空は頭の真上で藍色を滲ませている。
濃い青から水色へ、地に近付くほど白くなっていく。



ほんの一刻前、窓の外側は灰の混ざった白しか見えなかった。
叩きつけるような風が、細くて狭い窓枠に雪を積み上げていく。びゅうびゅうと高い風鳴りが薄っすらと聞こえるだけ。窓は凍りついてがたりとも音がしない。

麓の町から山を見上げれば、山頂付近が雲に覆われ、ああこりゃ雪だなと、のんきな話題のひとつにのぼる。
今の時期ならひと時のもの、あの雲が出たならもうすぐ収穫祭だな……などと近所の年寄り同士、穏やかな秋晴れの空の下、和やかに笑い合う。


雪の塊でできたような雲は、本当にひと時のものだった。
これでもかと雪を吐き出して、気が済んだのかあっという間に小さくなり、風に運ばれ散り散りに消えた。

空は晴れ渡り濃淡の青以外に何も無い。

地面を真っ白に塗り込め、陽の光はあちこちにきらきらと小さな光の粒を作っていた。

空の青と雪の白を写しこんだ鏡のような湖が、殊に眩しく見える。



リアンは小さな窓に張り付いて、いつもとは違う角度から湖を見下ろしていた。

息がかかって曇った窓を裾でひと撫でする。手を置けば指の形に曇る。すぐに引っ込めて、そっと窓枠に掴まるようにした。

砦側の窓枠と違い、こちらは優美な丸みがあり、繊細な雰囲気もした。取っ手もくるりと上品に曲がって、草花を模してある。

足元もふかふかと絨毯が敷き詰められていた。

白い内壁の通路、濃い赤の絨毯は両脇に細かな模様が織り込まれている。

石畳や木床の砦側とは通路一つとっても全く違っていた。

先を歩いているシャロルに呼ばれて、リアンはふかふかの上を慎重な足取りで歩く。

汚してはいけないような気もするし、何より油断すると長い毛に足を取られて、挫いてしまいそうな気もする。
いつものようにとはいかず、ゆっくり静々と歩いた。



リアンがお館様の住居側に来たのは、この日が初めてのこと。

主人であるお館様はまだお帰りではない。

では何故こちら側に来ることになったのかと言えば、隣国の特使であるマブルークに招待されたからだった。

マブルークは隣国の王族、数代前の王の血を継いでいる。
そのような方が御自ら、リアンをお茶にお誘いあそばされた。

少し前までは体調不良を理由に、散々お断りしてきたが、さすがに砦内を自由に行き来できるまで回復してくると、断り続けるのも難しい。

渋っていたアドニスも、面倒だと思っていたリアンも、やっと腹を括っての今日この日。


動きやすいいつもの衣装とは違い、ひらひらで足首まで隠れるような衣装を着ている。
髪も丁寧に整えてもらった。
着飾ることにシャロルは嬉々としていたが、リアンは準備の段階、始まる前、どこにも行ってないのに、もうすでに帰りたくなっていた。

必要以上に良く見せようとは思わない。
それでもアドニスのことを考えると、適当にするのも良くないような気がする。
自分のせいでこの砦や、アドニスたちの評価が低くなるのは避けたい。

アドニスはどうでもいいからさっさと帰れと言っていたが、そう簡単な話でもない気がする。

じんわりとのしかかってくる重たいものに、肩と、眉の端が下がってくる。
心の中だけで大きな唸り声を上げておいた。


目的の部屋はまだまだ先。

長い通路には扉がなく、小さな窓が等間隔に並んでいる。

窓の横に来るたびに雪の白を見て、空の青を見渡す。
この青のどこかにいるアドニスが見えやしないかと、青しかない遠くに目を細める。

晴れてしまったのでアドニスは部下を引き連れて出掛けた。
予定通り、この国と隣国との境を監視するため、決められた領空内を竜で駆ける。
今はもう随分と遠くを飛んでいるのだと、分かっていても、通路の小さな窓の横に来るたびにその姿を探した。

