数時間、立ちっぱなしで集中するのは予想以上に体力がいる。
足は痛くなってくるし、メモをとる腕も痛い。
でも、術者である先生方や看護師さんはそれ以上だろうと思うと、身が引き締まる思いがした。
いよいよ手術も佳境に入り、手術室全体の緊張感が高まる。
ただでさえ難しい脳の分野だ。
さらに小児となれば、大人よりも小さく技術もより高度なものが求められる。
と同時に、麻酔もまた高度な技術が必要となる。
色々な面において、大人よりもずっと難易度の高い手術だ。
先生方から看護師さんまで、その難易度に対応出来るプロが揃っている。
それでも、少しでも気を抜けば死に直結するような作業が数時間にも及ぶのだ。
と、ふと視界の端に何かが写った。
見ると、ふらふらとして真っ赤な顔をした白井くん。
「っ…大丈夫?」
大声を出して、集中力を削ぐわけにはいかないため小声で声をかける。
朝から具合悪そうだったけど、これ完全に熱出てるだろ…
真っ直ぐ立つのも難しそうだし、かなりの高熱か?
息も荒く、マスクが苦しそうだ。
……このまま見学は続けられないよな…
まだこの後も数時間かかるし、万が一ここで倒れたら先生方に迷惑をかけてしまう。
「白井くん、一旦出よう?」
そう言うと、白井くんは辛そうな表情なのに首を横に振る。
「……大丈夫。このくらい…なんでもない。」
明らかに何でもあるだろうに、なんでこんなに意地を張るのか…
「…倒れたら他の先生方にも迷惑をかける。……また見学は出来るし体調悪いなら休みなよ…」
意地でも頷こうとしない白井くんに半ば呆れつつ、どうしたものかと困っていると、陽向もこちらの様子に気付いたようで声をかけてきた。
「…どうした」
「……白井くんが具合悪そうで。」
そう言うと、陽向は露骨に嫌そうな顔をするものの、ため息をついて白井くんに近付く。
「おい、しんどいなら医局戻ってろ。…そんなふらふらで見てても頭に入らないだろ。」
少しキツイ言い方だが、なんだかんだ陽向も白井くんを心配しているのがわかる。
2人にまで言われてしまい、参ったのか、もう体力的にもしんどくなってしまったのか、白井くんはヘナヘナと床に座り込んだ。
「おいそこ、どうした。」
やば
さすがに、先生方にも気付かれてしまったようだ。
「すみません。1人体調悪そうなので、一度抜けてもよろしいでしょうか。」
ここは素直に言った方がいいな。
白井くんは、休んでもらって俺は白井くんを送った後にまたすぐ戻ってくればいい。
「……わかった。」
「ありがとうございます。」
先生方にお礼を言い、俺は白井くんの手を引き一度手術室を抜け出した。
「……やめろ、大丈夫だ。もう、大丈夫だから戻る。」
「何言ってんの。手もこんなに熱いし、顔も真っ赤。歩きだってフラフラじゃん。」
「…違う。大丈夫だ。」
俺の手を払おうとするも、熱のせいで力が入っていないから全然払えてない。
それでも、なんの意地か何度も振り払おうとして失敗しついに廊下に置いたままになっている医療用カートに手が当たった。
ガシャンッ
と大きな音がして、カートが動いた。
「……はあ…いい加減にしろよ。体調悪いなら素直に休め。周りに迷惑かけてることがわからないのか?」
出来るだけ関係が悪くならないように、キツイ言い方はしないようにしていたが、これには俺もさすがにきれてしまう。
「……………すまない。…でも、俺は……」
「なんでそんなに意地張るんだよ。今行ってもしんどいだけだろ?手術なら、またいくらでも見学させてもらえばいいだろ。」
そう言うと、白井くんは露骨にシュンと肩を落とした。
「またの機会があるから。」
「…………」
「…だって……、今日のは貴重な症例だろ?………麻酔だって、調節が難しくて…、学びたいこと…まだ………」
「でも、倒れて先生方に迷惑かけたら元も子もないだろ?今日のことは残念だけど、諦めて休んどけ。知りたかったことメモとかくれたら、見ておいてやるから。」
そう言うと、やっと諦めたのか小さく頷いて俺にメモ帳を渡した。
「……これ、頼む…」
「おう。きちんと休んどけ。辛かったら、薬入れてもらえよ。」
こくん
夢を見た
母さんが怒鳴っている
ああ、また怒らせてしまったか
俺は昔から体が弱いから、いつも肝心な時に限って熱を出して寝込んでしまう。
母さんは厳格な人だから、俺が寝込む度に怒った。
