返している。
食堂に行ってみても、騎士はひとりもいない。
朝の仕事を終えて遅めの朝食を取っているか、昼からの仕事のための早めの昼食を取っている、砦の維持のために働く人たちが、数人ばかり居るだけだった。
かかる声にあいさつを返しながら、リアンは厨房に食事を貰いに行く。
調理人は厨房をひとりで切り盛りしている。
昼食の準備に忙しそうにしていたが、リアンの姿を見ると手早く用意をしてくれた。
「おう、今日は遅いな」
「うん……寝過ぎでぼーっとしてる」
「はは! 若いうちはいくらでも寝てられるからな! たまには良いさ!」
「そんなもん?」
「そんなもんだな!」
「……ねぇ、みんな居ないみたいだけど、どうしたの? 何かあった?」
「ああ! 急にお帰りになったんだよ、お館様が。お出迎えで朝から大騒ぎだ」
「え?! あ、そうだったんだね」
「予定が狂ったって誰かがボヤいてたな……ほら、たくさん食えよ」
「果物いっぱい! ありがとう! いただきます!」
「はいよ、そのちびすけ用だ」
「ルオのだって、良かったねぇ」
ぴすぴすとルオの鼻息が荒くなっているのにリアンは笑って、よく使う席に着くと食事を始めた。
ゆっくりと食事終わらせて、ゆっくりと戻っても、やっぱり騎士とは誰とも出会わなかった。
アドニスの仕事部屋に入って、何となく書類の整理を始める。
ルオが乗ったままなので少しもごもごするし、重たいけど、お願いしても降りてくれる気はないらしい。
肩の上で知らん顔で目を閉じて眠ったフリをしていた。
昼を少し過ぎた頃、部屋の外ががやがやと賑やかになって、いくつも足音が通り過ぎていった。
そのすぐ後にアドニスとコンラッドが揃って部屋へ戻る。
「お、なんだリアン仕事してくれてたのか?」
「うん……なんとなく。お帰りアドニス」
「おう、ただいま」
きっちりと着ていた騎士服の上着をさっさと脱ぐと、その辺りの椅子の背にぽいっと投げる。
待ち構えていたようなコンラッドがその上着を拾って、リアンの目の前の部屋に持って入った。
大きなため息を吐きながら、アドニスは自分の椅子にどかりと座る。
「…………お茶淹れる?」
「お、いいねぇ……飲みたい」
「はい!」
「私の分もお願いできますか?」
「もちろんです、お任せ下さい」
アドニスの私室から戻ったコンラッドに、にこりと笑い返して、リアンは用意に立ち上がる。
自分の部屋に入ってお茶を用意している間に、開いたままの扉からザカリーの大きな声が聞こえてきた。
三人分のお茶を淹れて仕事部屋に戻ると、外套の前をはだけた、厚着のザカリーがだるそうに椅子に腰掛けている。
「ザックさんこれから外に出るの?」
「お、リアン悪いな俺の分まで」
「お前のじゃないだろ、いいからさっさと行けよ」
「ザックさんのだよ? はい、どうぞ」
「ありがとな、リアン。いいじゃねぇか、団長。はなから遅れて出るんだから、茶を飲むくらい構わねぇだろが」
「寒そうだし、気を付けてね」
「うんうん……俺を労ってくれるのはリアンだけだなぁ」
黙々と書類を捌いているコンラッドと、不貞腐れたようなアドニスの前にお茶を運んで、リアンは元のふかふか号に腰を下ろす。
「……前から不思議に思ってたけど、リアンは何でそんなことしてんだ?」
「そんなことって?」
「何で書類を纏めてるんだ? 団長にやらされてんのか?」
「あ、これ? 別にやらされてはないけど。他にすることもないし」
「ふーん……他所のお嬢様なら、それこそ窓辺で茶でも啜って刺繍とかしてそうなもんなのに」
「ぷは。そういうの無理……お裁縫とかできないし。ていうか、お嬢様じゃないし!」
「見た目はどこぞのご令嬢なのに、床に座って書類とにらめっこってな」
「やり出すと面白いんだけど」
「俺には無理だなぁ」
「だろうねぇ……」
扉を叩く音にアドニスが短く返事をする。
失礼しますと几帳面に挨拶して入ってきたのは、エドウィンだった。
「どうした」
「リアンいますか?」
「はい、なに? エド」
ちょうど出入り口からは死角になっているので、リアンは背筋を伸ばして卓や椅子の陰から頭を出した。
エドウィンがそこを回り込んで歩いてくる。
「あ、やっぱりリアンの所にいた! 駄目だろ、ルオ!」
「うん? 勝手に出てきたの?」
「そうなんだ……とうとう扉の開け方覚えたみたい」
「賢いねぇ、ルオ」
ちいちいと鳴いて、エドウィンがやって来たのを喜んでいる。
リアンが腕を伸ばしてエドウィンの肩に手を置き、橋が架かった上をルオが歩いて渡る。
