勝手に決められた許婚なのに、なぜか溺愛されています。

駅の改札から自宅へと続く坂道を、全速力で駆け抜ける。




『私、家、出るから』




そのメッセージが届いたのはお昼休みのこと。




玄関のドアノブへ手をかけたところで、扉が内側から勢いよく開かれた。




「彩梅?」




「お姉ちゃん!」




良かった、間に合った!




はあ、はあ。




「家、出るって、どういうこと?」




息が切れて苦しくて、




膝に手をついたままお姉ちゃんに問いただす。





「ごめんね、彩梅。私、アメリカの研究所に行こうと思う」




「……え?」





「女が研究者になってどうすんだって、



ずっとあのバカ親父に反対されてきたけど、もう限界。



このままこの家にいたら、



私の魂まで、家柄に包まれてあの親父に売られちゃう。



私は家のために自分の人生を差し出すなんて、できない」





「で、でも」





「彩梅、あなたもあんな親父の言いなりになんてならないで、



自分で自分の人生を選びなさい。



じゃ、向こうについたら連絡するから」





「お姉ちゃん!」





スーツケースに手をかけて




お姉ちゃんを引き留める。




でも。




「落ち着いたら、彩梅も遊びにおいで」




私の手をほどくと、にっこりと笑って




お姉ちゃんは家を出て行ってしまった。




お父さんの家を揺るがすほどの怒鳴り声が響いたのは、



それから数時間後のこと。


「真桜はもう日本にいないんだから、仕方ないでしょう?」



音を立てずに階段を下りていくと、



お父さんをなだめるお母さんの声が聞こえてくる。




「会長の持ってきた縁談で、相手は九条家だぞ?」




「真桜は最初から納得してませんでした。



お見合い用の写真だって、



結局、撮らせてくれなかったでしょう?」




……お見合いってなんのことだろう?




お姉ちゃんのことが気になって



廊下の隅で身動きせずに息をひそめる。




高圧的で切れやすく、



頑固で短気の独裁者。




そんな気難しいお父さんに、ハラハラしていると。




「明日にでもアメリカに部下を送って、



真桜を日本に連れ戻す。



見合いは絶対に中止にはしないからな。



真桜が戻り次第、席を改めて設ける」




お見合い⁈




まさか、お姉ちゃん、



それが嫌でアメリカに……⁈




お姉ちゃんが、お見合いなんてするはずがないのに!!




「とにかくこの縁談は絶対に中止にはしないからな!!」




うめくように吐き捨てると、



お父さんはバンと扉を閉めて



ダイニングルームから出て行ってしまった。





お父さんが書斎にこもったのを確認すると、




静まり返ったダイニングにぴょこっと顔をだす。





「お父さん、大丈夫かな?」




「困ったわね、ほんとうに」




そう言って微笑むお母さんは、



全然困っているようには見えなくて。




もしかすると……




「お母さん、お姉ちゃんがアメリカに行くこと、知ってたの?」




「さあ、どうかしら」




肩をすくめて笑っているお母さんはきっと、確信犯だ。




「でも、どうして急にお見合いなんて?」




「今回のことは、



おじいちゃん同士が勝手に決めたことなの。



だからお父さんも可哀想なんだけどね。



ほら、お父さん、婿養子だし。



それに、怒ってるっていうよりはショックなのよ、



真桜が勝手にアメリカに行っちゃって」





くすくすと笑うお母さんに、



ちょっとだけ肩のちからが抜けた。







翌日、まだ陽が登りきらないうちに起こされた。




眠い目をこすりながら、



リビングルームに降りていくと、



無愛想な顔をしたお父さんに呼ばれた。




「今日だけ、ほんの小一時間だけ、真桜だ」




んん?



お父さん、なにを言ってるんだろう?




呪文のような、暗号のような



カタコトを口にするお父さんと



なにやら忙しそうなお母さん。




「お父さんね、昨日の夜に



何度もお断りとお詫びの連絡を入れたらしいんだけど、



おじいちゃんとも相手の九条さんとも、



連絡が取れなかったんですって」




「うん?」




「それで、ちょっと急だけど、



あなたが真桜としてお見合いに行くことになって」




……お見合い?




