指先ほどの小さく白い花は、夏の始まりには落ち始める。
花びらを散らすのではなく、花の形はそのままに、くるくると回りながら落ちていく。
風が吹けば大きな木はさわさわと揺れ、花は音もなくくるくると散っていった。
リアンの家は、王都の端の端。
地図上では辛うじてぎりぎり王都、といえるような場所にある。
実際そこに訪れてみれば、『都とは?』と哲学的に考えてしまいそうな風景が広がる。
つまり、田舎町。
一応、名称には町とついている。
『町とは?』とも考えてしまいそうなほど大自然に飲み込まれそうな場所だが、お偉い人がそう決めたのだから、町なのだ。
遠くには空を裂くほどの、夏でも雪を頂くような高い山々が連なっている。
その足元には、深い深い森がある。
リアンが住む町の人たちは、日々森からの恵みを糧にして生活をしている。
木を切り出し、建材や家具を作って売ったり、獣を狩ったり、薬草から薬を作ってはそれを売る。
都会では手に入らない、森からの恵みで商売をする者がほとんどだ。
リアンの家業もそのひとつ。
森に入って狩りをし、獲物を売るのが仕事だった。
リアンが幼いうちに両親が亡くなって、それからは年の離れた兄が親代わり。
家業をこなしながら、子育てもこなした兄のことを、もちろんリアンは大好きなので、家業を手伝ったり、時々足を引っ張ったりしていた。
「なんでいつもいつも部屋に居ないんだ、あいつは!」
兄は木床を勢いよく踏み鳴らして、大声を上げながら妹を探す。
大声を上げれば、どこかから妹が飛ぶようにやってくると知っているから、さらにわざと大きな音を出す。
案の定すぐにこちらにぱたぱたと駆けてくる足音が聞こえた。
「なに? 兄さん、居るよ? ずっと居たし!」
「……厩舎にな。部屋にいろと言ったろう」
「だって部屋は……」
「まだ三日経ってないぞ」
「そうだけど……」
約束を破って無茶をしたリアンは、三日間の外出禁止を兄から言い渡されていた。
「厩舎で寝てたのか?」
「なんでわかったの?」
リアンの頬を撫でてから、髪についた木屑を摘み上げて、その目の前に持っていった。
「ほっぺたに鱗の跡がついてる」
「……おっと」
「部屋に戻るんだ。いいな」
「……ふぇい……」
「返事!」
「ふぁい……」
「おまえ、この!」
あちこちをわしわしとくすぐられて、笑い疲れて、身動きできなくなったところを、小脇に抱えられて部屋まで運ばれた。
リアンは部屋に放り込まれる。
扉の手前で両手を腰に当て、威圧的な目で見下ろしている兄に、リアンはにこりと笑い返した。
「まだ一日目だぞ」
「そうだっけ?」
「大人しくしてろ」
「……でもね?」
「泣くぞ?」
「やだ」
「じゃあ、部屋に居ろ」
「…………はい」
部屋を去っていく足音を聞きながら、リアンは自分の柔らかい頬を触った。
ぽこぽことした手触り、鱗の形がついた跡を撫でる。
リアンの家は代々、竜を狩るのを生業としていた。
素材や食料としてではなく、人に馴染み易い種を無傷で捕らえ、役に立つようになるまで調教して、主人となる人へ売る。
父の代では小さな戦があちこちで頻発していたので、竜は主に王城や、貴族に納められていた。
最近はもっぱら、人や荷を運んだり、農作業を手伝ったりする、穏やかな気性の竜を求める人が多い。
とはいえ絶対数から考えても、馬や牛よりも高価になるので、竜を求めてくる人は、それなりに裕福な人だった。
竜は家畜のように人の手での繁殖はできない。
過去には竜の卵を取ってきて、孵化をさせようと試されたこともあったが、子を奪われ怒り狂った親竜が小国をひとつ潰したことから、人の手での孵化や繁殖は禁止された。
個人で捕らえるにも一朝一夕にはいかない。
費用対効果と、危険度を鑑みると、依頼をした方が結果的に安くあがる。
それだからこその家業。
竜の多くの種は、森の中や、山に生息している。