エドの肩に移ってくるりと輪っかになった。
「ありがと、リアン」
「んーん、ルオがいてくれたから寂しくなかったし。ね? ルオ」
指でかりかりと頭を撫でると、ルオは満足そうに目を細めて、頭を押し付ける。
ルオの可愛い仕草に、リアンもエドも柔らかく笑い合う。
「……ううん。改めて見るとやっぱりだな」
ザカリーはお茶を啜りながら、書類に目を落としているアドニスの方をちらりと見て、またリアン達に視線を戻す。
「……なぁ、団長?」
「……何が言いたい」
「べっつにー。……さ! そろそろ出ないとな! 美味かった、ありがとな、リアン。おいエド、準備するから手伝え」
「あ、はい」
エドウィンはザカリーに押し出されるように部屋を出て行き、室内は急に静かになった。
リアンは元の位置に戻って、再び書類とにらめっこをする。
しばらくして、静かな中でコンラッドがひとつ笑いを零す。
「……気持ち悪い。言いたいことがあるなら言え」
「私もザックと同じことを思いました」
「……で?」
「で? それだけですよ。べっつにー、ですね」
「コンラッドさん、なんの話?」
「リアンさんとエドがお似合いだって話です」
「うん?! そんな話してた? 」
「してましたねぇ」
「……そっかぁ」
「おっと、反応が薄いですね。それだけですか?」
「……それだけですねぇ」
「お似合いだと言われたことに関しては?」
「おい、もういい加減……」
「うーん……似てるから分けられますよね。しょうがないなと思います」
「というと?」
「エドとは歳が近いし、背の高さとか、大きさとか、皆んなに比べたら小さいでしょ? 大人か子どもかって言ったら、わたしもエドも砦の中ではまだ子ども寄りだから」
「ああ、それで分けて見られていると?」
「似ている種類だから、似合って見えるんじゃないですか?」
「……ずいぶんと客観的ですね」
「きゃっかん?」
「ご自分のことを他人ごとのように見ていますね」
「……そうですか? みんなは違うんですか?」
「……人それぞれですけどね。もう少しこう……エドとの関係を親密にしてもらっても面白いんですけどね」
「下世話か。もういい、止めろ」
「下世話ですねぇ、娯楽が少ないので」
「みんなの娯楽のためにわたしは居るの?」
「違うからな! リアン」
「そうですよ、もちろん違います。……でも他に大きな楽しみが無いのも事実ですね」
「……はぁ。そうですか」
「因みにリアンさんは私とも噂になっていますよ」
「止めろ、コンラッド」
「……でもその噂はコンラッドさんがワザと作ってますよね。アドニス怒らせるために」
「あ、ご存知でしたか」
「アドニス怒ってるから大成功ですね」
「ええ、大変に満足です」
「良かったですね」
「ありがとうございます」
大きく太いため息をアドニスが吐き散らかしたから、リアンとコンラッドは同時に笑い声を上げた。
綴った書類の束をアドニスにざっと確認してもらい、表紙に署名をもらうと、リアンはその表紙を満足気に眺めて書棚に収めた。
少しずつ棚が埋まっていく成果ににんまりする。
床の上をてきぱきと片付けると、すっくとリアンは立ち上がる。
「アドニス、わたしシイと出かけてくるね」
「訓練か?」
「うん、ついでにイザードさんとこ行ってくる」
「何かあるのか?」
「時間ができたら鞍の具合を見においでって」
「お、良いな。俺も行こう」
「待って下さい、まだ仕事が残ってますよ」
「何だよ、お前が捌くの待ってられるか。後でまとめてやる」
「全くその通りで反論が難しいですね」
「あれ? マブルーク様の子守りは?」
「それだよ! お館様が帰ったから、俺はもう子守りはしなくていいんだー!」
「あ、そうか。良かったねぇ、アドニス」
「おう! よし、ほれ、準備しろリアン!」
「はい!」
「ちゃんと暖かくしろよ」
「少しの間だから大丈夫……」
「駄目だ。今日も冷えるからちゃんと着込め」
「……はぁい」
シイにふたり乗りはまだ早いと言ったのに、アドニスは半ば強引にリアンを抱きかかえるようにしてシイに跨った。
自分の外套の中にリアンを詰め込んで、アドニスは手綱を握る。
「リアンがどれだけ仕込めてるのか、見させてもらうぞ?」
「……ちゃんとやってるし」
空気で膨らんだリアンの頬を指で押して潰すと、アドニスはひとつ笑い声を漏らす。
軽く足でシイの体を蹴り、くいと手綱を引くと、不服そうに目を細めながらも、シイは蹲り翼を広げた。
