*
駄菓子を購入した後、私たちは近くの公園で食べることにした。
滑り台やアスレッチックで小学生たちが楽しげに遊ぶ中、私と朝比奈くんは丸太のベンチに座って、先ほど購入した駄菓子を取り出す。
「メダルチョコ、美味しい」
「昔は当たり付きだったよな」
「え、今はもうないんだ!」
「いつのまにかなくなってた」
久しぶり食べた駄菓子屋さんのチョコレートはものすごく甘く感じた。まるで濃いココアでも飲んでいるかのように濃厚で舌に残る。けれどそれが懐かしい。
「ねえ、朝比奈くん。嫌だったら答えなくてもいいんだけどさ」
「じゃあ、嫌だ」
「話聞いてから言ってよ」
聞きたいけれど、踏み込んでもいいことなのかわからない。無理やりに答えてほしいわけではなく、嫌でなければ教えてほしい。
だから保険をかけるような言葉を事前に発してしまったのだけど、朝比奈くんにとってはそれが気に入らなかったみたいだ。
「そういういらねぇ前振りすんな。聞きたいことあるなら、顔色伺わずに普通に聞け」
「でも」
「別に他の奴にする分にならいいけど。ストレートに聞かれたくねぇことがある奴もいるし。でも俺はそういう前振りは嫌だ。聞かれたことには答える」
隣に視線を向ければ、膝の上で頬杖をついている朝比奈くんがじっと私のことを見つめている。
「で、なに聞きたいんだよ」
今更なんでもないと引き返せるような雰囲気ではない。
「……なんで中学のとき、サッカー部辞めたの」
ずっと気になっていた。
運動神経がよくて、一年のサッカー部ですごく上手い人がいると話題になっていたという朝比奈くんが、二年になったタイミングで急に部活を辞めてしまい、それから派手な髪色へと染まっていった。いったいなにが朝比奈くんを変えたのだろう。
「身内が青年期失顔症になったから」
少しだけ間を置いてから、朝比奈くんが声のトーンを落として答えた。
「雨村……叶乃の弟が俺より二つ上なんだけど、その頃に青年期失顔症を発症したんだ」
当時のことを思い出すように、朝比奈くんは遠くにある夕焼け空をぼんやりと見上げながら、言葉を続ける。
「祈って言うんだけど、精神的にかなり追い詰められて、しまいには不登校になった」
駄菓子屋のおばちゃんが言っていた〝祈くん〟は叶ちゃん先生の弟だったみたいだ。
「必死に治すために、叶乃と俺で青年期失顔症のことを勉強して、それで半年くらいしてやっと治った」
半年という言葉に息を飲む。すっかりすぐに治る気になっていたけれど、そう簡単なものではないのかもしれない。
そんなことを考えていると、朝比奈くんが横目で睨んでくる。
「意外とか思ってんだろ」
「……派手になっていったから、てっきり別の理由かと思って」
てっきり部内の人間とのトラブルだと思っていた。
そういう噂が私たちの学年の間に流れていて、自ら揉めて退部をしたと言っていた人もいれば、それとも殴り合いの喧嘩をして退部させられたと言っていた人もいた。
「あー……髪色は、部活やめたことに関して周りがうるせーから、ただの反発」
「そういう理由だったの?」
「なんの理由だと思ってたんだよ」
「悪い先輩たちとつるみ出したからか髪染め出したのかと思った」
部活を辞めてから徐々に朝比奈くんがつるむ人が変わっていって、サッカー部のいわゆる爽やか系グループではなくなった。
見た目が派手で授業をサボったり、先生と衝突しているような人たちと一緒にいるのをよく見かけるようになったのだ。
だから周りに影響を受けて、朝比奈くんも派手になったのだと思っていた。
「先輩たちに声かけられるようになったのは、髪派手にし始めてから」
「そうだったんだ。……誤解してた」
「それに別に先輩たちは悪い人じゃねぇし、むしろみんな色々悩み抱えてた」
当時朝比奈くんが一緒にいた先輩たちの名前は知らない。けれど見た目はなんとなく覚えている。
髪色が奇抜で近寄り難くて、怖そうで気が強そうな人たちに見えた。きっとそれは私が表面上しか知らないからなのだろう。
「人と一緒ってことに悩むやつもいれば、人と違うことで悩むやつもいるから」
