「はー……」
オレは書き切って大きく息を吐いた。
「初めてにしては上手よ」
イザベラは微笑んだ。こんな微笑みをオレに向けたのは初めてだ。そして、オレの頭に手を伸ばすと、ヨシヨシと撫でまわす。
オレはポカーンとしてイザベラを見た。
イザベラはハッとして手を引っ込めた。
「ごめんなさいね、セシリアとの癖で……」
うつむき顔を赤らめる。
「ううん。嬉しかった……」
オレは格好つけるのも忘れ、思わず呟いた。
「嘘」
「嘘じゃない! オレ、生まれてからこんなことされたことないから」
褒められたことがないわけじゃない。見た目はいつだって賞賛されたし、色恋ごとのテクニックでは喜ばれている。
だけど、こんな純粋に、母が子どもにするように、頭を撫でられたことはなかった。不意打ちで心が震えた。もうとっくに殺してしまった、胸の奥の子どもが目覚めてしまった。
奴隷としての顔を忘れてイザベラを見る。
イザベラは少し悲しそうに微笑んだ。
「そうなの。嫌じゃないなら、同じようにしてもいいかしら」
イザベラが言い、オレは黙って頷いた。気恥ずかしくて、紙に目を落とす。そして口早に願う。
「ついでに『絶望的』って書いてください。ご主人様」
「ええ、いいわ」
イザベラはサラサラと紙に書く。紫色のインクはオレの瞳と同じ色だ。
イザベラが書き終わると、オレもその下に真似をして書いてみる。さっきより上手く書け、思わずイザベラの顔を見上げた。
イザベラは微笑んで頷いた。
「ジャン、あなた上達が早いのね」
そう言って髪を撫でる。俺は思わず目をそらした。それでも口元は緩んでしまう。お腹の中がくすぐったい。耳たぶが熱くなる。触れられた髪がソワソワと揺れ、落ち着かないのに、初めてお腹いっぱい食べたときのような気分だ。
「お腹がいっぱい」
口にしたら、イザベラはキョトンとした。
そして、ああ、と呟いて紙になにかを書いた。
「なんて書いたんですか?」
「『お腹いっぱい』よ」
イザベラは笑った。
オレは胸がキュンと苦しくなる。今の気持ちをイザベラが文字にしてくれた。そして、オレはその気持ちを文字としてみることが出きたのだ。
オレは丁寧に丁寧にその文字を真似た。
真似て何度も繰り返す。
掃きだめで生まれたオレにとって、「お腹がいっぱい」ということは、「幸せ」という意味でもあったから。
「ジャン、本当は勉強熱心なのね」
繰り返し文字を書くオレを見てイザベラは感慨深く呟いた。
オレは急に恥ずかしくなって手を止めた。
「そんなことない」
「そう? ジャン、あなた、これから10日間、毎日私の部屋にきなさい」
イザベラはもう一度そう言った。
オレは黙って頷いた。初めの頃のように茶化したりできなかった。
***
初めて習った言葉が、『絶望的』だという意味なんて、あまりにもオレらしくて今思えば笑えてしまう。
印刷屋で出た裏紙に『ドアの釘ほど死んだ』と書いてみる。
そして、あの人の名前。このガラスペンのイニシャル、イザベラ。
最後に『会いたい』。そう書いて、今日の三つの言葉を終えた。
イザベラの言ったとおり、十日間繰り返すことで三つの言葉を書くことが習慣になった。
イザベラがいなくても、オレは毎日繰り返す。
そしてあの日を思い出すのだ。
イザベラに会いたい。またあの日をなぞりたい。
絶望的な願いは、捨てられるはずの紙に紫の文字で刻み込まれた。
午後の光りの中、イザベラとセシリオが歩いて行く。
屋敷の裏手にある小さな森を散策するのだ。
セシリオは、胴乱を肩から提げ、片手には虫取り網を持っている。
心地よい風がイザベラの髪を揺らす。いつも硬い表情の彼女も、森の中では自然と頬が緩むようだった。
森へ入りしばらくすると、イザベラの元に蝶々が飛んできた。
「しっ! しっ! あっちへ行けよ!!」
オレは慌てて蝶を払おうとした。
今までオレを飼ってきた女たちは、異常に虫を嫌っていたからだ。