キョトンとしていると



にっこりと笑ったお母さんに



和室につれていかれてパジャマを剥ぎ取られた。



気がつけば、



お姉ちゃんが着るはずだった薄紅色の振袖に、



帯をぐるっと締められていて。




ええっ⁈




唖然としていると、



髪を結い上げられて、



うっすらとメイクが施されたところで車に乗せられた。




車のなかで目をぱちくりと瞬き。




「あら、素敵! 



これなら彩梅もすぐお嫁にいけるんじゃない?



それに着物だと落ち着いて見えるから、



とても高校生には見えないわ!」




「で、でも、お母さん、



いきなりお見合いなんて、さすがに無理だよっ」




「座ってるだけでいいんだから、大丈夫よ」




お母さんはニコニコしているけれど、



お父さんは朝からとんでもなく機嫌が悪い。




「彩梅はまだ高校生だぞ……⁈」




「あなたが縁談で真桜を縛りつけようとするから、



こういうことになるのよ」




「だからって、どうして彩梅が……!」




お父さんはまだブツブツ言ってるけど



と、とにかく、黙って座ってればいいんだよね⁈



余計なことを言わなければいいんだよね⁈




料亭の前で車が止まったところで、大きく深呼吸。




勢いでここまで来ちゃったけど、さすがに緊張してきた!
 


家族で何度か食事に来たことのあるこの料亭には、



たしか立派な日本庭園があったはず。




時計を見ると、うん、約束の時間までまだ余裕がある!




「お母さん、ちょっと庭園を見てきてもいい?」




「あまり遠くにはいかないでね? すぐに戻ってね」




うなずいて返事をすると、



長い廊下を抜けて、庭園の入り口へ。




でも、こんなに素敵な振袖が着られるのなら、



お見合いも悪くないかも!




着物を着てしずしずと歩いていると、



少しおしとやかになったような気分になるし、



背筋がシャンと伸びるから不思議。




でも、朝ごはん食べないで来ちゃったから、



なんだかお腹が空いてきた……




そんなことを考えながら帯に片手を添えて、



重い扉を開ける。






眩しい光とともに、視界にとびこんできたのは美しい日本庭園。




白くうねる砂利道に沿って水仙が咲き乱れて、



濃い影をつくりだす樹木の奥には



趣のある東屋が姿をのぞかせている。




うん、気持ちがいい!




穏やかな春の庭園をぐるりと見まわして、



ぴたりと動きを止める。




小さな池にかかる太鼓橋。




そこに佇むその人を見つけた瞬間、



音が消えて風がやみ、



時間の流れが止まった気がした。




美しい景色に溶け込むような、すらりとした立ち姿。




どこか懐かしいその端正な顔立ちに、



ぎゅっと心がつかまれる。




じっとその人を見つめていると、ぱっと目が合った。




「彩梅、そろそろ時間だから、なかに入って」




お母さんの声に、ふわりと袖を翻し、母屋にもどった。




カーン。




流れる水の重みで頭をさげた竹筒が、



勢いよく岩に打ち付けられて高い音を響かせる。




鹿威し、っていうんだっけ。




その高く澄んだ音に目を伏せる。




離れになっている料亭の一室で、



お父さんとお母さんに挟まれて座り、



正面に座っているその人をちらりと覗き見る。




まさか、さっきのひとが、



お姉ちゃんのお見合い相手だったなんて!




