「上がって。」
「…お、じゃま、します…」
「あ、そこの電気つけて。」
「…了解です。」
いちばんに目に入ったのは生活感のなさすぎる部屋。
家具は最低限しか置いてなくて、整頓されているというか、むしろ…
「…ほんとにここに住んでるんですか?」
「は?」
「あっ、なんでもないです」
「鍵持ってんだから住んでるに決まってんだろ。」
『鍵なんて奪えばなんとでもなるのでは…』とまで考えて自主規制。
この人がどんな人かも知らないうえに、命の恩人なのになにを考えてるんだ。
うん、なにも知らないんだ、わたし。
名前くらい…聞いてもいいよね?
「お名前、なんていうんですか?」
「……桜井望(さくらいのぞむ)」
「へえ。……可愛い苗字…。」
「…お前は?」
「え?」
「名前。」
そっちから興味を持ってもらえるなんて思ってなかったから少し驚いた。
いや、名前を聞いたのなら自分も名乗るのが当然だろうけど。
なんていったって今のわたしは異常レベルにおかしい。
真冬の外で何時間も歩き回っていたんだ。
体全身が麻痺していて、頭までなんだかポワポワしている。
「三浦咲和(みうらさわ)です。」
「……三浦、風呂沸かしてくるからソファにでも座ってて。」
「…!ありがとうございます。」
名前を呼んでくれたことに心の中で感嘆の声を上げる。
なんか泣きそう…。
指示された通り、ソファへと向かった。
でも、その前にひとこと。
「……あの!助けてくれて本当にありがとうございます!当分の間よろしくお願いします、桜井くん!」
そう言って頭を下げた。
この人には本当に感謝しても仕切れない。
わたしがこれからも生きていく上で、必ず忘れることはないんだろう。
今はただ、感謝を。
はじめて名前を呼んだけれど、少しだけ恥ずかしかった。
頭を上げると、桜井くんはなんだか驚いたような顔をしていて。
「……ああ。」
笑顔を見せてくれたんだ。
つられてわたしも笑顔を浮かべる。
お風呂場へと向かう彼の背中にもういちど頭を下げた。
きっと、はじめて心の距離が近づいた瞬間だったと思う。