リアンの家が王都に近く、自然に飲まれそうな場所にあるのもそのためだった。
兄は父に似て大きな体躯をして、見た目通りの屈強な男。
竜を狩るため、今まで培ってきた技術を発揮するにも、無傷で捕らえるにも、丈夫な体を持っていないといけない。
広大な森を、目当ての竜を探して回ることになる。
一度森に入れば短くてひと月、長くて半年を要する。
森にいるのは竜ばかりではない。
その他大型の獣もいるから、頑丈でないとやっていけない。
リアンはその点、真逆の見た目だった。
同年代と比べると、小柄で線が細い。
肌は白く、髪も目も薄い色をしているので、見た目は幽鬼じみている。
ふと雪と一緒に溶けて消えてしまいそうな、清純な儚さばかりが目立つ。
ところが実際のリアンは、見目に反して男並みに力があったり、よく笑ったり、くよくよしない性格だった。
この家の血を濃く継いでいると仲間たちが笑いの種にするほど。
部屋の真ん中で頬に手を当てたまま、リアンは後ろ向きで下がっていって、寝台の端に膝を折られ倒れこむ。
向こう側の木枠に頭をぶつけて、そこにも手を当てた。
「いてて……」
へにゃりと笑っても、今の様を見て笑ってくれる人はいない。
静かな部屋でひとり力無く笑う。
リアンは今年で十六になった。
多分、十六になった。
大体、そのくらいのはずだ。
それでも魂とか、精神とか、心とか、そういった形のないものはそうではない。
リアンには、この体になる前の記憶がある。
どこか別の、今いるこことは違う世界。
ずっとずっと遠い場所。どこにあるかすら、確かめる術すら分からない、そんな場所で生きていた記憶。
そこでは今とは全く違う体で、全く違う暮らしをしていた。
己として存在して、その個が集まって助け合って生きていた。
丈夫な体で、長く生き、知性を持った
竜だった。
寿命が尽きてその世界を去り、今この世界で人の体で生きている。
別の世界だと確信したのは、リアンがいた世界には人という生き物が居なかったからだ。
そしてこの世界の竜は、前のリアンがいた世界の竜ほど、知性を持ち合わせていないから。
前の生を思い出したのは、人の体で生まれてしばらくしてからだった。
ぼんやり形のない、乳白色の光の球のようだった記憶はそのうち、いつの頃からかはっきりと前の体の形を思い出した。
白い鱗、太く長い尾。
鋭い爪のある手足、大きな牙。
薄くてよく伸びる羽、見た目より軽い体。
血のような暗い赤の縞が背の上を走る、白い翼竜。
誰かに、家族にすらこの話をしたことはない。
話せば信じてもらえるだろうけど、そんな必要は無い気がした。
昔は竜だったから、なんだというのか。
今は人ではないか。
話して頭がおかしいと思われても構わないが、前の生を否定されるのは許し難い。
馬鹿にされるために生きていた訳ではないし、それは今の生でも同じことだ。
前と今と、体は似ても似つかない形をしていて良かったとも思う。混濁して、勘違いせずに済んだ。
続きではなく、別の生だと分けて考えられた。
不便だと思うことも、便利だと思うことも、全く違う。この世界と今の自分も、それなりに面白い。
前の生で出来なかったことを、この生で出来たらと、それも楽しみで仕方がない。
だからじっと部屋で大人しくしている場合ではないんだけど、という思いが膨らむ。
それでも勝手に行動して、兄を泣かしてしまうのは避けたい。
その日リアンは言われたままに大人しく、ふて寝して部屋で過ごした。
翌日は霞のような雲が空を覆っていた。
白く濁って青色はひとつも見えない。
柔らかな光と、白い花が降っていた。
風はほぼない。
曇ってはいても雨の匂いもしない。
リアンは二階の自分の部屋の窓から、小さな露台に出て、そこから外に出かけることにした。
表通りに面した店先から、この露台は側面の位置。
