◇
人生は、何が災いするのか、何が功を奏するのかわからない。
関東ながら、都心からはだいぶ離れた小さな街の商店街の一角にある八百屋の娘に生まれ、公立小学校、中学校、高校を卒業して、大学では社会・経済を学び4年で卒業。
就職活動はそれなりに頑張ったけれど、なんとか就職出来た中規模証券会社で5年勤務。
その過程で、色恋沙汰もそれなりにあって。
けれど特記する様なドラマティックなことがあった訳ではない。
お父さんもお母さんも優しくて、至って平和な…平凡な人生。
それがずっと、ずっと続くのだと思っていた。
…けれど。
「橘さーん!困るんだよねえ!こーんな借金抱えてさあ…我が物顔でいつまでも居座って?示しつかねーだろう」
「す、すみません…。でも、こんな…1,000万円なんて大金、すぐには用意できません…」
「はあ?!じゃあ出てけよ!ここ!土地で払えば良いだろうが!」
一ヶ月前から、スーツを着てはいるけれど、どう考えても闇の金融の方と思われる態度も体も大きな男が数人毎日の様に実家に現れる様になった。
事の発端は、実家のある地区の大型ショッピングセンター建設計画。
1年ほど前から、商店街の人たちは、毎日の様に立ち退きにあって、屈して出て行った人もいるけれど、魚屋の八郎さんとうちは断固として動かなかった。
立ち退きを迫る業者は、三ヶ月位前にピタリと話をしてこなくなって、「諦めたのかも!」と喜んでいた矢先。
「魚屋の借金、あなたが連帯保証人になっています」
今度は金融回収業者が現れた。
立ち退きを迫っていた不動産屋の人も一緒に。
「ちょっと!恐喝まがいの事をするなら、警察呼びますよ!」
お父さんとお母さんを庇うため、なるべく有給をとって実家に帰って来ているここ一ヶ月。
今日も、お父さんとお母さんを奥の部屋へと押しやって、立ちはだかった。
「まあまあ、落ち着いてくださいよ。」
息巻く私に、不動産屋は不敵な笑みを浮かべる。
こいつ…私と大して年齢が変わらなそうなのに、物凄く人を蔑んだ目で見るな。
165cmの私とあまり変わらない身長ながら小太りなその男は、少し息を荒くして、口元を歪ませ笑う。
…本当にいつ見ても気持ち悪い。
「…立退きはしてもらわないと困るけどさあ。こっちもプロの不動産屋なわけだしね?
あんたの意志次第だと思うけど?」
「わ、私の…?」
「そう。そこは忖度ってやつ?ここはちょうど商店街の端だし、ショッピングモールの建設予定地から外せる様に口聞けるけどなあって話よ。借金だってチャラにできるしね?」
「ど、どうすれば…」
「そりゃ…ね?」
より近づいて、私の腰をゆっくりとその太めの腕が抱き寄せる。
「俺と結婚しちゃえば…ね?」
「…っ」
気持ち悪さが、ピークになって、思わずキュッと口を噛み締めた。
…こんな奴と結婚なんて絶対したくない。
体を触られるのだって嫌だ。
だけど…精神的に追い詰められ、日に日にやつれていくお父さんとお母さんを思うと、拒否できなかった。
「…正式に結婚するまでは、お父さん達に内緒にしてもらえますか。」
きっと、結婚するって聞いたら、猛反対するに決まっているから。
結婚してしまった後で報告をすればきっと諦めもつくはず。
私…自身も。
自分の人生に諦めがつく。
「じゃあ、折角だから、都内のホテルにでも行って、“契約”でもしようか。俺の嫁さんになるなら、着物でもドレスでも着せてやる。嬉しいだろ?」
ニヤリと笑うその男に、目を合わせないままコクリと頷いた。
しがない田舎町の、悪徳不動産屋のボンボン。
それでも、やっぱり金はそれなりにあるらしい。
都内でも一流のロイヤルスカイタワーホテルで待ち合わせになったその日。
その日が…私の運命を変える日だって、全くこの時は思わなかった。
ロイヤルスカイタワーホテルのエントランスは、大きなパーティーがあるとかで綺麗なドレスやスーツを纏った女性やそれをエスコートする男性でとても賑わっていた。
“隣の芝は青く見える“と言うけれど、実際あっちに行ったら今自分が置かれている状況よりは綺麗な芝な気がする。
そんなことを思いながら、指定された通り、ホテル内の美容室へと足を運ぶ。
「お連れ様からのご指定でございます。」
…何このギラギラな着物。
金や赤を基調とした、どう考えても悪趣味な着物と帯。
『好きなもの着せてやる』なんて嘘じゃない。
どうせ、あの悪趣味そうなボンボンの事だから、帯を解いて悪代官みたいな事やりたいんでしょ。
それが分かっているのに、言う通りに着付けされなければいけない自分がいたたまれなくて、帯の締め付けが強く感じた。
…私の人生はここで終わりなんだから。
もう、何も思ってはいけない。
着付けを済ませて乗り込んだエレベーターの中で、キュッと再び唇を結ぶ。
覚悟…しよう。
案内された部屋の前に立ったら、突然スマホが鳴り出した。
『もしもし?!美花?!お前、何考えてるんだ!』
お、お父…さん…?!