私の場合は、きっと前者だ。集団行動の中で人と一緒であるべきだと思い、そうなるように過ごしてきた。
けれど、無理をして合わせてきたことを自覚してしまい、矛盾という綻びが生じてしまった。
「でもまあ、今では俺らの中で笑い話だけどな。みんな元気にやってるし、今もよく会ってる」
「……私も笑い話にできるかな」
「いや、別に笑い話にする必要なんてねぇけど、自分の中で区切りっつーか、過去として受け入れられればいいんじゃねぇの」
指先で頬に触れてみる。感触はいつもと変わらない。私にだけ、自分が見えなくなっている。いつ私にとって過去になるのだろう。
ひょっとしたらもう治っているんじゃないか。
そんな期待を抱いて、休み時間のたびにトイレに行って鏡で顔を確認していた。けれど毎回鏡に映る私の顔にはなにもない。
気が狂いそうなほどの絶望と焦燥感に駆られて、現実から背を向けてしまいたかった。でも今こうして私がここにいるのは、青年期失顔症だということを知っている朝比奈くんがいてくれたからだ。
「私のこと気にかけてくれるのは、従兄のことがあったから?」
「ちょっと似てたから。あいつと間宮。周りに頼られて押しつぶされたところとか」
どうしてこんなにも気にかけてくれるのか不思議だったけれど、従兄の話を聞いて納得した。
彼が詳しかったのも、声をかけてくれたのも、過去の経験があったからこそなのだろう。
「朝比奈くん、ありがとう」
「なにが」
「私のこと、助けてくれて」
「……別に」
倒れて保健室まで運んでくれたこと、割れた鏡を片付けてくれたこと。そして、こうして気にかけてくれていること。
もしもひとりで抱えていたのなら、心はとっくに壊れてしまっていたかもしれない。
*
その夜、朝比奈くん宛にメッセージを送った。
『朝比奈くんへ。思い出した好きなものを書きます。藤水堂のあんこ、駄菓子屋さんにあるメダルチョコ。ねりあめ。以上です』
好きなことをノートに書くといいと教えてもらったけれど、ひとりでノートに書くよりも、誰かに報告がしたかった。
きっと朝比奈くんにとっては迷惑でしかないだろうし、返信はこないかもしれない。
数分後、携帯電話のディスプレイに浮かぶメッセージに気づき、開いてみると朝比奈くんからだった。
『俺はノートでもメモ帳でもねぇんだよ。ノート買え。あと藤水堂のあんこは美味い』
迷惑そうにしつつも私の書いた内容に反応してくれるのがおもしろくて、画面を見つめながら笑ってしまう。
そういえば、もうひとつ好きなものがあったことを思い出して、指先で文字を打っていく。
『追伸、もうひとつありました。朝比奈くんの自転車の後ろは結構好きです』
するとすぐに返信が来た。
『法律違反なので、乗せるのは今日限りです』
『共犯でしょ』
『うっせー、寝る』
最後に『おやすみ』と送って、携帯電話を枕元に置く。
ベッドに寝転がり、指先で顔の形を確かめるように触れてみる。意識的に動かしてみれば、触れている唇はちゃんと口角が上がっているのがわかった。
体を横に倒すと、机の上に飾られている写真立てが目に留まる。
中学校の卒業記念として、友達とテーマパークに遊びに行ったときに撮ったものだ。楽しげに笑っている三人の友達と顔のない私。鏡に映らないだけではなく、写真や私自身の記憶からも顔が消えている。
こうしてひとりで考えていると、暗く冷たい沼につまさきからじわじわと飲み込まれていくような恐怖に侵食されていく。
精神が不安定になるたびに自分を見失い、心が何度も振り出しに戻る。けれど、先ほどの朝比奈くんとのメッセージのやりとりを思い出すと、辛うじて自分が見える。
だからこそ、好きなことを書くノートというのは効果的なのかもしれない。
私は、藤水堂のあんこが好物で、駄菓子屋さんにあるメダルチョコとねりあめを久しぶりに食べて好きだと思った。そして、朝比奈くんの自転車の後ろに乗りながら、たくさん笑ったり騒いだ。
今日の出来事は、まるで夢の中で起こったようなことばかりで現実味がない。
「でも……楽しかった」