「リアン様、お時間が迫っていますよ」
「……はぁい」

少し先を行くシャロルが困ったように微笑んでいる。

足を早めて追い付くと、ではと再び歩き出した。

「……大丈夫です。シャロルが付いていますからね! 嫌になったらばったーんです!」
「へへ……練習しましたもんね」
「心配はご無用ですよ」
「それはないです……めんどくさいだけで」

適当に笑って適当に話して、もちろんばったーんと倒れる気も無い。
程合いよく時間を過ごすのを、リアンは目標に据えていた。



塔を除いた上階はお館様の空間なので、限られた人しか立ち入ることは出来ない。

二階部分にあたる層全部が客人用だと説明を受けた。このお城側も一階の天井が高く、下は湖の水で満たされた場所だと教えてもらう。



無骨で質素な砦側と違い、みやびやかな扉から高雅な部屋へと通された。
落ち着いた雰囲気ではあるものの、ものが多くて、こってりごっちゃりとした感じに見える。

どれもこれも上品な光沢があって、高級なのがひと目で分かる。傷のひとつも付けられないとリアンの心にぐっと負荷がかかった。

大きな窓の側にある卓から、こちらだよと声がかかる。

立ち上がったマブルークは、窓枠に積もった雪の、きらきらとした光を背負ってにこにこと笑っていた。
片方の腕を少し開いて、自分の向かい側の席を指し示している。

「やっと来てくれたね、待ちわびたよ。さあ、どうぞ、ここに掛けてくれ」
「はい、失礼します」

軽く膝を折って、リアンは言われた通りにさっさと席に着いた。

「体調を崩していたとか……もう良くなったのかな?」
「ごらんの通りです」
「……はは。儚くて今にも消えてしまいそうだけど、 そんな見た通りということかな?」
「……急には消えて無くならないと思います」
「そうか……それなら安心だ。団長も誘ったんだけど、残念だったね。一緒に来られなくて」
「予定があったので……団長も残念がっていました」

当たり障りのない会話の間に、さくさくとお茶の用意がされ、目の前には上品に盛られた焼き菓子まで並んだ。

シャロルは壁際に、マブルークの護衛騎士と並んで立っている。

用意をしてくれているのは、初めて会う人だった。シャロルと同じ衣装を着ているから、お館様の侍女だとうかがい知れる。

「かわいいひと。やっとこの時が来た。名前を聞かせて?」
「リアンです。リアン コートニィと申します」
「リアン……見た目通りの可愛らしい響きだね。団長は君のことをなんと呼んでいるのかな?」
「え? ふつうに、名前で呼んでいます」
「そうか……私も同じように呼んでも良い?」
「ええ、どうぞ」
「あっさりしたもんだね。少しも躊躇いがない」
「みんなも同じように呼んでいるので」
「みんなとは? 騎士たちもかい?」
「……はい」
「はは! あっち側は本当に気安いな」
「わたしはその雰囲気が大好きです」
「そう? よく分からないな……彼らは粗野だし、大雑把過ぎる」
「その方が気分が楽です」
「……変わったお嬢さんだ」
「ええと、わたしはその。貴族でもなんでもないので、畏まったのは苦手です」
「ああ……素直に教えてくれたね。でも君の家はとても有名だって聞いたよ?」
「……知っておられたんですか?」
「……うるさいのがいるんだ。私程にもなると、こうしてお茶を飲むにも簡単にいかない」

そこそこ大きな声を出したのは、リアンにではなく壁際に立っている人に聞かせたい話だったからだった。
マブルークがちらりと横目で壁際を見ると、その護衛はわずかに眉間にしわを作る。