蝶型のジュエリーなどは好んで付ける癖に、生きた蝶には眉を顰め、それ以外の虫などは金切り声を上げ卒倒する女さえいた。
「大丈夫よ」
イザベラはそう言うと、空に向かって手を伸ばした。
その繊細な指先で蝶が羽を休めた。
「……蝶が……止まった……?」
オレが驚いて見ると、イザベラは蝶を見ながら満足げに微笑んだ。
すると、その蝶を皮切りにほかの蝶たちがイザベラに集まってくる。
さながら地上の楽園に降り立った女神のようだ。
色とりどりの蝶が、イザベラを囲むようにして舞い踊っている。
木々の間から降り注ぐ木漏れ日が、イザベラの髪を輝かせる。
「……綺麗だ……」
あまりの神々しさに、思わず呟き見蕩れていると、セシリオがドヤ顔でオレを見た。
セシリオの虫取り網にも蝶が止まっている。
しかし、セシリオは蝶を捕ろうとはしなかった。
「叔母様はすごいんです」
セシリオは独り言のようにそう言うと、イザベラを真似るようにして空に手を伸ばした。
すると、セシリオの指先にも小さな蝶が止まった。
「……虫が怖くはないんですね」
オレが尋ねると、イザベラは苦笑した。
「令嬢らしくないわね。呆れたかしら」
オレは首を振る。
「いいえ、素敵です」
本心で答えたのに、イザベラは困ったように顔を背けた。
オレの言葉は、まだ信じられないらしい。
残念に思いつつ、オレはふたりを真似て空に手を伸ばしてみる。
しかし、蝶たちはオレだけを避けた。
蝶でさえ、オレが汚いとわかるのか――。
オレはむなしい思いで、空に伸ばした手を握りこんだ。
悲しさと恥ずかしさで、その手をそっとポケットにしまう。
「私とセシリオにしかこの蝶は懐かないのよ」
イザベラは、蝶を見ながら言った。
あえてオレを見ないのは、彼女の不器用な優しさなのだろう。
「なぜですか?」
問えば、イザベラは困ったように口を噤む。
オレは肩をすくめ小さく笑った。
「オレなんかに、優しい嘘をつかなくてもいいですよ」
「違うわ、嘘ではないわ!」
イザベラは弁解するようにオレを見た。
「はい、そういうことにしておきます」
会話が途切れ、無言になる。
蝶の羽ばたきさえ聞こえそうな静けさに気まずくなる。
オレが微笑むと、イザベラは悲しそうにオレを見た。
その表情にギュッと心が痛むけど、ポケットに隠された手はまだ出すことができなかった。
突如、セシリオが走りだした。
「駄目よ! セシリオ! そっちは、駄目!」
イザベラが慌てて追いかける。
小さな森だ。危険などない。
それなのに、イザベラはセシリオを追いかける。
「今日はそこへは行かない約束でしょう? セシリオ、お願いだから戻ってちょうだい」
イザベラが宥めるように声をかける。
しかし、セシリオは聞こえないようふりをして先へ進む。
オレもふたりを追っていく。
小さな小道の先には、簡素な小屋があった。
セシリオは迷うことなくその小屋の扉を開けた。
「セシリオ! 駄目よ。秘密だと言ったでしょう?」
イザベラは泣きそうな声で、セシリオを呼び止めようとした。
「秘密?」
オレがイザベラに尋ねると、彼女はサッと顔を青くした。
「あの小屋になにがあるんですか?」
「……」
イザベラは無言でオレから目を逸らした。
セシリオは小屋から、一本の枝を持って外へ出てきた。
「僕たちはここで、蝶のあかちゃんを育ててるの」
セシリオの言葉に、イザベラは観念したかのように頷いた。
「虫は怖くないの?」
イザベラが尋ねる。
「はい」
「青虫も?」
「はい」
貴族にとっては怖い物かもしれないが、平民にとっては虫などなんと言うこともない。
野菜についていることは日常だ。だれでも、青虫程度つまめる。
イザベラはそれを聞き、ホッとため息をついた。
セシリオは、持ってきた枝をオレに見せた。
その先では、小さな青虫が美味しそうに葉っぱを食べている。
オレから見れば、なんでもない姿だ。
「……気味悪くないの?」
