自分の顔が見えなくなった。
指先で触れてみれば目も鼻も口も存在しているのに鏡や写真越しに自分を見ると、のっぺらぼうが写っていた。自分がどんな顔だったのかすら思い出せない。
家族も友人も普段通りに私に声をかけてくる。変わったのは私から見た自分だけで、彼らの瞳に映る私は変化などないようだった。
————私は、完全に自分を見失ってしまった。
先生たちがまばらにいる放課後の職員室で、私は手に汗を握っていた。
緊張と不安に押しつぶされそうになりながらも、背筋と足を必死に伸ばして立つ。
いったいなんて返ってくるのだろう。
「あのな、間宮」
キャスター付きの鼠色の椅子を半回転させて、桑野先生がこちらへ体を向けてきた。
鍛えられた腕を組み、少々威圧感のあるくっきりとした二重の目で私を見上げる。
「お前には期待してるんだ」
返ってきた言葉に私は酷く落胆した。
熱血で面倒なところもあるけれど、人の話には親身になってくれる先生だと思っていた。けれど、私の話を聞いてくれても気持ちまでは理解してくれなかったようだ。
「でも先生」
「三年生はただでさえ大事な時期なんだ」
桑野先生は短髪を掻き、視線を床に落とした。
そして再び視線を上げると、まるで駄々をこねる子どもを仕方なく宥めるかのように困った表情を浮かべられてしまう。
「いいか、間宮。三年生の背中を見て、いずれお前が引っ張っていくんだぞ。今のお前は、甘えているようにしか見えない」
漫画から抜き出したようなお決まりの言葉に、ため息が漏れそうになりながらも、私は黙って俯くことしかできなかった。
「今練習を抜けたらチームが乱れる。悩みがあるならチームのみんなに相談してみろ」
「……はい」
顧問だというのに、部の成績や強さばかりを気にして、一人ひとりのケアなんて後回しだ。桑野先生になんて話すべきではなかったと気分が沈みながら職員室を出ようとしたときだった。
「最近お前らしくないぞ」
なにかが心の中で、ぱきりと音を立てて割れた気がする。
部活のときくらいしか接することのない桑野先生に、私らしさなんてわかるのだろうか。私自身も自分らしさなんてわからないというのに。
「失礼しました」
口角を上げて目を細めながら一礼する。桑野先生と目を合わせないようにして、私は職員室を出た。
うまく笑うことはできていただろうか。
桑野先生から言われた〝最近お前らしくない〟という言葉を何度も頭の中で反芻させる。それがきっかけで、私の心の中で必死に押さえ込んでいた感情が堰を切ったように一気に溢れ出してきた。
『朝葉はなんでもできるよね。苦手なことってあるの?』
『うらやま〜。私も朝葉みたくなりたいわー』
違うよ。失敗が怖いだけで、何度も練習しただけ。苦手なことだってたくさんあるよ。
『朝葉、英語の小テストの範囲教えて!』
さっき先生が範囲言ったばかりなのに、どうしてなんでも私に聞くんだろう。
『男子って、朝葉には優しいよね〜』
『朝葉みたいなタイプって男ウケよさそうじゃん』
男子と少し話していただけで、笑顔の裏側に隠した敵意を向けてくる。……私のこと本当は鬱陶しいんでしょう。
『私たち二年で一番上手いのは朝葉だもんね』
他にも上手い人はいる。私に雑用を押し付けたり、先輩たちとの間に立たせて伝言係みたいにして扱うのやめてよ。
——もうこんな日常、うんざりだ。
教室に戻ると誰もいなかった。静かな教室で、わざとらしいくらいの大きなため息を吐く。結局顧問の桑野先生に話したところでなにも変わらない。
鞄の持ち手を肩にかけて、教室を出る。今日はバスケ部の練習がなくてよかった。家に帰ってゆっくりしよう。
不意に外を見ると、窓に反射した自分の顔が映った。
「え……?」
全身が粟立ち、ぞわりとする。なにかの間違いだと慌てて四階の端っこにある女子トイレに駆け込む。
「なに、これ……」
長方形の鏡に映っている顔を見つめながら、両手で頬に触れる。そしておそるおそる指先で目や鼻の位置を確認していく。
「うそ、でしょ? そんなはず……だって、こんなの……っ」
ある予感が頭に過ぎったけれど、私は認めたくなかった。鏡を見ているのが耐えきれなくなり、女子トイレを飛び出す。行くあてもなく、無我夢中で階段を下る。
「……ぅ、っ」
その途中で足がもつれて、階段から滑り落ちてしまった。けれど今は痛みよりも、自分の身に起こった衝撃の方が大きい。
床に転がった鞄の隙間から手鏡が見えて、手を伸ばす。きっと先ほどのは見間違いだ。そうに違いない。
微かに震える手で鏡の蓋を開くと、目の前には——
「——っ!」
うそだ。そんなはずない。なにかの間違いだ。
手のひらから滑り落ちた鏡が、悲鳴のような音を立てて床に砕けた。
両手で自分の顔を触れると、いつもと変わらない位置に鼻や口が存在している。
それなのに鏡の破片に映る私の顔は、のっぺらぼうのようにしか見えない。目も鼻も口も、見えない。
「は……っ」
