『仁葵。いい加減にしろって。こんなことしても、新造さまを余計に怒らせるだけだ。そんなのお前だってわかってるだろ?』
わかってるよ、そんなこと。
でも剣馬には言ってほしくなかった。
おじいちゃんの犬でも、私の幼なじみでもあるんだから、ちょっとくらい私の気持ちを考えてくれてもいいのに。
いつもいつも、事あるごとに新造さまは、新造さまがって、おじいちゃんのことばっかり優先して……。
『とにかく帰って、素直に謝れ。そのあとのことは――』
「絶対帰らないんだから! 剣馬のバカ!」
スマホに向かって叫んで、電源を落とした。
ひどい。どうして私がおじいちゃんに謝らなくちゃいけないの。
おじいちゃんが私に謝るならわかるけど、私が謝る理由なんてひとつもない。
「仁葵ちゃん、大丈夫?」
眠そうな狼くんに顔をのぞきこまれ、ぐっと唇を噛む。
何も考えずにあんなこと宣言しちゃって、どうしよう。
狼くんは家に置いてくれるって言うけど、長い期間厄介になるわけにはいかないし。
「もしかして、まだ迷ってる?」
「だって……こんな訳ありな私、迷惑にしかならないよ」
「迷惑なんかじゃないよ。それに……」
「それに?」
「毎日ルポに触り放題だよ」
そう言って、狼くんはルポを抱き上げる。
だらんと身体が伸びて、ちょっとお餅っぽいところも最高に可愛い。
ナウ? と首を傾げる仕草はあざといのひとことに尽きる。
そうか、こんなに可愛い猫ちゃんとの素敵ライフがここにはある……!
「狼くん! しばらくお世話になります!」
迷いを完全に振り切って、暗くなったスマホを握りしめ、ぺこりと頭を下げた。
その頭を、優しい手つきで撫でられる。
よくがんばりました、と言うように。
「はい、お世話します。よろしく仁葵ちゃん」
顔を上げると、完璧王子と言われる彼の、完璧すぎる笑顔があって、声が出ないほど驚いた。
なんとなくその笑顔が嬉しそうに見えたのは、私の願望だったのかな……。
ルポのナーウという鳴き声が「よかったね」と言っているように聞こえた。
*
爽やかな草原の香りがする。
水の底からゆっくりとのぼる泡のように意識が浮上した。
まぶたの向こうがうっすら明るいことがわかったけど、まだ眠たくて目を開けることができない。
でもいつもとはなんだかベッドの感じがちがう気がする。
ラベンダーのファブリックミストとは別の香りがするし、ぽかぽかあったかい。
それに少し体が重くて動きにくいような……。
「……んん?」
おかしいぞ、となんとかまぶたを持ち上げると、そこには完璧なまでに美しい、王子様の寝顔がどアップであった。
声にならない悲鳴を上げて離れようとしたけど、がっちり抱きこまれていて動けない。
体が重く感じたのはこのせいだったんだ。
どうしてクラスメイトの飛鳥井狼くんが私のベッドにいるの!?
寝起きのせいで混乱したけど、周りを見て、ここが自分の部屋じゃないことがわかって思い出した。
私、昨日家出してきたんだった。
ここは狼くんがひとり暮らしをする部屋で、私はしばらく居候することになった。
条件は、恋人のふりをすること。
お互い納得して決めたことだけど……
同じベッドで寝るなんて、聞いてない!