"なんでアンタは毎回毎回発表の時に限って熱を出すの"
"仮病じゃないでしょうね"
"まったく、誰に似たんだか"
"お兄ちゃんは優秀なのに"
うちの家族はみんな出来のいい人だった。
父も母も医師で、父は数年前に開業し地元でみんなが通うクリニックで毎日町の人たちを診ている。
母は大学病院で働く傍ら、そこの大学で教鞭もとっている優秀な女医だった。
兄は小中高一貫して成績は常にトップ。
どれも地元の公立の学校だったのに、模試では毎回全国1桁位を取っていた。
学業以外にも、運動も出来て美術の才能もある、幼稚園の絵画コンクールのようなものから高校の美術展に至るまでいつも賞を取り、そのうえそれだけ出来てもいやな感じが少しもしなかった。
みんなに好かれて、地元の人で知らない人はいない。
普通の公立の高校から、日本一の大学医学部に現役で合格したのも後にも先にも兄だけだった。
優秀でみんなに好かれるかっこいい兄。
昔は、そんな兄が大好きだった。
みんなに誇れる自慢のお兄ちゃん。
……でもそれは、自尊心というものがつく前までの事だった。
何をするにしても兄と比べられる。
外を歩くだけで、顔見知り程度の近所の人に兄の話題を振られる。
兄と同等に期待される。
"お兄ちゃんみたいになれたらいいね"
みんな口を揃えてそう言う。
俺だって、なんでも出来る兄はカッコイイし羨ましいと思う。
……でも、俺がいくら努力したところで、いつも兄には及ばなかった。
"お前には美術の才能はないから音楽をやれ"
そう言われて小さな頃からピアノとバイオリンをやらされてきたけど、結局大会はいつも県内止まり。
いつの間にか、兄の存在は俺の中の大きなコンプレックスのひとつになっていた。
兄ほど出来ないから、中学高校は地元から少し離れた私立の一貫の男子校に通わされた。
そこの学校は、年に何人も医学部や兄の通う大学への合格者が出る所だった。
地元の小学校ではトップの成績でも、そこの学校ではほとんど底辺だった。
そこから俺は、文字通り血のにじむような努力をし続けた。
…でも、いくら努力をしても俺は所詮凡人で、結局学年に数人いる根っからの頭の良い奴には適わなかった。
母は、俺のテストが帰ってくる度毎回激昂した。
"なんでこんな点数しか取れないの"
"なんで学年で1位を取ることもできないの"
"お兄ちゃんは出来たのに"
母さんの口癖だった。
その頃から、体調を崩すことが増えた。
大きなテストや大会、発表が近づいてくるといつも酷い腹痛に襲われる。
それでも、勉強も練習もし続けなきゃまた怒られるからやらなきゃいけない。
でも当日が近づくにつれ、体調はさらに酷くなるばかりで、テスト前はほぼ毎日のように吐いていた。
吐いてることがバレたらまた怒られるから、親に気付かれないように気を遣いまたそれも大きなストレスだった。
でも、そんな俺のことを気遣ってくれる人が1人だけいた。
皮肉にも兄だった。
兄だけが、大きなテストが近付く度に俺が体調を崩すことを知っていた。
夜中にこっそり吐いている時も、兄だけがそっと背中を摩ってくれた。
兄は本当に優しかった。
母は兄の言うことは素直に聞くから、兄が俺が体調を崩しているから休ませてやって欲しいと言うと、母は渋々休ませてくれた。
俺がベッドで横になっている時看病してくれるのもやはり兄だった。
いくら辛くても苦しくても、やっぱり兄を嫌いになることだけはできなかった。
兄のせいで、こんなに悩まされているのに、兄のおかげで気持ちが少し楽になった。
本当に複雑な感情だった。
でも、俺の体調不良は酷くなるばかりだった。
高校に入ってからはテストだけでなく模試の回数が増え、毎回胃に穴が空きそうだった。
テストが怖くて模試が怖くて、いつの間にか学校が怖くなっていた。
学校につくと、いつも足がすくんで震える。
でも、親にバレたら怖いから頑張って教室まで重い体を運んだ。
怖いのを悟られないように強い言葉で防衛した。
上手くできそうにない日はエナジードリンクを飲んで体を鼓舞した。
そうすると、少し頭が覚醒して上手く立ち回れる。
俺の心と体は限界に近かった。
そんなある日、俺はとうとうやらかしてしまった。
それは、偉い大学の教授たちも来るような学内での大きな研究発表会の日だった。
その発表会の出来で大学への推薦も決まる一大イベント。
