2年ぶりの日本。
久々に会った彼女は、相変わらず小動物のように愛らしく、驚いた顔も記憶のままだった。2年の月日が流れただなんて信じられない程だ。だがその事実が妙に癪に障った。
彼女にコーヒーを淹れてもらい、二人きりになったタイミングで、あくまで冷静に聞いてみるつもりだった。
だが、あまりにも彼女が俺に無頓着な様子なのが、気に食わなかった。開き直ってみせてもよかったのだ。久々に俺を見て、動揺してほしかった。
言い訳に過ぎないが、それで感情的に質問攻めにしてしまった。そして、気づいたときには彼女が崩れ落ちていた。意識を失ったようだった。
「楓?」
咄嗟に抱き止めたが、反応がない。
「……楓? ……楓?! ──かえでっ!!」
意識を失っている彼女を目の当たりにして、血の気が引いていく。
そこへノックもせず中川と高林が入ってきた。
「どうしたの?! ……っ!! 相沢さん!!」
そして、楓のかかりつけ医に連絡し、救急車で搬送することに。早朝だったこともあり、会社はそこまでの騒ぎにはならなかったが、噂は立つかもしれない。事情を知っているのか、秘書室にいた女性が救急隊が到着した際に上手く立ち回ってくれたようだった。
以前にもこうして倒れたことがあり、その時は大事には至らなかったようだ。
そして、俺は、彼女の秘密を知ることになる。
楓の処置が終わると、念の為一晩入院になると説明された。元々今日は帰国日で重要な業務はなかったので、秘書の中川を社に帰らせ、高林と待合スペースで病室が整うのを待つ。
「それにしても」
隣に腰かけた高林が、今日何度目かの俺を責める瞳を向けてくる。
「会いたかったのは分かるけど。朝イチで会社に来て、2年ぶりの再会早々、相沢さんを問い詰めて。何してるのよ、おぼっちゃま」
「……悪かった」
ふぅと溜め息をついた後、高林は楓の秘密を語り始めた。
2年前の夏の日。俺が海外支社勤務となり、日本を発つ日のこと。彼女は歩道橋から転落した。身寄りのない彼女は緊急連絡先がなく、財布の中の健康保険証から健康保険組合、そして本社に連絡が来て、高林が事故を知ったときは、俺は空の上だったそうだ。
そして彼女は3年前の夏から2年前の夏、つまり俺が日本で過ごしていた期間を忘れている……と。
「私が連絡してなかったのが悪かった。でも報せれば貴方飛んでくるでしょ。思い出そうとすると、こうして倒れちゃうの。この2年で2回。これで3回目ね」
「……そうか」
何故知らせなかったと責める前に、彼女が正しかったことを思い知る。その証拠にこうして帰国早々、彼女を倒れさせてしまった。
「仕事中は気を張るのか倒れたりしなかったわ。でも終業後にね。私は無理しないで休職することも勧めたけど、自分の覚えている居場所を失うみたいで怖かったみたい。極力休まないようにしてるみたいだったわ」
楓らしい、と思った。
可愛らしい見た目とは裏腹に、努力家で、自分に厳しい。そして寂しがり屋。それに退職しても彼女には、帰る実家はない。
「忘れているのは貴方が帰国していた1年間。ねぇ、あなたたち、何かあったの?」
「……分からない」
思わず自分の両手を握りしめた。
2年前のあの日、俺は彼女を待っていた。まだ若い彼女に、キャリアを捨てて着いてきてくれと頼むのは我儘かもしれないと悩みながらも、離れ離れになることは耐え難く、「空港で待っている」と告げた。
俺の元へ来たら、二度と離さないと告げるつもりで……。
「この2年、必死に頑張る彼女を見てきて、やっぱり幸せになってほしいって、思ったのよ」
「俺、何も知らずに……」
何も知らずに、この2年、心の中で彼女を責めてきた。振られたことが受け止めきれず、連絡も無く別れたことに腹を立てて。あの日空港に現れなかった楓に、連絡を取ることすら出来ないまま。
だが、彼女以外の女性には、興味すら湧かなかった。彼女を忘れられないまま、この2年を過ごした。
日本に戻ってきたのは、彼女に会うためだ。
2年も経過したのに、未練がましい自分と決別するために。彼氏がいても夫がいても、もう一度彼女に会いたかった。もし彼女が独身ならば、もう一度チャンスを与えてほしいと懇願するつもりだった。
しかしまさか、記憶がないとは……。
狼狽していく俺を横目に、高林はニヤリと笑う。
「ねぇ、専務。ちょっと提案があるのだけど?」
目を覚ますと、何度か見たことのある白の天井が目に入る。
普段と寝心地の異なるベット、その周りにカーテンが引かれ、腕には点滴の針。自宅ではないこの風景に、またやってしまったのだと、絶望感に苛まれた。
だが、ぼんやりとした頭では、何故ここに寝ているのかすぐに思い出せない。
ガタッとパイプ椅子が軋む音と同時に、均整な顔が覗き込む。
「気付いたか?」
(え……専務?)
