「お前、今日は俺のお茶汲み係な」
「うん?」
「部屋に待機」
「なんで?」
「言わないと分からないか?」
「…………わかった」

鷲掴みにしている頬は冷たくて白い。
リアン本人もそう言われて思い当たるものがあったのか、不満そうな顔ではあるが、了承はした。

誰かに止められないと体の不調を意識しないのは、気質なのか、ただの鈍感なのか。
アドニスは考え込んだまま柔らかな頬をむにむにと揉む。

「公共の場ですが?」
「ナニコレ嫌がらせ?」
「あー人肌恋しいなぁ! 寒いわぁ……」
「その他人事みたいな顔! 自慢かよ!」
「なんだ羨ましいのか?」
「羨ましいわ! 朝からお盛んか! 俺も混ぜろ!!」
「ていうか他所でやれ、他所で!!」
「勝手に寄ってきてなに言ってるんだ」
「女の子が居たら寄るだろそりゃ!!」

食堂に早目にやって来て、朝食を取っていたアドニスとリアンの周りには、竜騎士たちが集っていた。

そもそも砦に居る数以上に人が収容できる席も広さもないので、朝の時間は満席に近い状態になる。寄りたくなくても寄らざるを得ない。

騎士たちは笑いながら文句を言い、冗談とも本気とも言えない愚痴を明るく表明する。

細長い卓には向かい合わせて六人が席に着き、仲良く長椅子に腰掛けて食事をしていた。

「毎度毎度 見せつけやがって」
「毎度毎度 見せつけとかないとお前ら覚えておけないだろ?」
「何を覚えとけって? こっちは隙あらばいつでも横からかっ攫う気だからな」
「いいか、よく見とけリアン。これが変質者の顔だ、出会ったら逃げなさい」
「……わかった」
「分かるのかー!!」

砦側にはこれまで女性は居なかった。
リアンが来たことでお館様の侍女の出入りが増えたが、それでは全然足りない。
潤いとは程遠い荒地に通り雨。
渇いていれば水の奪い合いは当然起こり得る。

飲める水なのかどうかはこの際関係ない。
水かどうかが重要で、欲しければ争ってでも手に入れたくなるものだ。


『騎士団長の女』でいればその争いも面倒ごとも格段に減る。


気安くはあってもそこは騎士。
上下はしっかり弁えている様子だった。
アドニスが求心力のある長だったからこそ、リアンはその筋書きに乗っている。

これまで過保護な兄の元にいたのだ。
庇護の仕方もされ方も、リアンは心得ていた。

自分ばかりが得をしているようで申し訳ない気もするが、素直にありがたいと感謝もしている。

「ほら……これ食べるか?」
「……アドニス、嫌いだからってわたしに食べさせようとしないで」
「うん……バレたか」
「だってこればっかり食べさせる」
「そんなことないぞ、ほら、これもやろう」
「……それも嫌いなんでしょ?」
「よく分かったな!」

香りの強い野菜や、甘い野菜が口の中に入れられる。リアン自身は嫌いではないので、普通に美味しくいただいた。

「あーあ。俺もあーんってしたいなぁ……あ、いや、して欲しいなぁ」
「……よし、ほら食え。あーん」
団長(おめぇ)じゃねーわ!! やると思ったわ!! 思った通りか!!」
「思った通りなら良かったな。ほら食えよ」
「いらんわ!!」
「あ、じゃあ俺食べよ。団長あーん……」
「……おーいそこの、新しいスプーン取ってくれー」

楽しそうなのは大変結構なのだが、ここがどこであろうと、どんな人の集まりであろうと、大概こんなものなのかとリアンはやり取りを眺めていた。

「……みんな何歳なの?」
「おぉ……」
「みんなほんとに騎士様なの?」
「……自分でも分かんない時があるかな……」
「そっか……じゃあ、しょうがないか」
「……軽い!」
「他人ごと!」
「あ痛たたた……」

食事が終わり、食堂を出ていきそうな時機を見計らって、エドウィンがリアンを迎えに近寄ってきた。
アドニスは、今日は俺のだとリアンを担ぎ上げ、堂々たる態度で食堂を後にする。

ごめんねと手を振るリアンに、エドは特に深い意味もなく頑張ってと声をかけたが、周りの全員からは何をだよと返された。




砦内の通路には、真っ白い光が差し込んでいる。

朝の力強い陽の光ではなく、霧や靄を通して見る柔らかな明るさだった。

実際この山の砦は今まさに雲の中にある。
外の世界はどの窓から覗いても真っ白しか見えない。


抱えたまま、下に降ろす気配がないのを感じ取ったリアンは、アドニスを覗き込むように顔を傾けた。

「……大人しくするのは分かったけど。ヒマなんだよね」
「……まぁなぁ……書類の整理でもしてみる?」
「はい! してみる!」
「おう。よし、それなら任せてみるか」


アドニスの仕事部屋には扉が四枚あった。
ひとつは外の通路に繋がり、ひとつはリアンの部屋に繋がっている。

資料部屋はリアンの部屋とは反対側の壁にあった。

「この隣は何の部屋?」
「俺の私室だな……」
「ふーん」
「ふーんて……それだけ?」
「それだけ」
「ああそう……中見る?」
「別にいい」
「じゃあ、こちらにどうぞ、お嬢さん。きりきり働けよ」