『あんな、不動産のボンボンと結婚なんて絶対するんじゃない!』
どうして…バレたの?
『良いか?魚屋のはっちゃんは確かに俺を連帯保証人にしてトンズラした。でもな。ここであいつらに屈したらダメなんだ!』
「で、でも…」
『美花!俺達の為に犠牲になるのは親不孝だぞ!』
お父さん…。
張っていた気持ちが少しだけ緩んで、目頭が熱くなる。
『とにかく、お断りをして戻って来なさい。俺たちも今、家ではない所に来ているから。あいつらも探すのに時間がかかると思うから。大丈夫だ。場所はお前が無事に逃げたら連絡する!』
「わ、分かった…。」
かちゃりとそこで、目の前のドアが開いて、ボンボンが顔を出す。
「待ちくたびれたぞ。入れ。」
「い、いえ…あの。」
一度、キュッと唇をまた結んだ。
「こ、この結婚、やっぱりやめさせていただきます!」
私の言葉にボンボンの顔が一気に歪む。
「…はあ?無理に決まってんだろ!」
そう言うと、腕をすごい力で引っ張った。その弾みで、部屋の中へと体が入ってしまう。
「…お前は俺がモノにすんだよ。」
ど、どうしよう…
「それとも、売り飛ばしてやろうか?このまま。ああ?」
「…っ!」
後ずさりした先にベッドがあって、そこに体がストンと沈んだ。
間髪入れずに、ボンボンの体が覆いかぶさってくる。
「…大人しくしてりゃ、可愛がってやるよ」
生暖かく、ヤニ臭い息に悪寒が一気に体中を駆け巡った。
『負けちゃダメだ!』
そう…だよね。
負けちゃダメだ。
私…こんな奴に抱かれたくない!
「やめて!」
もう、無我夢中だったと思う。
着物を胸元から無理に剥ごうとしているボンボンの股間を思いっきり蹴り上げた。
「ぐっ…あっ」
突然の痛みに横にドサリと倒れ込むボンボン。
…良かった。
こいつ以外、この部屋にはいないみたい。
慌てて、起き上がって、草履もはかずにドアを開け、廊下へと出た。
「っ!待ちやがれ!…おい、逃げた!早く来い!」
部下にでも連絡をしているのだろうか。
いまだに股間を押さえて、顔を痛みで歪ませながら、ドアから顔を覗かせ怒鳴っている。
…もし、仲間が来てしまったら、すぐに捕まってしまうかも。
乱れている着物の胸元を押さえながら、ただただ必死で走った。
一番近くにあった螺旋階段をぐるぐると2階ほど降りた先のパーティー会場の階。その廊下をひたすら走り、たどり着いたエレベーター。
どう…しよう。ここから外にすぐに出ても捕まってしまいそう。
そもそも、部屋に仲間が居なかったってことはロビーで待機している可能性もあるってことで…
「おい!あそこだ、居たぞ!」
遠くで声がして振り向いたら、数人の男がこっちに向かってくる。その先頭にボンボンも居る。
ど、どうしよう…
これぞ、絶体絶命ってやつだ…なんて諦めかけた矢先だった思う。
目の前のエレベーターのドアが開いたと同時に腕を引っ張られて、エレベーターの中へと体を押し込められ、すぐさまエレベーターは閉まり動き出す。
目の前には…私よりもだいぶ背の高い、スーツ姿の男性。
黒髪がふわりとしていて、少し眠そうにも見えるほどの二重の目。薄めで形の良い小さめの唇とスッと通った鼻筋で、比較的色白なその人は、私の手首を持ったまま、ジッと私を見て少し小首を傾げた。
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人生は、何が災いするのか、何が功を奏するのかわからない。
関東ながら、都心からはだいぶ離れた小さな街の商店街の一角にある八百屋の娘に生まれ、公立小学校、中学校、高校を卒業して、大学では社会・経済を学び4年で卒業。
就職活動はそれなりに頑張ったけれど、なんとか就職出来た中規模証券会社で5年勤務。
その過程で、色恋沙汰もそれなりにあって。
けれど特記する様なドラマティックなことがあった訳ではない。
お父さんもお母さんも優しくて、至って平和な…平凡な人生。
それがずっと、ずっと続くのだと思っていた。
…けれど。
「橘さーん!困るんだよねえ!こーんな借金抱えてさあ…我が物顔でいつまでも居座って?示しつかねーだろう」