「しょうがないことですね」
「仕様がないんだ、本当に」

時折必要以上に褒めはするものの、マブルークとは楽しく会話した。

リアンの言葉遣いも大らかに受け止めて、上品ではない普通の仕草にも、特に気を悪くした様子もない。

こちらが踏み込んだ話をしないかわりに、マブルークも適切な距離を保っているように思えた。

ぐいぐい近寄ってきたり、無理に触れようともしない。

実に程よい近さだ。

今まで余りにも無遠慮の人ばかりを見てきたので、リアンは感心しそうになるも、心の中で首を振った。

違う違う……これが当たり前なんだと繰り返す。

店にいた、酔ったお客を基準に考えるのはよくない。
気安い騎士たちと比べるのもおかしい。

そう考えると、自分と他の人との距離感がよく分からなくなってくる。



普通の、適切な距離ってなんだろうか。



「団長に乞われて (ここ)に来たの?」
「はい……でも、わたしも来たかったので」
「へぇ……こんな不便極まりない場所にね」
「わたしはここに居るみんなのおかげで、不便だと思ったことはひとつもありません」

壁際の方に笑顔を向けると、うぐと声を飲み込んで、涙目のシャロルが片手で口元を押さえていた。

「とても良くしてもらっています」
「でも閉じ込められている気がしない?」
「この雪のことですか?」
「まぁ、雪もそうだけどね。あちこち行こうにも、こんな山の上じゃあ、なかなか自由に動くのも難しいと思わない?」
「自由に動く……」
「思い立ったからって、ではすぐに、とはいかないよね」
「……それは……」
「なに?」
「でも、どんな人もそうだと思います」
「というと?」
「本当に自由に、思いのままに、あちこち行ける人なんているんでしょうか? ……ちよっと想像がつきません」
「そんな人は居ないから、自分が不自由でもそれを飲み込むの?」
「ええっと……そういうことではなくて。わたしの話をするなら、ですけど」
「何かな?」
「わたしは今、どんどん世界が大きくなっています」
「世界の大きさを勉強しているということ?」
「世界が大きいということを、知る途中……です」
「ううん。分かるような分からないような」
「わたしは知らないことがたくさんあります」
「うん、そうだね。私もそうだよ」
「行きたい場所に行って、見たいものを見られるなら、それが本当は一番良いのかもしれないけれど。でも、その場所に行けなくても、知ることができれば、それだけでも世界は広がります。心が、自由です」
「……心が自由……ねえ?」
「今までわたしは、限られた、小さな場所しか知らないと思っていました。けど……でも、この下の森の端から端までを見ました。その分わたしの世界は広いです」
「森の端から端まで?」
「はい、翼竜に乗って」
「君! リアンがかい?」
「……マブルーク様のような方や、町に暮らす人たちも、なかなか空の上で森の端から端を見るなんて無いですよね」
「はは! そうだね、その通りだ」
「だからその分、わたしの世界は広いんです」
「なるほどね」
「空の上がものすごく寒いことや、息が苦しいことや、陽の光がきついこと。時々風が無くなることも。ちゃんと知っているのは、ほんの限られた人だけです」
「それだけ君の世界は広いってことだね。心はいつでも自由にそこに行ける?」
「はい」
「……うーん。もしかして私の世界も広いのかな?」
「マブルーク様は、わたしや、町の人たちが知らないことを知っていて、限られた人しか行けない場所に行けます。だから……はい!」
「そんな考えは無かったな……じゃあ町の人々は小さな世界に生きているってこと?」
「町の人たちは、わたしの知らないことを知っています。それぞれにみんな同じだと思います」
「世界を狭くしているのは、自分ってことだね…………それにリアンは気が付いた」
「教えてもらいました」
「騎士団長に?」
「……はい」
「ああ、結局は惚気話なんだね」
「のろけばなし……ですか?」
「リアンから好きがあふれてるように見えるけど?」
「好きは好きですけど……あふれる?」
「こぼれてるよ、たくさんね」
「じゃあ……はい」
「じゃあって……ふふ。そのあどけなさが団長の心を奪うことになるのかな?」
「ええと……それはわたしに聞かれても」
「そうだね。そのうち団長に聞いてみることにするよ」