何度か社報や情報誌のインタビュー記事でしか見たことのなかった、超絶イケメンがそこにいた。彼こそが我が「城ヶ崎ホテル&リゾート」の専務、城ヶ崎遼一。
(どうして専務がここにいるの?)
その疑問をぶつける暇もなく、焦った様子の専務がドアへと足を運ぶ。
「医者を呼んでくる……!」
ドアが閉まるなり私はパニックだ。ここは見慣れた私のかかりつけ医。今まで二度倒れたことがあり、いずれもここに搬送されたのだ。
恐らく今回も会社で倒れてしまったのだろう。どこで倒れたのか思い出せないが、偶然居合わせた専務が付き添ってくださったのかもしれない。
今日帰国したばかりのはずだ。どうしてこんなタイミングで私はまた倒れてしまったのか。
嗚呼なんとしたことか。お忙しい専務の時間を奪ってしまった。それどころか。
「あー、やだ、もう」
会社に勤め続けていれば、遅かれ早かれ就業中に倒れてしまう日が来るかもしれないと思っていた。でも辞めたくなくて、職場を失うのが怖くて、しがみついてきた。
しかし、もう無理だろう。専務に知られてしまったのだ。噂によれば、『氷の御曹司』なのだ。こんな疾患のある秘書など、役立たずであるばかりか、足手まといと思われ、解雇されるかもしれない。
思わず両手で顔を覆った。
「はぁぁ……どうしよう……」
「どうした? どこか痛むか?」
「ひゃ! せ、専務!」
いつの間にか戻ってきたらしい専務が、私の横たわるベッドに駆け寄る。心配そうな面持ちに見えるが、もしかしたらクビの宣告をいつ言い渡すか悩んでいらっしゃるのかも……。
「先生は今診察中らしいから、また後程来るそうだ。それまでは俺がいる。寝てろ」
「いえっ! そんなご迷惑をお掛けするわけにはっ!」
「いいから寝ておけ」
言葉は完結なのに、とても丁寧に布団を掛けなおしてくれる。この優しさは、可哀想な疾患持ちの独身女に対する情けでしょうか。
どうせならクビじゃなくて、どこか倒れても迷惑にならなさそうな部署へ異動、とかお願い出来ないかしら。
いや、どこで倒れても迷惑か。
「あ、あの……」
「なんだ?」
「私……クビでしょうか?」
一瞬、専務は目を見開いたが、次の瞬間には冷静な面持ちに戻っていた。
「……今までは就業中に倒れたことがないと聞いている。これは初回だ。しかも原因は俺。俺のせいで倒れたのに解雇なんてしない。……安心してくれ」
クビは免れたようでホッとした。だが、原因は専務? どういうこと?
「私、倒れた時の記憶があやふやで……」
「思い出さなくて良い。悪いのは俺だ。帰国早々、君に無理を言ったんだ。悪かった。気にしないでもらえたら、嬉しい」
それは、思い出せなくてもいいと、気を使ってくださってるのかな……。
「ありがとうございます」
「!」
私は、思わずほっとして微笑んだ。それを、驚いた眼差しで専務が見ていたことに、私は気づかなかった。
暫く後に、転落直後からお世話になっている主治医の和久井隆範先生がやってきた。和久井先生は心療内科の医師だ。私の記憶喪失は、外傷がきっかけであるものの心理的なものが要因ではないかと言われ、心療内科にかかっている。
「相沢さんこんにちは」
患者さんたちに大人気の和久井先生。30代位の若い先生だが、清潔な見た目で柔和な物腰、聞き上手で優しいので老若男女問わず予約でいっぱいだ。
「和久井先生。ご無沙汰しています」
「また倒れたんだってね。何か変わったことがあった?」
「あ、いえ……ええと……」
倒れた時のことを全く覚えていない、というか今朝からの記憶が曖昧だ。出社はきちんとした気がするので、やはり会社で気を失ったのだとは思うが、どのように説明したらよいかと思案する。
「私が彼女の記憶にないことを吹き込み混乱したようでした。倒れた前後のことは記憶にないようです」
突然専務が口を挟んだので、私も和久井先生も驚いた。
「あ、えっと、こちら会社の上司です」
「主治医の和久井です。……ご事情は分かりました。もうバイタルも安定しているし、何かあれば常備薬を飲んでもらうということで、今日は念の為入院。明日には退院出来ると思います。不安だったらいつでも受診してね、相沢さん」
「いつもありがとうございます」
和久井先生はまた来ると言って出ていったが、専務はベッドの横に立ったままだ。しかもなんだか険しい顔をしている。
「……あの先生とは顔見知りなのか」
「はい。以前から診察していただいています」
