◇お見合いすることになりました
「どうしてこんなことに……?」
目の前にある高級ホテルを見上げ、思わずそんな言葉が漏れた。
私、藤崎鈴奈と氷室秀吉さんの関係を説明するのは少し難しい。
実家が隣同士だけれど、幼なじみという言葉には当てはまらない気がする。
現在二十三歳と三十歳で年齢が離れすぎているのもひとつの理由かもしれない。
でも、一番大きな理由は、きちんと知り合った時期が遅いからだろう。
昔馴染み、という感じではないのは確かだった。
顔を合わせれば挨拶くらいは交わすという程度の関係だった私と氷室さんがきちんと話したのは、私が小学校五年生の頃。高校生の氷室さん相手に、無邪気に懐けるような年齢はとっくにすぎていた。
だから、私はその頃からずっと氷室さんには敬語で接しているのだけれど、だからといってふたりの間に踏み込めない距離がある……というわけでもない。
関係を表す言葉で近いのは、兄妹だとか従兄妹だとかそのへんかもしれない。少なくとも、ただのお隣さんという関係以上の時間を、私と氷室さんは過ごして、共有してきた。
それは、小学校五年生の頃から始まり、十三年が経った今でも続いている。
歳が離れているせいで、思春期特有の気まずい空気からお互い疎遠になるということもなく、付き合いはずっと平行線。
家族未満、親戚以上くらいの結構近いライン……いや、もしかしたら、家族側に少し足を突っ込んでいるかもしれない。
血が繋がっているわけでも性格が似ているわけでもないのにここまで付き合いが続いているのは、思い返してみるたびに少し不思議ではあるけれど、紛れもない事実だった。
そんな氷室さんから数日前『鈴、ちょっと頼みがあるんだけど』と言われ、少しの嫌な予感はしていた。
昔から、性格的にだらしのない氷室さんになにかを頼まれるのは日常茶飯事だった。
氷室さんの大学時代、私がどれだけのレポートを手伝ったのかを数えてはいないけれど、両手両足の指じゃ足りないくらいには協力したと思う。
氷室さんが大学時代、私は中学、高校生だ。そんな私にパソコン入力を手伝わせるくらいには、氷室さんはいい加減な人だった。
いい加減さは女性関係でも存分に発揮され、氷室さんは高校大学、そして社会人になった今も、相当乱れた生活を楽しんでいる。
顔立ちが整っているのがいけないと思う。
男性らしさとフェロモンを全面に押し出したワイルドな美形は、周りの女性が放っておかない。けだるい雰囲気や軽い口調も人気に一役買っているんだろう。氷室さんはそれをいいことに遊び放題……というわけだった。
失礼ながら私が親だったら頭を抱えていると思うし、実際に氷室さんのお父さんは頭を抱えている。
とにかく、そんな氷室さんからの頼みごとだから、きっとろくなことではなさそうだと覚悟はしていた。
軽い付き合いを楽しんでいた女性と揉めたから、彼女役として一緒に来て欲しいだとかそのへんじゃないかと予想もしていた。
もっとひどいケースも想定して、本格的に氷室さんを軽蔑してしまうような内容だったらどうしよう、そんな事態になったら私は氷室さんから離れなければならなくなるのだろうか、とさえ考えていた。
――けれど。
今朝早くに私を迎えにきた氷室さんに連れて行かれた場所は、和服専門店だった。
氷室さんは、頭の中にハテナマークしか浮かべられない私を、上品な紫色の着物に身を包んだ、私の母ほどの年齢の店員さんの前に押し出すと『こいつに合う着物、適当に着つけてやって』と言った。
『可愛らしいお顔立ちをされたお嬢様ですねぇ。失礼ですけど、お年は?』
『え……あ、二十三です』
『あらぁ。二十歳くらいに見えますねぇ。二十三歳でしたら、振袖でも充分可愛いかと思いますが、これからのご予定次第かしら。振袖だと適さないようでしたら、訪問着あたりでもよろしいかと思いますが。いかがなさいます? 訪問着でしたら、この辺がお似合いかと。振袖でしたら、こちらなんていかがです?』
着物のかかった専用のハンガーをシャッシャと音を立ててスライドさせながら言う店員さんに、氷室さんは『ああ、それがいいかな』と淡い黄色を基調とした振袖を指さした。
