「あ……」

私の力が一瞬弱くなった隙に、私の手を振り払って走り始めた。

……追いかけなくちゃ。

通学バッグを投げ出し、一歩を砂利に踏みつけたところで、邪魔が入る。

「おい、何してんだよ」

……橘くん。

不機嫌な声が、かえって安心感に包まれ、体の力が抜けた。

「橘くんっ……橘くん!瑠璃さんが、追いかけないと!」

「お前文脈どうなってんだよ。よくわかんねぇけど、チャリ出す。乗れよ」

不敵な笑みに、安堵のため息が漏れた。

***

「なるほど。俺の親父と喧嘩して拗ねて家出したってわけ?」

「何かちょっと付属品あるけど、大体はそういうこと!」

橘くんの引き締まったウエストに手を回し、大きな背中にピッタリと密着する。

自転車の走る勢いで強さを増す風が、私の髪と橘くんの黒髪を宙で弄んでいた。

初めてしたが、二人乗りというものは漫画のような甘酸っぱい青春ではなく、ただただ怖い乗り方だと思う。

それでも、人ってこんなに固かったっけ、などと思うと一人で赤面せずにはいられなかったが、断じて照れている訳ではない。

「あ、いた!」

道のど真ん中で立ち止まっている瑠璃さんを発見し、思いがけず大きな声がでてしまい、そのことで瑠璃さんがこちらに気づいてしまった。

瑠璃さんの背中が離れだす。
 
「お前、声デカイ!」

「ごめん、でも、自転車なら大丈夫でしょー!?」

右へ曲がり、左へ曲がり、遂に私は知らない道へと入り込んだ。

「ねえ、ここどこよ!?」

「知るか!あとのことは何とかなるだろ」

「……そういえば、橘くんのお父様と私のお母さん、定期的に会ってるかもしれないの!」

「はあ!?何でそんな重要なこと、こんな場面で言うんだよ!馬鹿じゃねーの!?」

「ごめんって!でも、完全に声が同じだったの!」 
 
……そう、全く同じだったのだ。  

院長室……母の仕事部屋から出てきたあの、男の人の声と。   

喉の奥でビー玉がつっかえてゴロゴロと音を鳴らしているような聞き心地の悪い声。

あの妙な懐かしささえ感じる、特徴的な声を聞き間違うはずがない。
 
早とちりかもしれないけど、母の浮気相手かもしれない。

そうすれば、母が橘家を悪く言い、私を遠ざけようとした理由にも説明がつく。

今となっては、水城さんより証拠が強いため、その可能性が高い。

「うおっ」

キキーっと、何か異形なものの叫び声のようなブレーキ音に耳を塞ぎたくなる。

ちょっと何、と突っ込もうとして口を噤んだ。