きりっとした眉に柔らかな眼差し、



すっとした鼻筋に薄い唇。



爽やかで端正な顔立ちの、すごくキレイなひと。




「九条千里です」




その低い声に顔をあげて、背筋をただす。




「はじめまして。西園寺 ……真桜です」




ごめんなさい、ホントは彩梅(あやめ)です……と、



心のなかで謝りながら。




「それにしても、西園寺さんに



こんなにお美しいお嬢さんがいらっしゃったなんて!」




「いやいや、九条さんこそ、



立派なご子息で羨ましいかぎりです。



それよりこの間の件ですが、国会でも……」




お父さんたちが仕事の話を始めたのを聞きながら、



もう一度、向かいに座っている九条さんをちらり。




相手の九条さんは、



お父さんたちの話に興味深そうにあいづちを打っていて、



時折、会話にも加わっている。




お母さんによると、九条さんは23歳の大学院生。




話し方も物腰もすごく大人っぽくて、



なんだか別の世界のひとみたい。




九条さんのまわりだけ、キラキラと輝いている。




さっきからお父さんたちの話題に上っているのは、



株価の話だったり、



新しく設立する財団法人の話だったり。




黙って座っている私は、もはや置物。



これじゃ、



部屋の片隅に置かれている花瓶と何も変わらない。




「それでは、今日は顔合わせということで、



少し時間は早いですが、そろそろ……」




挨拶をして10分も経たないうちに、



お父さんがそう口にして立ち上がった。




え、もう終わり?




目をぱちくりさせていると、



九条さんにキラキラの笑顔を向けられて



ドキリ。




恥ずかしくなって目をそらすと、



九条さんがなにやら不穏なことを口にする。




「せっかくお会いできたので



もう少し真桜さんとのお時間を



頂戴してもよろしいでしょうか」




……へ?



「まあ、あと5分くらいなら。



な、あや……め、……いや、真桜」




中途半端に腰を浮かせたまま、



お父さんが困ったように視線を泳がせる。




「真桜さんは大学院生だとうかがっておりますが」




「は、はい」




と、答えたものの……




ど、どうしようっ!




お姉ちゃんの研究のことなんて聞かれたら、



一発アウト。




薬学のこともお姉ちゃんが研究していることも、



なにひとつ答えられない!




「真桜は、薬学を専攻しておりましたが、



大学では経営についても学ばせました。



今は本人の好きにさせていますが、



ゆくゆくは、この西園寺家の後継者として、



しっかりと後を継いでもらうつもりでおります」




どしりと座りなおしたお父さんが、淡々と語りだす。
 



そう、これが、お父さんの本音。




なにをしても人並みの私は、



お姉ちゃんの代わりになることなんて、できない。




私に出来ることと言ったら、



こうしてお見合いの席に座ることぐらい。




私もお姉ちゃんみたいに優秀だったら、



西園寺家やお父さんの役に立てたのかな。




そんなことを思いながら、



下を向いてきゅっと口を結ぶと。




「せっかくの機会ですので、



是非、真桜さんとふたりの時間をいただきたいのですが」




「……え?」




びっくりして顔を上げると、



九条さんと視線がぶつかる。




「い、いや、でも、彩梅はまだ」




「お、お父さんっ!」




アヤメって自分で言っちゃってるし!




「あ、やめ?」




「真桜はその、『あやめ』の姉でして…」





お母さんが慌ててとりつくろうと、



九条さんが小さく笑って、



恐ろしいことを口にする。





「もし、このあとご予定がないようでしたら、



お昼を“真桜さん”とご一緒してもよろしいでしょうか?」





「いや、でも、残念ながら、



私はこのあと仕事が入っておりまして」





「それなら、是非、お昼は“真桜さん”とふたりで。



責任をもって、



遅くならないうちにご自宅までお送りします」




ど、どうしようっ!




ふたりきりなんて、絶対に無理っ!




「いいじゃないですか、せっかくの機会ですし」




ご機嫌な九条さんのお父さんと、



激しく動揺しているうちのお父さんを交互にみつめて、



心のなかは大パニック!





お、お母さん、座ってるだけでいいって、言ってたよね⁈





ふたりきりなんて、聞いてないよっ⁈





すると、九条さんににっこりと笑いかけられて、



びくりと飛び跳ねる。




「是非、真桜さんとふたりのお時間をいただきたいのですが」




ううっ、ごめんなさい。




私は真桜ではありません……



なんて、今さら言えなくて。




「なんと、うちの息子は真桜さんを気に入ったようだ! 



これはめでたい! 



さすが西園寺家のご令嬢! 



それでは、向こうで私たちは仕事の話でも」




ご機嫌な九条さんのお父さんに押し切られるようにして、



顔面蒼白のお父さんは別の部屋へと消えていった。




すがるようにお母さんに視線をおくると……




「楽しんで」




余裕の笑みを残して、お母さんまで席を立ってしまった。





うそ~~~……





静かな部屋に九条さんとふたりで残されて、



鹿威しの音だけが鳴り響く。