「気になること、ですか?」
「この学校で、青年期失顔症の生徒が去年あたりから増えているのよ」
予想外の話に、大きく目を見開く。
私以外にも、何人か青年期失顔症の人がいる。誰だろうと思考を巡らせてしまい、すぐにやめた。私が知られたくないように相手だって知られたくはないだろう。
「それって世の中的に増加傾向にあるとかではないんですか?」
「そう思って調べたけれど、そういう情報はどこにもなかったわ」
叶ちゃんの話によると、この学校の過去の資料を見て人数を照らし合わせた結果、平均人数よりも相談件数は倍くらい多いらしい。
「……この学内でだけ、増えているってことですよね」
「受験とか関係してんじゃねぇの。精神的に不安定になるやつだっているだろ」
朝比奈くんがガリッと音を立てて飴玉を噛み砕く。
夏休み前のこの時期なら志望校などで悩む人が多いだろうと指摘した朝比奈くんに、叶ちゃん先生は難しい顔をして、腕を組む。
「それが、三年生も増えているけど、他の学年も発症しているの」
つまり私のように受験生ではない生徒が例年よりも多く発症しているということのようだ。
「正確には発症する生徒が〝多い〟のか、相談する生徒が〝増えた〟のかはわからないのだけど……」
「……どういうことですか?」
「発症した生徒がみんな学校に報告するわけではないでしょう。だから、正確な人数というのは毎回把握できないの。あくまでも自己申告だから」
思えば私も最初は学校側に報告する気はなかった。朝比奈くんに知られて、そこから叶ちゃん先生が従姉であることや、部活を早退した日の出来事があったため、こうして報告という形になっただけだ。
「実際に青年期失顔症になっても学校に報告をする生徒は少ないのよ。やっぱりみんな、周りに知られることを恐れているんでしょうね」
「私の場合は、叶ちゃん先生だったからよかったけど、桑野先生とかに知られたら部活のみんなに伝わっちゃいそうで怖いな……」
改めて桑野先生には知られなくて良かったと胸を撫で下ろす。
「……青年期失顔症に対する周囲の印象の問題は根深いわね」
「自分が発症したり、身近にそれで悩んでるやつがいなかったら、そんなもんなんじゃねぇの」
青年期失顔症になる前までは、私はどこか他人事のように思っていて、なった人に対しては〝かわいそう〟〝自分がない〟〝心が弱い〟そんな風に思ってしまっていた。
それは周囲の共通認識のようなもので、発症してしまった人は肩身が狭かったと思う。
私だって桑野先生に話す気にはなれない。桑野先生は明るくて熱血で、私たち生徒を引っ張ってくれるけれど、あまりデリカシーはない。
部活でも生理で具合が悪く、休みたいという子がいると、生理で部活を休むということが理解できないといった様子だった。さすがに先輩たちが先生に対して抗議したため、その子は見学といった形で落ち着いた。けれど、彼女は居た堪れないといった様子で体育館の隅っこに体育座りをしていて、先生は熱がないのだからといって家に帰ることを許可しなかった。
そんなことがあったため、私がもしも桑野先生に事情を話したとしても、休部は許可されず、心の弱さを指摘されて部活に出るようにと言われただろう。あの桑野先生が青年期失顔症に理解があるようには思えない。
「私たち養護教諭は生徒が望まないのであれば、ご両親にも他の先生にも報告はしないわ。だけどそのことを理解している生徒は少ないの」
一応入学のときに説明書は配っているけれどねと困ったように眉を下げる。私も入学当初に貰ったのだろうけれど、覚えていない。そのときは自分が発症するとは夢にも思っていなかったため、気にもとめていなかったのだろう。
「それなのに去年くらいから報告が多いんだろ。じゃあ、前になった生徒が教えてやってんじゃねぇの?」
「……それならいいんだけど」
なにかが引っかかっているように見える。叶ちゃん先生は、きっと自分の中では確信とは言い切れないことがあるのかもしれない。けれど生徒である私たちに話すわけにはいかない内容……だとしたら一体なんだろう。
「変な話をしてしまってごめんなさいね」