リアンが今使っている部屋は空き部屋だったと言っていたから、これまでアドニスはどこで寝ていたのかとは思っていた。
案外近くにあったことに何も思わないでもなかったが、リアンはまあいいかとすぐに考えるのをやめた。

アドニスの私室に繋がる扉の横の、飾り気のない、幅の狭い扉を開く。

「……うわあ。いつ諦めたの?」
「うーん…………だいぶ前だな」
「だろうね……」

窓も何もない部屋は暗い。
薄っすらとした陽の光も手前ばかりを照らし、その奥までは届かなかった。
白い紙の山がぼんやり浮かんで見えている。
辛うじて踏み込んでいける一本道はあるが、両脇には大小の紙の山があって、何も引っ掛けずに奥まで進むのは難しそうだ。

長細い部屋は壁の全部が棚になっている。
それなのに、きちんと束ねられて収められている書類があるのは、突き当たりの一番奥だけだった。
その棚すら全部は埋まっていない。

アドニスがこの砦に赴任してきた時には、もうほぼこの状態であったのは、あえて黙っておく。

際奥の棚に収まっている資料は、前任の前任の前任の……とにかく大昔の団長の仕事だろう。アドニスはそこまで踏み込んだことがない。

棚に収めなくなったのは、隣国との戦が始まってからだろうというのは、何となく分かっている。
資料を纏めて束にするような、そんな暇も余裕も無くなったのは無理もない。
戦が終わって両国の関係が回復し始めたのはここ十年ほどのことだ。

いちいち説明する気はアドニスには無かったが、リアンなら資料を整理しているうちに気付くのかもしれないとも考えた。
毎晩読んでいる王国史はもうすぐその部分に触れるはずだ。

「あー。一応言っとくけど、ここにある書類。中身を読むのはしょうがないけど」
「……誰にも言うな?」
「そうそれ」
「わかりました……ていうか、読んでもいいの?」
「それなりに読まないと仕分けできないだろ」
「そうだけど、大事な書類なんでしょ?」
「誰にも言う気はないだろ?」
「ううん……そういうことじゃなくて」
「信用されてるってことじゃないですかぁ、リアンさん?……まぁ、これだけ放置されてるから分かるだろ? 本当に重要なものはこの中には無いから安心しとけ」

ぐりぐりとリアンの頭を押さえつけて、アドニスは左側の手前にある山を手で示す。

「こっち側の手前にくるほど新しい」
「アドニスの仕事だね」
「そういうこと」
「じゃあ、こっちから纏めていきますか」
「お願いします」
「お任せ下さい」

部屋の中は紙だらけなので灯りが持ち込めない。それ以前に中で作業するような場所もない。

纏まっていない紙の束を扉の外まで持ち出して、そこでリアンは内容を確かめて仕分けを始めた。

広い卓の上でしろとアドニスは勧めたが、そこまで運ぶのも面倒な上、人の手も煩わせたくなかった。ここで構わないと、リアンは床の上で小さな紙の山をせっせと作り始める。

見兼ねたアドニスがリアンの座る辺りに毛布を敷き、その少し後に現れたシャロルが大げさに叫びながら厚手の肩掛けを被せた。


ちょうど疲れた頃合いになると、シャロルが茶器の一式を持ってやってくる。

「リアン様お茶の時間にしましょう」
「はい! わたしが淹れます!」
「そうおっしゃると思って、まだ淹れておりませんよ?」
「シャロルさん、さすが〜」
「わかってる〜」
「あ、団長様は黙っといてもらっていいですか」
「……びっくりするわ。なにこの冷遇、なにこの温度差」
「団長様なんて、黙ってリアン様のお茶をありがたく頂けばいいんですよ」
「シャロルさんもいただいて下さいね?」
「はぁ…………リアン様は一瞬ごとに愛らしくていらっしゃる……」
「盲信ですねぇ……残念です」
「その冷厳さもぴりりとした香辛料ですね。食欲がそそられます」

ふへと力無く笑って、リアンは手にしていた書類を床に置いた。

埃っぽい手を洗いに行こうとしたら、シャロルは手洗い用の水まで用意している。
さすがと思えば良いのか、過保護と思えば良いのか。リアンは痒いところに届いた手に、ほんの少しだけ呆れておいた。



会議用の大きな卓の端に集まるようにして、三人でお茶の時間は始まる。

「今日はとくしの人の相手はしなくていいの?」
「ああ……午後から……雲が晴れたらな」
「お天気しだい?」
「……だなぁ……めんどくせ」
「何する予定?」
「今日はなんだ……隣の領地まで出て木材の加工場を視察とかなんとか……」
「あぁ、そういう所を色々見て回るんだね」
「仕事で来てるって体裁は取っとかないとな」
「仕事で来てるんでしょ?」
「うんまぁ。そうなんだけど」
「違うの?」
「……まぁ色々だよ」
「……大変そうだね」