「ろ、狼くん、起きて」
ドキドキしながら狼くんの胸に手を当て、体を揺する。
でもぐっすり眠っている狼くんに起きる気配はない。
もう、気持ちよさそうに寝ちゃって。
どうして狼くんがここにいるんだろう。
確か、昨日寝るときに、どこで寝るかちょっとモメたんだよね。
ベッドがひとつしかなくて、客用布団もないから、どっちがベッドで寝るか。
私は居候の身だしソファーで寝ると言ったのに、初めて来た場所でソファーじゃ休まらないだろうからって、狼くんがきかなくて。
結局狼くんに押し切られて、私が狼くんのベッドで眠ったんだ。
男の子のベッドで、しかも男の子の服を借りて眠るなんて初めてのことで、最初はドキドキして寝付けないと思ってたんだけど、疲れていたのか気づいたら朝になっていた。
そしてこの状況。
狼くんのベッドは広いから狭くはないけど……朝から心臓に悪い。
「それにしても……はぁ。綺麗な寝顔」
うらやましいくらいまつ毛が長い。
肌も白くてつやつや、唇もうすピンクで花びらみたい。
色素の薄い髪が、カーテンの隙間から射しこむ朝陽に照らされ輝いている。
昨日まではあまり話したこともない、ただのクラスメイトだったのになあ。
いまこうして、同じベッドで横になっているなんて不思議だ。
しかも思い切り抱き枕にされているし。
狼くんのファンの子たちが見たら、悲鳴を上げて卒倒しそう。
そして私は呪い殺されてしまうかもしれない。
想像するとゾッとして、私は慌ててもう一度狼くんを起こしにかかる。
「ねぇ、狼くんてば。朝だよ、起きて」
「んー……」
「起きてってば。いま何時? お腹空いたよ。ねぇ狼くん」
「んん……あれ。仁葵ちゃん?」
半分ほどまぶたを持ち上げた狼くんが、私を見てパチパチとまばたきする。
まだ眠そう……というか、寝ぼけてる?
「おはよう、狼くん。朝だよ」
「仁葵ちゃんだー。なんでいるの?」
甘えたような声で言いながら、私をぎゅっと抱きしめ直す狼くん。
やっぱり寝ぼけてる!と、ドキドキしながら彼の胸を軽く叩いた。
「こっちのセリフだよ! 狼くんソファーで寝たんじゃなかったの?」
「ソファー……あ」
パチリと狼くんの少し垂れ気味の形の良い目が開く。
至近距離から私の顔をまじまじと見て「仁葵ちゃん?」と言った。
「なに?」
「……本物の仁葵ちゃん?」
「そうだけど、まだ寝ぼけてる?」
とりあえず放して?と言うと、狼くんはすんなり私を解放してくれた。
ふう。やっとまともに息が吸える。
でも狼くんの体温や筋肉のついた固い胸や腕の感触が残っていて、顔が熱い。
「ごめん仁葵ちゃん。夜中にトイレ行ったとき、寝ぼけてベッドきちゃったっぽい」
起き上がり、眠そうな顔のまま謝ってくれる狼くんに苦笑する。
寝ぼけてたんじゃしょうがないよね。
「ううん。やっぱりソファーじゃ、よく眠れなかったんじゃない? 今日は私がソファーで寝るから、狼くんはベッドでゆっくり寝て?」
「大丈夫。仁葵ちゃんがあったかくてよく眠れたのか、体はつらくないよ」
「そ、そう。私、体温高めだから……」
狼くんは逆に少し体温が低めなのか、手とか腕がひんやりしていて気持ち良かった。
そんな感想、恥ずかしくてとても言えないけど。
ふと、ベッドの端にルポが丸くなっているのが見えた。
えー! ルポもベッドに来てくれたんだ!
猫ちゃんと同じベッドで眠るって、なんて贅沢!
狼くんが寝ぼけてベッドに入ったから、ルポも一緒に来たんだろうけど嬉しかった。
「おはよう、ルポ~! 今日も最高に可愛いね!」
「仁葵ちゃんも最高に可愛いね」
「え? 何か言った?」
「いや。お腹すいてる? モーニング食べに行こうか」
「うん。もうぺこぺこ。狼くんはいつもどこで食べてるの?」
「俺は朝は食べたり食べなかったりだけど、食べるときは近くのカフェか、コーヒーショップのモーニングセット食べてるよ」
「いいね。じゃあ、家では食べないんだ?」
「俺、料理できないから。ハウスキーパーが来た次の日とかは、作り置きしてくれたものを食べたりもするけど、自分では作らないかな。テイクアウトしたものを家で食べることはたまにあるくらい」
聞いていて、ちょっとうらやましくなった。
ひとり暮らしって、朝食ひとつにも色んな選択肢があるんだなって。