偉い先生方だけでなく、保護者もくる。
つまり、母さんも来る。
俺はこの日のために、1年もかけて準備をしてきた。
誰よりも誰よりも努力をした自信がある。
学校の先生にはお墨付きをもらった。
"ここまで細かく詰めてきたのはお前だけだよ"って。
"本番ひどいやらかしをしない限り必ず推薦はお前のものになるよ"って。
その言葉は、応援になると同時に大きなプレッシャーにもなった。
学内での推薦が決まる大きなイベント、大学から教授もくる、母さんの目もある、先生からの期待もある
やらなきゃ
やらなきゃ
やらなきゃ
大丈夫、俺は誰よりも頑張ってきたんだ、何回も何回も練習した、昨日だって深夜までシュミレーションを繰り返して完璧に仕上げてきた、腹痛の鎮痛剤も飲んできた、大丈夫、今日の俺は完璧だ。
そう言い聞かせた。
「次の発表は2年A組 白井 北斗さん タイトルは____」
名前が呼ばれた。
大丈夫、俺ならできる。
練習通りにやればいいだけ。
大丈夫、大丈夫。
そう言い聞かせながらステージへと繋がる階段を上る。
紹介アナウンスが終わり、スクリーンに俺のスライドが映し出される。
大丈夫、深呼吸して_________
前を向いた瞬間頭の中が真っ白になった。
見渡す限り人、人、人
みんな俺に注目している。
「あ…………」
言葉が詰まって出てこない
ダメだ、挨拶をしてタイトルを言わなきゃ
研究内容と、研究手法と、考察と結果と……
なんだっけ、最初のセリフ、なんだっけ……
言わなきゃ、失敗は許されない、だってこれは大きな大会で、偉い先生方も見ていて、母さんも見ていて、先生からの期待もあって
慌てて原稿を見た、何度も何度も繰り返し練習したせいでボロボロになったいくつもの書き込みのされた原稿。
「あ、う……あ…………」
違う、違う、ちゃんと言わなきゃ、大丈夫だって大丈夫だって
その時
突然目の前がぐわんと歪んだ
急に足元の感覚がなくなって立っているのかもわからなくなって
あれ、俺、なんで天井見てるんだ?
頭が、背中が、おしりが痛い
あれ、発表は?
俺の、発表、どうしたんだっけ
先生の声が聞こえる、生徒の悲鳴が聞こえる、あれ、俺……
そこで俺の意識は途絶えた。
「なんでこんなことになるの!毎回毎回!もううんざり!」
「母さん…、そんなこと言ったって北斗も体調が悪かったんだよ、仕方がないだろ。」
「だって、今日は学内推薦を決める発表だったのよ?あの子は頭が悪いからこれが最後のチャンスだったの!」
「そんなこと言うなよ…。北斗だって頑張ってるんだ、母さんも夜中まで北斗が練習していたのはわかってるだろ?本番のアクシデントは仕方ないよ、北斗だってやりたかっただろうに、悔しがってると思うよ。それに最後のチャンスなんてこともないよ。」
「あなたは頭がいいから安心して任せられるの、でもこの子は頭が良くないから、あなたみたいに信用できないのよ。わかるでしょう?この子はできない側の人間なの、今日のでハッキリと確信したわ。」
「………もう、わかったから、母さんも疲れてるだろうから先に帰ってなよ。最近もずっと忙しかっただろ?北斗のことは俺が看てるから、任せて。」
「……あなたがそう言うなら、そうするわ。私も少し、疲れちゃった。」
「うん。お疲れ様。また、明日。気をつけて。」
聞きたくない会話がやっと終わると、シャッとカーテンが開く音がして兄さんが俺のベッドの横に座ったのがわかった。
俺は今まで閉じていた目をゆっくり開ける。
兄さんと目が合うと、兄さんは驚いたような表情をしてからすぐに心配そうな顔になって俺の手を握った。
「北斗、大丈夫か?…倒れたんだって?……また、無理したのか?」
俺は両方の質問に返す意味で小さく頷いた。
「…疲労と、ストレス、あと睡眠不足だって。クマもすごいし、また遅くまで頑張ってたのか?」
その質問には、すぐには頷けなかった。
"頑張る"ことができたか自信がなかったからだ。
自分を追い詰めてやることはやった。
……でも結果的には最悪の結末になってしまったわけだし、これは"頑張れた"には入らないのかもしれない。
悔しかった。
また、ヘマをしてしまった。
しかも、一番大切な行事で。
一番、やらかしちゃいけないとこで。
今までの努力を全部、水の泡にしてしまった。
隙間時間を使い切り睡眠時間を削り、毎日毎日血のにじむ思いで作り上げてきたものを