養護教諭という仕事は、生徒たちの相談所であり、体調面だけでなく精神面もケアしなければいけない。でも、叶ちゃん先生の心は誰がケアするのだろう。大人だから、私たちにみたいにすぐに不安定になることはないのかもしれないけれど、少し気になってしまう。
そんなことを考えていると、保健室のドアが勢いよく開けられた。
「叶ちゃん先生! 大変! 中条さんがまた倒れた!」
すぐに立ち上がった叶ちゃん先生は、朝比奈くんに視線を移すと一緒にきてほしいと頼んだ。
どうやら倒れた生徒をここまで運ぶらしい。それにしても、また倒れたということは、なにか持病がある生徒なのだろうか。
少しして朝比奈くんが背負ってきたのは、ゆるやかなウェーブがかかった黒髪をふたつに結いている女子生徒だった。
見たことのない子だと思って視線を下げると、上履きの色が赤だった。ということは、一年生だ。
朝比奈くんがベッドに彼女を寝かせると、肩を押さえてため息を吐く。
「はぁ……懲りねぇな、コイツ」
その口ぶりから彼女とは知り合いのようだった。一方、ベッドの上にいる彼女は眠っている。よく見ると、隈ができていて顔色も悪い。
「また寝不足みたいね」
後から保健室へ戻ってきた先生は、倒れた彼女のものらしきカバンと分厚い本を三冊抱えていた。それをテーブルの上に置くと、どうしたものかといった様子で眠っている彼女を見やる。
「何度も倒れているんですか?」
「ええ……読書中毒、というのかしら。寝る間も惜しんで本を読んでいるみたいで、最近寝不足で倒れることが多いのよ」
そこまでしてまで読みたい本があるのだろうか。シリーズものでも読んでいるのかと思ったけれど、本のタイトルを見る限りそれぞれジャンルが異なっている。
「ん……っ」
薄らと目を開けてぼんやりと天井を眺めていた女子が起き上がり、あくびを漏らす。
「また私、倒れました?」
眠たげな目を擦る彼女に、叶ちゃん先生は深いため息を漏らす。
「中条さん、睡眠時間はしっかりとりなさいと、あれほど注意したでしょう。毎回打撲で済んでいるからいいものの、大怪我したらどうするの」
「だってどうしても、自分を探したくて」
自分を、探す?
もしかしてとある予感がしたときだった。眠たそうな目で私を映し、人懐っこい笑みで話しかけくる。
「いつもはいない人ですね」
「えっ、あ……二年の間宮朝葉です」
「こんにちは! 私は一年の中条月加です」
中条さんは明るい口調で話しながら、ベッドの上で足をばたつかせる。無邪気な印象の子で、先ほど倒れたようには思えないほど元気そうだった。
「中条さん。本を読むのは、少し控えた方がいいんじゃないかしら」
「だって本読んでいると楽しいですし、自分探ししたいじゃないですか」
私から見れば、自分を持っているように見える。周りに合わせるタイプというよりも、ムードメーカーなタイプだ。
「あ、間宮先輩。私、青年期失顔症なんですよ」
「っえ!?」
「発症したのは六月の頭なんですけど、ひと月経っても治らなくって」
自分を探すという発言に、もしかしてと思った。けれど、彼女と話していると自分と同じには見えなくて、勘違いだと思っていた。それに隠さずに話す中条さんに驚きを隠せない。こんなにも平然と発症していると話せる人をはじめて見た。
「そう、なんだ……」
「あれ? すんなり信じてくれるんですね! 私、本を読んで、なりたい自分を模索中なんですよー!」
呆然としている私に、中条さんが白い歯を見せて笑いかけてくる。自分を見失い発症してしまう人にも色々なタイプがいるようだ。
「睡眠時間削ってまで読むな。運ぶこっちの迷惑も考えろよ」
「朝比奈先輩、本当毎回ごめんなさい!」
「次はねぇからな」
朝比奈くんは、なんだかんだ面倒見がいい。私の件も含めて、青年期失顔症の人を放っておけないのかもしれない。
「先生も、いつもごめんなさい!」
「今日はちゃんと寝るのよ?」
「はぁい」
明るくてよく笑う中条さんを見ていると、青年期失顔症が嘘のように思えてしまうけれど、根本的なところが見えていなかった。そもそも倒れるくらい本を読んで自分を見つけようとしていたということは、それほど中条さんは追い込まれている?