「す、すみません…。でも、こんな…1,000万円なんて大金、すぐには用意できません…」
「はあ?!じゃあ出てけよ!ここ!土地で払えば良いだろうが!」
一ヶ月前から、スーツを着てはいるけれど、どう考えても闇の金融の方と思われる態度も体も大きな男が数人毎日の様に実家に現れる様になった。
事の発端は、実家のある地区の大型ショッピングセンター建設計画。
1年ほど前から、商店街の人たちは、毎日の様に立ち退きにあって、屈して出て行った人もいるけれど、魚屋の八郎さんとうちは断固として動かなかった。
立ち退きを迫る業者は、三ヶ月位前にピタリと話をしてこなくなって、「諦めたのかも!」と喜んでいた矢先。
「魚屋の借金、あなたが連帯保証人になっています」
今度は金融回収業者が現れた。
立ち退きを迫っていた不動産屋の人も一緒に。
「ちょっと!恐喝まがいの事をするなら、警察呼びますよ!」
お父さんとお母さんを庇うため、なるべく有給をとって実家に帰って来ているここ一ヶ月。
今日も、お父さんとお母さんを奥の部屋へと押しやって、立ちはだかった。
「まあまあ、落ち着いてくださいよ。」
息巻く私に、不動産屋は不敵な笑みを浮かべる。
こいつ…私と大して年齢が変わらなそうなのに、物凄く人を蔑んだ目で見るな。
165cmの私とあまり変わらない身長ながら小太りなその男は、少し息を荒くして、口元を歪ませ笑う。
…本当にいつ見ても気持ち悪い。
「…立退きはしてもらわないと困るけどさあ。こっちもプロの不動産屋なわけだしね?
あんたの意志次第だと思うけど?」
「わ、私の…?」
「そう。そこは忖度ってやつ?ここはちょうど商店街の端だし、ショッピングモールの建設予定地から外せる様に口聞けるけどなあって話よ。借金だってチャラにできるしね?」
「ど、どうすれば…」
「そりゃ…ね?」
より近づいて、私の腰をゆっくりとその太めの腕が抱き寄せる。
「俺と結婚しちゃえば…ね?」
「…っ」
気持ち悪さが、ピークになって、思わずキュッと口を噛み締めた。
…こんな奴と結婚なんて絶対したくない。
体を触られるのだって嫌だ。
だけど…精神的に追い詰められ、日に日にやつれていくお父さんとお母さんを思うと、拒否できなかった。
「…正式に結婚するまでは、お父さん達に内緒にしてもらえますか。」
きっと、結婚するって聞いたら、猛反対するに決まっているから。
結婚してしまった後で報告をすればきっと諦めもつくはず。
私…自身も。
自分の人生に諦めがつく。
「じゃあ、折角だから、都内のホテルにでも行って、“契約”でもしようか。俺の嫁さんになるなら、着物でもドレスでも着せてやる。嬉しいだろ?」
ニヤリと笑うその男に、目を合わせないままコクリと頷いた。
しがない田舎町の、悪徳不動産屋のボンボン。
それでも、やっぱり金はそれなりにあるらしい。
都内でも一流のロイヤルスカイタワーホテルで待ち合わせになったその日。
その日が…私の運命を変える日だって、全くこの時は思わなかった。
ロイヤルスカイタワーホテルのエントランスは、大きなパーティーがあるとかで綺麗なドレスやスーツを纏った女性やそれをエスコートする男性でとても賑わっていた。
“隣の芝は青く見える“と言うけれど、実際あっちに行ったら今自分が置かれている状況よりは綺麗な芝な気がする。
そんなことを思いながら、指定された通り、ホテル内の美容室へと足を運ぶ。
「お連れ様からのご指定でございます。」
…何このギラギラな着物。
金や赤を基調とした、どう考えても悪趣味な着物と帯。
『好きなもの着せてやる』なんて嘘じゃない。
どうせ、あの悪趣味そうなボンボンの事だから、帯を解いて悪代官みたいな事やりたいんでしょ。
それが分かっているのに、言う通りに着付けされなければいけない自分がいたたまれなくて、帯の締め付けが強く感じた。
…私の人生はここで終わりなんだから。
もう、何も思ってはいけない。
着付けを済ませて乗り込んだエレベーターの中で、キュッと再び唇を結ぶ。
覚悟…しよう。
案内された部屋の前に立ったら、突然スマホが鳴り出した。
『もしもし?!美花?!お前、何考えてるんだ!』
お、お父…さん…?!