結局、最後の最後で壊してしまった。
母さんの言う通りだ。
俺はやっぱりどれだけ頑張ってもできない人間なのかもしれない。
悔しくて、自分のできなさに嫌気がさして両の眼から水が滴り落ちた。
「……大丈夫だよ、俺は北斗の頑張り、知ってるからね。少し、自分を追い込みすぎちゃったんだね、北斗は頑張り屋さんだから。」
その暖かい言葉が今は逆に辛かった。
むしろ、否定して欲しかった。
どれだけやってもできない俺はやっぱりダメな人間なのかもしれない。
母さんにしたら、迷惑な子どもだったかもしれない。
"優秀な医師"の家系に傷をつけてしまったかもしれない。
やっぱり俺はいらない子だったのかな。
兄さんみたいにできなくてごめんなさい。
上手く出来なくてごめんなさい。
迷惑ばかりかけてごめんなさい。
本当に申し訳ない。
母さんに、父さんに、兄さんに、先生方に、、、
本当にこんな俺でごめんなさい。
みんなの期待に添えなくてごめんなさい。
もういっそこんな俺を罵ってください。
甘んじて受け入れるから。
そうじゃなきゃ罪悪感に押しつぶされてしまいそうだった。
「……北斗?」
心配したような兄さんの声。
「…そんなに泣かなくていいんだよ、ね?大丈夫だから。」
俺は黙って首を横に振る。
目元の涙が布団に落ちた。
「なんも、そんな泣くことないよ。悔しかっただろうけど、また機会があるよ。ね、だからそんなに泣かないで。」
「…………ないよ…」
「え?」
「ないよ。次の機会なんて。……母さんも言ってたじゃん、もう最後のチャンスだったって…、俺には、もう無理なんだよ……」
頭の中でさっきの母さんのヒステリックな声が反芻される。
気持ち悪くて、吐きそうだ。
「……さっきの話、聞こえてた?」
恐る恐るそう聞く兄さんに俺は頷きを返した。
兄さんはひどくバツが悪そうに俯いた。
しばらく沈黙が続いた。
お互い何も言えなくて、言葉を切り出しづらい気まづい空気になる。
沈黙を先に破ったのは兄さんだった。
「…………ごめん。」
今まで聞いたこともないくらい、申し訳なさそうな声だった。
本当は、兄さんが謝る必要はない。
俺のことを散々言っていたのは母さんだし、兄さんはむしろ俺のことを擁護してくれていたのも聞こえていた。
「……兄さんは謝ることないよ。」
そう言うと兄さんはさらに気まづそうに唇を噛んだ。
「ううん、謝らせて。……俺も、母さんの言うことを否定しないで話を合わせてたから、同罪だよ。本当にごめん。」
「……いいって。…………それに、悪いのは俺だよ。毎回、上手く出来ないから母さんも怒るんだ。……俺ができないから、悪い。」
「そんなことっ」
「そんなことあるじゃん。」
俺の言葉がどれだけ兄さんを困らせているかは兄さんの悲しそうな表情を見ればわかった。
…でも、鬱憤をぶつける相手は兄さんじゃないのに、ずっと心に貯め続けてきたドス黒い感情から生まれる言葉は留まるところを知らず俺の口から溢れ出た。
「……いいよね、兄さんは。何でも出来るんだもん。…それが兄さんの努力から来ることはわかるよ。……でも、俺は兄さんと同じ努力をしても、結局兄さんに適うことはないんだ。それでまた、兄さんと比べられて、俺がどれだけ劣ってるか毎回毎回ご丁寧に説明される。どれだけ頑張っても、兄さんがあまりにも出来すぎるから俺が褒められることはないんだ。何においてもそうだ。毎日のように怒られることはあっても、褒められた試しなんて、一度もない…………」
兄さんに向けて放つ鋭利な言葉は兄さんだけでなく自分の首も絞める。
言う度、言う度、苦しくなって、言葉は呪いなんだって改めて思う。
「眩しすぎるんだよ、兄さんは。ずっと、ずっと、痛いくらい眩しいんだ。……それが、ずっとコンプレックスで、俺を苦しめる…。」
違う、兄さんは悪くないって冷静な心ではわかってる。
悪いのは勝手に比べて苦しくなったり、苦しめてくる奴らなのに…
「ずっとずっとずっとずっと…………、どこにいっても兄さんの光が付きまとうから、俺はいつまでたっても影にしかなれないんだ。苦しいよ。助けてよ。兄さんは優秀な医師なんだろ?」
ドンと兄さんの胸を叩いて、俺は泣き崩れた。
無理を言ってるのはわかっている。
でも、この苦しさから開放される方法がわからなくて、もうどうしようもなかった。