……表面だけを見ていても、なにを抱えているかはわからない。私自身だってそれは同じだ。平気なフリをして笑顔を浮かべていたのに、本当はずっと苦しかった。
人の苦しさなんて、他人が簡単に推し量ることなんてできない。
中条さんはまた倒れたら危険なため、少し保健室へ休んでから帰ることになった。眠りの妨げになってしまわないようにと、私と朝比奈くんは保健室を出る。
廊下を歩きながら下駄箱へと向かっていると、朝比奈くんがポケットの中から自転車の鍵らしきものを取り出した。キーホルダーの銀色の輪っかの部分に人差し指をいれて、くるくると回す。
「間宮、今日もバス?」
「うん。朝比奈くんは自転車?」
「おー……また共犯にでもなるか?」
こちらの顔色をうかがいながらの悪い誘いに、噴き出してしまう。以前の私なら躊躇っていたかもしれない。だけど今日はすぐに返事をした。
「共犯になろっかな」
「真面目そうに見えるやつの方が、実は悪いことにすぐ染まるよな」
「だって、一度やったら、次はまあいっかってなるっていうか……」
「それ、完全に悪い思考だぞ」
朝比奈くんに言われたくないと横目で睨むと、今度は朝比奈くんが笑った。案外笑顔はかわいい。切れ長の目は、少し冷たい印象を与えるけれど、笑うと愛嬌がある。
普段からこうして笑っていたら、近寄り難く思われないかもしれない。
「なあ……さっきの話、どう思った」
「さっきの?」
「青年期失顔症の生徒が増えてるって話」
例年よりも増えていることに関してだけではなく、叶ちゃん先生の様子も私は気になった。昔から知っている朝比奈くんもおそらくは気になったのだろう。
「発症したことを話すって、結構勇気がいると思うんだよね」
「……それなのに、増えてんだよな」
親や教師に報告なんて、ほとんどの生徒がしたくないのではと思っていた。けれど、中条さんのように初めて話した相手に、発症のことを話せる子だっている。そうなるとますますわからなくなってくる。本当にただ発症者が増えたというだけなのだろうか。
「……故意に起こしてるやつがいる、とかな」
私も一瞬頭を過ったひとつの可能性だった。
「でも、そんなことできるのかな」
「言葉巧みに人を動かすことが得意なやつならできるんじゃねぇの」
故意に起こしたとして、その人の得るメリットが思い浮かばない。それに人を動かすことが得意だなんて、生徒ができるのだろうか。……ひょっとして先生?
でもあの桑野先生が故意にというのは考え難い。
「考えても疑心暗鬼になるだけだね」
「だな。……でも、頭に入れておいた方がいいかもしれねぇな」
そう言った朝比奈くんの横顔が陰っているように見えた。
その日の夜、再び朝比奈くんにメッセージを送った。
『朝比奈くんへ。好きなもの、マスカット味の飴』
『だから俺はメモ帳じゃねぇ』
速攻返信がきたため、気持ちがはやる。寝転がっていた体を起こして、指先で液晶画面をタップした。
『あと、朝比奈くんは面倒見がいいことを知りました』
『意味がわかんねーんですが』
『ありがとう』
『はいはい』
素っ気ない返答にショックは受けず、むしろ彼らしくて笑ってしまう。本当に冷たい人なら、返事なんてしてくれずに既読無視するはずだ。それなのに朝比奈くんは律儀に返事をくれる。
『で、調子はどうなんだよ』
『今日はあまり精神的に不安定にはならなかったかも』
『やっぱ部活が原因なんじゃねぇの』
『そうだと思う』
青年期失顔症になった大きな原因は部活にあるはずだ。人間関係や自分の立ち位置。だけど結局は、相談できる相手がいなかったことも原因のひとつだ。
『部活、辞めれば』
『今はまだ考えてる』
『嫌なら辞めればいいじゃん。無理して続けてなんの意味があるんだよ』
『でも辞めたらいろんな人に迷惑もかかる』
『休部してる時点で同じだろ』
気持ちとしては部活を辞めてしまいたい。けれどお母さんがそのことを知ったらどう思うのだろう。それに部活を辞めてしまったら、バスケ部はどうなるのだろうか。二年生と、先輩たちや桑野先生との間に立っていて、いろんな雑務をしてきた。それを誰が代わりにするのか思い浮かばない。
『間宮さ、周りの目気にしすぎ』
『そうかな』
『人は思ってるよりも、他人のこと見てねぇよ。みんな自分のことで手一杯だし』
朝比奈くんの言う通りかもしれない。みんな私のことをそこまで気にしていないから、忘れ去られたかのように今日はバスケ部のみんなが教室へ遊びにこなかったのだろうか。いなくなってもすぐに慣れて、いつかそこ場に私がいた過去さえも消えてしまう。
