そして最後の嘘をつく

すると柚さんはふっと笑って
僕の方をじっと見た。

「高校生くんがもし私にカメラを
プレゼントするとしてさ。最初の
1枚を撮らせてもらえるとしたら
何を撮る?」

少し考えて、それから答える。

「まぁ柚さん、ですかね。」

「ほら、そういうことだよ。」

柚さんの話は、ハッキリ言って
ぜんぜん質問の答えになっていない。
なのに、何故かそれらの言葉は
僕の心にすっと染み込んでいった。

部屋に帰って夕飯を食べると、
柚さんは帰っていく。

食器をシンクに運んでいると、
柚さんが使っていた皿の横に
小さなメモが置いてあった。

「私の連絡先。いつでも連絡してね!」

そこには、11ケタの数字がきれいな
並べられている。柚さんらしい、
細長くて綺麗な文字だった。
僕も昔はピアノに溺れていた。

初めは単純な興味だったのだ。

幼稚園の頃の友達がピアノをしていると
聞いて自分もやりたくなった。

母に何度も何度も頼み、お年玉と
誕生日プレゼントの前倒しとして
買ってもらった小さな電子ピアノは、
今でも実家にひっそりと置いてある。

ピアノというのは面白いものだ。
白と黒のタイルが並んでいるだけなのに
それを順番に押していくだけで
音楽を奏でることが出来るのだから。

4歳のときにはじめたピアノで、
6歳になるころにはコンクールに
出場するようになり、小学校高学年に
上がるとコンクールの優勝を総ナメした。

今だから言えるものだが、僕には
ピアノの才能があったのかもしれない。

ピアノの練習は苦ではなかったし、
ピアノと向き合っているときが
自分にとって1番幸せだったから。
中1のとき、ショパン国際コンクールの
アジア部門に出場して賞をもらい、
僕はネットや新聞でかなり注目されて
天才ピアニスト、と騒がれた。

『天才ピアノ少年あらわる。』

そういう記事を後になって
何度も目にした。

あのときの僕は幸せだった。
記事で騒がれていることさえ知らず
ただ一途にピアノと生きていたのだから。

そのままで、いられたら良かった。

天才ピアニスト速水碧として
ずっと長い人生を生きられたなら
どれほど楽しかっただろう。

僕がピアノを弾くことは、
これから先の人生ではありえない。

弾かない、ではない。













弾きたくても弾けないのだから、
それで納得してはくれないだろうか。
人はいずれ死ぬ。
昔から、僕の思考は周りの人よりも
少しだけ死に近い位置にあった。

死んだらどうなるのだろう。

別にいじめなどで精神を病んでいる
わけでもなく、満足に生きているのに
そういうことを考えたのも
両手で数えられる回数ではない。

僕にとってピアノは友達、
もしくはそれ以上の存在であり
何よりもピアノが好きだった。

今はもう弾けないのだ、
人生には何の未練も残っていない。

少し前まではそう思っていた。

だけど、あのときの如月さんとの
出会いが僕を変えてくれたのだろう。

死んだらどうなるのか、
そういうことへの興味が薄れ
如月さんに興味を持ったのだ。
「やっほ~、高校生くん。
今日はテレビの取材してきた!」

外の寒さに頬を真っ赤にして
うちにくる如月さんのために、
いつでもお風呂はあたためてある。

「ご飯は作っとくのでちゃちゃっと
お風呂に入っちゃってください。」

僕がそういうと如月さんは
いつも通りシニョンに結い上げた髪を
ほどきながら返事をした。

「わかった!高校生くん
いつもお風呂もご飯もありがとうね。」

「そんなこと言っても今日は
買い忘れたから豚肉ないですよ。」

「別にそういう意味で
言ったんじゃないのになー?
高校生くん、褒め言葉は
素直に受け取ってくれないよね。」

「早くお風呂はいってきてください!」

僕が大きな声を上げると
如月さんは楽しそうに笑って
出ていった。
ほっと息をつく。

その瞬間、ぐらりと視界が揺れた。

「.........っ。」

テーブルの端に手をついて
深呼吸を繰り返すと、視界が
ゆっくりと正常に戻っていく。

如月さんに知られてはいけない僕の秘密。

名前と、それから...


僕に、残された時間のこと。




どうしても知られてはいけない。
如月さんにだけは知られたくない。

彼女と出会って、僕は。

いつの間にか、恋をしていた。
夕食を作り終えてテーブルに
並べていると、閉まったドアの向こうから
微かに音がすることに気付いた。

耳を澄まして。

音の正体に気付き、
僕は奥の部屋へと走っていく。

明るく跳び跳ねるような旋律。

繰り返される有名な音色が
ぶつ切りにアレンジされているそれは、
かつての僕が好きだった曲で
如月さんの十八番と言われている曲。

トルコ行進曲のジャズアレンジだった。

奥の部屋のドアを勢いよく開ける。

「高校生くんってピアノ...」

「......出て。」

「え、何?」

「この部屋から早く出てください。」

僕の声のトーンに切迫したものを
感じたのか、如月さんはコクリと頷いて
素直に部屋から出てきた。
「ピアノ、弾けるの?」

尋ねられて、僕はにこりと笑う。

「ほとんど弾けませんよ。」

あの部屋には、見られては
いけないものがたくさんある。

コンクールの賞状やトロフィー、
創作楽譜、それから...。

僕が出場した最後の地区コンクールで
撮った、如月さんも映っている集合写真。

僕は、自分が速水 碧だと
如月さんに知られたくない。

いつのまにか如月さんの
全てに惹かれて好きになっていた。

僕が、速水 碧だと知れば如月さんは
喜ぶだろうし、今はピアノが弾けないのだ
と知れば彼女は落ち込むだろう。

彼女にはいつも笑っていてほしい。
僕の手でその顔を暗くさせたくない。
そんな思いがあった。
最近また、症状が酷くなっている。
残され時間は少ないのだろう。

視界がぐにゃりと歪む。

「高校生くん...?!」

ふらりと倒れそうになったところを
寸前のところで如月さんに
しっかりと抱き留められた。

背中に感じる如月さんの手の感触。

「ダメです...如月さんの手に
負荷がかかるから、離してください...」

「高校生くんの馬鹿!
そんなのはどうでもいい。
気にしなくていいのよ。」

ベッドの場所を聞かれて、
自分で行けますと言いつつ答えると
如月さんは僕を抱き上げて
ベッドまで運びそっと横たえた。

無理しないで、と頭を撫でられる。


その優しさに甘えて目を閉じつつ
僕は、如月さんと離れることを決心した。