心療内科に以前から通っていることが判明してしまった。今度こそクビにしようかと悩んでいらっしゃるのかしら。そう思って身構えていたが、返ってきたのは全く予想外の質問だった。
「……好きなのか?」
「へっ!?」
「特別な関係なのか?」
「れっ、恋愛どころじゃなかったので……。そういった特別な方はいませんが……」
「そうか」
結婚でもして退職してくれっていうことかしら?病気が判明したから解雇、というのは確かに難しいのかも。
どうしよう、辞めたくない。どうして私は倒れたりしたのか。そういえばさっき専務が何か私の記憶にないことを言ったと仰ったような。
「あの、先程先生に仰っていたことなんですが、私が倒れる前に……」
「いや、あれは忘れてくれ。もう過去のことはいい」
「でも……」
どうして私が倒れてしまったのか知りたかったのに、それは教えてもらえそうもない。
このままじゃ解雇になる……?! どうしたら……。
心の中でパニックになっていると、専務がベッド横のパイプ椅子に座った。思わず専務の顔を見ると、超絶イケメンが極上の微笑みをこちらに向けていた。
「っ!」
「何も心配しなくていい。数日秘書なしでも高林ならこなせるだろう。大丈夫だ。会社での君の居場所も守る。解雇などしないから、安心して寝ろ」
「あ、ありがとうございます……」
どこまでご存知なのだろう。私が会社しか居場所がないことも、記憶喪失のことも、全て知っているかのような。でもその微笑みに安心して、私はゆっくりと目を閉じた。
「秘書交代、ですか?!」
結局5日間も休暇を取るよう命じられ、私は翌週になって復帰した。そこでいきなり、秘書交代を言い渡されてしまったのだ。絶望する私とは対照的に、高林部長はルンルンした表情で今にもスキップしそうだ。
「そう! 久々にダーリンに会ったら、離れたくない! っていう気持ちになってしまったの!」
高林部長は、夫である中川課長をうっとりと見つめながらそう言った。そしてそんな可愛らしい高林部長の様子に目を細めつつ「私も同じ気持ちです」と中川課長が返す。
高林部長は旧姓のまま仕事を続けているが、二人が仲の良いご夫婦であることは社内でも有名だ。
中川課長は専務の秘書。よってこの2年間は海外勤務だった。その為、暫く別居婚状態だったお二人。それでもラブラブなのは羨ましい限りだ。
「公私混同だけど、社長にもお許しを頂けたし、今後私の秘書はダーリンにお願いすることにしました! つまり相沢さんは……」
「クビでしょうか」
そうなったとしたら、絶望だ。生きる希望が無くなる。帰る実家もない私にとって、ここが唯一の居場所だったのに。これからどうやって生きていけば……。
「……バカね。そんな訳ないでしょ」
無意識に握りしめていた手を、高林部長が両手で包み込む。そして優しい眼差しで「クビになんて間違ってもしないわよ」と言ってくれた。
「相沢さんは有能な秘書よ。長年一緒に仕事してきて実感してるわ。優秀な人材を解雇できるような馬鹿な上司ではないつもりよ。だから安心して」
私の手を包み込みながら優しく撫でる。そして普段のキリッとした部長からは考えられないような可愛らしい表情でこう続けた。
「でも今は、ダーリンと片時も離れたくない気持ちが強くて。仕事が大変でも、夫と居れば乗り越えていけるって」
旦那様の勤務地が海の向こうになってしまって、本当は高林部長が寂しい思いをしていることは知っていた。だから、その願いを社長が受け入れているのならば、私は高林部長の秘書を降りなければならない。
だが、プライドを持って取り組んでいた仕事だから、たとえ中川課長であっても、その座を譲るのは少し残念だ。
シュンとする私をよそに、高林部長はまたもやルンルンしながら、発表した。
「そこで! 相沢さんには、城ヶ崎専務の秘書になってもらいます!」
「はい、承知いたしま……ええ?!」
予想外の異動に目が点になる。
「私と貴女の担当を交換するということです。引き継ぎが終了次第、専務の秘書になってもらいます。こちらが引き継ぎ資料です」
と、中川課長が繰り返す。つまり、中川課長と私の担当役員を交換する形となるということで……。
(えええええ)
私は混乱しつつも受け入れるしかなかった。
秘書室戻り頭を抱える。引き継ぎ資料にざっと目を通したが、明日からでも対応出来そうなほど完璧な仕上がりで慄いた。流石は中川秘書課長!