また仄暗い感情が心を蝕む。飲まれてはいけない。そう思うのに、考えだすとなかなか止まれない。
通知音が聞こえて、携帯電話に視線を落とすと、朝比奈くんの言葉が画面に浮かび上がる。
『中条と話してみたら』
意外な言葉に、私はなにも返せなかった。同じ青年期失顔症とはいえ、自分とは違ったタイプの子。それでも中条さんと話してみたら、新たな発見があるだろうか。
話をするのなら、私も中条さんに打ち明けるべきか悩む。
あまり多くの人に知られたくないけれど、中条さんの話も聞いてみたい。
そんなことを考えていると、だんだんとまぶたが重くなり、私はいつのまにか眠りについてしまった。
*
「朝葉、起きろ」
勢いよくカーテンが開かれて、部屋に降り注ぐ日差しの眩しさに顔を顰める。
「遅刻しても知らないからな」
「ん……お兄ちゃん?」
私を起こしに来たのは、珍しく寝坊しがちな四つ年上の兄だった。今日は家を出るのが早い日なのか、部屋着からきちんと着替えている。
「おーい、早く起きろって」
ベッドの横に立ち、呆れたように私の掛け布団を剥ぐ。まだ頭は冴えないけれど、上半身を起こして、大きなあくびを漏らす。
電気をつけたまま寝落ちしてしまったからか、疲れが完全に取れていない気がする。
「高校になってもバスケ続けてんだっけ? バイトとかしないのか?」
「バイトはしたいけど、でも部活の休みあまりないから」
休部していることはお兄ちゃんにも話していない。話したら両親に伝わってしまいそうなのと、お兄ちゃんはそこまで私に関心がないように思うので、打ち明けられても困らせるだけだ。
「高校の部活ってそんなハードだっけ」
「うちの高校のバスケ部は練習量多いんだよね」
平日の休みは一日だけで、それでも時折ミーティングが入る。土日もほぼ練習三昧だ。部活を続けていたらバイトをするのは難しいだろう。
「朝葉が好きで続けてんならいいけどさ」
「え?」
「母さんの言いなりになってるだけなら、好きなこと選んでした方がいいんじゃない」
お母さんとお兄ちゃんは昔から折り合いが悪い。人に決められることを嫌がるお兄ちゃんは、お母さんが勧めた偏差値が高い高校ではなく、偏差値の低くても自由が校風の高校に進んだ。高校生の頃は、特にふたりの衝突が絶えなかった。
「朝葉がバスケ始めたのって、母さんが進めたからだろ」
「それは、そうだけど」
元々バスケ自体は嫌いじゃなかったけれど、バスケ部に入ったのはお母さんにスポーツ系は後に進路のときに役立つかもしれないから入りなさいと言われたからだ。
「母さんの人生じゃなくて、朝葉の人生なんだから好きに生きろよ」
「……お兄ちゃんは好きに生きすぎだよ」
「うわ、痛いとこつくなよなぁ」
お母さんはお兄ちゃんに大学に進んでほしかったようだけど、お兄ちゃんはお母さんではなくお父さんと話をして、音楽関係の専門学校に入学した。そのときもお母さんとお兄ちゃんで、揉めて大変だった。
その後、音楽関係のバイトはしているらしいけれど、専門を卒業したお兄ちゃんはフリーターをしている。お母さんはそれも不満なようだった。
「でも、朝葉。まじでさ、母さんに自分の選択肢を与えるのは、やめたほうがいい」
「……選択肢」
「それじゃあ、なにかを自分で決断しなくちゃいけないときに、なにもできなくなる」
今度は私が痛いところをつかれた。お母さんに勧められるがまま、高校も部活も決めてきた。けれど今、部活を辞めるか続けるか、自分で選択をしなければならなくなり、決断ができないでいる。
先延ばしにしてはいけないことは、わかっているけれど、未だに動けないでいた。
「ちゃんと自分で選ぶ癖をつけた方がいい」
黙り込む私にお兄ちゃんは、「責めているわけじゃない」と苦笑して私の部屋から出ていった。
*
この日もバスケ部の人たちと話すことはなかった。今まで自然と集まって話していたけれど、今は不自然なくらい顔を合わせることはない。廊下ですれ違うこともなく、休みなのではないかと思うくらいだ。
会ったところで気まずいだけなので、内心ホッとしている自分が嫌になる。それに続けるにしても、辞めるにしても話すことは避けて通れない。
昼休みに一年生の教室がある四階へと足を踏み入れる。中条さんが何組なのかわからないため、誰かに聞いてみようかと思っていると、階段近くの教室の中から笑い声が聞こえてきた。
入り口から教室を覗くと、男女数人が集まっている輪の中に中条さんがいるのが見えた。楽しげに話している彼女を見ると、青年期失顔症にかかっているようには思えない。
私に気づいた中条さんが立ち上がり、周りの人たちになにかを言ってから、こちらへと歩み寄ってくる。