オレンジ色や朱色、そして白の菊が散りばめられた振袖はとても綺麗だけど、それを着なければならない理由がわからない。
私の成人式は四年前に済ませているし、氷室さんだってそれは重々承知のはずだ。
けれど、私の疑問なんて置き去りにして氷室さんと店員さんの会話はトントンと進み、ふたりがかりでされた着付けは二十分足らずで終了。
その後に連れて行かれた美容院でヘアメイクをされ、あれよあれよという間に連れてこられたのが高級ホテル前というわけだった。
「ああ、一応確認するか? まだちゃんと見てないだろ」
そう言った氷室さんが指し出したのは手鏡で、和服専門店を出る際、店員さんが持たせてくれたセットのなかにあったものだ。
二重の目には綺麗にアイラインが引かれ、瞼には控えめな暖色のアイシャドウがのっている。昔から童顔だと言われる顔が、少し大人っぽく見えさすがプロだなと感心する。
鎖骨より少し長い髪はアップでまとめられている。
生まれつきやや茶色い髪に、白と黄色の小花のヘアアクセがよく映えていた。
愛車の外車をホテルマンに預けた氷室さんが「よし。行くか」とポンと背中の帯を押すから、つんのめりそうになってしまう。
だって私の今の足元は、履きなれない草履だ。
和服屋さんで履かせてもらったとき、氷室さんだって『うわ。歩きにくそうだな、それ』と眉を潜めていた。
それを思い出してもらいたい……という思いで横顔を見上げていると、自動ドアをくぐりフロアに進んだ氷室さんは右の方向を向き「お、いたいた」と独り言をもらす。
なにも説明してくれない氷室さんに困惑しつつも、私もその視線を追い……言葉を失った。
大理石調のアイボリー色をした床が続くフロア。両サイドには橙色のカーペットが敷かれ、その上にカーペットと同じ色のソファが何台も置かれていた。
十卓ほどあるローテーブルは黒い長方形をしている。
奥にはグランドピアノまで置いてある。
優しい暖色のライトに照らされるそのスペースは、それだけでもとても素敵だけれど、一番目を引いたのは、間隔を空けて六鉢ほど置かれている、紅葉を始めた植木だった。
高さ二メートルには届かない木からは圧迫感のようなものは一切感じず、ただただ紅と緑の混ざった葉が綺麗で思わず見惚れる。
枝ぶりがもみじに似ている。
黒く艶のある四角い鉢も相まって、とても上品なスペースになっていた。
思わず、「すごい……」と呆けていると、こちらに歩いてくるスーツ姿の男性に気付く。
カツンカツンと足音を鳴らして近づいてくる男性に目が奪われたのは、その男性の容姿が整っているからでも、すらっとした高い身長だからでもなかった。
涼しそうな奥二重の目元にも、スッと通った鼻筋にも、綺麗な顎のラインにも。
そして、引き結ばれている、形のいい唇にも、軽く後ろに流している黒髪にさえ見覚えがあったからだ。
なにより。そんな整った外見を差し置いて目を引かれる、颯爽とした立ち姿は一度見たら忘れない。
背筋をぴんと伸ばした爽やかで凛々しい雰囲気は、先月、支店の社員みんなの前で挨拶をしたときと変わらずそこにあった。
「うーっす」と、場に似合わない軽い挨拶をした氷室さんに、私たちの前で足を止めたその男性は眉間にしわを寄せた。
社内でお客様がいないときにたまに見る顔だ。
「えっと……お疲れ様です。四宮副社長……ですよね?」
これだけの近距離だから間違えるはずもないのだけれど、一応聞く。すると四宮副社長だと思われる男性は、「ああ。お疲れ様。藤崎……だな?」と、少しだけ自信なさそうに聞き返す。
やっぱり。
〝やっぱり四宮副社長だ〟と〝やっぱり四宮副社長でも、場所が場所なだけに私が誰か確信が持てないんだ〟
二重の意味で〝やっぱり〟と思いながらうなずくと、その動作に髪が揺れ、そういえばアップにしているんだっけと思い出す。同時に、振袖と草履も思い出した。
私はこんな格好だし、四宮副社長が自信なさそうに聞いたのは仕方ないことかもしれない。
私は、大手自動車メーカーで受付の仕事をしている。高卒で入社したため、現在五年目で、今の天川支店に配属されてからは二年が経つ。
天川支店には、店長、チーフの他に営業が六人、エンジニアが七人、そして受付には私と派遣社員がひとりいる。