思い出すのは倒れた日のことだ。結局何故専務が病室にいたのかわからないまま。ただでさえ、専務に疾患があることがバレて、いつクビになるかヒヤヒヤしているのに。担当秘書だなんて!
「久しぶりに出勤してきたと思ったら何悩んでるのよ」
その声にはっと顔をあげると、麻紀がコーヒーを持ってきてくれていた。一つを私の机上に置くと、私の横の席に座り優雅に自分のコーヒーを飲み始めた。どうやら私の話を聞いてくれるつもりのようだ。
幸い他の秘書課の皆さんが離席しているので、秘書室は私達だけ。突然の辞令に混乱していた私は、麻紀に相談したのだった。
***
「ふ~ん」
「ふ~んじゃないよ、麻紀! 私会社をクビになる大ピンチなのよ?」
麻紀は私が倒れてからの一連の流れを聞いても、そう驚かなかった。
「大丈夫じゃない? 一度専務からクビにはしないって言ってもらったんでしょ? だったら男に二言はないわよ~。っていうかそれより」
「それより?」
「他の女子社員に刺されないように注意しないとね~。専務が帰国してみんな化粧に気合入りまくってるし。いきなり女子社員が秘書に抜擢されたって聞いたら、妬まれちゃうかも!」
「ひぇ……」
確かに化粧室でも食堂でも、話題は専務のことばかり。私に微笑んでくれた! とか、うちの部署に差し入れが! とか、皆さんが楽しそうなのは耳に入ってきていた。
「まぁ専務がきっと守ってくださるでしょ! 楓が倒れた日も、楓指名でコーヒー頼んでたし、楓のことが……好みなのかも!」
「なっ! そんなわけないでしょ! もう面白がらないで! こっちは真剣に相談してるのに」
「ふふっ。まぁ私の勘だけど、大丈夫よ。もし万が一解雇されたら、うちの旅館で雇ってあげる」
「麻紀~」
麻紀がどこまでも自信満々に「大丈夫」と言うので、私はいつのまにか専務の秘書になることに腹を括っていたのだった。
「本日より専務の秘書を務めます、相沢楓です。よろしくお願いいたします」
中川課長の引継ぎは完璧で、あっという間に専務の秘書となる日を迎えてしまった。
今日は朝から専務の執務室でご挨拶だ。まともに話すのは倒れた時の病室以来で緊張する。
「あぁ。病み上がりに突然の異動ですまない。君の負担が少しでも減るよう気を付けるが、体調が優れない場合は速やかに報告してくれ」
「は、はい」
どうやら専務が私をクビにしないのは本当のようだ。それどころか、私の体調まで気にかけてくださった。少し冷たい印象だったけれど、本当は優しい方なのかも。
「じゃあこれ」
専務が胸ポケットから出したのは、カードキーだった。引継ぎの際には聞いていない。分からないが差し出されているのでとりあえず受け取る。
「専務、あの、これは……」
「俺の家のカードキー。俺、人に起こされないと起きないから。朝これで入って起こしてくれ」
「は、はい……?」
中川課長~! 目覚まし係もするだなんて聞いてませんよ! と心中で叫びつつ、笑顔でカードキーを手帳のポケットにしまう。人に見られないようにしないと!