会話の切れ目で折良く扉を叩く音が聞こえて、アドニスは顔を歪める。

自分の使っていた器をささっと片付けて、シャロルが対応に出る。
振り返った途端にアドニスと同じような顔をした。

「……噂をすればか?」
「噂をすればです。リアン様、部屋に帰りましょう、面倒くさいから」
「あ、でも。書類が散らかったまま……」
「お邪魔をするよ!」

こちらを向いていたシャロルが、背後に現れた人の声で、さらに苦虫を噛み潰したような顔をする。
すぐに道を作るべく静かに下がるが、その時には澄ました侍女の顔をしていた。

静かに息を吐き出したアドニスがゆっくりと立ち上がった。

「これは、どうされましたか。貴方のような方が自らこんな場所まで」
「いやあね、この天気だろう? 外にも出られないし、することもないから砦側(こっち)でも見……何ということだ!」

ずんずんと部屋の中へ入ってくると、周囲が止める間もなく椅子を引き、リアンの隣の席へ腰掛けた。

「驚いた! 君は花の妖精かな? それとも雪の精霊?」

ぐいとリアンに顔を寄せてきた男は、春の空のような薄水色の目をぱちぱちと瞬かせた。

上等な服を嫌味なく着こなし、身振りも話し方も上品だから、間違いなくこの人が特使なのだろうとリアンは身構える。
いつもの調子で対応して、アドニスの評価が下がっては大変だ。

「はじめまして、こんにちは……」
「声も愛らしい!」
「マブルーク殿……距離を空けて頂いてよろしいか?」
「おっと。これは失礼……騎士団長、この可愛い方を紹介して頂けるかな?」
「彼女は私の婚約者です、特使殿」
「……へぇ。こんな辺鄙な場所にねぇ……気の毒なことだ」
「マブルーク様。口を慎しまれよ」

扉の内側、壁際にびしりと真っ直ぐに立った男が声をかける。
腰に長剣は無いが、剣帯だけは巻かれている。体躯も立派で雰囲気は砦に居るみんなに似ているから、騎士か護衛だろうとリアンにもすぐに分かった。

「ごめんね? 気を悪くしたかな……思ったことがつい口から出ちゃうんだ」
「いいえ、大丈夫です」
「誰に決められた婚約なんだい? わざわざここまでやって来るなんて、親同士が決めたのかな? それとも君の上司か?」
「立ち入ったことには触れないでいただこう」
「これは……当たりかな?」
「わたしの意志です」
「……おや。そうなの?」
「わたしの意志で、騎士団長の元に来ました」
「へぇ……熱心なことだね」
「……砦の案内でしたか?」
「ああ、もういいんだ。僕にもお茶を出してくれる?」
「特使殿……」
「マブルーク様、場の流れが読めないのは特使としての質を問われます」
「……そう言われてもねぇ」

壁際の護衛は溜息を吐き出すと同時に、姿勢を少し崩す。

「評価は下がる一方だ」
「ううん。評価も何も、最初から失敗じゃないか。帰ったところで怒られるだけだろう? なら帰るまでは楽しく過ごさせてくれ」
「午後から楽しく過ごすことにされては? それまでお待ちを」
「……視察なんてもう飽きたよ」
「マブルーク様」
「……はいはい、場の流れ場の流れ……それじゃあ失礼するよ。後ほど、騎士団長。貴女の名は今度会った時の楽しみに取っておこう」

リアンの手を取ると口付けをして、マブルークは颯爽と部屋を出ていった。

「……邪魔をした」
「後ほどお迎えに上がります」
「失礼する」

静かになった部屋で、アドニスは腰に手を置いて天井に顔を向けているし、送り出したシャロルは扉にそのまま寄りかかるようにしていた。

「早過ぎる……見つかるのが早過ぎます! どうしてくれるんですか団長様!」
「俺に言われてもな……」
「まだ滞在期間は半月ほど残ってますけど?!」
「言われなくても分かってるって」
「やっぱりリアン様を気に入った! 案の定じゃないですか! 案の定ですよ! お誘いを受けたら断れないじゃないですか!」
「もう済んだことを言うな……ほれ、あれだ。体調が悪いとか、なんか誤魔化せ」
「なんかっていい加減な! そんなのいつまでも通用しませんて!」
「ん゛ーー……」
「……アドニス大丈夫?」
「…………お前、よく俺の話に乗ったな。偉いぞ」
「めんどくさそうなのはすぐ分かったから」
「なぁ?……偉い偉い……はぁぁああ」
「適当にあの人から逃げればいいんでしょ? ごまかすのは上手いから任せて」

リアンはぐっと拳を作って力強く頷いた。

「おぉ……頼もしいな」
「いざとなったらばったーんって倒れるからね! 大丈夫!!」
「やる気満々な病弱の訴え方だな」




その後、視察に同行したアドニスはリアンのことをしつこく聞かれ、あらゆるお誘いをざくざく断った。


リアンはその間、仕事部屋で大人しく過ごす。

書類を仕分け、この二年間の綴りを完成させた。