最後までリアンはばったーんと倒れることなく、それなりに楽しく過ごしてお茶会を終えた。

面倒だと思ったのは、部屋に入った時までで、その後は特に戸惑うことも難しいことも無かった。

お茶もお菓子も美味しかった。





日暮れ前にアドニスが砦に戻り、早々にリアンは詰め寄られ、思ったままの感想を告げる。

アドニスはこれでもかと大きな息を吐き出した。

「何もされなかったんだな?」
「される訳無いよね。周りに人が居るのに」
「べたべた触られたり」
「ないない」
「熱心に口説かれたり」
「ないってば」
「いやらしい言葉を……」
「いやそれどこの酔っ払いの話?」

心配し過ぎだと、リアンはアドニスの襟巻きに手を掛けた。

黒い襟巻きの上は砂糖が振りかけられたようになっている。

ばりばりに凍って、外そうとするとみしみし音がした。

アドニスのまつ毛にも砂糖のような、白い氷の球がいくつも乗っていた。手のひらを当てるとすぐに小さな水の粒に変わる。

「ほら……上着脱いで、火の近くに座って。お茶淹れようか?」
「おぉ……飲む飲む、淹れて」
「はーい」
「で……え?……倒れなかったのか?」
「倒れてないよ」
「あんなに嫌そうだったくせに」
「うーん。案外楽しかった……マブルーク様、思ったより良い人だったよ」
「はあぁぁぁああ?! どこが?!」
「優しかったし」
「……なに?」
「ぜんぜん偉そうじゃなかったし」
「…………ほう?」

暖炉の前で、何重にも纏っていた上着を脱いで、近くにある椅子の背に掛けていく。
濡れている一番上に着ていた外套だけは丁寧に広げた。

別の椅子を火の側まで引いてどかりと腰掛けると、毛皮の脛当てを外して長靴を脱ぐ。

室内用の装いになるまで、皮を剥くように、アドニスは手早く衣服を剥ぎ取っていった。

「……どう転んだら優しかったり、偉そうじゃないってなるんだ」
「アドニスには優しくないし、偉そうなの?」
「わがままだし、横柄だし、煩わしいことだらけだぞ」
「……わたしとそっくり」
「どこがだよ! 全く似てないぞ」
「おんなじ種類だから優しかったのかな?」
「なんだよ種類て……」

暖炉のポットから湯を移し入れて元に戻す。
リアンはほかほかになった鍋つかみをアドニスの頬に当てた。

「嫌がらなくても良かったみたい」
「…………まぁ、お前がそう思うならそうなんだろう、な!」

火の近くにいて温まったほかほかのリアンを、アドニスは自分の膝に乗せて、ぎゅうと抱きしめる。

「ぬくい……」
「……寒かったね」
「……生き返る……」
「……あ! お茶が渋くなる!」
「まだ温まってない……」
「わたし渋いの飲みたくない!」

ぽすぽすと鍋つかみの嵌った手でアドニスの腕を叩く。

のろのろと緩まった腕から逃れると、お茶を淹れに、リアンはその場を離れた。

両手に持った器の片方を渡して、アドニスの横で床に座る。
頭の上からおいこらと声が聞こえた。
見上げると、アドニスはびしびしと苛立たしげに自分の腿を叩いている。

そこに座れと言っているのは分かる。

分かるけど、リアンは今、普通の適切な距離を取ってみていた。



間に人がひとり入れる距離。
これが普通。
アドニス以外の人とはこの距離感だ。

「おいこらリアン」

アドニスはまたびしびしと腿を叩いた。



仕方なくアドニスの腿に腰掛けて、リアンは珍しく面倒がらずに考える。





適切な距離ってなんなんだろう。