外に出ようと思ったら、どうしても家の中、厩舎、店を順に通らないといけない。
どこかしらで必ず兄に見つかってしまう。
露台から下に降りて、脇道を通る。
そこから走れば表通りにはすぐに出られる。
誰かに見られず外に出るなら、窓からが一番だった。
扉の内側で、人の気配を探る。
下の方で賑やかな声が聞こえていた。
兄とその仕事仲間たちは、厩舎で竜の世話をしたり、店の準備をしたりと忙しくしているらしい。
よしよしとほくそ笑んで、リアンは窓を開けて露台に出た。
下を覗いて、誰も近くに居ないのを確認する。
腰までの手すりを超えて外側に立って、部屋の中を見る方向に向き直る。
もちろんそこに誰かがやって来るような気配もない。
「……いってきまーす」
こそりと言って、リアンはその場で身を屈めた。
両手で柵を掴んでから足を外して、ぶら下がった後に柵から手を離す。
そうすれば落ちるのはほんの少し。
子どもの背の高さ分ほどだから、大したことはない。
初めのうちはよろけて転がることもあったけど、今は慣れて上手に着地できる。
リアンがぶら下がるために足の片方を露台から外したところで、こちらに向かって走る足音が聞こえ、すぐに体がふわりと浮いたような感覚がした。
誰かに支えられ、抱えられたと分かって、同時に見つかったと顔をしかめた。
心の中で悪態を垂れ、舌打ちをして、その目敏い相手を見てやろうと振り向く。
「…………誰?」
てっきり兄か、うちの仲間の誰かかと思っていたのに、見慣れない顔がリアンを見上げている。
間の抜けた顔で、軽い質問をしたからか、その誰かはくくと肩を揺らして笑った。
「……落ちそうだったんではなくて、降りようとしていたのか」
笑いながら、丁寧にリアンを地面に下ろした。
腰を屈めて、大事なものを扱うように、ゆっくりと腕から力を抜いていく。
リアンは当然だろう、といった表情でその人を見た。
背すじを伸ばしていく人の、その顔を見ているうちに、リアンはだいぶ上を見ることになった。
兄と同じくらいの背の高さだ。
「……余計な助けだったか?」
「ああ、いえ。いつもより楽でした」
「それは良かった」
「ありがとう……ございます?」
なぜお礼を言ってしまったのかと、よく分からなくなってリアンは少し首を傾げる。
ぶはと笑い声をあげると、その人は上品に片手を口の前に持っていった。
失礼と言いながら、笑いを堪えようとしている。
普通の格好をしているけど、髪はきっちりしているし、仕草も話し方も上品に感じた。
培ってきた商人の血が、この人はお金持ちだと言っている。
「ウチに何かご用でしょうか」
兄ほどでは無いにしても、立派な体躯をしている。
そんな人はわざわざこの町に薬草を買いに来たり、卓や椅子を買い付けに来たりはしない。
大概が商人に頼んで自宅まで運んでもらう。
そして、どう見たってこの人は仲買の商人にも見えない。
ならウチのお客様だ。
竜を手に入れるためにやって来た、貴族かなにかだとリアンは思った。
「うち……? この近くまで来たから、ディディエに会いに来たんだが」
「兄さんに?」
「兄さん? ……もしかして、リアンか?」
「……はい」
「……前に見た時はまだこんなに小っさかったのに……」
片手の親指と人差し指で大きさを示しているが、指と指の間は小石ひとつ分ほどしかない。どこを探しても、そんな小さな人はいない。
「なんの大きさですか、それ」
ははと快活に笑うその顔と声は、覚えがあるような気がする。
記憶を辿るため、しばらくその笑顔に見入っていた。
「……アドニス?」
「そうだ! 久しぶりだな、リアンリアン!」
ぽんと浮かんでぱっと出た名前に返事がある。
リアンの膝が抱え上げられて、昔にされていたように、子どもみたいに抱き上げられた。
アドニスは子どもみたいに笑うリアンを、眩しいもののように見上げる。