「間宮先輩、ですよね! どうしたんですか?」
「ちょっとだけ話せないかなって思って」
中条さんは目をまん丸くしたあと、すぐに笑顔になった。彼女と話していた同級生たちが私を見ると、コソコソと話しているのが聞こえてくる。
「あの上履きの色って二年生じゃない?」
「月加って上級生と繋がりあったんだ!? 意外〜」
この感覚はなんだか懐かしい。高校一年生のときは特に上級生と繋がりがあるというだけで、一種のステータスとして見られることがある。おそらく彼女たちの中で、中条さんへの印象がまたひとつ追加されるのだろう。
「ちょっと先輩とお喋りしてくるね〜!」
中条さんは明るい笑顔で彼女たちに言うと、向こうも明るい声で「いってらっしゃい」と返していた。一年生が入学して約二ヶ月半、だんだんとグループができているのが、学年が違う私から見てもわかる。目立つ容姿と着崩した外見の子たちが多い中条さんのいるグループはクラス内でも中心的なのだろう。
「先輩、ひと気がないほうに行きましょう」
中条さんに促されて、四階の廊下を進んでいく。廊下の突き当たりは、美術室と準備室のため、周りに生徒がいない。壁にもたれ掛かるようにしゃがんだ中条さんが、上目遣いで私を見てくる。
「間宮先輩が来てくれるなんて、驚きました。よく私のクラスわかりましたね」
「笑い声が聞こえて、もしかしたらって思って」
「えー! 廊下まで聞こえてました? 私、声大きいってよく言われるんですよね」
照れくさそうに小さく笑う中条さんの横に、私もしゃがむ。
「中条さんのこと、もっと知りたくて会いに来たの」
すると、声に出して笑われた。
「私、自分を見失ってるので、間宮先輩の望む答えが得られるかわからないですよ」
「あ、ごめんなさい!……そういうつもりじゃなくて」
同じ青年期失顔症にかかっているのだから、精神面が揺れやすいはずだ。それなのに無神経なことを言ってしまった。
「私、悩みなさそうってよく言われるんですよねー」
中条さんは、あっけらかんとした口調で話しながら、両手の指を絡めて伸びをした。そのまま祈るように手を絡めて口元へ持っていくと、先ほどよりも低めの声のトーンで言葉を続ける。
「でも明るく見えるからって、言いたいこと言えているわけでも、悩みがないわけでもないのに」
「……そうだね」
「それに辛さだって、人によって種類があると思うんですよねー」
それぞれが持っている感情が入った箱。そこは誰もが覗けるわけでも、触れることができるわけでもない。悲しいという感情でも、人によって痛みの量が異なる。育った環境や経験によって、感情には無数に種類があるのだと思う。
なにを抱えているかなんて誰にも完璧にはわからない。
「それでも間宮先輩みたいに、私のこと知りたいって思ってもらえるのは嬉しいです」
「でも……知り合ったばかりで無神経って思わない?」
「知りたいって思ってもらえることの方が、少ないので私は嬉しかったですよ」
そういえば、私も友達に私の考えを知りたいと言われたことはない。いつだって聞き役だった。
朝比奈くんが言っていた通り、人は自分のことで手一杯で、他人のことをそこまで気にしていないのだろう。そんなことを実感してしまい、虚しさがこみ上げてきて乾いた笑みを漏らす。
「だけど、私も結局自分のことばっかりだよ」
「えー、そんなのみんな一緒ですって。自分が一番かわいいですもん。だけど、それでも周りに関心を持って、考えることができるかが大事なんですよ」
ニッと歯を見せて笑った中条さんを見て、感情が揺れる感覚がする。
それは悪い方向ではなく、いい方向へと高揚しているように思えた。
「私、中条さんの考え方、好き」
ぎこちなくて、たどたどしい物言いになってしまったけれど、それでも自分を持っている中条さんのことが好きだと感じた。話せば話すほど、自分を見失っているとは思えない。けれど、当人はきょとんとして固まってしまっている。
「えーっと、なにか変なこと言っちゃった?」
「……いつもこういうこと言うと、私らしくないとか、ひかれたりするので……驚きました」
中条さんらしくない。私は普段の中条さんをそこまで知らないからかもしれない。
昨日出会ったばかりで、明るくて無邪気な子に見えるけれど自分を探すために、寝る間を惜しんで本を読みあさっている。知っているのはそれくらいで、日常生活を共に過ごしたことがあるわけでもない。
だけど、〝らしくない〟と誰かに自分を決めつけられる言葉は心にずしりと重みとしてのしかかってくる。私も桑野先生に言われたとき、そうだった。
