執務室を飛び出したクロエは、城の上階にある物見台まで来ていた。見張りの衛兵が、何事かと遠巻きに彼女を見つめている。
乱れた呼吸を整えながら、クロエは眼下に広がる城下町を眺めていた。
無性に胸が苦しくて、その理由が自分の中でもはっきりしないことがもどかしかった。
コンラッドによって一気にかき回されたので、混乱はしているけれど、傷ついたのはコンラッドの言葉でではなかったように思う。
行き遅れといわれようが、別に構わなかった。その覚悟で、補佐官を引き受けたのだ。
小骨のように胸に刺さっているのは、どちらかといえばバイロンの言葉だ。
『だが、私は仕事に私情は挟まない』
正しい意見だと思う。
クロエが補佐官になってから、バイロンは男女の区別はするものの差別はしなかった。
力を使う仕事は男性に任せたが、狭いところから書類を捜すような仕事はむしろ率先してクロエにやらせた。
人前で発言する事に関しては、男女の別なく平等に仕事を割り振っていたように感じる。
この一年、バイロンはクロエにとって尊敬すべき主人だったし、それで満足していた。
だが、あの言葉には、バイロンがクロエを恋愛対象として見ることはないという意志がはっきりと表れている。
(どうだっていいはずじゃない。結婚はするつもりはないし、主人に変な恋愛感情持たれるよりずっと楽だわ)
そう思うのに胸が疼く。疼くことが悔しいし、辛い。バイロンを裏切っているような気分になる。
「……仕事に戻らなきゃ」
そろそろコンラッドも帰っただろう。あとは父親に、コンラッドからの求婚は受けないで欲しいと強く言っておかなければならない。
グリゼリン領になど行く気はないし、今の仕事を辞める気もない。