そして最後の嘘をつく

「ピアノ、弾けるの?」

尋ねられて、僕はにこりと笑う。

「ほとんど弾けませんよ。」

あの部屋には、見られては
いけないものがたくさんある。

コンクールの賞状やトロフィー、
創作楽譜、それから...。

僕が出場した最後の地区コンクールで
撮った、如月さんも映っている集合写真。

僕は、自分が速水 碧だと
如月さんに知られたくない。

いつのまにか如月さんの
全てに惹かれて好きになっていた。

僕が、速水 碧だと知れば如月さんは
喜ぶだろうし、今はピアノが弾けないのだ
と知れば彼女は落ち込むだろう。

彼女にはいつも笑っていてほしい。
僕の手でその顔を暗くさせたくない。
そんな思いがあった。
最近また、症状が酷くなっている。
残され時間は少ないのだろう。

視界がぐにゃりと歪む。

「高校生くん...?!」

ふらりと倒れそうになったところを
寸前のところで如月さんに
しっかりと抱き留められた。

背中に感じる如月さんの手の感触。

「ダメです...如月さんの手に
負荷がかかるから、離してください...」

「高校生くんの馬鹿!
そんなのはどうでもいい。
気にしなくていいのよ。」

ベッドの場所を聞かれて、
自分で行けますと言いつつ答えると
如月さんは僕を抱き上げて
ベッドまで運びそっと横たえた。

無理しないで、と頭を撫でられる。


その優しさに甘えて目を閉じつつ
僕は、如月さんと離れることを決心した。
翌日、朝起きるとテーブルの上に
可愛らしいメモが置いてあった。

『高校生くん寝たから帰るね。
夕飯いただいちゃいました。柚より』

部屋の少ない荷物をダンボールに
詰め込んで、大家と話し合って
倍ほどの値段を払うことを条件に
部屋を引き払う。

如月さんとは、もう会わない。




そう決めた僕の頬を、
一筋の涙が静かに零れ落ちた。
君があの部屋からいなくなったとき、
もう会えないのだろうと悟った。

1人で悩んで1人で解決策を出して
勝手に去ってしまった君に腹が立った。

私が君の招待に気付いてない
とでも思ったのだろうか。

稀代の天才ピアニスト速水 碧。

君がその張本人だってことは
出会ったその時から分かっていた。

昔から変わっていない
つやつやとした黒髪にグレーがかった瞳。

パッと見ただけですぐに気付いた。

雨に濡れていたのは君と話すための口実。

本当はバッグにちゃんと
折り畳み傘を持っていたんだ。

だけど、ここで雨に濡れていれば
君は私に必ず話しかけてくれると
分かっていたから。

いつになっても、
速水 碧は優しいままだ。
人生で初めて出場した
小さな地区ブロックのコンクールで
私は君と初めて出会った。

私にとっては初めてで、
速水くんにとっては
人生最後のコンクールだったあの大会。

コンクールの結果はもちろん
速水くんが金賞で、私はまだまだ
荒削りだったけれど銅賞だった。

今でも、覚えている。

速水くんが人生最後のコンクールで
弾いていた、彼の得意曲である
トルコ行進曲のジャズアレンジ。

衝撃だったんだ。

自分より年下の彼があんなにも
楽しそうにカッコいい曲を弾いている
っていうことが。

今の私の十八番と言われるのが
トルコ行進曲のジャズアレンジなのは
彼に憧れて、永遠に手の届かない
後ろ姿を追いかけて来たから。
「なんで勝手にいなくなっちゃうの!」

自棄くそになりつつ大家に聞いた。
何処に行ったのかは知らないと言われた。

絶対に見つけてやる。

君の部屋の前に座り込んだ。
大家に文句を言われても退かなかった。

1週間が過ぎ、月曜日がくる。
それが繰り返されて1ヶ月が
経ったとき、私はもう一度速水くんに
会うことが出来たんだ。

『如月、さん...?!』

驚いて固まる速水くんを、
私はただただ強く抱き締める。

『馬鹿だね、高校生くんは。
部屋を引き払ったくらいで私の気持ちが
冷めるとでも思ったの?』

好きになっていた。

どこか浮世離れしている見た目も
少し男子にしては高い声も
何もかもがいとおしく思えていた。

だから、君の言葉に傷付いたんだ。
『意味わかんないです。
鬱陶しいので離れてください。』

普段の高校生くんからは
想像も出来ないような冷たい拒絶。

『なんで...』

『なんで僕が部屋を引き払ったのか
気になるんですか?
そんなの決まってますよね。』

やめて。

『だって僕は...』

聞きたくない。

『如月さんのこと、嫌いですから。』

彼を抱き締めていた腕がふっと緩む。
呆然とする私をおいて去っていく
その後ろ姿をただ眺めていた。

少し遅れて涙が溢れてくる。

『失恋、しちゃったなぁ......っ。』

どうしようもなく好きだった。
君への感情は紛れもない愛だった。
あれから、約1年後。

速水くんの両親から、
彼が亡くなったという電話が来た。

『碧から、自分が死んだら
この番号に掛けてくれと言われて。』

不思議そうに言う速水くんの
お母さんの言葉に思わず涙ぐむ。

高校生くんを抱き締めたとき
彼の体温が低いことに気付いたし、
倒れたときのことを思い返すと
相当な無理をしていたんだと思う。

『如月さんのこと、嫌いですから。』

君が私に向けて最後に言った言葉。
語尾が少し、震えていた。

「演じるなら、最後まで完璧に
しなくちゃダメだよ、高校生くん。」

彼の葬儀に参列して、珍しく笑い顔の
遺影に向かって語りかける。

君は、どこまでいっても素直だ。
そして、私は少し微笑むと
葬儀会場で異様な雰囲気を醸し出す
グランドピアノに腰かける。

これは彼の両親に頼まれたことだった。

深呼吸をして鍵盤に指を置く。

そうして弾き始めたのは、
私たちの始まりと終わりを描く曲。



トルコ行進曲のジャズアレンジだった。


葬儀にそぐわないアップテンポの曲
だが、参列者の目には涙が溢れていた。