『あんな、不動産のボンボンと結婚なんて絶対するんじゃない!』
どうして…バレたの?
『良いか?魚屋のはっちゃんは確かに俺を連帯保証人にしてトンズラした。でもな。ここであいつらに屈したらダメなんだ!』
「で、でも…」
『美花!俺達の為に犠牲になるのは親不孝だぞ!』
お父さん…。
張っていた気持ちが少しだけ緩んで、目頭が熱くなる。
『とにかく、お断りをして戻って来なさい。俺たちも今、家ではない所に来ているから。あいつらも探すのに時間がかかると思うから。大丈夫だ。場所はお前が無事に逃げたら連絡する!』
「わ、分かった…。」
かちゃりとそこで、目の前のドアが開いて、ボンボンが顔を出す。
「待ちくたびれたぞ。入れ。」
「い、いえ…あの。」
一度、キュッと唇をまた結んだ。
「こ、この結婚、やっぱりやめさせていただきます!」
私の言葉にボンボンの顔が一気に歪む。
「…はあ?無理に決まってんだろ!」
そう言うと、腕をすごい力で引っ張った。その弾みで、部屋の中へと体が入ってしまう。
「…お前は俺がモノにすんだよ。」
ど、どうしよう…
「それとも、売り飛ばしてやろうか?このまま。ああ?」
「…っ!」
後ずさりした先にベッドがあって、そこに体がストンと沈んだ。
間髪入れずに、ボンボンの体が覆いかぶさってくる。
「…大人しくしてりゃ、可愛がってやるよ」
生暖かく、ヤニ臭い息に悪寒が一気に体中を駆け巡った。
『負けちゃダメだ!』
そう…だよね。
負けちゃダメだ。
私…こんな奴に抱かれたくない!
「やめて!」
もう、無我夢中だったと思う。
着物を胸元から無理に剥ごうとしているボンボンの股間を思いっきり蹴り上げた。
「ぐっ…あっ」
突然の痛みに横にドサリと倒れ込むボンボン。
…良かった。
こいつ以外、この部屋にはいないみたい。
慌てて、起き上がって、草履もはかずにドアを開け、廊下へと出た。
「っ!待ちやがれ!…おい、逃げた!早く来い!」
部下にでも連絡をしているのだろうか。
いまだに股間を押さえて、顔を痛みで歪ませながら、ドアから顔を覗かせ怒鳴っている。
…もし、仲間が来てしまったら、すぐに捕まってしまうかも。
乱れている着物の胸元を押さえながら、ただただ必死で走った。
一番近くにあった螺旋階段をぐるぐると2階ほど降りた先のパーティー会場の階。その廊下をひたすら走り、たどり着いたエレベーター。
どう…しよう。ここから外にすぐに出ても捕まってしまいそう。
そもそも、部屋に仲間が居なかったってことはロビーで待機している可能性もあるってことで…
「おい!あそこだ、居たぞ!」
遠くで声がして振り向いたら、数人の男がこっちに向かってくる。その先頭にボンボンも居る。
ど、どうしよう…
これぞ、絶体絶命ってやつだ…なんて諦めかけた矢先だった思う。
目の前のエレベーターのドアが開いたと同時に腕を引っ張られて、エレベーターの中へと体を押し込められ、すぐさまエレベーターは閉まり動き出す。
目の前には…私よりもだいぶ背の高い、スーツ姿の男性。
黒髪がふわりとしていて、少し眠そうにも見えるほどの二重の目。薄めで形の良い小さめの唇とスッと通った鼻筋で、比較的色白なその人は、私の手首を持ったまま、ジッと私を見て少し小首を傾げた。
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