その後は、専務の『氷の御曹司』ぶりに慄いていた。ホテル事業部から出てきた企画書は一刀両断、お客様のクレームに対する叱責と改善策の即実行、新規リゾート計画は地域住民の理解が得られているのか事細かに確認し、見通しが甘いと指摘。更に詳細で念密な計画を立てるよう指示していた。
殆どweb会議だが、画面上の担当者達は手に汗握る会議だろう。ただ、専務の意見は、側から見ても至極真っ当で、説得力のある企画はきちんと通していた。改善策も専務から提示されることもあるし、冷たい印象が強いけれどやはり優しい方なのだと感じた。
***
翌朝。早速事前に調べた専務の自宅に向かう。2月に入り本格的に寒さが増したこの時期、早朝はまだ太陽が登らず、薄暗くて寒い。
専務の自宅は、駅前のタワーマンションの最上階だ。もちろんコンシュルジュも常駐していて、目覚まし係でもなんでもしてくれるんじゃないかとも思ったが、考えないことにした。
エレベーターを降り、目の前に現れた重厚感のある玄関にカードキーをかざすと、ドアが開錠される。高級感溢れるものばかりで、触るのも緊張してしまう。
だが、ドアの解錠の仕方も、ドアを開けた先の室内の景色も、何故か見覚えがある気がした。
「お、お邪魔します……」
靴を脱ぎ、寝室を探す。なんとなく開けたドアが寝室だった。大きなキングサイズのベッドに、ぐっすりと寝ている専務を発見。これは全女子社員に恨まれても仕方がない気がしてきた。
眠っていても溢れ出る色気。長い睫毛と閉じた唇がセクシーで、朝日を浴びて輝いている! 寝ていても完璧なんてズルい。
「専務、おはようございます……」
触るのもなんだか気が引けて、なんとなく小さな声で話しかける。だが、少し顔をしかめただけで、専務が起きる気配がない。確かに目覚ましで自力で起きれない人が声をかけただけじゃ起きないか……。
恐る恐る先程よりは大きめの声量で、声を掛けてみる。
「せ、専務? あ、朝ですよー!」
「……かえで……」
「えっ」
(私の、名前?)
何故専務が私の下の名前を呼ぶのか。別人で同名の知り合いでもいるのだろうか。そんな思案をしていると、急に頭痛が襲ってきた。すると、頭の中に映像が浮かぶ。
今と同じ部屋で、誰かが眠っている。そこに私の声が響く。
『もう~起きてください! 朝ですよ!』
『──さん、朝ごはん作りましたよ』
『起きてくださーい! もう! 本当起きないんだから』
(なに……これ……)
「うぅっ! ……っ!!」
激しい頭痛と流れてくる映像に戸惑い、思わずその場に崩れ落ちた。頭の中の映像は続いていて、ベッドで眠っていた誰かが私の声で目を覚ました。もぞもぞと起き上がるとその顔がはっきり見えて驚く。──どういうこと?
『もう、遼一さんってば!』
『んん……おはよ、楓……』
(なんで専務が……?)
頭を押さえて座り込む私の背中を、いつの間に起きたのか専務が「大丈夫か?!」と摩ってくれていた。本物の専務を見て、少しずつ頭痛が落ち着いていく。
「……大丈夫です……」
「大丈夫じゃなさそうだ。すまない。また無理をさせただろうか」
「……いえ……」
さっき頭の中に流れた映像では、専務のことを名前で呼んでいた。あれは、記憶、なんだろうか。
私、もしかして、この部屋に来たことがあるの?
「何か、思い出したのか?」
「……あ、あの……」
「楓?」
甘い、とっても甘い声だった。
私の名前を呼ぶ専務。そんな顔、初めて見たはずなのに、ずっと会いたかったような、懐かしいような、胸の奥がぎゅっとして苦しくなる。
「楓がここに来るのは、初めてじゃない」
「え……」
じゃあやっぱり、あの記憶は……。
いやいや、ありえない。私と専務は10歳も年の差があるし、御曹司と平社員だし、まさか。
「お前に会うために日本に戻ったと言ったら、迷惑だろうか。」
「……え?」
「……すまない。困らせるつもりはないんだ。楓は2年も大変な思いをしていて、俺は何も知らずに何の力にもなれなかった」
背中を支えてくれていた専務は、いつの間にかそのまま私を抱き締めていた。さっきまで眠っていたせいか、ちょっと高い体温。それを心地良く感じる自分に驚く。
「だから、これからはお前の側にいたい」
「せ、専務……」
「ずっと好きだった。忘れたことはない。いつか、楓が俺の気持ちに応えてくれたら、それほど嬉しいことはない。だから」
少しだけ腕を緩めて、私の顔を覗き込むその顔は、とても真剣で。
「俺のことを、見てほしい」
『相沢、好きだ』
『俺のことを、見てほしい』
「遼一さん……」
頭の中に流れ込んできた記憶を辿ると、自然と口から専務の名前が出ていた。
「か、楓?!」
「違うんですっ! そう呼んでいた気がして……すみません……よく、思い出せなくて……」
「そうか……いや、無理しなくていい。思い出せなくても、いい。これから少しずつ、俺のことを見てほしい」
専務は少し残念そうにしながら、私にはリビングのソファで休むよう指示し、出社の準備を整えにいった。言われるがままソファに座り、思考を巡らせる。
(私はここに来たことがあって、専務とは下の名前で呼び合う仲だったということ?)
それは、つまり……。
10歳も年下の私。見た目も何もかも不釣り合いな私が、専務と? 信じられない。
──でも、『ずっと好きだった』と言う、専務の甘い顔が、頭から離れなかった。