朝比奈くんと過ごした放課後を思い返しながら、私はそっと目を閉じて眠りについた。
*
翌日は朝から雨が降っていた。
家を出る直前、傘を手に取ると玄関に備え付けられている鏡に私が映る。
今日も私の顔はなかった。
扉を開けて外へ出ると、昨日の晴れた空が嘘のように分厚く灰色に濁った雲が空を覆っている。まるで夕方のように薄暗く、暗澹とした気持ちになった。
細い雨が斜めに降り、傘の合間から顔が濡れていく。
昨日は体調不良で休むことができたけれど、さすがに今日は部活に出ないといけない。
漏れそうになるため息を飲み込むと、胸の奥の方でなにかが軋んだ気がした。
教室へ着くと、いつも通り仲の良いクラスの女子たちと挨拶を交わす。同じクラスにはバスケ部の子がいないため、体調のことを聞いてくる人は誰もいない。
ちらりと窓側の一番前の席を見やると、まだ空席だった。
朝比奈くんは一限をサボる気だろうか。朝が弱いのかいないことが多い。
「朝葉〜!」
突然大きな声で呼ばれて、びくりと肩が震えた。振り向くと、教室のドアのところに女子バスケ部の面々が並んでいる。他クラスの女子が五人で教室に入ってきたため、一気に視線がこちらに集まり、落ち着かない。
「体調大丈夫〜?」
「きのう部活休んだから、心配したよ」
「今日は来るでしょ?」
「聞いてよ! 昨日朝葉休んだから、まじで大変だったんだよ。」
「佑香先輩が代わりに杏里のことばっかり責めてたんだから!」
矢継ぎ早に大きな声で話されて、私は笑みを浮かべながら曖昧に答えるのが精一杯だった。クラスの人たちに聞かれていてもお構いなしだ。
私が部活に来なかったことに対してや、先輩たちの文句など、話したいことは山ほどあるようだった。
「てか、朝比奈くんいないの?」
ひとりの子にそう聞かれて、反射的に杏里に視線を向ける。杏里は両手を合わせて苦笑した。おそらくうっかり話してしまったということなのだろう。
「朝比奈くんと席遠いんだ?」
「うん、近くになったことないよ」
「じゃあ、どういう繋がりで仲良くなったの?」
……どうして。そんなこと聞いてなにになるの。
普段なら笑ってかわせていたと思う。けれど、今日は酷く心が揺れて鳩尾あたりに鈍い痛みが走る。
「朝葉?」
なにか言わなくちゃ。うまくこの場を乗り切らないと不審に思われてしまう。変に勘ぐられてしまうかもしれないし、関係にヒビが入るかもしれない。
でも——どうして、私はそんなことまで気にしているのだろう。
嫌なことを口から出さないようにと必死に嚥下して、我慢して笑って壊れた。
そんな私に誰も気づかない。
視線を上げると、みんなが目を丸くて私のことを見ている。
やめて、見ないで。
私の異変に、顔がないことに、気づかないで。
「うっせーな」
その声が聞こえた瞬間、教室から音が消えた気がした。
不機嫌そうに顔を顰めている朝比奈くんが、自分の席に鞄を放り投げるようにして置いた。
教室の雰囲気が緊張をはらみ、朝比奈くんの言動に注目しているのが伝わってくる。
「予鈴鳴ったんだから、自分のクラス帰れよ」
壁にかけられた時計を見ると、八時二十五分を過ぎていた。いつのまにか予鈴が鳴っていたみたいだ。
「……こわ」
杏里が小さな声で呟くように言うと、他の子の手を引いて教室を出ていく。
私は彼女たちに声をかけることなく、ただ去っていく後ろ姿を見送ることしかできなかった。
また朝比奈くんに助けられてしまった。
私の席からはもう彼の後ろ姿しか見えないけれど、機嫌が悪のか頬杖をついているみたいだ。
朝比奈くんが来てくれなかったら、私の心は更に壊れてしまっていたかもしれない。
*
放課後、逃げ出したい気持ちを抑えて部活へと行った。ジャージに着替えてストレッチをしていると、自然と二年生が集まってくる。
今日の部活のメニューなどを話していると、杏里が私の方を見ると、気まずそうな表情で話を切り出す。
「てかさ、朝比奈くんってマジで怖くない?」
今朝のことが朝比奈くんへの印象を悪くしたらしい。周りの子達も身を乗り出すようにして声を上げる。
「思った! 性格悪すぎ」
