そして最後の嘘をつく

状況が理解できないまま
スマホ片手にキッチンに立っている。

田舎から出てお洒落な都会に行きたいと
無理を言って1人暮らしをしている
僕は、自分の部屋に彼女を
招き入れることになってしまった。

原因は、さっきの質問に対する返事だ。

『君は何をくれるの?高校生くん。』

その言葉に僕はこう答えた。

『じゃあ、僕は如月さんに
お風呂と暖かいご飯をあげますね。』

僕の予定では後日、ということ
だったのだが何故か如月さんが
うちまでついてきてしまったのだ。

こうなったら仕方がない、
というわけで如月さんには先に
お風呂に入ってもらっている。

料理が得意なわけではないから
簡単そうなメニューを探して作る。
お風呂から出てきた如月さんが
鼻を動かして尋ねる。

「晩御飯なに?」

「鍋です。」

テーブルに運ぶと彼女の瞳が
きらきらと輝いた。

「「いただきます。」」

顔は知っているとはいえ
赤の他人と食卓を囲むのは
あまりに大胆なことだ。

そもそも無視すれば良かったのに
自分の発言のせいだと勝手に責任を
感じて家にあげた僕が悪いのか、

それとも後日と思っていたのに
家までついてきた如月さんが悪いのか。

目の前で美味しそうに鍋を
頬張る如月さんが不意に口を開く。

「豚肉なんか食べるの久しぶり。
高校生くん料理めっちゃ上手だね。」

「豚肉、いつもは食べないんですか?」
「まぁね。体型維持のためって
言ってマネージャーが禁止にしてさ。
いつも私のご飯を用意するのも
マネージャーだから食べられなくて。」

「肉、どんどん食べてください。
僕はいつでも食べられるんで。」

すすめると如月さんは嬉しそうに
大量の肉を自分の皿に乗せていく。

その姿を見ながらぼんやりと考えた。

クラスメイトの話を聞いたとき、
確か大学3年生って言ってたから
如月さんは23歳なのだろう。

そんな若さで世界的に有名な
ピアニストになっているのだから
本当に大したものだ。

「美味しかった!!」

それだけ言うと如月さんは
ひらりと手を振って帰っていった。

そして僕は、中学1年生以来
触れていなかった奥の部屋の
古ぼけたアップライトピアノに
そっと指を置いた。
如月さんはあの日から、
ときどき僕の部屋に来るようになった。

そういうとき、僕は決まって
豚肉の料理を作るようにする。

僕たちは赤の他人で、
それなのに何故か僕は
如月さんに惹かれていた。

妬んでいたのかもしれない。
僕にはないものを、如月さんは
当たり前のようにもっている。

やがて、僕は彼女のことを
柚さんと呼ぶようになった。

彼女は相変わらず僕のことを
高校生くん、という名前で呼ぶ。

『名前は何て言うの、高校生くん。』

『アンダーソンです。』

『嘘つけ。』

という感じで僕が名前を言わないからだ。

そうやってしょうもない嘘をつくのも
嫌いではなくむしろ楽しかったが、
僕は彼女に自分の名前を
知られてはいけない事情があった。

このことを知れば、
きっと彼女は傷付くから...。
「やっほ、高校生くん。」

その日は何故か柚さんが
綺麗な一眼レフカメラを持って
僕の部屋に現れた。

「そのカメラ、どうしたんですか。」

「高校生くんと出会って
1週間記念のプレゼント。」

「こんな高いの貰えませんよ。」

大丈夫、稼いでるから、と
ふざけていう柚さんにため息が出た。

気付けば僕の首にかけられていた
レフを柚さんに突き返す。

「とにかく、高級品は貰えません。」

「じゃあ、代わりに
私の欲しいものちょうだい?」

「何が欲しいんですか?」

「私に最初の1枚を撮らせてよ。」

びっくりして咳が出た。
この人は何を考えているんだ。
コートを羽織って2人で
夜の公園を散歩する。
暗い夜の濃紺に浮かぶのは光り輝く月だ。

「思ったより寒いね。」

「出たいって言ったのは
柚さんの方なんですからね。」

はらはらと、雪が舞い降りてくる。
きりっとした美しさを身に纏う
冬空に思わず笑みが零れる。

カシャッ。

ふいにシャッター音が響いて
振り返ると、柚さんがカメラを
構えてこちらを見ていた。

「最初の1枚、いい感じだよ。」

「よりにもよって僕の写真ですか。
柚さんの方がよっぽど写真映えするのに。」

写真が撮れたからもう部屋に帰る、
と言い出した柚さんと帰り道を
辿りながら尋ねる。
すると柚さんはふっと笑って
僕の方をじっと見た。

「高校生くんがもし私にカメラを
プレゼントするとしてさ。最初の
1枚を撮らせてもらえるとしたら
何を撮る?」

少し考えて、それから答える。

「まぁ柚さん、ですかね。」

「ほら、そういうことだよ。」

柚さんの話は、ハッキリ言って
ぜんぜん質問の答えになっていない。
なのに、何故かそれらの言葉は
僕の心にすっと染み込んでいった。

部屋に帰って夕飯を食べると、
柚さんは帰っていく。

食器をシンクに運んでいると、
柚さんが使っていた皿の横に
小さなメモが置いてあった。

「私の連絡先。いつでも連絡してね!」

そこには、11ケタの数字がきれいな
並べられている。柚さんらしい、
細長くて綺麗な文字だった。
僕も昔はピアノに溺れていた。

初めは単純な興味だったのだ。

幼稚園の頃の友達がピアノをしていると
聞いて自分もやりたくなった。

母に何度も何度も頼み、お年玉と
誕生日プレゼントの前倒しとして
買ってもらった小さな電子ピアノは、
今でも実家にひっそりと置いてある。

ピアノというのは面白いものだ。
白と黒のタイルが並んでいるだけなのに
それを順番に押していくだけで
音楽を奏でることが出来るのだから。

4歳のときにはじめたピアノで、
6歳になるころにはコンクールに
出場するようになり、小学校高学年に
上がるとコンクールの優勝を総ナメした。

今だから言えるものだが、僕には
ピアノの才能があったのかもしれない。

ピアノの練習は苦ではなかったし、
ピアノと向き合っているときが
自分にとって1番幸せだったから。
中1のとき、ショパン国際コンクールの
アジア部門に出場して賞をもらい、
僕はネットや新聞でかなり注目されて
天才ピアニスト、と騒がれた。

『天才ピアノ少年あらわる。』

そういう記事を後になって
何度も目にした。

あのときの僕は幸せだった。
記事で騒がれていることさえ知らず
ただ一途にピアノと生きていたのだから。

そのままで、いられたら良かった。

天才ピアニスト速水碧として
ずっと長い人生を生きられたなら
どれほど楽しかっただろう。

僕がピアノを弾くことは、
これから先の人生ではありえない。

弾かない、ではない。













弾きたくても弾けないのだから、
それで納得してはくれないだろうか。