橘くんの体がびくんと跳ね、小刻みに震え始めた。

怒りなのか、悲しみなのか、とにかく、瑠璃さんが何かよくないものに触れたのはわかった。

「あ、ごめ、琥珀……そういう意味じゃなくて、その……」

大きな瞳が地面を左右に走り回る。

「如月、自転車降りるから離れろ」

私は話が読めず、疑問を消化しながら指示どおり自転車を降りた。

橘くんは一歩ずつ、ゆっくりと瑠璃さんに近づいていく。

もう戻れないように、自分の決意を固めるために、後ろを振り返らないようにしているようだった。

「殴れよ」

どちらが言った言葉か、理解できたのは次の声を聞いたときだった。

「辛い思いさせて、ごめん」

――橘くん。

やつれた顔で驚きの表情を見せる瑠璃さんを前に、深々と礼をしていた。

私には彼がどんな表情をしているかわからない。

「何で琥珀が謝るんだ。意味がわからない。悪いのは僕だろ。殴られるのも僕だ。気が済むまで殴れ」

「今まで耐えてくれて、ありがとう」

「だ、から、っ何でお前がっ」

瑠璃さんの声が揺れ、やがて泣き声へと変わる。

橘くんの震える背中の向こうで、片手で顔を覆い泣いていた。

橘くんはゆっくりと起き上がりいつもより高くなった声ではっきりと言った。

「俺、もう隠さないから」

「は!?やめとけお前っ、普通の生活できなくなるぞ!」

「別に新聞社やテレビ局に持ち込む訳じゃねぇし。俺自身を証拠にするつもりもねーし」

「じゃあ何で……!」

「これ以上、大切な人間達を苦しめたくない。騒がれたときは、逃げるから」

「やめろ、やめろっ」

瑠璃さんが駄々をこねる子供のように懇願する。

涙が溢れて止まらない。

喉が焼けるように痛くて、言葉が突き破りそうだった。

「多分、公表してもお前の苦しめたものはそこまで緩まないと思う。でも、周知の事実になれば、お前は一人で苦しまなくていいんだ」

「違う、1番辛いのはお前だ、琥珀。僕なんてどうってこと……」

「なくないだろ」

「……っ」

「橘瑠璃は無能なんかじゃない」

橘くんの声に叫ぶように、また、溜まったものを吐き出すように大声で、泣いていた。

理性が壊れた獣のようだった。

「お前……って、何でお前が泣いてんだよ」

「だって」

振り返ってきた橘くんにぶっきらぼうに返事をした。

ボロボロ泣いてしまって、止められないのだ。 

橘くんらしくなく、哀しい微笑を浮かべると湿った声で言った。

「帰ってから話す。行くぞ」