「ああいう奴って危ないし、朝葉も関わらないほうがいいって」
朝比奈くんの言い方はキツかったかもしれないけれど、それは私を助けてくれたからだ。
「口は確かに悪いけど、でも朝比奈くんって話したら案外怖くないよ」
「えー……朝葉優しい〜。さすが」
わかってもらいたくて口にした私の言葉が、別の方向に受け取られてしまった。焦って考えを巡らせるものの、上手い言葉が浮かばない。
「あれじゃない? 朝比奈くんもさ、好みだから朝葉に優しいんじゃない?」
「あ、それありそう! モテモテじゃん」
「……違うよ」
私の弱々しい否定は、誰にも届いていないらしく朝比奈くんは私のことを好きだからだと決めつけて盛り上がっている。
違う。そういうことじゃない。朝比奈くんは、私の事情を知っているから声をかけてくれたり、庇ってくれた。
性格悪くなんてないよ。危なくなんてないよ。
どうして関わるなって決められなくちゃいけないの。
どうして朝比奈くんの気持ちを決めつけるの。
「ちょっと、二年! 喋ってないで!」
眉を吊り上げた三年の先輩の怒声が飛んできた。
二年生達が慌てて口を噤むのを見ると、ひとりの先輩がため息を吐いて私を横目で見やる。
「間宮さんからも注意してよ」
「……すみません」」
爪が食い込むくらい手を握り、謝罪を口にする。
「でたー……朝葉ご指名〜」
近くにいる私たちにしか聞こえないくらいの小さな声で二年生の誰かが言った。
私にいつも大変だねと言いながら、本当はこの役割が自分じゃなくて良かったとみんな思っているのだろう。私だってできることならこの役割をやめたい。
先輩、どうして私を名指しするんですか。
二年生は他にもいる。私は部長でも、二年生のリーダーでもなんでもない。
それなのに毎回、注意をする役目は私で、ここがダメだなどと伝言係のような悪口を言わされる。
「朝葉ちゃん、大丈夫? 顔色が悪いけど」
気がつくと常磐先輩が私の近くに立っていて、心配そうに顔を覗き込んでくる。
……顔、色? 私は今、どんな顔をしているのだろう。
わからない。自分のことをまた見失う。好きなものは、なんだった? 私はどうしてバスケ部を辞められないのだろう。
「そういえば、桑野先生と話せた?」
「桑野、先生……」
顧問の桑野先生に相談したらどうかとアドバイスをくれたのは、常磐先輩だった。
私がなにかに悩んでいることに常磐先輩だけは気づいてくれて、部活のことなら先生に話してみたほうがいいと言ってくれたのだ。
「常磐先輩、あの」
なんて答えるべきなのか迷ってしまう。桑野先生に話に行ったけれど、私の気持ちに寄り添ってくれることはなく、結局なんの解決にもならなかった。
「なにしてる。部活はもう始まってるぞ!」
体育館の入り口から、野太い声が響き渡る。空気が一瞬にして、緊迫感のあるもの塗り替えられてしまう。
大股でこちらへと歩み寄ってきた桑野先生が、周囲を見渡す。そして私で視線を止めると、怒りを孕んだような瞳で睨みつけてきた。
「間宮、説明しろ。アップもせずになにしてた」
「あ……」
声がうまく出てこない。そんな私の後ろで、杏里が軽く背中を叩いた。
きっと早く答えたほうがいいという意味なのだろう。
「なんだ、きちんと話せ!」
「……っ」
嫌だ。やめて。そんな大きな声で、責め立てないで。
「先生、すみません。私のせいです」
萎縮する私を庇うように常磐先輩が声を上げる。桑野先生の視線が私から常磐先輩へ移り、眉間のシワが一層深く刻まれた。
「どういうことだ、常磐」
「朝葉ちゃんがこの間先生になにかを相談しに行ったみたいなので、その件について聞いていました」
相談という言葉に周囲が少しざわつく。庇ってくれたことは有り難いけれど、できればみんなの前で私が桑野先生に話に行ったことを言わないでほしかった。
「ああ、そのことか。部活をしばらく休みたいなんて言い出したから叱っただけだ。試合を控えた時期に甘えたことなんて受け入れてられないだろう」
呆れたような桑野先生の声を聞いて、虚しくも再び痛感してしまう。
私がどれだけ勇気を出して話に行ったのかを、この人はまったく理解してくれていない。
「休みたいって……だから昨日も体調悪いっていって休んだの?」
誰かが漏らした一言が周囲に波紋を描き始める。黙り込んでいた人がぽつりと言葉を水滴のように落として、混乱が生まれていく。
「え、仮病?」
「うそ……ずるくない?」
「それなのに朝葉がいつも二年の中だと優先的に試合出てるし、不公平じゃん」
「気に入られてるからって、それはないよね……」
私を見るみんなの目が冷たく刺すようで、身震いした。
きっとなにを口にしても言い訳にしか受け取られない。
「そうなのか? 間宮」
ズル休みをしたのかどうか、咎めるように桑野先生が私を見つめてくる。
苛立ちと不快感を含んだ眼差しは、私の意見を聞く気があるようには思えなかった。
「は……っ、ぁ」
息が苦しい。喉になにかが張り付いたように言葉が出てこない。
「朝葉ちゃん?」
なにか言わなければ、肯定になってしまう。けれどなにから説明をしたらわかってもらえるのだろう。青年期失顔症のことは知られたくない。
——青年期失顔症。
再度その言葉を意識したことによって、暗く冷たい場所に突き落とされたような恐怖に身を震わせる。
「間宮、しっかりしろ。大丈夫か?」
桑野先生の声が聞こえてきたけれど、私は俯いたまま自分の足元を見つめることしかできない。
周りには複数のバスケットシューズが見えて、自分が注目されているのが嫌でもわかってしまう。
この場から逃げてしまいたい。
いっそのこと、こんな自分を消してしまいたい。誰にも見られたくない。私のことなんて放って置いてほしい。
涙で視界が歪んで、足が崩れ落ちていく。
私を呼ぶ声をかき消すように両手で耳を塞いだ。
焦ったような桑野先生の声が聞こえて、腕を強く引っ張られて強引に立ち上がる。
とりあえず保健室へと色々と言っているのが聞こえたけれど、私はなにも答えられなかった。
*
杏里や二年生たち数人によって私は支えられながら、保健室へ連れて行かれた。みんなが言うには顔が真っ青で、今にも倒れそうに見えるらしい。
保健室へ行くと、叶ちゃん先生と何故かおまんじゅうを食べている朝比奈くんがいた。
叶ちゃん先生がすぐにパイプ椅子を用意してくれて、私は俯きがちにその椅子へと座る。
体育館から抜け出せたことに安堵したけれど、部活のみんながいるこの場は居心地が悪い。
「なにがあったの?」
穏やかな口調で叶ちゃん先生が問う。私が答えるよりも先に、周りの子たちがすぐに説明を始める。
「朝葉が部活しばらく休みたいって先生に相談してたらしくて、それで昨日ズル休みして……先生が問い詰めたら、朝葉泣き崩れちゃって」
私は自分の気持ちを伝えず、理由も話していない。だから、みんなから私がそう見えていたのは、仕方のないことだとわかっている。
それでもいざ口にされると、虚しさで傷口が抉られるようで、ひりついた痛みを感じた。
「ねえ、朝葉」
杏里が私のすぐそばにしゃがみ込み、顔を覗くと手のひらを重ねてくる。
「ちゃんと先生や先輩たちに謝ろうよ」
溢れ出てきそうな感情を堰き止めるように、下唇を強くかみしめた。
……私がいけなかったんだ。部活なんて休まなければよかった。
朝比奈くんの自転車の後ろに乗って、駄菓子屋さんへ行ったのは、みんなにとってはずる休みでしかない。
でも……楽しかった。あの時間があってよかった。あれがなかったら私は、今以上に心が砕けてしまっていた。
勢いよくテーブルを叩くような音がして、反射的に顔を上げる。
ずっと話を聞いていたらしい朝比奈くんが、不機嫌そうな面持ちでこちらを睨んでいた。
「なんでこいつが一言も喋ってねぇのに、決めつけてんだよ」
彼が唇を動かした瞬間、なにかを言われる覚悟をして身構えたけれど、朝比奈くんの怒りは私ではなく近くにいる杏里たちに向けられている。
「っ、朝比奈くんに関係ないじゃん!」
私から手を離し、立ち上がった杏里が反論すると、更に朝比奈くんの表情が険しくなった。
「謝るってなんだよ。お前らが決めることなのかよ」
「だからっ」
「お前ら、誰のこと見てんの」
私に視線を向けた朝比奈くんと視線が重なる。この人は、私のことをちゃんと見てくれている。そう実感した。
顧問の桑野先生でも、部活の先輩や友達でもなく、最近まであまり関わりのなかったクラスメイトの朝比奈くんの方が、間宮朝葉という人間をきちんと見てくれているのだと思った。
「は? 意味わかんないんだけど。私らは事実を言ってるだけだし」
彼女たちにとっての事実は、私にとっての真実ではない。
上辺だけの話を聞いていたら、私がただのサボりで桑野先生に問い詰められて逃げ出しただけに見えるのかもしれない。
けれど、どうして桑野先生に相談をしたのか、どうして休もうと思ったのかまでは、彼女たちは誰も聞いてくれなかった。
友達といっても、心から相手を心配し合うような間柄ではない。彼女たちはみんな私がいないと都合よく扱える人間がいなくて困るのだろう。
「うっせぇな。事実かどうかよりも、今こんな風に泣いて、しんどそうな奴にかける言葉じゃねぇだろ」
朝比奈くんの言葉は、真っ直ぐに私の心へ響いてくる。
少々荒っぽい口調で、けれど優しく思いやりがある言葉を惜しみなく渡してくれるのだ。
空気を切り替えるように叶ちゃん先生が両手を叩くと、諭すように時計を指差してみんなに声をかけていく。
「ほら、もうこんな時間よ。あなた達は部活へ戻りなさい」
「……はい。朝葉、先に戻ってるね」
杏里の何気ない言葉に私の身体が硬直した。
体育館から逃げ出せたように思えたけれど、先にと言われてしまうと戻らなくてはいけないと思考が再び不安へと染められていく。
バスケ部の二年生たちが出ていくと、叶ちゃん先生がそっと私の頭を撫でた。
「間宮さん、戻らなくていいのよ」
「え……」
私の心を読んだような発言に驚いてしまう。
「〝先に戻ってる〟って声をかけられたとき、怯えたように見えたから。違うかしら?」
首を横に振る。叶ちゃん先生のいう通り、私は怯えていたのだと思う。
また戻らなくてはいけないのかと心が凍りついてしまいそうだった。
「部活は義務ではないわ。もちろん最初は好きで選んだのでしょうけど、必ずしも行かなくてはいけない場所ではないもの。辛いなら、休んだっていいの」
「だけど、それで、みんな怒ってて……」
「それよりも大事なのは、あなたの心よ」
自分を責めなくていいと言ってもらえているみたいで、鼻の奥がツンと痛む。
桑野先生も周りの友達も、私の気持ちを考えてくれるような言葉をくれなかった。気遣うような言葉をくれたのは、叶ちゃん先生と朝比奈くんだけだ。
一呼吸置いてから、叶ちゃん先生が神妙な面持ちで話を切り出した。
「間宮さん、あなた〝青年期失顔症〟ね」
心臓が大きく跳ねる。先生に知られることには抵抗があったけれど、朝比奈くんから叶ちゃん先生の事情を聞いているため、誤魔化すことはせずに頷いた。
鏡が割れて倒れた日に発症し、朝比奈くんだけが私が青年期失顔症だと知っていたことを話すと、叶ちゃん先生は納得したように私と朝比奈くんを見やる。
「だからさっき間宮さんたちの会話に割って入ったのね」
「……別にあれは、腹たっただけ」
「そう? あなたにしては珍しく首突っ込むように見えたけど」
笑みを浮かべている叶ちゃん先生に、朝比奈くんは何か言いたげに顔を顰めている。
「あの、叶ちゃん先生。……親に言わないといけないですか?」
「青年期失顔症のこと?」
なるべく言いたくない。そんな思いを込めて頷いた私に、叶ちゃん先生が首を横に振った。
「言いたくないのであれば、無理して話す必要はないわ」
親に告げなくてもいいのだと知り、ホッと胸を撫で下ろす。きっと親に知られたら、大騒ぎをしてカンセリングに通わされて、クラスでも部内でも知れ渡ってしまう。
それを防げただけでも、精神的な負荷が減っていく。
「ただ、ひとりで抱え込まないでね。私でよければ、いつでも話し相手になるわ」
「……はい」
朝比奈くんから聞いた話によれば、叶ちゃん先生の弟も青年期失顔症にかかったことがあると言っていた。
桑野先生に話すよりかは、叶ちゃん先生に相談した方がいいかもしれない。