「寝不足で倒れたときも、深刻に受け止められるっていうよりも、漫画とか小説読んでるからでしょって笑われちゃいました」
中条さん自身も心配をされたいわけではないだろうけれど、勝手にイメージという枠にはめられるのは苦しいことだと思う。きっと誰も彼女と〝青年期失顔症〟を結びつかないのだろう。
「人って色々な面があって当たり前なのにね」
「ですよねー。アニメや漫画みたいに、〝キャラ付け〟されて、ちょっとでもそこからブレると、らしくないって言われちゃって。……私は笑っていないと変だって」
私も押しつけられた雑用に難色を示すと、いつもなら引き受けるのになにかあったの?と言われたことがあった。我慢していただけで、喜んで引き受けているわけではない。けれど、周りにはそうは見えなかったみたいだ。
「人って矛盾してる生き物ですよね」
「矛盾?」
「んー、たとえば私は元気に見られたかったんです。だけど、悩みがなくていつも笑っているって言われるのは嫌だって思うときがあるんですよ。自分勝手ですけど」
矛盾している生き物。中条さんの言う通り、私もそうだ。
頼られるのは好きで、誇らしく思っていたこともあった。けれど、頼られて都合よく扱われると、嫌になるときがある。自分から望んでその立ち位置にいたはずだというのに、気づけば自分の首を締めていた。
「元気に見られたいはずなのに嫌になって、自分を見失って……私、なにやってるんですかね」
中条さんと話していると、だんだんと自分の感情も見えてきた。私も、彼女も己の中の矛盾が自分を苦しめているひとつなのだろう。
「昔から得意なことってないんですよね。特別なにかができるわけでもなくて、趣味もない。だからなにかひとつでいいから個性みたいなものがほしかったんです」
「それが発症利理由?」
「うーん、どうでしょう。多分理由は、いろいろなことが重なったということなんだと思います」
中条さんは、人よりも秀でた特技や継続できる趣味がなく、ずっと欲していた。そしてそれを持っている周囲がうらやましかったそうだ。
「妹がいるんですけど、水泳やっていてかなり実力があるらしくて、大会とかでも優勝しているんですよね。だけど私は、あまり好きじゃないというか窮屈に思えて、途中で水泳辞めちゃったんです」
だからこそ、中条さんは妹のようになにかに夢中になりたかったらしい。
図書委員だった中条さんは、先輩から趣味を見つけるなら、まずは色々な系統の本を読みあさってみたらどうかと勧められたのだそうだ。
「だけど、本をたくさん読んでいくうちに、自分がどんなふうになりたいのかわからなくなりました。元気に見られたいはずだったのに、それも嫌になってきて、迷走しちゃって……毎回先輩に相談をするたびに、私ってなにがしたいのかがますますわからなくなっていきました」
そんなときに相談をしていた先輩に一度妹さんと話してみたらどうかと勧められたらしい。
身近な存在のほうが中条さんのことをきっと理解してくれているはずだと言われ、妹さんに悩みを打ち明けたところ、返ってきた言葉は——
〝楽して生きてるお姉ちゃんが羨ましい〟
「練習ばかりで辛かった妹なりの、叫びみたいなものだったんだと思うけど、妹を羨ましいと思っていた私にとって、すごく衝撃的でした」
それから妹さんとはギクシャクし、両親からはちゃんと自分のしたいことを見つけろと言われてしまったらしい。
ますます本を貪り、本の中の登場人物に感情移入を繰り返す。けれど読み終わった後に、現実世界の自分を見つめて、酷く落胆してしまうらしい。
「そんなこをしているうちに、自分の顔が認識できなくなっちゃったんです」
「……今も、本を読みあさってるってことだよね」
「さっき話した通り、私って矛盾だらけなんですよ。キャラ付けされるのが不満なくせに、本の中のキャラクターに救いを求めていました」
矛盾を抱えてばかりの生身の人間よりも、創作上のわかりやすくキャラクター設定をされた登場人物のようになれたら楽かもしれない。そんな現実逃避をして精神を安定させていたらしい。
「私は今のままの中条さんも好きだよ。って会ったばかりでこんなことを言われても嬉しくないかもしれないけど」
「今のまま、ですか?」
「自分では気づいていないのかもしれないけれど、中条さんは自分を持っているし、一緒にいる相手によって対応やキャラが違っていたっていいと思う」
全員に同じ対応ができて、キャラがぶれない人なんていない。私だって、家族の前や友達の前、そして朝比奈くんの前で全部同じ自分ではない。
人にはそれぞれ相性があって、相手が変われば会話も対応も、そのときのテンションだって変わるはずだ。