ばさりと羽ばたかせて駆けだし、塔の縁に足を掛けると、石塀を蹴る勢いに任せて宙に飛び出した。
山裾から上がってくる風を捕まえて、シイは高く上っていく。
「おお……やっぱ早いな」
チタよりも風を切る音が高い。
翼の先に纏わり付いた風が、薄く細い雲のようなものを作ってすぐに消えていくのも初めて見た。
感じたことのない速度に、アドニスはぶるりと震えて、懐にいるリアンを片腕でぎゅうと抱き込んだ。
「なんだこれ! すごいな、シイは!」
「だろう、って!」
「なに?!」
「そうだろうって、シイが!」
「ああ! 凄いな、格好良いぞ! シイ!」
アドニスの大変満足な雰囲気に、シイもまんざらではない様子で、リアンはふふと笑う。
真っ直ぐ町に向かうのではなく、大きく旋回しながら森の上を駆けて、イザードの元へ向かった。
喜んで寄ってくる番犬のリッチーさんから逃げたり、マシューのお菓子を食べたり、イザードさんの鞍の出来具合を確認した後は、町を散策した。
騎士様は町では人気者らしく、あちこちから声が掛かったり、土産を持たされたり、アドニスはそのいちいちに笑顔で返事をしていた。
「色々たくさんもらったねぇ」
「あー……この間の騒ぎが収まったばっかりだからなぁ。すっかり忘れてたけど」
「あっさり終わったもんねぇ。町に何もなくて良かったね」
「リアンのおかげなんだけどな。俺の手柄になってるから、いまいちこう、実感が湧かない」
「でも、説明とかめんどくさいことは、全部アドニスがやったんでしょ?」
「それやったのコンラッド。俺はやれって命令しただけ」
「おお! 団長っぽいね!」
「だろ?」
両腕に野菜や果物を抱えて、にやりとアドニスは笑う。
「……色々 貰ったのはありがたいけど、これじゃリアンを抱っこできないな」
「いや、別にわたし自分で歩けるし」
「リアンよりも重たいし」
「あー……帰りどうしようか。チタ呼ぶ?」
「だなぁ……ちょっとシイだけだとキツいか?」
「うーん。まだ装具がちゃんとしてないし、色々を一度に運ぶのはしたことないし」
「うんじゃあまぁ、帰りはチタに乗るか」
「そうするか! ……呼ぶ?」
「いや、もうちょっと遊んで帰るぞ」
「アドニス楽しそう」
「おう! ……でもこれ重たいからどこかに預けたい。そしたらリアンを抱っこできる」
「いやだからわたしは自分で歩けますから」
「抱っこさせない気か」
「どこにこの歳で抱っこされてる人が?」
「ここに」
「させるか!」
「おいこら走るなリアン、歩け、抱えるぞ!」
駆けだした先でぴたりと止まり、アドニスが追い付くと、むっすりとした顔で横に並んで歩きだす。
「いい子だぞ」
「……うるさい」
町の外れまで行ってその向こうの景色を眺めたり、あちこちで買い食いをしたり、砦に戻ったのは日が暮れた後だった。
後は寝るだけの時間に、忙しそうな様子でシャロルがやってくる。
リアンの為の薬を作って、届けに来てくれた。
今朝から今にかけて来られなかったことを、しきりに詫びながら、今日出来なかった分を取り戻すように構われる。
「大丈夫ですよ、シャロルさん。お館様が戻って来たんですから、忙しいんですよね?」
「あああああ……でもでもリアン様は私の癒し中の癒し! 癒し神ですから!」
「……そんな神様、初めて聞きました」
「今ここに降臨せしめたのです!」
「……いやこいつ何言ってんの?」
「団長様、寝言は寝てからほざいて下さい、邪魔です」
「シャロルさん忙しいんだから、わたしの為に無理をしないで下さいね」
「むは! ……目が眩む! 召しそうです」
「俺、こいつ怖いわ……」
「明日の朝は、ちゃんと参りますからね、リアン様」
「え? いや……大丈夫ですよ、ちゃんとひとりでも起きられます」
「いえいえ、駄目です。私が駄目です。朝からリアン様のお顔を見ないことには、仕事になりません」
「……今まではわたしが居なくても立派にされていたのでは?」
「……はて?」
「はて?」
「明日の午後は、お館様の元に参りましょうね!」
「あ、え?! あ、そうか。あいさつはきちんとしないといけませんね」
「楽しみにされていますよ」
「はい! うわぁ……なんか緊張してきました」
「……団長様も」
「当然だろ」
「…………ちっ」
「おい、舌打ちするか?!」
薬を飲まされて、寝るだけなのにどうかと思うほど髪を梳られ、整えられて、寝台に送られた。
遠出して日暮れまでアドニスと遊んだ効果で、リアンは気が失せたように眠りについた。