締め付けられるように喉の奥が痛み、浅い呼吸を繰り返しながら必死に酸素を求める。
自分の身に起こっている異変が受け入れられない。胃のあたりが焼けつくように痛み、焦燥感と恐怖心に襲われる。
顔が見えない。……違う。それだけじゃない。
私が——間宮朝葉がどんな顔をしていたのかが思い出せない。
足音が聞こえて、体を震わせる。息を飲み、咄嗟に辺りを見回した。
砕けた鏡の中で立ち尽くしている生徒がいたら不審に思われてしまう。
いっそのこと逃げてしまいたい。けれど、上履きの底がじゃりっと音を鳴らして、これを片付けなければいけないと理性が働き、足が鉛のように重たくなる。
「——間宮?」
私を呼ぶ声に大きく肩が跳ね、体内に蓄積された不安や恐れが一気に溢れ出す。
おずおずと振り向くと、誰かが階段の上に立っている。
切れ長の目に、への字になっている口。昔の面影を残したまま、いつのまにかクラスで浮いている存在になっている金髪男子がいた。
「……お前、なにしてるんだ?」
朝比奈聖。よりにもよって、彼に目撃されてしまうなんて最悪だ。
「つーか、鏡すげーことになってんな」
こんな風に話しかけられるのは小学生以来かもしれない。
どうしよう。なんて言って切り抜けよう。そんなことを頭で考えながらも言葉がうまく出てこない。
逃げるように視線を落とすと、足元に散らばる鏡の破片が目にとまる。のっぺらぼうに見える私の顔は、彼にはどう見えているのだろう。
「朝比奈くん」
震える声で名前を呼ぶと、喉の奥がひりつく。こんなにも弱々しく掠れた声が出るとは思わなくて、少し驚いた。
視線を再び彼に戻すと、不安げな眼差しが向けられている。相手が苦手な朝比奈くんなのに、私を見てくれている人がいるということに酷く安堵して、視界が滲んでいく。
「ねえ、私の顔……見える?」
小さく「は?」と困惑したような声が聞こえた気がする。
「顔って……」
これは最後の悪あがきのような確認だった。彼の反応を見れば、答えなんてわかりきっている。たとえ予想外の返答がきたとしても、私が自分の顔を認識できないことに変わりない。
ほんの数秒間を置いてから、朝比奈くんは一歩踏み出して階段の手すりに右手をかけた。
「お前もしかして……〝青年期失顔症〟なのか?」
頭から水をかけられたように全身が冷えていく。
その言葉を自分に当てはめることに私は無意識に避けていた。
私は大丈夫。発症するはずがない。そう思い込んでいた。だってこの病は精神が弱い人がなるはずだ。
それなのに……どうして。
目の前が歪んで揺れていく。体がふらつき、階段の手すりに手を伸ばそうとするけれどつかめない。
「っ、おい! 間宮!」
焦りを含んだような大きな声がする。宙を切る私の手を温かいなにかが掴んで、そのまま体が倒れていく。そうして私の視界は真っ暗になった。
*
<青年期失顔症>
青年期に個性を見失い、自分の意見を飲み込むことが強いストレスになると発症する。周りに合わせることを覚えていく過程で発症することが最も多い。
具体的な症状は、自分の顔が認識できなくなり、のっぺらぼうのように見えてしまう。ただし周りからは、普通に見えている。
発症しても言わなければ周りにはバレないため、私の周りで発症している人を見たことは数えるほどしかなかった。けれど、発症しているとわかると周りからどのような目を向けられるかは知っている。
『あの子、青年期失顔症だって』
『じゃあ、今まで周りに合わせていい顔してたってことじゃん』
『本心じゃなかったってことだよね。なんかそういうのってさ……信用できなくない?』
そんな風に好き勝手噂されて、周りからは今まで自分を偽っていたと思われる。
そういう人たちを見てきたからこそ、私は自分が発症しているなんて信じたくなかった。
「——片付けまで悪いわね。ありがとう」
話し声とドアが閉まるような音が聞こえる。薄く目を開いていくと、真っ白な天井が見えた。
少し黄ばんだカーテンに仕切られており、私の体は硬いベッドの上にいる。
……ここは保健室だろうか。
ゆっくりと上半身を起こすと、カーテンが開かれた。
「具合はどう?」
この学校で養護教諭として働いている二十代半ばくらいの女性——叶ちゃん先生が柔らかく微笑む。
後ろでひとつにまとめられた黒髪と、ふちのないメガネに白衣。色気と清楚な雰囲気をどちらも併せ持っており、思わず同性の私も見惚れてしまう。
「まだ具合悪いかしら」
「え? あ……大丈夫です」
自分の顔が認識できなくなった衝撃で鏡を落として、その後どうしたのか頭がぼんやりとして記憶があやふやだった。
「急に倒れたみたいよ。朝比奈くんが慌ててあなたのことを運んできたの」
「朝比奈、くん」
思考が一気に現実に引き戻されて、血の気が引いていく。
思い出した。鏡を割ってしまったあと、私に声をかけてきたのは朝比奈くんだ。
〝青年期失顔症〟なのかと彼に問われて、その直後に私は意識を手放したようだった。