「青虫がですか? まさか!」
オレは笑う。
「……いいえ、青虫を育てている女が……よ」
イザベラは地面に視線を落として呟いた。
「誰かにそう言われたんですか?」
彼女は否定するように首を横に振った。
しかし、それが嘘なことは誰から見ても明白だった。彼女は嘘が下手だ。
多分、あの忌々しいマルチェロだ。あの男はこうやって、イザベラに呪いをかける。
小さかった無邪気なイザベラを知っている男。その立場を利用して、呪いで彼女をがんじがらめにする男。
否定の言葉で恥じらわせ、世界を狭め、あの男しか知らない女に育てた。
イザベラを独占し続けてきたこと羨ましくて、オレはその呪いにさえ嫉妬する
でも、オレはアイツと同じにはならない。
「かわいいですよ」
オレは葉の上に乗る青虫を優しく撫でた。
イザベラは恐る恐るオレを見上る。
穏やかに笑ってみせれば、イザベラはホッと息を吐いた。
「……青虫、可愛いわよね?」
「いえ、可愛いのはイザベラ様です」
オレが答えると、イザベラはボッと顔を赤くした。
「セシリオの前でやめてちょうだい!」
イザベラが言うと、セシリオは小首をかしげる。
「叔母様は可愛いのに? 本当のことを言ってはいけないの?」
セシリオの言葉に、イザベラはワタワタとうろたえる。
「セシリオ、ううん、嬉しいのよ? でもね、恥ずかしいの」
イザベラはそう言って顔を覆う。
そんなイザベラの周りに、ほわほわと蝶々が飛んでいる。
「あのね、青虫は手で餌をやって育てると、餌をくれた人を覚えるんだよ。叔母様が発見したんだ!」
セシリオが、眩しそうに蝶を見ながら呟いた。
「ここにいる蝶たちは、叔母様が育てたの」
木漏れ日の中、蝶たちが幸せそうに舞い踊る。
「すごいでしょう?」
セシリオは自慢げに微笑んだ。
「はい、とても素晴らしい方です」
オレは大きく頷いた。
「……もう……、ふたりとも……買い被りすぎです」
イザベラは顔を覆ったまま、小さくぼやく。その首は真っ赤に染まっていた。
「デートに行きましょう!」
オレの提案に、イザベラはキョトンとした顔をしてから、ムッと眉間に皺を寄せた。
「行きません。あなたとそんなことする理由はないわ」
そっぽを向き、冷たく突き放すいつもの姿。
イザベラの不器用さだとわかっていても、小さく傷つく。
こんなオレだからデートなんかしたくないのかと思ってしまう。
だから言葉にトゲが生える。
「そんなこと言ってたら、いつまでたってもまぐわえませんよ」
俺は馬鹿にしたように言ってみる。
「ジャン!!」
イザベラが怒ってオレを睨む。
つられるようにムッとして、オレも意地悪を言ってみたくなる。
「お子様にはわからないでしょうけれど、体を合わせたいと思うようになるには必要なことなんです」
オレはご高説を垂れてみる。
ぶっちゃけ嘘だ。オレは、出会ったその日、その場所で、名前すら知らなくても、体を合わすことはできる。
でも、イザベラは違う。汚いオレとは根本的に違うのだ。
遠回りだとわかっている。それでもオレを好きになってほしい。無理矢理ではなく、受け入れてほしいから。
イザベラは一瞬傷ついたような顔をして俯いた。
「わかったわ。好きになさい」
諦めたような声をさせた自分に失望し、一人前に傷ついて、いったいなにをやってるのだと、馬鹿らしく思う。
ほかの家にいたときは、平気で優しい嘘がつけたのに。
イザベラの前では、自分が幼稚になっているのがわかる。主人を傷付けて良いはずがないのに、売り言葉を買ってしまう。
オレはことさら明るい顔をして、手を取った。
「きっと、楽しいですよ?」
「私となんて出かけても、ジャンが楽しいわけないわ」
イザベラが気にしていたのが、オレのことだったのだと気がついて胸がキュンと苦しくなった。
「楽しいです。ご主人様と一緒なら」
「そんな嘘はいらないのよ」
イザベラは淋しそうにそう笑った。
やっぱりオレの言葉は信じられないのだ。
小さく胸の奥が痛む。
「大丈夫です。オレは勝手に楽しみます」
そう言うと、イザベラは諦めたかのように小さく笑った。
*****
そして、デートへやってきた。
町歩きしやすい新しいドレスを用意して、新しい靴も帽子も用意した。
デートらしくと、オレの服もイザベラのドレスとリンクさせる。
午後の町並みは、賑やかで明るかった。
イザベラが好きな百科物屋、そうして本屋へ向かう。
リラックスしたところで、前の主人が教えてくれた店で休憩だ。店の予約は執事のセバスチャンにお願いした。
オレでは予約ができないからだ。
町がよく見えるレストランの個室に案内してもらう。
花いっぱいで飾り立てられた部屋にイザベラはハッと目を見開いた。
立ち止まり、息を飲み、そして小さくため息を漏らす。
「素敵……」
小さな、小さな呟きが零れた。
たったそれだけでオレの心は満たされる。
花で飾ってくれと注文して良かった。
「花はお好きでしょう?」
オレが問えば、イザベラはオレを見上げた。
「あなたが頼んだの?」
そう問われて、身構える。「余計なことを」と怒られるかもしれない。
彼女は自分の対する好意を素直に受け取れないのだ。
しかし、イザベラはフワリと微笑んだ。
「ありがとう」
そう言って、耳まで赤くして俯いた。
オレは不意打ちに驚いて、首まで熱くなる。
こんなの素直に喜ばれると思っていなかったから、照れ隠しに鼻を擦った。
「オレは、なにもしてない。予約は執事に頼んだし、支払いだって結局はご主人様のお金です」
口にして、情けなくなる。
イザベラは小さく頭を振った。
「ここを選んでくれたわ。花まで用意して。私のことを考えて、私の知らない世界を教えてくれた」
たったこれだけのことで、こんなにも喜んでくれる。
イザベラの言葉にオレの心に灯が点る。
汚く濁った心が、澄んだ光で照らされていく。
イザベラは奥に向かって歩いて行き、窓を開けようとする。
屋敷にはない上げ下げ窓で、苦戦するイザベラが可愛らしい。
彼女の背後から抱き込むような形で、手を貸してやる。
「っ、ちょっと!」
不平を言うイザベラが振り向いた。
勢いで、オレの顎と彼女のおでこが触れあった。
近すぎる距離にイザベラは驚いて、顔を赤くし、「きゃっ」と小さく悲鳴をあげた。
ガタンと窓が上にスライドする。
「ほら、こうやって開けるんです」
窓が開いて、風が吹き込んできた。
逆光の中、イザベラの黒髪が、光りとともに散る。スミレの香りが彼女の髪から広がった。
イザベラは髪を押さえた。
「それならそうと、ひとこと言いなさい」
目を逸らして不満そうに、耳まで真っ赤にして言う彼女。
視線はオレを見ず、窓の外の町並みを見ている。
「……キレイだ」
思わず呟く。
「ええ、キレイね」
イザベラが振り返り、眩しそうにオレを見て笑った。
もしかして、オレに言ってる?
驚いて、イザベラを見る。
イザベラはそんなオレを見て驚いたように目を丸くする。
「もしかしてオレのこと?」
いつものように軽薄に茶化して見せると、イザベラは呆れたように笑った。
「町並みよ」
冷たい声に、心の奥でガッカリとする。
「あなたはいつも綺麗だわ。今更言わなくてもわかってるでしょ」
そう言ったイザベラは、窓から身を乗り出しようにして町を見ていた。
オレはホンワリ心が温かくなる。
嬉しくてそれなのに少しだけ泣きたくて、彼女の隣で同じ景色を見る。
見慣れた猥雑な町並み。
それを、イザベラはキラキラとした目で美しいという。
「ねぇ、あれはなあに?」
イザベラが指差す先を説明する。
「あとで、行ってみましょうか?」
オレが言うとイザベラは嬉しそうに頷いた。
「……デ、デート……も悪くないわね?」
ギクシャクして不自然で、でも、だから愛おしい。
「ええ、悪くはないでしょう?」
オレが笑えば、彼女は素直に微笑んだ。