「全部同じ自分でいる必要なんてないんじゃないかなって」
「い、今の私、変じゃないですか?」
「そんなことないよ? むしろ私は中条さんと話しやすいかな」
中条さんはなにか言いたげに口を動かした後、何故か両手で顔を覆ってしまう。
「私が真面目な話をしても笑わないでいてくれるの、実はすっごく嬉しいです。……いつも結構、気を張ってて……だから、その、ありがとうございます」
私も今までだったら、こんな風に話すことなんてほとんどなかった。基本的に聞き役で、相談事といっても最初から答えが決まっているようなことばかり。私の意見なんて、誰も求めていなかった。
だけど、朝比奈くんや中条さんと話をして、改めて自分の中で考えて話すことの大切さを実感していく。この人たちは、〝私〟の話をしっかりと受け止めて聞いてくれている。
「私、決めました。このままでいます」
「……このままって?」
「睡眠を削って本を読みあさったりして無理に自分探しはせずに、今の自分のままでいます。だけど、先輩」
中条さんが立ち上がる。彼女の表情はなにかが吹っ切れているように見えた。
「たまには、私の真面目な話を聞いてくれますか」
「私で良ければ」
「やった!」
歯を見せて無邪気に笑う中条さんは、保健室で初めて話したときと変わらないはずなのに、あのときよりも眩しく見える。
「妹にもちゃんと謝ります。八つ当たりとかしちゃったんで」
確信はないけれど、なんとなく彼女はじきに治るような気がした。それは明るいからとかではなく、彼女自身がするべきことを見つめて、歩き出そうとしている。迷いがある私とは違う。
「あのね、中条さん」
私も立ち上がり、中条さんの隣に立つ。そして、秘密を打ち明ける決意をして、言葉を続ける。
「私も青年期失顔症なの」
驚かれるかと思った。けれど中条さんはわかっていたように、柔らかく微笑む。
「話していて、そんな気がしてました」
「……いつから気づいてたの?」
「さっき話していて、もしかしたらって思ったんですよね」
中条さんがスカートのポケットの中から、携帯電話を取り出す。カメラを起動して、私と中条さんのふたりが画面に映った。
「不思議ですよね。私には自分の顔が見えなくて、間宮先輩の顔は見えます」
「私も自分の顔は見えなくて、中条さんの顔は見える」
指先で自分の頬に触れる。私は一体どんな顔をしているのだろう。
「お互い、いつか自分の顔が見えるようになるといいね」
「じゃあ、そのためにも今記念撮影しておきましょうよ!」
目をキラキラと輝かせた中条さんの勢いに負けて、私は頷く。自分がどんな顔をしているかはわからないけれど、カメラに向かって笑ってみる。
「お互い治ったら、この写真見て思い出話でもしましょう! 撮りますよ〜」
中条さんの合図が聞こえた直後、カシャッと音が鳴る。治ったら送りますと言われて、私たちは連絡先を交換しあった。中条さんと話ができたおかげか、精神的に落ち着いていた。
昼休みが終わる少し前に教室へ着くと、朝比奈くんの席にはカバンが置かれていた。この近くに彼がいるかもしれない。
教室を見渡すと、後ろ側にある小さなベランダから金髪頭が見つけた。おそらくあれは、朝比奈くんだ。
少し驚かせてみようなんていたずら心が芽生えて、こっそりと近づくと携帯電話の画面が見えてしまった。
——バレないようにやる。
それは誰かに向けて打っているメッセージのようだった。
「っ! 間宮!? なんでお前、ここに……」
朝比奈くんが珍しく大きな声を上げて、取り乱していることに心底驚く。私に見られてはマズいものだったのだろうか。携帯電話もすぐに伏せかれて隠されてしまった。
「いつのまに来てたんだね」
「え……ああ、朝からいたけど、教室に来たのはさっき」
「遅刻と同じじゃん」
「うるせぇ」
なにも見ていなかったフリをして笑っていると、朝比奈くんは安堵したのかいつも通りの調子に戻ってきた。
「で、なんだよ」
「さっき、中条さんと話してきたよ」
青年期失顔症の名前は伏せつつも、中条さんに打ち明けたことを話す。朝比奈くんはよかったなと言って、ほんの少し表情を和らげる。
「朝比奈くんのおかげだよ」
「別に俺なんもしてねぇけど」
せっかくいつも通りに戻ったので、なにも聞けなかった。
なにを、誰に、バレてはいけないのだろう。
朝比奈くんの交流関係をざっくりとしか把握していないため、誰に関係しているのか見当がつかない。もしかしたら私が関係している可能性もある。
私がいたことに動揺したということは、私に見られると不都合があるのかもしれない……?
