「ほら、い行くぞ、彩梅」
「わわっ!」
ぐいぐいと引っ張られて、
学校からかなり離れたところに連れていかれると、
ピンっとおでこを指で弾(はじ)かれた。
「ったく、ぼーっと歩いてるから、
あんな奴(やつ)に声かけられるんだよ」
ううっ。
走ってたんだけどな。
歩いてたわけでは、ないんだけどな。
呆れている九条さんをちらりと見上げると。
「顔、真っ赤だぞ」
「そ、それは、
九条さんが私の手首をつかんでいるから……!」
「いつになったら慣れるんだよ。
いっそのこと、ここでキスでもしてみるか?
特訓するんだろ?」
……ふえっ⁈ き、キス⁈
びっくりして目を見開くと、
さわやかに笑う九条さん。
「嘘に決まってんだろ。なんでも真に受けるなよ」
し、心臓に悪すぎるっ!
すると、周囲を歩く人たちが
すれ違いざまに私たちをちらり。
なかには、
足を止めて九条さんに見惚れている女の人もいて。
九条さん、ものすごく注目されてる!
「あ、あの、今日はどうしてここに?」
「たまたま?」
そう言って甘く笑う九条さん。
その国宝級の笑顔に、
ぎゅぎゅっと心臓が痛くなる。
とびぬけて端正な顔立ちと、透明感あふれる仕草で
まわりを惹きつけている九条千里さんは、
23歳の大学院生。
いろいろあって、
私、西園寺彩梅は九条千里さんの『許嫁』なのですが。
「彩梅、おいで」
「は、はいっ!」
ぴょんと飛び上がると。
「コタロウか!」
九条さんに笑われた。
コタロウくんは、
九条さんが溺愛している
自慢のラブラドールレトリバー。
「でもほかの男に尻尾ふるとか、ダメだよな?」
ちらりと睨まれて。
「しっぽ振ってないです!
だって、しっぽなんて、ついてないし!」
全力で抗議すると、くしゃりと頭がなでられた。
「冗談に決まってるだろ。ほら、手かして」
……?
言われるままに、
九条さんの大きな手のひらに指先をのせてみると。
「『お手』じゃなくて、手をつなぐんだよ!」
呆れる九条さんにぎゅっと手を握られた!
「ふえっ⁈」
「手つないでおかないと、
また、ほかの男にまとわりつかれるかもしれないだろ」
「で、でもっ!」
「彩梅のリード代わりだよ」
九条さんは平然としているけど、
ドキドキしすぎて心臓破れそうです……。
「どうした、彩梅?」
「な、なんでもないですっ」
「迷子になるなよ」
ふわりと笑う九条さんは、
いつもキラキラとまぶしくて
手の届かない『許嫁』。
そんな九条さんに、ドキドキしてばかりの毎日です。
はじまりは3か月前……。
駅の改札から自宅へと続く坂道を、全速力で駆け抜ける。
『私、家、出るから』
そのメッセージが届いたのはお昼休みのこと。
玄関のドアノブへ手をかけたところで、扉が内側から勢いよく開かれた。
「彩梅?」
「お姉ちゃん!」
良かった、間に合った!
はあ、はあ。
「家、出るって、どういうこと?」
息が切れて苦しくて、
膝に手をついたままお姉ちゃんに問いただす。
「ごめんね、彩梅。私、アメリカの研究所に行こうと思う」
「……え?」
「女が研究者になってどうすんだって、
ずっとあのバカ親父に反対されてきたけど、もう限界。
このままこの家にいたら、
私の魂まで、家柄に包まれてあの親父に売られちゃう。
私は家のために自分の人生を差し出すなんて、できない」
「で、でも」
「彩梅、あなたもあんな親父の言いなりになんてならないで、
自分で自分の人生を選びなさい。
じゃ、向こうについたら連絡するから」
「お姉ちゃん!」
スーツケースに手をかけて
お姉ちゃんを引き留める。
でも。
「落ち着いたら、彩梅も遊びにおいで」
私の手をほどくと、にっこりと笑って
お姉ちゃんは家を出て行ってしまった。
お父さんの家を揺るがすほどの怒鳴り声が響いたのは、
それから数時間後のこと。
「真桜はもう日本にいないんだから、仕方ないでしょう?」
音を立てずに階段を下りていくと、
お父さんをなだめるお母さんの声が聞こえてくる。
「会長の持ってきた縁談で、相手は九条家だぞ?」
「真桜は最初から納得してませんでした。
お見合い用の写真だって、
結局、撮らせてくれなかったでしょう?」
……お見合いってなんのことだろう?
お姉ちゃんのことが気になって
廊下の隅で身動きせずに息をひそめる。
高圧的で切れやすく、
頑固で短気の独裁者。
そんな気難しいお父さんに、ハラハラしていると。
「明日にでもアメリカに部下を送って、
真桜を日本に連れ戻す。
見合いは絶対に中止にはしないからな。
真桜が戻り次第、席を改めて設ける」
お見合い⁈
まさか、お姉ちゃん、
それが嫌でアメリカに……⁈
お姉ちゃんが、お見合いなんてするはずがないのに!!
「とにかくこの縁談は絶対に中止にはしないからな!!」
うめくように吐き捨てると、
お父さんはバンと扉を閉めて
ダイニングルームから出て行ってしまった。
お父さんが書斎にこもったのを確認すると、
静まり返ったダイニングにぴょこっと顔をだす。
「お父さん、大丈夫かな?」
「困ったわね、ほんとうに」
そう言って微笑むお母さんは、
全然困っているようには見えなくて。
もしかすると……
「お母さん、お姉ちゃんがアメリカに行くこと、知ってたの?」
「さあ、どうかしら」
肩をすくめて笑っているお母さんはきっと、確信犯だ。
「でも、どうして急にお見合いなんて?」
「今回のことは、
おじいちゃん同士が勝手に決めたことなの。
だからお父さんも可哀想なんだけどね。
ほら、お父さん、婿養子だし。
それに、怒ってるっていうよりはショックなのよ、
真桜が勝手にアメリカに行っちゃって」
くすくすと笑うお母さんに、
ちょっとだけ肩のちからが抜けた。
翌日、まだ陽が登りきらないうちに起こされた。
眠い目をこすりながら、
リビングルームに降りていくと、
無愛想な顔をしたお父さんに呼ばれた。
「今日だけ、ほんの小一時間だけ、真桜だ」
んん?
お父さん、なにを言ってるんだろう?
呪文のような、暗号のような
カタコトを口にするお父さんと
なにやら忙しそうなお母さん。
「お父さんね、昨日の夜に
何度もお断りとお詫びの連絡を入れたらしいんだけど、
おじいちゃんとも相手の九条さんとも、
連絡が取れなかったんですって」
「うん?」
「それで、ちょっと急だけど、
あなたが真桜としてお見合いに行くことになって」
……お見合い?
キョトンとしていると
にっこりと笑ったお母さんに
和室につれていかれてパジャマを剥ぎ取られた。
気がつけば、
お姉ちゃんが着るはずだった薄紅色の振袖に、
帯をぐるっと締められていて。
ええっ⁈
唖然としていると、
髪を結い上げられて、
うっすらとメイクが施されたところで車に乗せられた。
車のなかで目をぱちくりと瞬き。
「あら、素敵!
これなら彩梅もすぐお嫁にいけるんじゃない?
それに着物だと落ち着いて見えるから、
とても高校生には見えないわ!」
「で、でも、お母さん、
いきなりお見合いなんて、さすがに無理だよっ」
「座ってるだけでいいんだから、大丈夫よ」
お母さんはニコニコしているけれど、
お父さんは朝からとんでもなく機嫌が悪い。
「彩梅はまだ高校生だぞ……⁈」
「あなたが縁談で真桜を縛りつけようとするから、
こういうことになるのよ」
「だからって、どうして彩梅が……!」
お父さんはまだブツブツ言ってるけど
と、とにかく、黙って座ってればいいんだよね⁈
余計なことを言わなければいいんだよね⁈
料亭の前で車が止まったところで、大きく深呼吸。
勢いでここまで来ちゃったけど、さすがに緊張してきた!
家族で何度か食事に来たことのあるこの料亭には、
たしか立派な日本庭園があったはず。
時計を見ると、うん、約束の時間までまだ余裕がある!
「お母さん、ちょっと庭園を見てきてもいい?」
「あまり遠くにはいかないでね? すぐに戻ってね」
うなずいて返事をすると、
長い廊下を抜けて、庭園の入り口へ。
でも、こんなに素敵な振袖が着られるのなら、
お見合いも悪くないかも!
着物を着てしずしずと歩いていると、
少しおしとやかになったような気分になるし、
背筋がシャンと伸びるから不思議。
でも、朝ごはん食べないで来ちゃったから、
なんだかお腹が空いてきた……
そんなことを考えながら帯に片手を添えて、
重い扉を開ける。
眩しい光とともに、視界にとびこんできたのは美しい日本庭園。
白くうねる砂利道に沿って水仙が咲き乱れて、
濃い影をつくりだす樹木の奥には
趣のある東屋が姿をのぞかせている。
うん、気持ちがいい!
穏やかな春の庭園をぐるりと見まわして、
ぴたりと動きを止める。
小さな池にかかる太鼓橋。
そこに佇むその人を見つけた瞬間、
音が消えて風がやみ、
時間の流れが止まった気がした。
美しい景色に溶け込むような、すらりとした立ち姿。
どこか懐かしいその端正な顔立ちに、
ぎゅっと心がつかまれる。
じっとその人を見つめていると、ぱっと目が合った。
「彩梅、そろそろ時間だから、なかに入って」
お母さんの声に、ふわりと袖を翻し、母屋にもどった。