春風が吹く。
桜の木がざわりと
その枝を大きく揺らした。
『涼!』
声に反応して振り返ると、
そこにいるのはいとおしい君だ。
色素の薄いふわふわとした髪に
りんごのように色付く頬。
あぁ、やっと会えた。
『咲菜。』
手を伸ばす。
もう少しで君に触れられるんだと思うと
あり得ないくらいに胸が高鳴った。
誰よりも、大好きだった。
いや、今でも...
僕は、僕を知らない君を
ただ一途に愛し続けている。
「おはようございます、涼くん。」
声をかけられて振り返ると
そこにいたのは咲菜だ。
顔の筋肉がひきつる。
どれだけ自分に言い聞かせても
この呼ばれ方はなかなか慣れない。
「おはよう、咲菜。」
片手をあげて応じる。
まるで、昔からずっと僕らは
こんな挨拶をしてきたのだ、
とでも言うように。
俺が反応すると咲菜は
嬉しそうにこちらにやってくる。
ふわふわとした髪が風になびき
太陽の光を受けてきらきらと光っている。
その光景に見とれつつ、
密かに深いため息を吐いた。
今日も、ダメだったのか。
朝こうしてため息をつくのが
習慣になったのはいつ頃だろうか。
「今日は部活がある日ですね!
部活動は好きなのでとても楽しみです。」
「咲菜は部活、ほんとに好きだよな。」
中学1年の時、中高一貫の
この学校で6年間所属することになる
部活を咲菜と同じが良いからという
理由で決めてしまったことを思い出す。
高1になっても、関係が変わっても
僕たちは同じ部活に所属し続けていた。
僕たちが所属しているのは
部員が5人の超弱小美術部で、
今は僕が部長をしている。
「涼くんは部活が好きではないのですか?」
尋ねられて歩いていた足が止まる。
なんて答えるべきなのだろうか。
迷った末に僕は小さく笑った。
「別に嫌いな訳じゃないよ。
だけど、今は美術室に入れない。」
もう2度と、あそこには行きたくない。
君のかつての面影が色濃く残る
あの部屋にだけは"あの日"から
1年がほどたった今も
足を踏み入れることが躊躇われた。
「...そうですか。来られる時になったら
是非いらっしゃってくださいね。
涼くん、うちの部の部長ですから。」
ふわりと微笑んだ咲菜の表情に
ドキリと胸が弾む、はずだった。
今の僕は、何も感じない。
僕の目の前にいるのは、かつて僕が
恋をしていた咲菜じゃないのだから。
あの頃の咲菜には、
きっともう2度と会えないのだ。
そう思うと、胸の高鳴りより先に
ズキリと胸が痛んだ。
もし僕に、時を操る能力があったなら。
記憶を失くす前の、君に会いたい。
僕と咲菜は幼稚園から
高校まで同じ学校に通っていて、
家も近いいわゆる幼馴染みだ。
そして、互いに想いを寄せあっていた。
実際、あの事件以前の僕らは
付き合ってこそいないものの
周りからもお似合いカップル、
なんて言われてからかわれることも
しばしばあったくらいだ。
僕は咲菜が好きだった。
気付いたときには彼女のことを
友人としてではなく女として
見てしまっている自分がいた。
咲菜は優しくて、他人想い、
そして責任感が人一倍強くて。
その美しい性格に惹かれたのだ。
僕らは幼馴染みとして長年ずっと
一緒にやってきたし、これからも
こんな時間が続くのだろうと思っていた。
だが、現実は酷なもの。
神様は僕に最悪の地獄を見せた。
咲菜の父親が、僕の母親を殺したのだ。
初めは、信じられなかった。
ひと月ほど時が過ぎて段々と
冷静さを取り戻した頃に僕はそれを
自分の父親から知らされた。
僕の母親は咲菜の父親と不倫していた。
そして咲菜の父親が狂おしいほど
僕の母親を好きになり、挙げ句の果てに
自分のものにしようと考えたのだ。
思春期の僕にとってそれはとてつもなく
大きなショックで、1年近く
家から1歩も出られなくなった。
そんなとき、咲菜の母親が
我が家を訪ねてきたのだ。
親子で身構えたが、彼女が語ったのは
予想と全く違う話だった。
咲菜が記憶を失くした、と。
咲菜はあの日にショックで熱を出し、
病院に運ばれたのだ。
生死の淵をさまよっていたが
今は安定しているそうでほっと
胸を撫で下ろしたが、
記憶を失くすという言葉の意味を
僕は思いの外甘く見ていたようだった。