休み時間終了のチャイムが鳴り響く。メッセージを見てしまったこともあり、気まずい空気を感じたので助かった。
「あ、もう昼休み終わるよ。午後の授業くらいちゃんと受けないとダメだよ」
「はいはい、お前って案外口うるさいな」
「真面目って言って」
「ガリ勉」
失礼だなぁと文句を言いながら、身を翻して自分の席へ戻ろうとすると、背後から私を呼び止める声が聞こえた。
「間宮」
ゆっくりと振り返ると、朝比奈くんの表情はいつもよりも強張っている。
「さっき、俺の……」
「ん?」
「なんでもね」
「なにそれ」
途中で話すのをやめてしまった朝比奈くんを笑う。私の動揺はうまく隠せただろうか。
おそらくは、俺の画面見えた?とでも聞く気だったのかもしれない。けれどこの様子を見る限りだと、知られたくないことがあるみたいだ。
胸の奥がざわつく感覚を覚えながらも、私は朝比奈くんに背を向けて歩き出した。
*
翌日の三限目の終わりに、私の携帯電話にメッセージが届いた。
差出人は、金守杏里。
昼休みに話がしたいとだけ書かれていて、詳細は書かれていなくてもなにについてかはすぐにわかった。休部したまま、先延ばしにしている部活の件だ。
緊張のあまり、四限目は胃が捻れるような痛みと不快感に襲われて集中できなかった。
四限目が終わるチャイムが鳴ると、指先が冷たくなり震えてくる。話すのは怖い。けれど、これは避けて通れない道だ。
昼休みになると教室が一気に騒がしくなり、椅子を引く音や楽しげな話し声で溢れる。その中で、杏里の声が鮮明に聞こえてきた。
「朝葉、いい?」
どくりと心臓の鼓動が嫌なくらい身体中に伝わってくる。
私は勇気を振り絞って立ち上がり、ドアのところで待っている杏里のもとへと向かう。そこには常磐先輩もいて、杏里とふたりきりで話すわけではないのだと知り、少し驚いた。
「別の場所で話してもいい?」
常磐先輩が私の顔色をうかがうように聞いてきたので、小さく頷く。私もできればクラスメイトたちに聞こえるような場所で話したくない。
階段を降りながら、無言の時間が流れていく。右に杏里が立ち、左には常磐先輩がいる。まるで、これから死刑台へ向かう罪人のようだ。
逃げることは許されず、私の意見ではなく彼女たちの正義を基準にして裁かれる。そんな被害妄想までしてしまい、自分の感情が負の方へと大きく揺れていることを痛感する。
階段を下っている途中で、友達と喋りながら歩いている中条さんと鉢合わせした。パンを三つ抱えているので、どうやら購買へ買いに行った帰りのようだ。
「先輩たち、こんにちは〜!」
明るい声音で話しかけてくる中条さんに私はぎこちなく微笑んで挨拶を返す。彼女の勢いに気圧されたのか、杏里も同じように挨拶を返した。常磐先輩はいつも通りの柔らかな笑みで「こんにちは」と言っていて、その横顔を見つめてしまう。
これから話すのは怖いけれど、いつも仲裁に入ってくれる優しい常磐先輩がいてくれるのなら、そこまで怖がらなくても平気かもしれない。私の中で怖いのは、常磐先輩を除くバスケ部員と顧問の桑野先生だ。
中条さんと別れたあと、私は杏里たちに案内されたのは、体育館へ向かう途中にあるピロティだった。既に揃っている人たちを見て、血の気がひいていく。
私を待ち受けていたのは、女子バスケ部員全員と顧問の桑野先生だった。
どうして全員がいることを教えてくれなかったのだろう。と杏里や常磐先輩を責める言葉が頭によぎる。けれど最初から〝三人だけ〟とも言われていなかった。
桑野先生の鋭い視線に息を飲む。休部の件で後ろめたさがあるため、目を逸らしてしまいたい衝動をぐっと堪えた。
「間宮は休部中だが、聞いてもらったほうがいいと思って、金守に呼んでもらった」
「え……」
桑野先生の発言が引っかかる。私の休部の件が理由で呼ばれたわけではないのだろうか。
周りをよくよく見回すと、違和感を覚えた。
一年生のふたりが身を縮こませて俯いている。そして周囲は彼女たちを咎めるような眼差しで見つめているように感じた。
「真縞と御岳が部活を辞めたいと言い出した」
そう聞かされても、私はあまり衝撃を受けなかった。
一年生は入部してまだ二ヶ月半ほどだけど、部活が合わないと感じているのなら、夏休みの過酷な練習が始まる前に辞めたほうがいい。その方が彼女たちにとっても、これから一年生の練習試合でのポジション決めをしていくことを含めてもいいタイミングのように思える。
けれど桑野先生はそうは思っていないようだ。
「俺は休部を認めるべきではなかったと思ってる」
突然私に話が移り、背筋が縛られたように固まり、動機が高まっていく。
「間宮の甘えを許してから、部員たちがたるみ出した」