東向きの窓から早起きの太陽がさんさんと朝日を注ぎ込んでいた。まだ、朝の6時だというのに、キッチンで炒め物をしているだけで額に汗がにじんでくる。いつもは、
「暑すぎる!!」
とブーブー文句を言いながらキッチンに立つ奈津が、今朝は文句を言う代わりに、鼻歌を歌っていた。暑さなんか微塵も感じていないのか、いたく軽やかに。目元、口元がいつもの定位置を忘れたかのように緩みきってほころんでいる。父と凛太郎の目玉焼きはちぎったレタスとプチトマトを申し訳程度に添えて、早々にダイニングテーブルに並べておいた。今、奈津が鼻歌まじりに炒めているのは切れ目を入れてかわいくしたウインナーだった。以前、夕飯で作った時に冷凍しておいたハンバーグとポテトサラダは解凍し、すでにお弁当箱に詰めてある。奈津は、鼻歌のメロディーに合わせて、フライパンの上でジュージューと音をたてているウインナーを菜箸でつつくと、もっと顔をほころばせ、一人、照れ笑いを浮かべた。そして、切れ目が少しずつめくれ、ほんのり焦げ目がついたのを見計らうと、奈津は火を止め、菜箸でウインナーを挟むと、慣れた手つきでそれをお弁当箱に詰めた。ウインナーを二本ずつ・・・二つのお弁当箱に。
「いっつも学食かコンビニのお弁当なんだから。」
そう口に出してみて、奈津はまた照れ笑いをしてしまった。昨日までの片思いの自分は、こんな風にコウキを心配する・・・ということも、なんだかおこがましくて、自分には許されていないことのような気がしていた・・・。でも、昨日の夜の月の魔法が、コウキに関する多くのことを許可してくれた。きっとこれからは・・・声が聞きたいときには電話をしてもいいし、会いたいときには会いに行ってもいい・・・。この先ずっと、手を伸ばせば、いつでも触れられるところにコウキがいるに違いなかった。ときめくような恋心と共に、そんなどこか安堵に近い想いが交錯する。そして、奈津は、コウキの眼鏡の奥のクシャッと笑う目を思い浮かべた。コウキの笑顔は奈津をドキドキもさせ安心もさせる・・・。
「姉ちゃん、キッモ~!さっきからニヤニヤして。」
ご飯を食べるためにテーブルについた凛太郎が、奈津の一連の動作を見て、うげーっという顔をしながら言った。
「ずっとBEST FRIENDSの曲、鼻歌で歌ってるし!」
「あ~、これね!凛太郎がしょっちゅうかけてるから、ついついメロディー覚えちゃって。」
上機嫌の理由を聞かれると困るので、奈津はこれ幸いとそのままBEST FRIENDSに話題を振った。
「そう言えば、この間から、BEST FRIENDSの誰だっけ?歌がどうとかこうとか、凛太郎言ってなかったっけ?」
奈津は興味がない事はスルーするタチなので、凛太郎のBEST FRIENDSの話もいつもフンフン頷くだけでほとんど聞いてはいなかった。(まなみの時と同様に。)
「まだ、名前覚えてないん?『ヒロ』!!コウキくんと歌う声似てるし、顔も似てるって前から言ってるじゃんか。」
突然凛太郎の口から降って湧いて出てきた『コウキ』・・・という言葉に反応して、また、顔が緩みそうになる自分がいた。奈津は懸命にそれをこらえると、
「あ~言ってたね!でも、BEST FRIENDSにコウキに似てる子なんかいたっけ?よく知らんけど。でもな~、似てたとしてもコウキはそんなアイドルとはちょっと違うんだよな~。」
抑え気味に話そうとするのに、今日の奈津は、コウキのこととなると知らず知らずのうちにテンションがあがってしまう。
「アイドルはみんなのアイドルで、ファンもいっぱいいて、一生会えない雲の上の存在でしょ!そんなんじゃないんだよな~、コウキは。」
と言ってから、奈津は咳払いをした。そして、「だって、姉ちゃんだけのコウキだもん。」そう心の中で付け加えた。
「了解!今度ゆっくり動画見せて。姉ちゃんが似てるかどうか判定しちゃる!」
そう言うと、奈津はまたフンフンと鼻歌を歌いながらお弁当箱に蓋をし、ナプキンで包み始めた。
「ほらほら、特にこの動画。」
姉ちゃんがBEST FRIENDSの話題に乗ってくれている「今」を狙って、凛太郎は自分の『「ヒロ」と「コウキ」似てる説』を、どうにか奈津にも認めてもらおうと画策し始めた。凛太郎は置いてあった奈津のスマホでお目当ての動画を見つけると、奈津の目の前にスマホを差し出した。スマホの画面いっぱいにBEST FRIENDSの映像が流れ始める黒っぽいダボっとした服を着て、長めの金髪にパーマをかけた男の子がセンターでダンスをしているのがチラッと見えた。
「この金髪のがヒロ?」
凛太郎が見せてきた時、ちょうど真ん中にいた子の特徴を奈津は言った。
「そうそう!」
奈津は、赤い包みと青い包みの二つのお弁当をトートバッに入れるためにスマホから視線を外すと、
「どうかな~。似てるかな~。なんか『ヒロ』っていかにもチャラそう!コウキの方がちょっとかっこよくない?あ、凛太郎、ごめん!今日は急ぐから、今度ゆっくり見る。」
と言って、奈津は凛太郎からスマホを取り上げると、それをリュックのポケットに入れた。
「え~!!」
と口を尖らせる凛太郎をよそに、
「父さん!今日、朝練の前にまなみと約束あるから、もう行くね~!」
と、洗面所で身支度をしている父親に声をかけた。そして、奈津はリュックを肩にかけようとしてから、あちゃ~という顔をした。
「忘れてた~、母さん!」
と小さく叫んだかと思うと、隣の和室に小走りで行った。そして、ポンッと飛びあがるような動作で正座をすると、いつもよりも大きく、心なしかリズミカルに、「チンチンチーン」とりんを鳴らした。
「母さん、ほんっとにほんっとにありがと!!」
奈津は仏壇の母さんの写真に向かってウインクをした。奈津の目には写真の母さんがいつもよりも一層笑っているように見える・・・。奈津はリビングに戻ると、リュックとトートバッグを一気に持ちあげ、玄関に向かった。
「凛太郎もさっさとご飯食べなさいよ~!いってきま~す!」
床から数センチは浮かんでいるかのようなステップで奈津は軽やかに玄関から出て行った。
「奈津~!!」
先に到着していたまなみが奈津の姿を見つけると、部室の前で大きく手を振った。奈津のことが待ちきれないまなみは、こっちに向かって猛ダッシュで走ってくる。奈津の目の前までくると、まなみは奈津の両腕をつかんで、
「ね!ね!話したい事って何?」
と息をきらしながら興奮気味に訊いてきた。昨夜寝る前に奈津がまなみにラインしたのだった。
『まなみ!朝練前早く来れる?』
『え、やだ。眠い。』
『話したいことある。』
『なに?』
『好きな人のこと。』
『行く!6時半!』
『早すぎ!7時』
『りょーかい!!』
奈津がコウキの胸ぐらをつかんで激怒した理由も、悠介が奈津を追いかけて行ってからどうなったかも、まなみには全く見当がついていない。奈津には訊きたいことが山のようにありすぎて、本当は6時半集合にしても遅いくらいだった。まなみは奈津の手を引っぱると、近くにあったグランドに据えてあるベンチまで連れて行き、そこに二人で腰掛けた。
「それが・・・、好きな人っていうのは・・・。」
奈津は人の恋バナはバンバン聞いて盛り上がるくせに、いざ自分のこととなると、どうも歯切れが悪くてまどろっこしい。ちょっといいな・・・くらいは今までもあったが、こんなにガチで好きな人ができたのは、奈津にとっては初めての経験だった。奈津がどうやって話そうか・・・と戸惑いながらノロノロ話し始めると、そのテンポの悪さにまなみが先回りをして話を推し進める形になった。
「悠介でしょ!悠介の良さに改めて気づいたんでしょ!」
まなみは唐突に悠介の名前を出してきた。
「えっと・・・悠介は優しくて、昔から親友で、昨日も慰めてくれたんだけど・・・」
奈津は昨日の悠介のことを思い出した。奈津を抱きしめる悠介の腕が震えていた・・・。奈津はそのことには触れないつもりだった。そして、そんな奈津の反応を見て、まなみは、
「あ~、こりゃ違うね。じゃあ、タムラコウキか!」
続けざまに、今度は奈津の顔を指さしながらコウキの名前を口にした。それを聞いて奈津は目をまん丸くしてまなみを見た。
「えっ、何で分かるの?」
奈津はまなみの勘の良さに思わずびっくりして、改めてまじまじとまなみの顔を見つめてしまった。
「何、そのまなみすご~い!みたいな顔は!全然すごくないから!奈津めっちゃ分かりやすいから。普通、好きでも嫌いでもなんでもない人の胸ぐらつかむ?」
あんだけ大胆にみんなの前で激怒した女子とは思えないほど、今は別人のようにしおらしい奈津を見て、まなみは呆れて開いた口がふさがらないくらいだった。でも、びっくり顔で呆けたようにまなみを見ている奈津を見ると、まなみはなんだかホッとしてきて、安堵の表情を浮かべた。端で見ていると絶対両思いって分かるのに、いつも奈津とコウキの間には、何か目には見えない障害のようなものがあった・・・。それが何なのか結局まなみにも分からない・・・。でも、どうやら二人はやっといい感じに接近したに違いない。まなみはなんだか自分まで嬉しくなってきて、もう一度奈津に言った。
「奈津は、タムラコウキが好きなんだ。」
グランドと校舎に早起きの蝉の声が響く・・・。
「うん。」
奈津はよどみなく返事をした。まなみはもう先回りをして話すのはやめた。雲一つ浮かんでいない青空が二人の頭上に広がっている。その空は奈津の心のようだった。奈津は空を見上げた。コウキが自分の名前を呼ぶときの笑った顔、そして、透き通った声が奈津の脳裏に浮かんだ・・・。この広すぎる青空のように膨らんでいく自分の想いは、もう止めることができないような気がした。
「どうしよう・・・。まなみ。わたし、すごく好きかも・・・。」
ほんの一瞬、蝉の声も消え、静けさが世界を覆った。次の瞬間、まなみは、プッと笑うと、奈津の背中をバンバンと叩いた。
「いいな。いいな。そんなに好きな人ができて!タムラコウキ、なんかちょっと得体は知れない感じだけど、奈津にはいいんじゃない?まあ、地味な眼鏡くんだけど、よく見たら綺麗な顔してないこともないし、お似合い!」
まなみは褒めてるんだか、ディスってるんだか分からないことを言って、二人のことを改めて祝福した。
「そう?やっぱり?ありがとう!!まなみ~!」
奈津はまなみに思わず抱きついた。まなみの前で気持ちを吐露できた安心感からか、テンションが徐々に上がってくる。
「それでね。さっそく夏休み入ったら、デートすることになった!」
いったんまなみから離れると、奈津は更に意気揚々とまなみに告げた。
「まじ!!え~ちょっと、どこ行って、何したか教えなさいよ!」
まなみも奈津がどんな初デートをするのか興味津々だった。
「オッケー!これからコウキと一緒に決めるんよね~!」
奈津の顔はますます紅潮して輝いてくる。
「私も!夏休み入ったら、永遠の恋人、ヨンミンにファンミで会ってくるわ!」
「BEST FRIENDS日本に来るんだ~!」
二人は顔を見合わせると、
「夏休み、楽しみ~!!」
と思わず立ちあがって、「きゃー!!」と抱き合って飛び跳ねた。終業式は3日後。あと4日すれば夏休みだった。
「オーっす!お前ら朝からうっせーなあ。」
いつの間にこんな時間になっていたのか、練習着姿の悠介がそこにいた。他の部員も数名グランドに出ている。
「わ!やっば、こんな時間!早く着替えなきゃ!」
まなみは奈津に声をかけた。
「元気そうじゃん。」
まなみの声が聞こえたのか聞こえなかったのか、まなみを無視して、悠介は奈津に向かって言った。失恋して消えてしまいそうだった奈津は、今朝はどこを探してもいない。
「あ・・・うん・・・。」
奈津は言葉に詰まる。
「あれからなんかあったん?」
心なしか、悠介の声と奈津を見る目に棘があるように感じる。
「あ・・・えっと・・・。」
奈津は何かを言おうとするが、パクパクと口を動かすだけで、次の言葉が出てこない。奈津と悠介、交互に二人を見てその様子を察したまなみは、
「早く着替えに行かないと!」
と奈津の手を引っぱってその場から連れ出した。引っぱられながら数十メートル走ってから振り返ると、悠介はベンチの方に体を向け、その場に佇んだままだった・・・。
「悠介には言ったの?タムラコウキが好きだって。」
走りながらまなみが訊いてきた。
「うん・・・。でも、悠介と会った後、コウキと会ったことはまだ・・・。悠介はわたしがコウキに失恋したまんまって思ってる・・・。」
まなみも悠介を振り返った。
「そっか・・・。」
朝練が終わり、二人は教室に向かった。
「昨日からなんでしょ。奈津たち。コウキどんな顔して、奈津を見るのかな~。」
まなみは楽しくってたまらない!という風にはしゃいでる。
「普通にしててよ、まなみ!ひやかしたりしたら、絶対にダメだからね!」
奈津は部室を出てから、しっかりとまなみに釘を刺していた。でも、そうは言うものの、奈津もコウキに会えるのが嬉しくてしょうがなかった。どんな顔をして会ったらいいのか、今にも心臓が飛び出しそうだった。コウキはもう教室にいるだろうか・・・。二人が教室の前に着いたのは始業5分前。ほとんどの生徒が登校している時間だった。まなみが教室の後ろの戸をいつものように開けようとした瞬間。
「待って。」
奈津はまなみを制した。
「ちょっと、心の準備・・。」
奈津はそう言うと、胸に手を当て、大きく2回深呼吸をした。それから、
「うん、大丈夫!」
と言って、まなみに頷いた。まなみは「やれやれ」と言う顔をしながら、教室の戸を開けた。ガラガラガラ。勢いよく戸が開いた。奈津は意を決して教室に入ると、目をギュッとつぶったまま廊下側一番後ろの席に向かって声をかけた。
「おはよう!」
「あ、おはよう!」
声が返ってきた。・・・が、それは2,3人の女子の声だった。その中に奈津の好きなあの声はなかった。目を開けると、一番後ろの席はまだ空いたまま・・・。まなみも奈津も教室を見回した。
「まだ来てないみたいだね。」
二人とも拍子抜けしたが、すぐに奈津には緊張感が蘇る。今度は、教室の戸が開く度に心臓が止まりそうになるからだ。奈津は戸が開く度に、ドキッとして戸の方を振り返った。そして、それを2,3回繰り返しながら窓際の席についた。
ガラガラガラ。
前の戸が開いた。反射的に奈津はドキッとした。
「モーニン!!」
でもそれは、相変わらずいつものテンションの中野先生だった。始業だ・・・。奈津は後ろの席を振り返った。コウキの席は空いたままだった。
「先生!タムラくん、お休みですか?」
まなみが、奈津が訊きたいことを代弁するかのように先生に訊いた。
「タムラ・・・?あー、さっき病欠の連絡が入ってた。夏風邪かな?」
先生は、
「Everyone take care!(みんなも気をつけてね!)」
と、もちろん、英語で付け加えることを忘れなかった。そして、その元気に響く英語と共に、奈津は全身の力が抜けた。
その日帰宅すると、奈津はトートバッグから青いナプキンで包んだお弁当を取り出した。包みをほどき、蓋を開けると、夏の高温がお弁当の様子をガラリと変えていた・・・。変わり果て、異臭を放つお弁当を奈津は生ゴミ入れに捨てた・・・。手を洗って、タオルで濡れた手を拭くと、奈津はスマホをリュックから取り出してそれを見た。スマホの画面は静かに、誰からも着信が入っていないことを奈津に告げていた・・・。
ヒロは仁川国際空港に降り立った。約3ヶ月ぶりの韓国だった。
「・・・こんなに人いたっけ?」
何よりも人の多さに驚いた。3ヶ月前は、当たり前にこの人の波をスイスイと縫うように歩いていた。それなのに、今はなんだか人の波との調和がとれず、ギクシャクとして上手く歩けない。
「フーッ」
ヒロは立ち止まると、サングラスを少し下にずらして、もう一度、周囲を見渡した。デビューしてからは、ハイトーンの髪の色がトレードマークみたいになっていたヒロだったが、ソウルを発つ前、初めて黒髪にした。いつも、どちらかというと長めの髪も短めにカットした。ただし、前髪だけは、目元が目立たないように少し長めに残して。この髪色とヘアスタイルだと、今のようにマスクをして、サングラスをかけると、帽子をかぶっていなくても「BEST FRIENDSの『ヒロ』」だとは誰も気づかないようだった。
「迎えが来てるはず・・・。」
ヒロはサングラスをかけ直すと、それでも注意深く周囲を気にしながら、少しうつむき加減に歩き始めた。韓国を離れた異国の地では、「ヒロ」と分かる人はいなかった。メイクなど一切せず、アクセサリーで身を飾ることもなく、そこではむき出しの「自分」で過ごした。黒ぶちのだて眼鏡ひとつだけが、果敢に「ヒロ」であることを隠し通す任務を遂行していた・・・。そんな頼りないくらいの無防備さで、ヒロは「BEST FRIENDSのヒロ」ではない普通の17歳として生活を送った。ただただ、太陽が眩しいとか、蝉がにぎやかだとか、そんな当たり前のこと、ひとつひとつに心を動かしながら・・・。でも、今、自分が立っているのは異国の地ではない・・・。ホームグランド・・・韓国だ。そして、先日、ヒロのスキャンダルに更に疑惑が持ち上がったばかりのタイミングだった。周りの人の笑顔すべてが嘲笑に見える・・・その目には軽蔑の色が色濃く表れている・・・そんな幻影がヒロの周りをうねりをあげて渦巻く。怖い・・・消えかけ癒やされかけていた感情がくすぶっていた火山のように噴火する・・・ぼくは、まだ・・・こんなにもこんなにも人が怖い・・・。軽いめまいをおぼえ、ヒロは立ち止まった。そして、少し上を見上げると、何かを思い出すように、そうっとジーンズのポケットに左手を入れた。そこにある紙切れに指先が触れる・・・。目をつぶってヒロはそれをぎゅっと握った。その途端、ヒロの周りのうねりは収まり、静寂を取り戻し、代わりに夏の太陽の香りのする空気がヒロを包んだ・・・。そして、それは呼吸と共に口から体内に入り、やさしく全身を駆け巡った。ヒロは、ハアーッと肩で息をすると、マスクの中でずっとへの字に結んでいた口元を緩め、今日初めて笑った。
「すっごい威力・・・」
ヒロはその紙切れをポケットから取り出すと、右手でサングラスを上にずらし、裸眼でその紙切れを見つめた。そこには小さな丸い数字がいくつか書かれていた。その数字がヒロには魔法の呪文のように思えた。この魔法を使ったら・・・。数字をぼんやり眺めながら、ヒロはふとそんなことを考えた。こんな出口の見えない状況なのに、どうしてだろう・・・湧いてくる感情は「幸せ」と名付けていいものばかりだった。この魔法を早く使いたい・・・そんな衝動にもかられる・・・ヒロは目を細めてサングラスを下げた。
「わ!サイテー!!」
突然、大きな金切り声がヒロの耳に飛び込んできた。ヒロの意識が強引に今いる場所に引き戻される。女子の二人組がこっちに顔を向け、大きな声で話しながら前方からやってくる。ネットで飛び交っているそのたぐいの言葉は、ヒロを四方八方どこからでも飛んできて、切りつけ傷つける・・・。
「でしょー。先生、よりにもよって、わたしの答案間違えて、ジソンに渡すなんて~。」
女子二人は、自分たちの話に夢中な様子でヒロの横まで来た。二人が完全に自分の横を通り過ぎるまで、ドクドクと音をたてるような緊張感がヒロの体を覆う。あぶら汗が全身から噴き出す・・・。
「なんだ、違った・・・。」
女子の二人組は、ヒロとは気づかず、別の話をしながら通り過ぎていった。ヒロは体全体の緊張が一気にほどけるのを感じた・・・。スキャンダルを起こしたものにとって、周囲の何気ないおしゃべり、耳打ち、視線、それさえも凶器だった。緊張がほどけるのと同時に、多量のあぶら汗がブワッと背中を伝って滑り落ちる。ヒロはクラッとふらつき、思わず膝に手を当て下を向いた。その瞬間、がっしりと左の脇を誰かの腕に抱えられた。
「ヒロ、大丈夫か。」
ヒロを抱えた男が声をかける。C・Yエンターテインメントの社員で、ヒロの連絡係をしてくれていたイ・ソンウンだった。聞き慣れたイ・ソンウンの声を耳元で聞きながら、ヒロは意識が遠くなるのを感じた。
「椅子までがんばれ。」
ソンウンはヒロの左腕を自分の首に回すと、ヒロを抱え、引きずるように椅子のあるところまで運んだ。ヒロはもうろうとしながら抱えられるままフラフラとついて歩いた。やっと椅子まできて寝かされるのと同時にヒロは意識を失った。
「すっごい汗だ。体も熱い・・・。」
ソンウンは急いで電話をかけ始めた。ヒロはぐったりと椅子に身を任せ、力なく横たわった。サングラスが外れ、彼の顔の横に落ちる。しっかりと握りしめていた左手の力も抜け、ゆっくりと指が開いていく・・・。親指と中指が離れた瞬間、小さな紙切れが人知れずポトン・・・と床に落ちた・・・。サングラスが外れあらわになったヒロの固く閉じられた目。その目尻から・・・汗なのか涙なのか・・・一筋の雫がこぼれて落ちた。そしてそれは・・・紙切れに書かれた小さな7という数字をそっと濡らした・・・。
「奈津は?」
紅白戦のハーフタイムに入り、ベンチに戻ってきた悠介は、ドリンクを渡しにきたまなみに訊いた。前半走りっぱなしだった悠介はかなり息があがっている。汗が滝のように流れ落ちている。ドリンクをひとしきり飲んだ後、いつものように練習着の裾で顔の汗を拭きながら辺りを見渡す。
「今日は、用事で部活休み。」
まなみは、なるべく抑揚をつけないように答えた。奈津は悠介のことには触れない。でも、まなみは、悠介の奈津への気持ちくらい、とうの昔から知っている。だから、奈津が部活に出ていない事が分かると、悠介が奈津の所在を訊いてくるのは予想していたことではあった。ほら、予感的中。
「用事?」
悠介はボトルに口をつける前にもう一度まなみに訊いてきた。ドリンクを飲んでいる間に答えを聞きたいのだろう。相変わらず、奈津のことなら何でも知ってる・・・と言わんばかりの悠介の口ぶりだった。そのことが余計にまなみの胸にチクッと刺さる・・・。
「うん。わたしも詳しく聞いてない。奈津も用事があるからとしか言わんかったから。」
本当のことは言えなかった。奈津は、何の連絡もなしに2日も高校を休んでいるタムラコウキの家に行っている。ううん。正式には、タムラコウキの家を探しに行った。悠介はドリンクを飲み終わった後、残りのウォーターを頭からかけながら、
「あいつが部活休むなんてよっぽどだな。」
と一言だけ言った。そして、手前にいて向こうを向いて作業をしている詩帆の肩に空いたボトルをポンッと押し当てた。早く受け取れ・・・というように。他の部員たちが飲んだ空いたボトルをかごにしまっていた詩帆は、慌てて振り向くと、
「あ、すみません。」
と言って、ペコンと頭を下げた。顔をあげて、詩帆は、自分の肩にボトルを押し当ててきたのが悠介だと分かると一瞬戸惑った。しかも、その当の悠介は、詩帆がボトルを受け取るとすぐ、何も言わず、もうグランドに向かって走り去ろうとしていた。それは、詩帆の知っている悠介ではなかった。詩帆の知っている悠介は、練習だろうが、試合だろうが、どんなにクタクタになった時でも、ボトルを返すときは、マネージャーの目を見て、必ず「ありがとう。」と言うのを忘れない・・・そんな先輩のはずだった・・・。
「この辺だと思うんだけど・・・。あ~着替えてくればよかった。あっつ~!」
奈津は学校から一旦家に寄り、教科書などが入った重たいリュックを玄関に置き、貴重品の入ったポーチだけを持って、はやる気持ちで家を出た。もちろん、制服のまま。コウキの住所をそれとなく中野先生に聞いてはみたが、個人情報なので教えられない、と簡単に断られてしまった。だから、こうして仕方なく、めぼしいところを当たっているのだった。
「病気はしょうがない。人間だから熱も出るでしょうよ。風邪も引くでしょうよ。だけど、電話くらいできん?それとも何?電話もできんくらいそんなに重症?」
大きな独り言を言いながら、心なし、足をドンドンと強く踏みしめながら、奈津は自転車を押して歩いた。野々宮地区でコウキがバスに乗ってきたバス停から考えると・・・この辺だと思うんだけど・・・。奈津は辺りをキョロキョロする。さっき、スーパーで買ったリンゴが二つ、自転車のかごの中で転がりながら煮えている。もうかれこれ1時間以上は「タムラ」さんの家を探して自転車を押して歩いている。部活の時にかぶるキャップをかぶっててほんとによかった!なんてったって暑すぎる。
「すみませーん。おじさん!この辺に『タムラ』さんっていうおばあさんのお宅知りません?」
田んぼの見回りをしている作業着をきたおじさんを見つけると、奈津は声をかけた。これで何人目かな。この辺りに詳しそうな年齢の人を見かけると、奈津は片っ端から声をかけた。初めははきはきとしていた口調だった奈津も、この頃になると、暑さで覇気も無くなりグダグダになってきていた。それでも、声をかけられたおじさんは足を止め、こちらを振り向き、
「タムラねえ・・・。」
と思い出そうと名前を復唱してくれた。でも、考える時間が長い。今回も期待薄かな・・・奈津がそう思い始めた時、
「あ~、あ~、あ~。」
何かを思い出したようにおじさんは目を大きくして、頭を上下にゆっくり動かした。
「ある。ある。あの木の茂みを越えた向こうに1件タムラさんがあるよ。そこに歳とってるけど元気なおばあちゃんが一人で住んでる。」
おじさんは、田んぼの向こうの山際に見える木の茂みを指さした。奈津はキャップのつばの先にさらに左手をかざすと影を作り、眩しそうに目を細めてそちらを見た。
「あの茂みを越えて、少し坂を上ったら一軒だけしかないからすぐ分かるよ。あ~、そういや、ばあちゃん、最近ひ孫と住んでるって言ってたなあ。時々、スラッとした子が自転車に乗って通るの見るよ。」
スラッとした子?自転車?やった!ビンゴ!!奈津は心の中で叫ぶと、
「ほんとですか?おじさん、ありがとう!!ちょっと行ってみます!」
とさっきまでのグダグダさとは打って変わって、おじさんに元気よくお礼を言った。そして、助走をつけると勢いよく自転車に飛び乗った。
「まったく!いくら病気だからって、電話もせず2日間もほったらかす?大体、あの番号は簡単にはもらえないんだぞ!もう、ほんとに、わたしを怒らせる天才なんだから!!」
こぎ始めは、ブツクサと文句を並べていた奈津だった。でも、ひとしきり文句を言い終わると、少し黙りこくって、それから誰が聞いているわけでもないのに、
「・・・っていうか、コウキも私と一緒で付き合うの初めて・・・とか?それで、女心分からない・・・とか?」
と小声でつぶやいた。そうしてまた、自分で言っておきながら、一人で顔を赤くした。そして、左手でパタパタと顔を仰いだ。本当に・・・コウキのことはまだ知らないことだらけだった。きっとこれから、少しずつ少しずつコウキの事を知っていくに違いない・・・。2日会ってないだけなのに、こんなに落ち着かず、いてもたってもいられない自分が、奈津はなんだか可笑しかった。お見舞いに行ったらコウキはどんな顔をするだろう。びっくりするだろうな・・・。一重の目をまん丸に大きくするだろうな・・・そしてきっと、あのクシャッとした笑顔を優しく返してくれるんだろうな・・・。会いたい・・・。いつの間にか奈津の心の中はこんなにもコウキでいっぱいで溢れそうになっていた・・・。
「よ~し!待ってろ!タムラコウキ!」
奈津は元気よく自転車をこぐと、スピードをあげた。・・・それに合わせて・・・かごの中のりんごも揺れる・・・。自転車の振動に合わせて二つのリンゴは、ゴツンゴツンと翻弄されるようにぶつかり合っていた・・・。
寝返りを打つと、ゆっくりと目を覚ました。なんだか頭がぼんやりしていて、自分がどこにいるのか分からない・・・ここはどこだろう・・・?・・・それより、ぼくは誰だっけ・・・?
「ヒロ~!!!」
突然、歓喜の声と共に誰かに首元に抱きつかれた。ヒロ・・・?そうか・・・ぼくはヒロだった・・・。
「・・・ジュン?」
ヒロはまだもうろうとして、うつろな声で答える。
「ほんっと、心配したんだからな。なんでいなくなるんだよ!なんで連絡しないんだよ!」
歓喜の声からふいに泣き声に変わるジュン。それを合図にヒロのベッドは囲まれる。頭を撫でられたり、ほっぺをつねられたり、おなかやおしりをつつかれたり、懐かしくて、大好きだった空気がヒロを包み、漂う・・・。
「みんな・・・。」
ヒロは、ここが宿舎で、自分を囲んでいるのがBEST FRIENDSのメンバーたちだと認識した・・・。前と何も変わらないみんなの笑顔・・・。途端にせきを切ったように涙が溢れ出る。両手で顔を覆う。しゃくりあげて、声にならない声を絞り出す。
「・・・ごめん。」
「ば~か。」
静けさの中、シャープの声が響く・・・。それと同時に、6人はヒロの体の上に乗ったり、くすぐったりしてきた。
「わ!やめろ~!」
ヒロは涙を拭う暇も無く、泣き笑いのような声を出した。なんだかくすぐっている方も泣いてるのか笑っているのか分からないような表情になっている。ヒロは病み上がりで、しかも3ヶ月ぶりの再会でもあるというのに、誰も容赦などしない。むしろ、激しさを増してやってくる。ヒロのくすぐったくて笑い死にしそうな声を聞いて、みんなは大笑いをする。久しぶりにBEST FRIENDSの宿舎が笑い声に包まれる。・・・宿舎の外の状況は一向に変わってなどいない・・誹謗、中傷、好奇の風が吹き荒れている・・・。でも、今は・・・そんなことどうだっていい・・・。なんてったって、ヒロがおれたちのヒロがBEST FRIENDSに帰ってきたんだから!!
こんもりとした緑の先のゆるい坂を上ると、一件のこぢんまりとした昔ながらの家が現れた。玄関の前には車が4,5台停まるくらいの広さがあり、手入れが行き届いた小さな畑もあった。その畑にはピーマンとトマトが太陽の光をいっぱいに浴びて、色鮮やかになっている。奈津は自転車を停めると、ゆっくりと畑と庭、そして家を見た。なんだか初めて見るのに、これらすべての様相が、コウキの雰囲気にぴったりな気がした。さらに視線を動かすと、家の横の差し掛けの下に、見覚えのある自転車が停まっているのを見つけた。坂道を上ってきた動機とは別のドキドキが始まる・・・。この壁の向こうにコウキがいるんだ・・・。奈津は玄関の前に立ち、ポケットから取りだしたハンドタオルで顔の汗を丁寧に押さえて、大きく息を一息ついた。それから、
「頑張れ、奈津!」
と自分にエールを送ると思い切って玄関のチャイムを押した。
ピンポーン
奈津はつぶっていた目をさらにギュッとつぶり、家の中からの反応を待った。・・・どれくらい待っただろうか。外界から何の音も返ってこないので、奈津はゆっくり片目を開けてみた。玄関の戸はさっきのまま・・・、どうやら何の変化も起きていないらしい。
「あれ?聞こえなかったのかな?」
両目をパッチリ開けると、今度は、玄関のチャイムを2度押してみる。
ピンポーン、ピンポーン。
相変わらず何も起こらない。こうなるとなんだか大胆になってしまう奈津は、引き戸の玄関に手を当てるとそっと引いてみた。ガラガラガラ・・・開いた!どうやら鍵はかかっていないらしい。無駄なものが置かれていないスッキリした玄関の隅に、コウキの青いスニーカーが1足だけ置かれていた。なぜだか・・・、そのスニーカーの存在が急に奈津を不安にさせた・・・。起き上がれないほど、具合悪いのかな・・・。
「ごめんくださーい。」
奈津は家の奥まで届くように、できるだけ大きな声を出した。
「はいはいはい。」
ゆっくりと穏やかな返事が聞こえてきた。家の中からではなく、外にある差し掛けの方から。藍色の割烹着にもんぺをはいた少し腰の曲がったおばあさんが、ちょこちょこという表現が似合うような歩き方で、大きめの袋を持ったままこちらにやってきた。しわが深く刻まれた顔は、優しくかわいらしい感じがした。
「どちら様?」
あっけにとられている奈津に、そのおばあさんは訊いた。訊かれて慌てて奈津は答えた。
「あ、小沢と言います。コウキくんのクラスメートで・・・。」
奈津はここまで言うと、おばあさんの言葉を待った。
「あ~、あ~、コウキのね。お友達?あれ、あれ、初めてだ。」
おばあさんは大きな袋を脇に置くと、腰を伸ばして、もう一度奈津を見た。
「あら、あら、かわいらしいお嬢さん。そうかね。コウキの友達かね。」
おばあさんは嬉しそうに笑った。奈津もつられて笑った。
「コウキくん、夏風邪で学校を休んでますけど・・・」
と奈津が話を始めたが、おばあさんは話を聞かず、自分が話始めた。
「こんなかわいらしいお友達に来てもらったのに、いけなんだ。コウキは出かけてておらんのよ。」
奈津はおばあさんの話がすぐには飲み込めなかった。・・・コウキが出かけてる・・・?
「あの、おばあさん・・・。コウキくん・・・」
奈津は思わず声を出すが、おばあさんには届かない。
「おおかた、仕事でも入ったんじゃろう。なんの仕事かばあちゃんはよう知らんけど、長い休みがとれたから仕事行かんでええ言うて・・・。それで高校もこっちで通う、言うて通っとったが。」
自分の話したいことを自分のペースで話すおばあさんが、奈津の知らないことをしれっと口にする・・・。
え・・・?仕事・・・?
「そう、そう、ばあちゃん心配せんでもすぐ帰る・・・言うとったから、おおかた帰るころじゃろうて。まあ、明日でものぞいてみんさい。」
そう言って今度は、小さな畑の方へと歩き始めた。
「おばあさん!コウキくんは、コウキくんは出かけたって、・・・どこに行ったんです?」
奈津は腰が曲がって小さくなっているおばあさんの背中に向かって訊いた。おばあさんは振り向くと、
「ありゃ、言わんかったかいね。」
と言って笑うと、
「外国、外国。そうそう、か、ん、こ、く。」
と小さい子どもに言うように、ゆっくり区切って言った・・・。そして、軽く手を上げるとちょこちょこと畑へと入っていった。奈津はぼんやりとおばあさんを見送る・・・。それから、そっとポケットからスマホを出して画面をつけた。
着信なし・・・。
奈津はスマホをまたポケットにしまった。
「韓国・・・。」
奈津はコウキのことを何も知らないことに改めて気づかされた・・・。奈津は空を見上げる。空はうっすらピンク色をしている。その空のキャンパスには、別れ際、奈津の頭に手をポンッと置いて、優しく笑ったコウキの顔が描かれた・・・。奈津はそれを抱きしめるように両手を伸ばしす・・・。何でだろう・・コウキ・・わたし、涙が出るよ・・・。
「あんだけ、ヒロのこと怒ってたくせに、なんだかんだ、お前が1番嬉しそうじゃんか!」
ひとしきり大騒ぎが終わると、ジニがジュンに言った。ジュンはペロッと舌を出すと、素知らぬ顔で口笛を吹くまねをした。そして、
「また、熱出たらいけないから、ヒロは、まだ寝とけ!」
と言った。ヒロは笑いがやっと収まった様子で「フーッ」と息を吐くと、
「うん、そうさせてもらう・・・。」
と言った。シャインは、
「今日は、ドンヒョンの部屋で寝るから、お前はゆっくり寝ろよ!」
と声をかけた。そして、みんなは、
「おやすみ!」
と声をかけるとヒロの部屋から順々に出て行った。
「あ、ヨンミナ。」
最後に部屋を出ようとしたヨンミンにヒロは声をかけた。
「ジーンズのポケットに入ってる紙と携帯取ってくれる?」
心なしかヒロの声がウキウキしているように感じる。
「オッケー!」
そんな嬉しそうなヒロにヨンミンは笑顔で答えると、ハンガーに掛けてある、ヒロのジーンズのポケットから、まずは携帯を取り出した。それから両方のジーンズのポケットをまさぐった。しばらくしてヨンミンは困惑した顔になると、
「何も入ってないよ。」
とヒロに告げた。ヒロの嬉しげな顔からサッと笑顔が消える。
「そんなはず・・・。」
ヒロは慌ててベッドから起き上がると、ヨンミンからジーンズを取り上げ、自分でもポケットを調べた。・・・が、ない・・・。ヒロは思わずジーンズを落とした。そう言えば・・・、気を失う前、空港でポケットから紙を出した・・・。あの時だ・・・。そうだとしたら、あの紙がヒロの元に戻ってくることはないに等しかった・・・。
「魔法が・・・。」
ヒロは。目をつぶって、唇を噛んだ。
「ヒロ兄さん?」
心配したヨンミンが声をかけた。
「あ、ヨンミン、何でもない。何でもない。もう寝るから大丈夫。ごめん。行って。」
ハッと我に返り、ヨンミンに答えると、ヒロは大丈夫な振りをした・・・。ヨンミンは心配そうに一度ヒロを振り返ったが、静かに部屋を出て行った。ヒロは部屋の戸が閉まるのを見届けると、病み上がりのおぼつかない足で窓際まで行った。「2日も経ってる・・・。」ヒロは窓から見えるうっすらピンク色をした空を眺めた。その空に、目をまん丸くして、怒ったり、泣いたり、笑ったりする子の顔が浮かんだ・・・。その子の顔がもう一度泣き顔になった時、ヒロはその子を捕まえるように手を伸ばした。そして、その両手を自分の胸の所まで持ってくると、ギュッと抱きしめた・・・。
「また、鼻を赤くして泣いたりしてない・・・?」
「悠介、お前さあ、誰のためにサッカーやってんの?」
部活が終わり、部室に引き上げている悠介の背中に向かって壮眞が突っかかるように言った。
「は?」
悠介は足を止めるとゆっくり後ろを振り返った。傍で部員たちからビブスを受け取っていたまなみと詩帆の手も止まる。そして、思わずそちらに目をやった。後輩の部員たちは聞こえはしたが、先輩たちのもめ事にはなるべく首をつっこまないようにしておこう・・・とでもいうように、あえて聞こえないふりをしてその場を通り過ぎていった。
「やめろって。」
鷹斗が何かを察してか、壮眞を制した。
「どういう意味?」
悠介は冷静さを保ちながら訊いた。
「お前のサッカーは、奈津がいないと全然サッカーになってないってこと!」
壮眞の言葉が響くと、まるで時間が止まったようにみんなの動きも止まった・・・。詩帆の心臓も反応する・・・。悠介と壮眞の間に重苦しい沈黙の空気が流れる。壮眞は悠介と奈津と小学生の頃から同じチームでプレイしてきた、いわば二人の幼なじみでもあった。誰よりも悠介のプレイを見てきている。
「ごめん。悪かった!」
しばらく続いた沈黙を壊したのは悠介だった。左手を挙げて悠介は笑った。
「今日、調子がいまいちで・・・。わりい、わりい!でも、それって、別に奈津のせいじゃないからな。たまたまだって、たまたま!」
悠介はそう言うと、壮眞に背を向け、また、部室に向かって歩き始めた。
「今日だけじゃないだろ。昔っからそうじゃん。悠介、奈津がいないとまともにボールも蹴れねえじゃん!プレイがフワフワして、足にボールが収まってないんだよ。」
壮眞はもともと血の気が多い方ではあるが、今日はやけに悠介に突っかかる。悠介はもう一度ゆっくりと振り返ると、鋭い目で壮眞を見た。
「そう見える?」
そう言うと、悠介は壮眞に向かってまっすぐ歩いた。そして、壮眞の手前で悠介は左手を振り挙げた。壮眞も負けずににらみ返す。思わず、
「悠介やめろ!!」
と鷹斗が叫ぶ・・・。周りにいた3年生たちとまなみは思わず息を飲んだ。詩帆は見ていられず目をつぶる・・・でも、悠介の左手は壮眞の右肩にポンッと置かれただけだった・・・。悠介はそのまま壮眞を通り過ぎるとグランドに向かってゆっくり走り出した。さっきまでピンク色だった空がいつの間にかねずみ色の厚みのある雲に変わっている・・・。そのねずみ色の雲からちょうど水滴が落ち始めた所だった。そして、それはひとつ、ふたつと悠介の顔を打った・・・・雨だった。悠介はグランドに転がっているサッカーボールの所まで行くと、それを足で跳ね上げ、静かにリフティングを始めた・・・。降り出した雨が悠介とボールに降り注ぎ始める・・・。
「好きにしろ!」
壮眞は吐き捨てるようにそう言うと、部室に入っていった。鷹斗や他の部員たちも、悠介を心配そうに振り返りながらも、それに続いた。まなみもぼんやりしている詩帆の腕をポンッと叩いて促すと、二人で残りの仕事にとりかかった。
着替え終わった壮眞が部室を出て、何気なくグランドに目をやると、雨の中、まだ、悠介がリフティングをしていた。
「あいつ・・・。」
壮眞は、ハアーっとため息をつくと、雨の中、悠介に向かって歩いて行った。仕事が終わって部室に戻ろうとしていたまなみはそれを見つけると、「やば!けんかしそう!」とつぶやき、近くにいた詩帆の手を取り引っぱると、壮眞の後を追った。
「悠介・・・。」
壮眞が黙々とリフティングをする悠介に声をかけた。
「ごめん。言い過ぎた。お前がシュートチャンスを何度も逃したんでイライラしてた。」
どうやら、けんかをふっかけに来たのではないようだった。まなみは胸をなで下ろすジェスチャーをした。詩帆もオッケーとジェスチャーで返してきた。安心して引き返そうとする二人に悠介の声が聞こえてきた。
「いや・・・。壮眞の言うとおりだ・・・。」
顔をしたたる雨を拭いもせず、壮眞とマネージャー二人に背を向け、リフティングをしたまま悠介が答える。
「オレの課題なんだよ・・・。あいつ、奈津さ、昔っからサッカー上手いじゃん。お前だって知ってるだろ。」
そう言って、しゃべりながらも悠介はリフティングをしている。ボールは落とさない・・・。
「母さんが亡くなって、あいつ中学でサッカーやめちゃったけど、小学生の時はオレ、あいつからボール奪えなかったもんな。子ども心になんかどっかあいつが目標で・・・。ま、今はオレのがバリバリ上手いんだけど!」
雨でグショグショのまま悠介はリフティングを続ける・・・。
「だから、あいつにサッカーで褒められると、めっちゃ嬉しくて・・・。そんで怒られると、めっちゃなにくそ~!!て思えて・・・。」
「まあな・・・。オレもそんなとこある・・・。」
と悠介の話に相づちを打つように壮眞が答える。悠介の左足の甲で蹴り上げられるボールは相変わらず、ポンポンポンときれいにリズムを打っている。
「だから・・・、あいつがオレを見てくれてないってだけで、テンション落ちまくり・・、オレ、すっげー崩れる・・・。」
そういうと、そのボールを一旦頭の上まで蹴り上げた。そして、そのボールが落ちてきたところをゴールに向かってボレーシュートした。
「お前の言うとおり、昔っからだ・・・。ほんっとオレの課題だ・・・。。」
そう言うと、悠介はゴールに向かって歩き始めた。
「ボールしまって、あと、ここだけトンボかけとくから、壮眞もマネージャーも帰っていいぞ。」
と3人に向かって言った。壮眞の他にまなみと詩帆に今の話を聞かれてしまったことも、悠介は特に気にしていないようだった。悠介は奈津への気持ちをもうごまかす気はないようだった・・・。そして、雨に濡れたグショグショの笑顔で、
「気を利かせろよ!分かってるな!オレ一人にやらせろよ!」
と言い残すと走って行ってしまった。悠介が行ってしまうと、
「なあ、悠介と奈津ってずっと両思いだろ?あいつらけんかでもした?」
壮眞がまなみに訊いてきた。まなみは突然訊かれて「あ~。」と一瞬上を向いたが、
「ずっと・・・悠介の片思いだよ。悠介、それ、たぶん分かってる・・・。」
と言った。壮眞はそれを聞くと、
「まじか・・・。悠介、それキッツイな。」
とだけ言うと、一度悠介に目をやり、上を向くと、静かにその場を後にした。壮眞が歩き出すのを合図に、まなみと詩帆も雨も降ってるので、小走りで壮眞とは逆の部室の方に向かった。走りながらまなみは詩帆に話しかけた。
「詩帆ちゃんには言ってもいっか・・・。奈津、あの例の胸ぐら掴み騒ぎのタムラコウキとくっついたんよ。悠介、うっすら気づいてるんじゃないのかな?二人のこと・・・。だからあんなに・・・。」
そこまで言うと、まなみは詩帆の方を向いた。そして、慌てた。詩帆の顔はクシャクシャの泣き顔だった・・・。雨だか涙だか鼻水だか分からないくらいグシャグシャになった顔で、詩帆は泣いていた・・・。
「姉ちゃん、どうしたの?」
凛太郎は仏壇の前で寝っ転がっている奈津に声をかけた。帰ってきてから、もう30分も経とうというのに、ご飯を作ろうともしない。
「あ・・・ご飯?ごめん、ごめん。姉ちゃんなんだかちょっとしんどくて・・・。今日は父さんにお惣菜買ってきてもらうように頼んだから。」
電気もつけず薄暗い部屋の中で寝転んだまま奈津が答えた。
「わかった。」
凛太郎はそう言うと、部屋を出ようとした。・・・が立ち止まって振り向くと、
「姉ちゃん、今スマホ使ってない?貸して!」
と心なしウキウキした調子で言った。奈津はポケットからスマホを取り出し、一度画面を確認すると、更に脱力した様子でそれを凛太郎に渡した。
「サンキュー!!」
凛太郎は嬉しそうに受け取ると早速、スマホを操作しながらリビングに向かった。
「どうせBEST FRIENDS見るんよ。凛太郎、すっごい好きみたい。」
奈津は仏壇から母さんの写真を取ると、写真の母さんに向かって話しかけた。涌き上がってくる不安を打ち消すためになるべく元気よく。
「あ、BEST FRIENDSも韓国だね~。母さん、コウキが韓国ってどういうことだと思う?親の都合で韓国にいたのかな?ってのはなんとなく分かるんだけど、おばあちゃん、コウキが仕事してるっぽいことも言ってたような・・・?違ったっけ?高校生なのに?もう~、なにがなんだか分かんない!パニック!!」
写真の母さんは相変わらず笑っている。リビングからはBEST FRIENDSの曲が流れ始める。
「あれ、あれ、あれがBEST FRIENDSなんだって。まあ、歌は上手かな。まだ、よくわかんないけど、この高音の声のところが私は好きかも?」
母さんに話しかけてるのが聞こえたのか、凛太郎が割って入ってくる。
「姉ちゃんが好きって言ってる声が『ヒロ』だって!コウキくんにめっちゃ似てる人!」
「どう思う?凛太郎がコウキに似てるってしつこくて。コウキはあんなにチャラくないって言うのに。ね~、母さん!」
写真の母さんが心なし、より笑ったような・・・。
「ほら、母さんも似てないって。」
奈津は不安を蹴散らすように、ふざけてリビングの凛太郎に声をかけた。それを聞いた凛太郎はスマホ片手にやってきて奈津の横に一緒に寝転んだ。
「いいよ!じゃあ、母さんに判定してもらう!」
凛太郎はBEST FRIENDSのMVが流れているスマホを両手で上にかざした。奈津は母さんの写真を自分の胸の上に抱くと、3人で映像を見るような体勢にした。画面では軽快でリズミカルな明るい曲が流れている。奈津はそれを眺めた。全く興味のないK-POPだったが、今は韓国のグループ・・・というだけでコウキと繋がっているような錯覚を覚える・・・。横では凛太郎がノリノリだ。画面がどんどん切り替わるのと同時に、メンバーたちも入れ替わり立ち替わりアップになる。いったいどの人がコウキに似てるっていうんだろう・・・。本気で判定する気もない奈津は、画面を眺めながらも、画面とは関係なく頭の中ではコウキを思い出していた。顔を近づけてきたコウキの目・・・。その目を思い出すと、奈津は今でも、胸が締め付けられるほどドキドキする・・・。
「あ、今の!!」
ライトブルーの髪色の人がアップになった時、凛太郎が言った。奈津の意識が頭の中から画面に戻る・・・。
「え、どれどれ?分からなかった!」
口では、凛太郎に合わせてそう言ってはみるが、「分かったところで・・・。」と心の中ではどこか冷めていた。もし、ほんとに似ていたとしても、たとえ、どんなにかっこよかったとしても、この画面の中で歌って踊っている「ヒロ」と呼ばれる彼が奈津の心の中に入る隙など微塵もなかった。今、奈津の心はたったひとりに占領されていた・・・。奈津は胸の上で、母さんの写真を知らず知らずのうちにギュッと抱きしめる。ぼんやりと目は画面を追いながらも、また、頭の中では画面とは違うシーンが浮かんでくる。放課後の教室・・・眼鏡をかけていない涼しげで綺麗なコウキの目が奈津の顔をのぞき込んだ・・・その時、いつの間にバラードに変わったのか、高音で美しいメロディーを口ずさみながら、画面の中から誰かが奈津の顔をのぞき込んだ・・・。思わず、母さんの写真を離して奈津は両手を伸ばしていた・・・。突然画面が静止する。母さんの写真が奈津と凛太郎の間に滑り落ちる。外からは、静かに雨音が聞こえ始める・・・。
「これがヒロ!」
凛太郎が得意げに言う。
「ヒロ・・・?」
制止した画面では、ライトブルーのクシャッととした長めの髪で、青いカラコンを入れた「ヒロ」と呼ばれる彼がこちらをのぞき込んでいた・・・。奈津が大好きな・・・会いたくてたまらない・・・あの涼しげで綺麗な目をして・・・。
蝉の鳴き声が充満するうだるような暑さの中、高校は1学期の終業式を終えた。体育館から教室に帰ってくると、みんなは「あっつ~。」とブツブツ言いながら各々自分の席についた。奈津は自分の席に着くと、分かっていることなのに、つい廊下側に目をやってしまった。奈津の想いなど素知らぬ様子で、1番後ろの席がポツンと空いている。視線を感じたのか、その席の前に座っているまなみが奈津を見た。奈津はまなみと目が合うと、ちょっとおどけたように笑った。まなみもまねをしておどけたように笑い返した。でも、まなみの笑顔はどこかぎこちなかったかもしれない・・・。しばらくすると、両手いっぱいの書類を抱えて1学期最後のホームルームに中野先生がやって来た。いつも通りの元気のよさで、生徒たちと英語で挨拶を交わし終わると、先生は空いた席に目をやった。 「タムラ、風邪をこじらせたみたいね~。まあ、来週から始まる課外授業までには治るでしょ!英語の授業の申し込み出てたから。配布物はそのまま席に置いといて、課外の時に直接渡すから。」
先生も教室のみんなも日常よくあることのように普通にコウキのことを話題にした。そして、それに対して、誰も何の疑問も抱いていないようだった。自分だけが異世界に迷い込んだような感覚・・・。「課外には来る・・・?それまでには帰ってくる・・・?」奈津の心の中は急にざわつく。コウキの目をして、髪の色と目の色だけが違うあれは誰?BEST FRIENDSの「ヒロ」と呼ばれる彼と同じ目をして、あそこの席に座っていた黒髪で眼鏡をかけていたのは誰?目に入る情報が奈津を混乱させる。奈津が知りたいのは、不確かなそんな情報ではなかった。奈津が知りたいのは、たったひとつ・・・電話の向こうのコウキが語る真実・・・ただそれだけだった。校則違反だと分かっている。でも、奈津は電源を入れたままのスマホを手放すことができなかった・・・。奈津は窓の外に目をやった。この空はコウキと繋がってるのだろうか?じゃあ、わたしの想いは届く?「コウキ・・・」奈津は空に想いを放つように名前をつぶやいた・・・。どうか、コウキに、コウキに届きますように・・・。
「それじゃあ、遅いんです!今すぐ、行きたいんです!」
代表の部屋からヒロの声が漏れ聞こえる。
「あいつ、どうしたの?珍しくおっきな声出して。」
ジニがドンヒョンに訊いた。
「なんか、ヒロのやつ、一旦日本に帰りたいらしくって。」
ドンヒョンが答えていると、今度は代表の声がヒロの声に負けないくらい大きく聞こえてきた。
「今月末のソウルのファンミまでに遅れてる分取り戻さないといけないだろ!一連の報道があってから、初めてファンの前に立つんだ。お前の帰りを待っててくれたファンに失礼のないようなパフォーマンスにまで仕上げろ。会いたい友達ってのは、8月7日の日本のファンミが終わってから会いに行けばいい!BEST FRIENDS続けるって決めた以上、お前はプロなんだぞ!甘えるな。」
「続けます!それは 決めてます!でも、今回は、一時帰国のつもりで帰っただけで、あのまま日本を離れるなんて思ってなかった!!」
普段は、代表に口答えするようなタイプではないヒロが、果敢に代表に食い下がっていた。
「自分の口からファンに話したいって言ったのはお前だ。だから、今回のファンミから急遽、お前を参加させることにした。これはもう決定事項だ。いいか、お前のスキャンダルは収束どころか女優の発言で再燃してるんだぞ!言いたくないが、もう、足は引っぱるな!!」
代表の言葉にヒロは手を握りしめた。そして、もう何も言えなくなった・・・。そうなんだ・・・これ以上・・・足を引っぱる訳にはいかない・・・。
「すみません・・・。」
ヒロは頭を下げた。代表は自分を落ち着かせるように大きくため息をつくと、
「悪かった。急だったからな・・・。心の準備もないまま、お前を日本から離れさせたな・・・。カムバまで、少し時間がある。日本のファンミの後、今回は長めの休みをとっていい。長いといっても一週間くらいだが、それでいいか?」
「・・・はい。」
ヒロは握りしめていた手を緩めると、深々と頭を下げた。「8月7日・・・一週間・・・。」ヒロはつぶやくと唇を噛みしめた。そして、ゆっくり顔を上げた。代表はもう向こうを向いて窓の外を見ていた。ヒロはその背中に一礼すると、静かに部屋を後にした。廊下には心配そうな顔をしたジニとドンヒョンが立っていた。
「あ・・・、大丈夫。いろいろ中途半端なまま日本をあとにしたから・・・。そのことでちょっと・・・。」
頭をかきながらヒロは二人にそう告げ終わると、向きを変え、ひとりポツリポツリと小窓のある廊下の突き当たりの方に向かった。
「ヒロ!」
ドンヒョンが後ろから呼んだ。
「足引っぱってるなんて思わなくていいぞ。今回のことは、オレたちの人気が出てきた証拠!洗礼を受けただけだから!堂々としとけばいい!」
「何度も言ってるけど、ヒロは一人じゃないから。BEST FRIENDSは7人だぞ!」
ジニもドンヒョンの言葉を追いかけるようにヒロの背中に声をかけた。ヒロは二人に背を向けたまま、歩きながら頭の上に両手を添えると、ライブの時にファンに見せる大きいハートを両手で作った。振り向けないのは、泣きそうなのを我慢してて顔が変になっているから・・・。本当に仲間を大切に思う・・・。そして、こんな自分を待っていてくれているファン・・・。どちらもヒロにとってかけがえのないものだと改めて感じる。それは、疑う余地など微塵もない・・・。でも・・・。窓際につくと、ぼんやりとしばらく空を見上げた。クリッと大きな目をして小麦色の肌をしたショートカットの女の子の顔が浮かぶ。その子が、ぼくの名前を呼んだ気がした・・・。たまらず、ヒロもその子の名前をつぶやく・・・。大切なものが・・・もうひとつ・・・、もうひとつだけ増えたとしたら・・・神様は、許してくれますか・・・?
「奈津!奈津!」
後ろからまなみの声がした。終業式が午前中に終わったので、午後早くから始まったサッカー部の練習は4時には終わり、今は自主練扱いになっている。大半の部員たちは残っていて(もちろん、悠介も)、練習中もあれだけ走ったというのに、特に用事がない、という理由だけで、暑い中、2チームに分かれてゲームを楽しんでいた。マネージャーの仕事から解放された奈津もジャージから制服に着替えて、一見学人として 日陰でサッカーのゲームを見ていた。いつもは奈津の横に座りおしゃべりしながら一緒にゲームを見る詩帆が、今日はなんだか奈津から遠いところに座ってゲームを見ている。一人になりたかった奈津は、今日だけは詩帆との距離がありがたく、それに甘えてより一層ぼんやりとしていた。そこに聞こえてきたまなみの声だった。
「なんかずっとぼんやりしてる!」
奈津はまなみに、コウキの家に行って聞いたことを話せていなかった。喉まで出かかっている話をいつも飲み込んでいた。BEST FRIENDSの「ヒロ」のことも・・・。何で、彼はあんなにもコウキに似ているんだろう・・・。まなみに訊いたら何か分かることがあるんだろうか・・・。でも、コウキのこと、そして、コウキにそっくりの「ヒロ」のこと、それらは簡単に口にしてはいけないような気がした・・・。やむなく、まなみには「コウキの家は分からなかった。」ということにして、なんとか今日までやり過ごしてきていた。
「課外が始まれば会えるよ!コウキ、また、奈津にぶち怒られるね!」
まなみは奈津を元気づけるようにちょっとふざけるように笑いながら言った。
「それより、加賀先輩が来たよ!」
まなみはそう言うと、後ろを振り返り、
「先輩、こっちこっち!」
と声をかけ手招きをした。
「おひさ~!今日、大学休みだから、車で弟を迎えに来た~!ショッピングモールに乗せてけってうるさいから!」
ノースリーブの花柄のシャツにデニムのショートパンツを合わせた涼しげな格好で加賀先輩が現れた。
「まだ、ゲームやってるんだね。じゃあ、少し待っとこう!」
そう言うと、加賀先輩は奈津の横に腰掛けた。まなみも後に続いて先輩の横に座った。
「まなみちゃん、大阪のファンミ行く?」
まなみが座って落ち着くまで待ちきれないかのように先輩が声をかける。
「あったり前ですよ!でも、ガーン!アリーナじゃなかったです。」
まなみも意気揚々と答える。さっきまで奈津を心配していたまなみとは別人のように!
「わたしもアリーナじゃなかった~。でも、いいの!!だって、なんと!!なんと!!今回、ヒロがファンミで復帰するんだもん!!!」
そう言いながら、加賀先輩はまなみの肩を連打した。奈津の心臓がトクンと鳴る・・・。
「え~!その情報初めて!ヒロ帰って来たんですか?なんか消息不明みたいに騒がれてたのに!」
まなみは初めて知ったのか目をまん丸くして驚いている。「消息不明・・・」奈津は何度か聞いたような気はするが、右から左だったヒロの情報を改めてなぞる。
「ちゃんとアメリカにダンス留学してたみたいよ。でも、今回ヨンアの件がまたまた浮上したから、韓国に帰ってきたんと思う!!ちゃんとファンの前で話すんじゃないのかな?ヒロが帰ってきてくれて嬉しいけど、もう!実際あの二人本当はどうなの?」
加賀先輩が拗ねたように口を尖らせている。
「ヨンア?」
思わず奈津も声に出していた。
「ヒロのスキャンダルの相手!なっちゃんはK-POP興味ないから知らないか~。」
奈津の心臓が早鐘を打つ・・・。そうだった。ヒロはスキャンダルを起こした人だ・・・。
「どんなスキャンダルでしたっけ・・・?」
「ヨンアとヒロがキスしてるところが写真に撮られたんよ!もう大変だったんだから!」
あれから何度も見たヒロの映像を思い出す・・・。時々見せる妖艶な表情は、とても同じ歳とは思えなかった・・・。心臓の鼓動がますます速くなる・・・。
「キス・・・?」
無意識に奈津は自分の唇に手を当てていた・・・。
「そんで、この間、映画の制作発表の時、ヨンアが『ヒロとはそれ以上の関係かも・・・』みたいなこと匂わせたんよ~!もう~腹立つ!」
加賀先輩は、またもやまなみの肩を連打する。奈津の頭の中で、眼鏡の奥の目をクシャっとさせて笑うコウキとアイラインの入った切れ長の目で人を誘惑するような表情で歌うヒロが入り交じる・・・。奈津の目の前がぼやけてくる・・・。
「先輩痛いですって!あ、奈津、この人がヨンア。」
まなみはスマホで検索したヨンアの写真を先輩と奈津に見せた。
「これこれ、憎たらしい!でも、綺麗なんだよな~。こんな美人だったら、ヒロもイチコロかも・・・。」
加賀先輩の声が遠くなっていく・・・。スマホの中で微笑んでいる女性は、わたしと違ってロングヘアで色も透き通るように白くって、色っぽくて本当に綺麗・・・。ヒロが好きになるの分かる気がする・・・。二人、すごい似合ってる・・・。
「え!ちょっと、奈津!奈津!先輩、この子熱中症かも!」
いつの間にか、奈津は目を閉じて加賀先輩に寄りかかっていた。うっすら開いた目でグランドを見ると、ぼんやりと蜃気楼が見えた・・・。
『ほんとうは、あの綺麗な人が好き?』
ヒロのスキャンダルの話だというのに、遠のく意識の中で奈津は、奈津とふざけ合って笑っているコウキに向かってそう問いかけていた・・・。
「はい、はい、はい。あ、コウキかね。なんて?帰れんなった?まあ、まあ。」
固定電話の受話器をとると、それに向かって、大きな声でタムラのばあちゃんは話した。受話器の向こう側では、少年がベッドに横になりスマホを片手にやっぱり大きな声で話していた。
「高校?はあ、ばあちゃんは高校のことはよう分からん。」
少年が何かを伝えようとするが、もう歳が90歳に近いのと、耳が少し遠いのとで、なかなか話が思うように伝わらない。それでも、少年は根気強く話を続ける。
「ばあちゃん、ぼく、そっちの高校やめ・・・」
少年がゆっくり言葉を句切り、大きな声でそう言いかけた時、
「高校ねえ・・・、高校・・・高校。あ~そうそう、そう言えば、この前、高校の女の子が来ちゃったよ。」
ばあちゃんが思いもかけないことを言った。少年はガバッと起き上がる。
「女の子?」
少年は両手でスマホを握ると慌てて聞き返す。ばあちゃんは相変わらずのんびりと答える。
「コウキくんいますか?言うて。」
ばあちゃんの言葉が終わるまで少年は待ちきれない。
「髪!髪は短かった?」
耳の遠いばあちゃんも思わず受話器を遠ざけてしまうくらい大きな声が出る。少年の大声が終わったのが分かると、ばあちゃんは再び受話器に耳をつけた。
「髪かね?帽子かぶっとったから、よう分からんじゃったけど・・・。」
やはり少年は、ばあちゃんの返事を最後まで聞けない。そして、またもや大きな声になる。
「名前は?名前言ってなかった?ナツって。ナツって言ってなかった?」
「名前ねえ・・・。言いよったと思うけど、忘れてしもうたねえ。」
少年とは真反対の調子で、たんたんとなんの悪気もなしに話すばあちゃんに、仕方ないと分かっていても、少年は苛立ちをぶつけてしまう・・・。
「ばあちゃん!!」
スマホを握りしめた手の甲におでこを当てる。そして、その甲で2.3度おでこを打った・・・。何で・・・?届きそうで届かない・・・。触れそうで触れられない・・・。そこまで来ているような気がするのに・・・。
「大切な子かね?」
暗がりの静かな部屋に、突然、スマホからばあちゃんののんびりした声がボソッと響く。少年の目の前に、鼻を真っ赤にさせて泣いている少女が見えた気がした・・・。少年はスマホを耳に当て直す。少年の声が返ってこないので、もう一度ばあちゃんが繰り返す。
「コウキの大切な子かね?」
思考を通さない、少年の溢れる想いが自然に口をついて出てくる。
「うん・・・。すごく大切・・・。」
言った途端、鼻の奥がツンとした・・・。
スマホと受話器とを挟んで、しばらく沈黙が流れる。
「そうかね。・・・目が綺麗じゃったね。」
ばあちゃんは少女の印象をそう語った・・・。その時、少年のいる部屋の扉が開き、電気がついた。
「あ、ばあちゃん、また、かける。母さんからも電話があると思う。・・・うん。またね。」
少年は分からないように鼻をすすると、スマホを切った。そして、それを握ったままベッドに仰向けに身を投げ出した。
電話が切れ、ばあちゃんはしばらく受話器を眺めていた。そして、
「そう、そう、また、忘れたらいけん。」
そうつぶやきながら受話器を置くと、電話の横に大きなクリップで束ねてある、裏の白い広告を一枚取り出し、マジックで大きく字を書いた。
『ナツ タイセツ』
そして、それを電話の上の壁に二つの画びょうでゆっくり止めた。
「ヒロ!ご飯できたぞ!何?電話?」
メイクを落として、ラフなホームウェアに着替えたシャインが戸口に立っていた。
「うん。」
天井を見たままヒロが答える。
「なんか大きな声出してたけど?」
シャインはできるだけサラッと訊いた。ヒロはスマホをサイドテーブルに置くと、勢いをつけてベッドから跳ね起きた。明るいシルバーに染められた髪がフワリとなびく。ヒロは何ごともなかったようにいつもの声のトーンに戻すと、
「電波悪くて、ついつい大きな声になっちゃって。それより、おなかすいた~。今日のおかずなになに?」
と言いながら、いつもよりも弾んだ足取りでシャインの横をスルリとすり抜けた。そんなヒロの後ろ姿を見送った後、シャインはサイドテーブルに置かれたヒロのスマホに目をやった。そして、そっと首をすくめると、電気を消し、ゆっくりとドアを閉めた。
今日は、朝から高校サッカーの1部リーグが行われている。奈津とまなみはAチームに同行していた。詩帆は2部リーグに参加しているBチームの方に同行していて、今日はマネージャー3人は一緒ではなかった。詩帆がいないこともあり、奈津と2人だけになると、まなみは奈津にかなり立ち入った話を大胆に展開していた。
「タムラコウキ、課外にも来ないじゃん。しかもあれっきり、奈津に何の連絡もしてこないんでしょ。」
心と手が連動しているかのように荒々しくボトルを洗いながらまなみが話す。
「傷つくかも・・・だけど、きっと、タムラコウキは奈津のこと好きなんかじゃないよ。奈津のことちょっといいなあ・・・くらいは思ったのかもしれないけど・・・。」
言いながら、ボトルに一杯になった水を高めの位置から逆さにして落とす。
「2人がいい感じになった途端これだもん。奈津のことすっごいテキトーに扱ってない?なんかホントいい加減!やな奴!」
わざと、ポンッと流し台に音をたててボトルを置く。奈津は聞いているのかいないのか、何も言わず、黙々とボトルを洗っている。まなみの主張はまだまだ続く。
「それに比べて、悠介はさ、あの日も血相変えて飛んできて、奈津のこと抱えて保健室まで運んでくれたんよ。奈津は聞こえんかったと思うけど、悠介が奈津をお姫様抱っこしただけで、グランドや校舎の至る所から悲鳴がしてたんだから!」
まなみはその時の状況を思い出しながら、だいぶ高い位置まで昇ってきた太陽を見上げた。それから、奈津がいない方に顔を向けると、
「詩帆ちゃんもなんだから。」
と奈津には聞こえないようにつけ足した。奈津はキュッと水道の蛇口をひねって水を止めると、まなみの方を向いて
「いろいろありがとね。」
と言って笑った。そして、おもむろに、
「まなみ、大阪行くんでしょ。BEST FRIENDS。」
と、今までの話題と全く関係ない話を突然まなみに振ってきた。振られてまなみは面食らったが、今まさにファンミに行く直前の旬な話題だったので、今、自分が奈津に力説していたコウキと悠介の話などすっかり吹っ飛ばして、奈津の振りに思わず食いついてしまった。
「そうなの!前日、日本入りする関空にも加賀先輩と行くつもり!どうせなら、BEST FRIENDSたちが飛行機から降りてきたところも見たいもん!間近でヨンミンたちに会えるんよ~!!きゃ~!」
胸の前で手を組み、さっきまでのまなみとは別人のように少女になるまなみ。1人でボルテージが上がるまなみを笑顔で見つめていた奈津がポツリ・・・とつぶやいた。
「私も一緒に行こうかな。」
突然の奈津のこのつぶやきにまなみは自分の耳を疑う。
「えっと?BEST FRIENDSだよ。K-POPだよ。ファンミだよ。ショッピングじゃないんだよ!」
思わず念を押す。
「知ってる。」
表情を変えずに答える奈津の顔をまなみは思わずのぞき込む。
「えっと・・・。奈津勉強は?それに行っても奈津はファンミの会場は入れないんだよ?」
小さい子どもに言い聞かせるような口調になってるのがまなみは自分でも可笑しかった。でも、目の前にいる奈津は明らかにいつもの奈津ではない気がした。
「気晴らしが・・・したくて。」
奈津は下を向くとぽそっと答えた。
「あ~~~!そうだ!そうだね!それいいね!」
まなみは思わず奈津の手をとった。
「前日の空港まで一緒に行く。まなみと加賀先輩と・・・。その日にわたしは帰る・・・。」
奈津は、また、ぽそっと付け加えた。
「ちょっとした小旅行だ~!でも、USJとかじゃないんだよ?奈津にとっては行ってもつまんない空港だよ?ま、うちらにはお宝だけど!そんなんでいいの?気晴らしなら、また別で付き合うよ?」
まなみは奈津の手をブンブン上下に振りながら、また、小さい子どもに話すように話した。
「あの日、サッカー部休みだし。・・・それに区切りつけようと思って・・・。」
奈津は手を振られるままに任せながら、まなみにそう告げた。
「区切り?タムラコウキのこと?それいい!吹っ切れ、吹っ切れ!きっと、美しいBEST FRIENDSを見たら心洗われること間違いなし!タムラコウキなんかよりいい男は山のようにいるんだから!」
その時、アップの終わった悠介がこちらに向かって走ってくるのが見えた。悠介は2人の近くまで来ると、
「ボトルひとつもらうぞ。」
と言って、ボトルをひとつ取ったそして、
「お前らもちゃんと水分とれよ!奈津、もう倒れてもお前は運ばねーからな。お前重過ぎ!」
と言って笑った。
「な!!わたしが重いんじゃなくて、悠介の筋力が無さすぎなんでしょ!」
と走り去る悠介の背中に向かって奈津はいつものように言い返した。悠介は振り返ると、あっかんべえという表情を奈津に返した。
「ほ~ら、ここにもいい男いるじゃん!!」
まなみは奈津の手を握る自分の手に力を込めた。奈津はまなみを見ると、
「ほんとにね・・・。悠介はいつも傍にいてくれるね・・・。」
と言った。そして、奈津はまなみの手をほどき、グランドに目をやった。
その時、灼熱のグランドの熱風に混じり、一瞬涼しい風が奈津を通り過ぎて行った。その風が優しい声を運んでくる・・・。
『魔法使いじゃないんだから。消えたりできないよ。』
そう言って、奈津のほっぺたをつまんだあの時のコウキの手の感覚が蘇る・・・。
「嘘つき・・・。」
奈津は目をつぶる。
その時、後ろから、まなみの元気のいい声が追いかけてきた。
「奈津!BEST FRIENDS行こうね~!めっちゃ、楽しみ!」
優しいコウキの顔に重なるように、ピンク色の髪をした妖艶な表情のヒロの顔が浮かぶ・・・。それを振り払うように、思わず、奈津は思いっきり頭を振った・・・。
空港当日・・・
奈津にとっては、初めての光景だった。空港は、おしゃれをした若い女の子たちでいっぱいだった。大好きな人を待つ女の子たちはみんなキラキラして可愛かった。胸の前でずっと手を握っている子もいる。ソワソワとして落ち着かない子もいる。みんながみんな、今か今かと待っている・・・。BEST FRIENDSたちが姿を現すのを。横では、まなみと加賀先輩が、もう、とうの昔に奈津の存在など忘れて、大好きな人を待つ恋する女の子に変わっていた。初め、2人から離れないように、頑張って張り付いていた奈津だったが、場の空気に押され、気づいたらひとり、どんどん列の後ろの方に追いやられてしまっていた。
「何にも見えない!前に行かなきゃ!」
そう思った時だった。列の向こうの方から
「きゃー!!!」
という黄色い声が飛び交い始めた。
「出てきた!!」
近くの女の子たちも急に色めきだち、一目見ようと身を乗り出し始める。メンバーの名前を呼ぶ声があちこちから聞こえてくる。
「来た!ヒロ!」
少し向こうから女の子の声が聞こえた。奈津はその姿が見えるところまで人混みをかき分ける。周りからは露骨に嫌な顔をされる。それでも、そんなこと気にしてなんかいられない。やっと女の子二人の頭の間にBEST FRIENDSたちの姿をとらえることができるスペースを見つけた。奈津はそこからのぞいた。
「あ・・・」
少し向こうから、白いTシャツにデニムのハーフパンツをはいた、明るいシルバーの髪色の少年が歩いて来るのが見えた・・・。あんなに見分けがつかなかったメンバーたちなのに、奈津には、なぜか彼が「ヒロ」だと分かった・・・。奈津の中で、次第に周りの風景はぼやけていき、「ヒロ」の姿だけが浮き上がる・・・。そして、彼の歩みだけがスローモーションに変わっていった・・・。
前日・・・
「ソウルでBEST FRIENDSのファンミありましたね。」
スーツを着た20代後半の眼鏡をかけた男が、ロングヘアをかき上げながら足早に歩く女性の斜め後ろをついて歩きながら話しかけた。
「そうみたいね。彼、何て釈明したの?なんかまた周りが騒がしいなあとは思ったのよ。忙しくって見てなくて。」
女性は腕時計をチラッと見て、時間を気にしながら答えた。男は、スマホで素早く検索すると目当ての記事を女性に伝えた。
「あ、全文出てますよ。長々と釈明してないですね。短いです。読みますね。
『この度は、ぼくの軽率な行動によって、ファンの皆さんにご心配をおかけしたこと、そして、そのまま、長らく韓国を離れていたこと、誠に申し訳ありませんでした。ここで、改めて、チョン・ヨンアさんとはお付き合いした事実も、キスをした事実もないことをお伝えします。今後は、今まで以上に努力し、皆さんにもっともっと素敵なパフォーマンスをお見せすることを誓います。待っていてくださったファンの皆さん、本当に感謝しています。』
ですね。ごちゃごちゃ言ってないみたいです。」
「ふーん。あっさりしてるわね~。ファンの反応は?」
撮影現場につくと、用意してあった椅子に座り、すらりと伸びた足を組んだ。男はさらにその記事の先を読み続ける。
「久しぶりのステージなのに、彼のパフォーマンスは圧巻だったみたいですよ。彼の謝罪は・・・と、賛否両論ですね~。言い訳を並べず男らしいとか、パフォーマンスで証明していくっていうのがヒロらしいっていう意見が多いですが、中には、キスしたのはやっぱり本当だから、深く突っ込んで釈明できないんじゃないか・・・ってのもありますね。」
女性は渡された鏡でアイメイクをチェックしながら答える。
「ほんとよね~。何もないんだから、もっと潔癖さをアピールしてもいいのにね。わたしだったら、潔癖ですよ!っていうのをさりげな~くもっと盛り込むけどな。『ぼくは絶対ファンを裏切ったりしません。』とか『ファンの皆さん、ぼくを信頼してください』とか。その方がファン受けもいいんじゃない?そこまでは言わないのね。あの子。」
それから、鏡を男に渡すと、しばらく手にあごをのせて考える仕草をした。それから、ニヤッと笑った。
「ふ~ん。あの子3ヶ月自由だったんでしょ。そこまで言わないんじゃなくて、言えない・・・とか?確かにあの時何もなかったけどね。わたしとは!」
そして、いつものようにいたずらっぽく舌を出した。
「憶測!!まあ、映画の前評判もおかげでいいし!わたしのことも世間に知ってもらえたし!もう、いいんだけどね~!・・・でも、・・・あの子がほんとにキスしちゃうような子いたら、なんか悔しいなあ!」
女性は頬を膨らませて、拗ねたような表情を浮かべた。男はその顔を見て笑うと言った。
「あの写真を撮った時、彼、本当に怖い顔して怒ってましたもんね。」
「ほんと!あんなに怖い顔しなくったっていいのに!わたしだって、ヒロのファンなんだから!」
女性は頬をさらに膨らませ、大げさに拗ねてみせた。ちょうどその時、スタッフの声がした。
「ヨンアさん、テイク23撮りま~す!お願いしま~す!」
「は~い!」
女性は、顔をいつもの美しい表情に整え直すと、ウェーブのかかった髪をサラッと一度かきあげ、スポットライトの当たっている場所へと笑顔で歩いていった。
アスファルトの照り返しが容赦なく注ぐ。夏はさらに夏らしさを主張し、すべてのものを焦がしてしまうような勢いで太陽が照りつけていた。自転車を漕いでいると、それだけで背中を滝のような汗が流れた
「今日もナイッシューだったね!4本も決めて!調子がうなぎ登りじゃん!」
部活が終わり、学校から初めは大人数でワイワイ帰っていた奈津は、最後、みんなと別れて、悠介と二人きりになってから、なんとなく気まずさを感じて、それを払拭するかのように、以前と変わりない調子で話しかけた。
「サンキュー!迷いがなくなったからな!」
奈津とは裏腹に悠介がカラっとした声で答える。そして、自転車をこぎながら横を走る奈津を見ると、
「奈津に!」
と付け加えた。悠介の予想外の言葉に奈津は面食らって、一瞬自転車ごとよろけたが、片足をつき、なんとか持ちこたえた。そして、
「な?」
と目をまん丸にして悠介を見ると、変な声を出した。
「お前危ないって。」
一旦、悠介も自転車を止めたが、奈津がぎこちなく自転車をこぎ始めるのを見ると、悠介もそれに合わせてこぎ出し、話を続けた。
「この前、重たいって言ったけど、あれ、嘘。・・・お前、痩せただろ・・・。」
悠介は奈津を振り返った。
「あいつ学校来てないんだって?加賀から聞いた・・・。」
奈津が首に巻いたタオルで額の汗を拭く・・・。悠介は続ける。
「奈津が好きでも、オレはあいつのことは認めない。・・・っていうか、お前、よく考えろ。ほんとにあいつのこと好きなんか?今までにいないタイプだから好きって錯覚してないか?」
いつもふざけたことしか言わない悠介が、いつになく強い口調になる。
『錯覚・・・』
奈津はその言葉をリピートした・・・。「錯覚」・・・してる?コウキに会いたいという想いも、会えなくてこんなに苦しいのも、コウキのことを「好き」という気持ちさえも・・・「錯覚」?・・・何が何だかもう分からない・・・。だって・・・、「コウキ」という存在自体・・・わたしが見た「錯覚」・・・なのかもしれない・・・。
「ごめん。傷つけるつもりで言ったんじゃないからな。なんか、奈津が元気ないのが嫌だから・・・。」
黙りこくって何も言わなくなった奈津を見て、悠介は言い過ぎたことを反省する。でも、奈津とあいつが上手くいってないことくらいは、鈍いオレにだって分かる・・・。
「そうだ!明日、部活休みじゃんか、映画でも行こっか?ディズニーの実写版の何て言ったっけ?奈津が好きな・・・」
悠介がそこまで言った時、
「明日・・・まなみたちと出かける・・・。」
と奈津がボソッと言った。
「・・・そっか。まなみとね。」
悠介は誘いを断られた落胆をできるだけ見せないように、平気な感じを装って答えた。道は、そろそろ2人の分かれ道にさしかかっていた。手を振って別れる寸前、悠介は意を決して奈津に声をかけた。
「奈津!お前とあいつがどうだろうと、オレには関係ないからな。オレはオレで奈津に迷いははない。それを言いたかっただけだから。」
悠介の視線はまっすぐだった。太陽の光が相変わらずギラギラと容赦なく2人の間に降り注ぐ・・・。奈津には眩しすぎる悠介の目だった。
「悠介、コウキがわたしの前からいなくなったのは本当・・・。突然消えちゃった・・・。でも、わたし、『奈津、ごめん!ごめん!』ってコウキが帰ってくるの、心のどこかで信じてる・・・。明日は、わたしの中の一つの仮説を崩すために行って来る!実際見たら、絶対違うって分かるから。」
奈津は意味の分かるような分からないようなことを言った。意味が分からないまま悠介は聞き返す。
「お前の話は時々難しいんよ!リケジョめ!どんな仮説かしらんけど、崩せず、成り立ってたらどうするん?」
難しい話をただそのまま返しただけだった。深い意味なんてなかった。でも、奈津は次の言葉がなかなか出てこなかった。
「その時は・・・『錯覚』だったって、すべてをリセットしなきゃ・・・。『夢』と現実は交っちゃいけない・・・。でも、大丈夫!きっと違う!」
奈津は太陽が占領している空を一瞬仰ぎ、左腕に力を込めると「ヨッシャー!」とつぶやき、目をギュッとつぶると、謎の気合いを入れた。そして、バイバイと手を振るとそのまま分かれ道を曲がって行った・・・。奈津を見送りながら悠介はキョトンとするだけだった。
「は?仮説?何の?そんで何が違うって?訳分かんねー。」
悠介は首をかしげた。
「それに、ったく、あいつはオレの決死の告白をいっつもいとも簡単に!」
とブツクサつぶやいてから、
「そういや、明日って、まなみと一緒だろ?仮説も何もなさそうじゃん!」
ともう一度、首をかしげた。そして、何かを思い出すと、もっと不思議な顔をした。
「加賀の姉ちゃんも行くやつか!加賀の踊ったグループのファンミだっけ?そういやまなみ行く行く騒いでたわ。へ?でも、奈津も、それ行くんか?なんで?まったく興味ないやつじゃん!・・・え・・・でも、なんか仮説と関係あるとか?」
奈津の背中を見送りながら、悠介の頭の周りをクエスチョンが次々に乱舞し始めていた。
「明日は、いよいよ日本だな。」
ソファでくつろいだ格好のドンヒョンが言った。
「いろいろあったからな~。久しぶり~。」
ジュンがヒロを見てわざと意地悪っぽく言った。
「うっさい!」
ヒロはジュンの頭を軽く小突いた。
「でも、ソウルのファンミすごく良かったな。ファンのみんなちゃんと待っててくれて。ヒロのコメントもあったかく聞いてくれて。」
ジニがしみじみ言った。
「ほんと。ファンには感謝しかないよ。まあ、ヒロだけじゃなくて、オレたちみんな、ファンを悲しませないように、がっかりさせないように、自分の行動には責任持とうな。」
リーダーのドンヒョンがひとりひとりの顔を見ながら話した。ドンヒョンの話が終わると、
「よ~し、明日は早いぞ。部屋戻ろうぜ!」
シャープが手を叩きながらかけ声をかけた。みんなは、
「ウィーッス!」
と返事をすると立ちあがり、各々の部屋へと向かい始めた。でも、ヒロだけは立ちあがらず、まだ椅子に座ったままだった。ジュンは一度リビングを出ようとしていたが、ヒロがまだ、座っているのを見つけると、Uターンをして戻ってきた。
「ヒロ!帰ってきてからいろいろ順調なのに、なんか時々暗いぞ!」
と声をかけた。
「やっぱ、気にしてんの?スキャンダル起こしたこと?」
ジュンはヒロの頭にポンッと手を置いた。
「いや、それは、もう大丈夫。」
ヒロはクシャッとした笑顔を返した。
「ファンミの後の休み、一緒に日本旅行でもって思ったけど、ヒロは、日本でお世話になった友達に会いに行くんだろ?そうだ!素朴な疑問!その友達って、お前がアイドルって知ってんの?」
ジュンの質問にヒロは静かに首を振ると、
「知らない・・・。自分でも『ヒロ』であること忘れていたくて・・・。ただの高校生として過ごしたくて・・・。」
と静かに答えた。
「心折れたたまま行ったもんな。・・・それにしても、よく修復したな。」
ヒロは窓に目をやると、
「うん。そのお礼を言ってくる・・・。」
と窓の外に意識を向けたまま言った。
「なあ、聞いて言い?それ、好きな子だろ?」
ジュンは唐突に言った。ヒロはびっくりしてジュンの顔を見たが、否定はしなかった。
「ヒロのことは分かるって。ふーん。そうなんだなあ。」
うなづきながら、ジュンはヒロと一緒に窓の外を見た。
「会って、お礼言うだけ?」
ジュンはさらに突っ込んで聞いてきた。ヒロはしばらく黙って考えていたが、やっと口を開いて言ったのは、
「他に何ができる?こんな立場のこのぼくで・・・。」
だった・・・。そして、ヒロは握った拳を唇に押し当てた。
「そうだな・・・。」
ジュンもそれ以外の相づちは見つからなかった・・・。
ジュンはヒロの背中をポンポンと叩くと、自分の部屋に戻っていった。誰もいなくなったリビングの窓からヒロは夜空を見上げた。ソウルの夜空は24時を過ぎても明るい。ヒロが3ヶ月過ごしたあの場所は、24時どころか20時でももう明かりはまばらで暗かった。でも、その代わりに満面の星が空を覆った。ここでは、あのたくさんの星たちはどこにいるんだろう・・・。急にソワソワとした頼りない気持ちになる・・・。ヒロは星を探した。あるんだろうか・・・。この明るい都会の光にも負けず届く星の光が・・・。
「あった!」
思わずヒロは叫ぶ。一つの星が、ネオンの光にも負けず、凜として力強く輝いていた。
「ここにいるから!!」そう告げているかのように・・・。
ヒロはその星に向かって静かに言った。
「このままもう会わないで、何も告げずフェードアウトした方がいい・・・。そうやって何度も自分に言い聞かせてもみたんだ・・・。」
そして、少し間を置いて、今度は星ではなく、誰かに話すようにそっと告げた。
「でも、ごめん。・・・やっぱりすごく会いたい。」
ヒロは、部屋に戻ると、机の上に置いておいた黒縁の眼鏡をそっとカバンに入れた・・・。
「ヒロ」ではなく、もう一人の自分で、ちゃんと大切な人に会うために・・・。
再び空港当日・・・
「きゃー!!!」
飛行機を降りると、ファンたちが出迎えてくれていた。こんなにも待っていてくれたなんて。BEST FRIENDSのメンバーたちは本当に感慨深かった。メンバーたちは、可能な限り手を振り、頭を下げ、声援に応えながら歩いた。個人名を呼んでくれるファンには顔を向けるように心がけた。「ヒロ!」と呼ぶ声も聞こえる。あんなことがあったというのに、ぼくの名前を呼んでくれファンもいる。ヒロは丁寧に手を振って頭を下げた。少し歩いたところで、ひときわ大きな声で、「ヨンミン!こっち!」「ヒロ、サランへ!!」と連呼している一角もあった。ヒロはヨンミンをつついて一緒にそちらを向いた。
「げ!まなみちゃん!!」
向いてみて、それがまなみだと分かると、ヒロはめちゃめちゃ慌てた!・・・が、もちろんそれは態度には出さず、スマートにやり過ごした。それに、どうやらまなみは横にいるヨンミンに釘付けで、ヒロの何かに気づいた様子はなかった。自分も髪色はシルバーだし、メイクもしているので、そうそう分かるとは思えなかった。でも、まなみの横にいる女性が「ヒロ~!」と叫びながら、しきりに自分の写真を撮っているのは気がかりだった。ヒロは心持ち早めにその場を通り過ぎた。まなみたちから少し離れ、心の中で「ハアー」と安堵のため息をついたとき、斜め後ろの方から声が聞こえた。
「コウキ!」
思わず、反射的に振り返る。今、「コウキ」って聞こえた気がする・・・。視線を向けた先の二人の女の子たちの間から日焼けして小麦色の腕がのぞいた。その瞬間、そこだけがスローモーションに変わる・・・。その腕が二人を押しのけると、そこからショートカットで目のクリッとした少女が顔を出した。ヒロは、その少女と目が合った・・・。
「よ!凛太郎!スポ少の帰り?」
部活が休みだというのに、朝から特に用事もない悠介は、筋トレをしに午前中ジムに行ってきた。そのジムの帰り、暑さから避難するように、野々宮小学校近くのコンビニに立ち寄ると、そこで、友達2人とアイスを物色中の凛太郎を見つけたのだった。3人はいかにも、サッカーをしてました!という格好だった。
「悠介くん!そっ!練習がさっき終わったとこ。」
凛太郎は振り向き、声をかけてきたのが悠介だと分かると目を輝かせた。悠介は、年下からも親しまれる、白い歯をのぞかせた笑顔で、
「お疲れさん!サッカー、凛太郎は今どこやってんの?」
と話しかけた。
「オレは今、トップ下!そんで、こっちのカズがボランチで、直がキーパー!」
凛太郎は悠介に話しかけられたのが嬉しくてたまらない様子で、意気揚々と話す。聞かれてもいない友達のことまで。
「すげーな。凛太郎からのパスでオレもシュートしたいなあ。」
悠介はそう言ってまた笑うと、気さくに凛太郎たちと一緒になってアイスを選び始めた。凛太郎は悠介と話したくて話題を探す。そして、
「そうだ!姉ちゃんが、悠介くんのシュートの決定率が上がってるって喜んでた!!」
と、張り切って話しかける。それを聞いた悠介は、かき氷系のアイスとクリーム系のアイスをひとつずつ手にしながら、少し照れたように、
「ほんと?あのサッカーに厳しい姉ちゃんが?」
と言って首をかしげた。凛太郎はそんな悠介の顔を見ながら、
「うん!昨日のご飯の時、言ってたよ!」
と嬉しげに答えた。
「ふ~ん。」
心なしか、悠介の口元がほころんだように見える。さらに話を続けたい凛太郎は、話題をサッカー以外の二人の共通、「姉ちゃん」に移す。
「姉ちゃん今日さ、大阪行ってる!BEST FRIENDSって、オレの方が好きで、姉ちゃん好きじゃないのに!姉ちゃんだけずるいんだよな~!」
悠介は手にした二つのアイスを眺めて、どちらにするかまだ迷っている。
「ほんとな。まあ、まなみとワイワイ出かけたいだけだろ。」
不思議ではあったが、あまり深く考えていない悠介は簡単に返事をする。まあ、女子とはそんなとこがあるもんだ。それなのに、思いがけない反論を凛太郎が口にする。
「絶対違う!姉ちゃん、ヒロを見に行ったんと思う!ヒロ見てびっくりしてたもん。オレが言ったら、似てない!ってすぐ怒るけど、ほんとは姉ちゃんもヒロがコウキくんに似てるって思ってる・・・」
クリーム系のアイスが悠介の手から落ちた・・・。凛太郎が続けて何か言っているような気がするが・・・それ以上何も耳に入ってこなくなった・・・。何て言った?今日、見に行ってる奴があいつと似てる?ただ似てるだけで、あの奈津が、わざわざ大阪行くか・・・?その時、奈津が口にした「仮説」という言葉を思い出した。そうか・・・奈津は何か仮説を立ててるんだ・・・。
「BEST FRIENDSっけ?ヒロ?」
悠介はそれだけ言うと、レジの方を向いた。後ろから、凛太郎の声がする。
「うん!そう!」
悠介は、背中を向けたまま、アイスを持っていない方の手を挙げる。
「じゃ!」
コンビニに入った時の汗は、今はもう完全にひいていた・・・。
「うん!またね~!」
凛太郎は悠介と話せて満足げな様子で、再び友達とアイスを選び始めた。
少女と目が合った瞬間、周りの世界の何もかもが止まった。
「奈津・・・?」
少年は、自分の置かれている状況も立場もすべてが真っ白になると、ただ少女をつかまえたい・・・という思いだけに突き動かされた。思わず少女の方に向かって体が動く。その時、少年の前を、彼の警護についている体格のいいスタッフがゆっくりと横切った。不意に彼の動作は遮断される。スタッフが通り過ぎ、視界が再び開けると、さっきまでのスローモーションのような時間の流れが、嘘のように現実のスピードに引き戻されていた。そして、その光景の中には、もう、あの少女の姿はなかった。少年はキョロキョロする・・・。耳もすます・・・。でも、手を振るたくさんのファンたちの中からその少女の姿を見つけることも、「コウキ」と呼ぶ声を聞き取ることも、少年にはもうできなかった。空港に充満する音と熱気の中、少年はただただ佇んだ・・・。そして、スタッフに促されるまま、少年はその場を立ち去るしかなかった・・・。
行ってしまう・・・!彼が行ってしまう・・・!違う。行ってしまったっていい。シルバーの髪色の眼鏡をしていない彼・・・。あれはヒロだ。わたしが会いたい人じゃない・・・。それなのに何でわたしはこんなにも必死になってるんだろう・・・?前の二人の女の子たちの頭の間から、通り過ぎる彼の横顔が見える。左耳にチェーンのピアスが揺れている。
『こっちでは禁止だから。』『シーッ』人差し指を自分の唇に当てて笑ったコウキの顔が浮かぶ・・・。
「コウキ!」
思わず大きな声で少女は叫んでいた。必死で前の二人を押しのける。シルバーの髪とピアスが揺れ、彼がこちらを振り向いた。彼と目が合う・・・。世界から音が消えて、何もかもが止まった。
「奈津・・・?」
彼の目が確かにそう語りかけた。その瞬間、奈津の中で彼が誰がなんて、もう関係なくなった・・・。思わず体ごと彼に向かう。
「ちょっと、何するのよ!」
その時、押しのけられた女の子が奈津を押し返してきた。奈津はよろけると、二人の女の子たちの体が再び奈津の視界をふさいだ。彼が見えなくなる・・・。頭の間のわずかなスペースを見つけ、そこからのぞくと、さっきまで止まっていた時間の流れが、現実のスピードに戻っていた。キョロキョロと何かを探しているかのような彼・・・。その佇んでいる彼の背中をスタッフが押す・・・。そして、促されるまま、彼の背中はどんどん遠ざかっていった・・・。あの背中は・・・あの背中は・・・奈津がいつも見つめていた、あの大好きな背中だった・・・。
『BEST FRIENDS ヒロ』
家に帰ると、悠介はシャワーも浴びずに、スマホで検索した。ピンクやブルー金髪などの明るく派手な髪色の少年の画像が出てくる。年齢は自分と同じくらいだった。目にはカラコンが入っていて、アイメイクもしていている画像が多く、素顔が分かりにくい。・・・でも、悠介は直感で、会ったことがある・・・と感じた。検索の上位には彼のスキャンダルを取り上げている記事が多かった。「女優と路上キス」「キス以上の関係」「呆れた女癖」「事態収束のため、逃げるようにアメリカ留学」などの文字が踊っている。
「アメリカ留学・・・4月末から7月末までの約3ヶ月・・・?」
思わず、ソファに置いてあるクッションを掴むと、それを壁に向けて投げつけた。
「ふざけんなよ!!あのヘタレ野郎!!」
慌てて、キッチンから母親が駆けつける。サッカーの試合でも、プレイは熱いが、いつも冷静な悠介のこんな姿を母親も見たことがなかった。
「悠介~、なになに?高校3年で初の家庭内暴力?」
深刻にならないように母親がわざと冗談っぽく言った。そんな母親の言葉になどまったく反応せず、悠介は、投げつけたクッションを拾うと、もう一度、荒々しくソファに投げつけた。
リハーサルが終わると、BEST FRIENDSのメンバーたちはホテルの部屋に戻った。ヒロはジュンと同室だった。二人ともフラフラになった体で順番にシャワーを浴びると、それぞれがベッドに横になった。二人共が寝入りそうなタイミングでドアがノックされた。もう立ちあがりたくない二人は寝転んで突っ伏したまんまじゃんけんをした。ジュンがグー、ヒロがパー。
「クッソ~!」
ジュンがブツクサ言いながらヨロヨロと立ちあがった。そして、目をこすりながらドアを開けると、そこにはラフなTシャツと短パンに着替えたドンヒョンが立っていた。
「お疲れのところ、悪い!入っていい?」
ドンヒョンはそう言うと、二人の部屋に入ってきた。ドンヒョンからはシャンプーのいいにおいがした。同じく、シャワーを浴びたばかりなのだろう。ドンヒョンは備え付けのホテルの椅子に座ると、うつぶせで寝ているヒロに向かって言った。
「ヒロさ・・・、空港に誰かいたの?」
ドンヒョンの突然の言葉にヒロはすぐには言葉が出なかった・・・。代わりに、ジュンが、
「あ、オレもそれ思った。お前、何か見つけて、ファンの方に向かおうとしてなかった?」
と言った。
「オレもヒロの後ろでその場面見た。」
ドンヒョンも静かに言った。ヒロは聞いているのかいないのか、相変わらず何も言わない。
「ソウルのファンミの後にも言ったと思うけど・・・、自分の行動には責任持てな。あの時、お前が止まってホッとしたけど、・・・もし、止まってなかったら何するつもりだった?あの大勢のファンの前で。」
ドンヒョンの言葉は静かだが重かった。ヒロはゆっくりと起き上がり、ベッドに腰掛けた。そして、ドンヒョンとジュンに頭を下げた。
「ごめん。日本の知り合いが見えた気がして。」
ドンヒョンはヒロの言葉に、「フー。」とため息をつくと、
「あのスキャンダルを乗り越えたお前なら分かると思うから、あえて、いろいろ言わないけど、いろんな目がオレたちを見てるんだ。誤解されるような行動も謹んでいこうな。」
とだけ言った。そして、ドンヒョンはヒロの腕をポンッと叩き、立ちあがると、
「じゃ、明日は久々の日本公演だ!ゆっくり休んでそなえよう!おやすみ!」
と言って、廊下に向かった。ドンヒョンが部屋を出て行って、ドアが閉まると、ジュンはヒロを見た。
「ステージとかファンの前での立ち居振る舞いとか、いっつも完璧なのに、あん時のお前、キョロキョロソワソワ挙動不審でめっちゃ素人くさかったぞ!」
といかにも可笑しそうに言った。でも、すぐにジュンは真顔に戻ると、
「いたの?好きな子。」
とヒロに訊いた。ヒロはそのまま後ろに倒れると天井を仰ぐようにベッドに寝そべった。そして、
「いた・・・と思ったんだけど・・・、錯覚だった・・・。」
と言うと、両腕で目を覆った・・・。
「ジュン・・・。ぼく、大丈夫だから・・・。もう一人の自分でちゃんと彼女に会ったら、ヒロとして韓国帰るから・・・。だから、明日のファンミ、頑張ろうな!!」
これは、ジュンに向けての言葉・・・ではなかった。ぼくがぼくに向けての戒めの言葉だ。今日のが錯覚でなかったら・・・。本当にあの場所に彼女がいたら・・・。仲間やファン、そして、大切な彼女のこれからのこと・・・それら全部が見えなくなっていたぼくは・・・きっと、きっと、彼女をつかまえに行っていた・・・。
「ぼくはBEST FRIENDSのヒロ・・・。」
ヒロは寝返りをうつと、ベッドを思い切り叩いた・・・。
「奈津、今どの辺かな?岡山あたり?」
まなみは加賀先輩とマックでハンバーガーをほおばりながら話していた。
「なっちゃん、うちらに付き合わせてよかったかな~。なんか無理して笑ってたような気がする・・・。」
ポテトをつまみながら加賀先輩が心配そうに言った。
「そりゃあ、そうでしょ!そもそも、奈津は全然BEST FRIENDSのファンじゃないんですもん。でも、まあ、気晴らしにはなったんじゃないのかな?えっと・・・いや、あの、勉強しすぎだからあの子!」
まなみは、奈津とコウキの恋バナに話が及ばないよう、配慮しながら言った。両想いになった途端、彼氏が雲隠れ・・・なんて、奈津が可愛そうすぎで先輩にはとても言えない。
「ほんと?それなら良かった!たまには息抜きも大事よね!それにしても、話はつきんよね~。ヒロがかっこよすぎて!!間近で見るとあんなに綺麗なんだもん!!わたしなんかすっかり忘れてたけど、ヒロの本名で呼んでた子もいたね~。結構でっかい声で。」
ポテトをつまみながら、うっとりした様子で先輩は語る。
「そうなんです?わたしも『ヒロ』が定着してて、すっかり本名のこと忘れてた~。何でしたっけ?たしか、C・Yエンターテインメントの代表が漢字を読み間違えたのがそのまま芸名になったんでしたよね?」
まなみもそんな情報あったな~くらいで、本気で思いだそうともせず、コーラを一口飲んだ。
「もう!ヨンミン以外適当なんだから!本名は『こうき』!代表が『こう』を『ひろ』って読みまちがえちゃって、『ひろき』になって、それが『ヒロ』になったの!」
先輩の言葉に、まなみは思わずむせる。
「大丈夫?ゆっくり飲まないと!そうなんよ。空港で『こうき』って呼んでた子がいたんよ。く~やられた!!なんか、ヒロ、気になって、そっち側に行きそうになってたもん。わたしもその手でいくべきだった~!」
先輩が心底悔しそうにそう話している最中に、まなみは先輩のスマホを取り上げた。
「先輩、ヒロの画像見ていいです?」
まなみは勝手に画面を開く。
「どうしたの?急に。もう、ヒロかっこいいんだから、好きにならないでよ~!。」
まなみと張るくらいに脳天気な先輩がハンバーガーをほおばる。まなみは空港でのヒロの画像を一枚一枚じっくり見つめる・・・。
『これって。これって。これって!!なんで気づかなかった?じゃあ、じゃあ、もしかして』
「奈津!!」
まなみは思わずそう叫ぶと、椅子をひっくり返すくらいの勢いで立ちあがった。
奈津は、部活の始まる1時間も前に学校に来た。グランドとその周辺には、人の気配を感じさせるものは、まだ何も見当たらなかった。しかし、夏の朝は早くに退散し、もう昼にバトンが渡ったらしく、涼しさの代わりに暑さが奈津を包み始めていた・・・。奈津は理科棟の階段の所にそっと座った。そして、そこからグランドを見た。彼の目には、こんな風に映ってたんだ・・・。それから、ゆっくり目をつぶる。何で好きになったんだろう・・・。理由なんて、奈津にも分からなかった。ただ・・・、グランドから、この場所に座ってサッカーを見ているコウキの姿を見つけると、妙に嬉しくなった。そして、この場所から彼の姿がなくなると、妙にがっかりした。たぶん、あれは「好き」が始まったっていう心の合図だったんだ・・・。
「おまえ、電話くらい出ろ。ラインも無視すんな。」
ふいに、悠介の声が聞こえてきた。奈津が目を開けると悠介がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
「なんだ。泣いてるのかと思った。」
と目を開けた奈津を見て、悠介はホッとしたように言った。悠介の安堵の表情を見て、奈津は軽くプッと吹きだすと、
「心配した?」
と訊いてから、
「泣いたりしないから大丈夫。」
と明るく言った。
「うん。そっか・・・。」
悠介は頷くと、奈津に向かってゆっくり歩いた。
「・・・で、どうだった?おまえの仮説・・・崩せた?」
悠介は奈津の所まで来ると、その横に腰をおろしながら訊いた。奈津は真っ直ぐグランドの方を見つめると、
「崩せなかった・・・。さすがわたしの仮説!バッチリ成り立ってた。」
と、あちゃーという顔をしながら答えた。それから、奈津は横を向くと、悠介の顔を改めてまじまじと見た。
「・・・ということで、悠介くん!わたしの初恋は『錯覚』でした!」
奈津の笑顔が悠介の目に間近でダイレクトに飛び込んでくる・・・。あいつが誰だったのか・・・とか、女ったらしのあいつに何かされなかったか・・・とか、奈津に会ったら訊きたいことが山のようにあった・・・。それなのに思わず言葉を無くしてしまう。
「昨日、あいつに会えた?」
奈津から目をそらすと、悠介はそれだけ訊いた。悠介の言葉に奈津はゆっくり首を振ると、
「・・・見ただけ・・・。」
とつぶやいた。そして、次の瞬間、勢いよく立ちあがると、パン!!と大きく手を叩いた。
「はい!!今、この場ですべてリセットされました。たった今から、わたしはタムラコウキを知らない奈津です!!だから、この話はもうなし!!いい?悠介、分かった?」
と言った・・・。二人は8月の青空を見上げた。青い空に白い飛行機雲がすーっと一筋の線を静かに描いている。悠介も立ちあがると、なるったけの元気を作り、
「・・・ということで、奈津さん!オレがフラれたのも『錯覚』でした!」
と言って笑いながら、奈津に向かってベロを出した。奈津はそんな悠介の顔を見て笑うと、
「いいえ、悠介くん。あれは現実です!」
と言って、負けずにベロを出した。
「っな!おまえは、いっつも!」
悠介が冗談でげんこつをするポーズをすると、奈津は、
「わ!ごめん!」
と言って2,3メートル走って逃げた。そして振り返り、少しかしこまると、
「まずは、悠介のこと幼なじみとしてじゃなく、ちゃんと彼氏候補として見るから!そっから!」
と言った。そして、
「じゃ!そろそろみんな来るから、行くね!」
と言って笑顔で手を振ると、部室の方へ走っていった。そんな軽やかな奈津の後ろ姿を見送りながら、悠介は、自分の知らない所に飛んでいってしまった奈津が、また、自分の腕の中に戻ってきたような、そんな感覚を覚えた・・・。タムラコウキは、もうオレたちの前には現れない・・・。住む世界が違う。奈津の言うとおり、あいつは「錯覚」だったんだ・・・。
奈津は走った。悠介に背を向けた途端、笑顔が消えた・・・。きっと、ヒロという人にとっては、お忍び療養中のただの気まