「お邪魔します」
律儀に挨拶をするけど、わたしの返事を聞かずに家に入っているから、プラマイゼロだ。
「ちょっとごめんね」
「えっ?」
振り返ってわたしの手を持ったまま、いきなり腕まくりをされた。
そこはさっきの人に掴まれていた部分で、あらわになった手首は赤く痕が残っていた。
空野さんはそっと指で触れて「痛かったね」と温かく優しい声をかけてくれる。
「保冷剤とかある?冷やそ」
「あ、自分でできます」
冷凍庫から保冷剤を取ってくると空野さんがそれを受け取り、ポケットの中からハンカチを出して包んでわたしの手首に当ててくれた。
一連の動作を流れるようにしてしまうから、やっぱり頭がついていかない。
わたしの手をエスコートするように重ねて手首をもう片方の手で保冷剤を持って冷やしてくれている。
シーンとした空間がより心拍数を上げている気がして、息苦しい。
「おれ、ゆきちゃんが心配だよ。かわいいのに警戒心ないから、またこんなことにならないかって……」
「も、もう大丈夫ですよ!何度も同じことにはなりません」
「ゆきちゃんはかわいいんだからね?気をつけてね」
「大丈夫ですって」
空野さんは心配性だなぁ。
でもわたしのことをこんなに心配してくれる人がいるってことは素直にうれしい。
わたしの反応にむっとしたような表情をしているけど。
「ゆきちゃん絶対わかってない……それに、おれだってまだゆきちゃんの連絡先聞けてないのに……」
「……連絡先?」
「うん……」
そういえばさっきの人、そんなこと言ってた。
ほんとはお客様と個人的にやりとりするのはどうなのかなって思ったりもしてたけど。
いまもしてるけど。
「……空野さんには、教えてもいいです」
「……へ?」
空野さんなら……。
なんて言ってしまったけど、言ったあとに恥ずかしさが込み上げてくる。
「あ、えっと、その、無理にとは……」
「教えて!教えてほしい!交換しよ!!」
勢いよくスマホを出した空野さんに驚きながらも、わたしもスマホを出す。
そしてわたしのスマホに空野さんの連絡先が追加される。
男の人と連絡先を交換するなんてないから緊張してしまう。
「ありがとう!」
本当にうれしそうにお礼を言ってくれるから、わたしも笑顔でお礼を言う。
今日はいろいろなことがあったけど、空野さんの強さや温かさに触れて優しい気持ちになれた。
空野さんがいてくれてよかった。
「これからも通うね。連絡もたくさんするから」
「はい!」
空野さんは大切なお客様。
だけど、それ以上に関わっていきたい。もっと知りたい。
だれかに対して初めて、そんなふうに思ったんだ。
梅雨が明けてもうすぐ期末テストがやってくる。
「この時期の小テストということは、わかりますね?しっかり復習しておいてください」
先生のその言葉に冷や汗が出る。
や、やばいかも……。
前回の授業でした英語の小テストがいま返ってきた。
小テストとはいえ、この点数は……。
「雪乃~、英語やばいんだけど」
授業が終わり、後ろから抱き着いてきたのはいつも学校で一緒に行動している桃田花音ちゃん。
かわいくて明るくて、クラスでも目立っているムードメーカー的存在。
髪もふわふわしていてとってもおしゃれな女の子。
「花音ちゃん、わたしもだよ……」
カフェの手伝いばかりしていて、全然勉強ができていなかった。
高校って毎日課題があるわけではなくたまに出るくらいだから、出ないとしない。
小学生にめんどくさいなって思ってた毎日の宿題のおかげで、勉強できていたんだなっていまさら気づく。
気づいたところで出されなきゃしないタイプだけど。
ふたりして英語の小テスト撃沈。
さすがにいまから勉強しないと期末テストで痛い目を見ることになると察する。
「勉強しよう」
「うん、しよう。席とっておくね」
「助かる!いっぱいデザート頼んじゃお」
「まず勉強だからね?」
去年からテスト前は家のカフェの席をとって、花音ちゃんと勉強している。
さすがに休みの日に勉強で席はとれないけど、平日はそこまで混まないから放課後限定で。
「桃田たち勉強すんの?俺も入れて」
両手を合わせてわたしたちの会話に入ってきた男の子は花音ちゃんと仲良しのもうひとりのムードメーカー。
「赤坂もやばかったの?」
「自慢じゃないけどすげーやばかった」
「せーの」
花音ちゃんの合図でふたり同時にテストの点数を見せる。
「13点!一緒じゃん」
「いえーい」
50点満点中の13点って単純計算すると100点満点中26点。
赤点だ。
だけど、同じ点数だったことでハイタッチしてるし。
「あたしはいいけど、赤坂来るなら場所変えたほうがいい?」
「大丈夫だよ」
「え?白川の家で勉強すんの?」
「わたしの家、カフェしててそこの席使って勉強するの」
「マジ?カフェしてんの?行きたい」
「ちゃんといっぱい頼んでね。どれもめちゃめちゃおいしいから」
「お金いっぱい持ってく」
「気をつかわなくて大丈夫だよ」
わたしの家がカフェをしていることを知っている人はそんなにいない。
わざわざ言うことでもないし。
知らずにクラスメイトが来てくれたことも何度かあるけど。
「今日行っていい?今日」
「あんた遠慮しろ」
「ふふ、いいよ。今日の放課後にしよっか」
「やった」
花音ちゃんは気をつかってくれるけど、わたしのほうは大丈夫。
むしろ成績のほうが大ピンチだ。
いまのままじゃ、カフェのお手伝いもできない。
それはわたしとしても困る。
「でも、あたしらあほの集まりだし勉強しても意味なくない?教えてくれる人いなきゃ」
「たしかに……!」
気づかなかった。
みんなで勉強すればおっけーだと思ってた。
教えてくれる人がいなきゃわかんないじゃん。
そんなことに気づけないほど、わたしはあほだったよ……。
「いいやついるぞ」
「ほんと?」
「拓海!今日の放課後勉強教えてー!」
「まじ?黒瀬は無理じゃない?」
「やだよ」
赤坂くんが黒瀬くんに声をかけるけど、即答されていた。
黒瀬くんって頭良いよね。
いつも授業で当てられてもすぐに答えてるし、テストでも1年のときから常に上位にいる。
黒瀬くんならたしかに適任かもしれない。
でも、いやなら仕方ないよね。
「えー、けち」
「仕方ないよ。違う人にお願いしよう」
「……白川もいんの?」
「え?うん。わたしの家で勉強することになって」
「わかった。行くよ」
「ほんとに?うれしい!」
さっきやだって言ってたけど、急に行く気になってくれた。
なにがあったのかわからないけど、これで期末テストもばっちりだ。
よかった。
お礼を言うと顔を逸らし短く返事をする。
黒瀬くんってクールでかっこよくて女の子から人気だけど、こんなふうに優しいからモテるんだね。
たまにしか話さないから知らなかった。
「おい!拓海ひどくね?」
「雪乃に負けたね」
「あいつほんとそうゆうとこあるよな」
「どんまい」
「まぁいいけど」
黒瀬くんが勉強を教えてくれることになったし、勉強がんばろう。
お母さんに小テストの結果報告をして、勉強するから席を使うことを伝えると快く承諾してもらえた。
放課後になり4人でわたしの家に行く。
お母さんが明るく迎えてくれていちばん奥のいちばん広いテーブル席を用意してくれていた。
仕切りをして、周りのお客様の目も気にせず勉強できる空間ができあがっている。
「すごいおしゃれだな。おすすめはなに?」
「さっそく頼むじゃん。全部おすすめだよ。けどパンケーキは特に格別」
「お、いっちゃおう」
「あたしも頼もう」
花音ちゃんが笑顔で赤坂くんにおすすめしてくれて、それがうれしくてわたしも笑顔になる。
わたしが注文を受け伝えに行く。
そして勉強会がスタートした。
「ほごふぐほっ」
「汚い。飲み込んでからしゃべれ」
「ぎゃっ、とんできた!」
「悪い。ここわかんなくて」
わたしの隣に花音ちゃん、その前に赤坂くん、わたしの前に黒瀬くんが座っている。
しゃべりながら、ときに集中しながらゆったりと自分のペースでしていく。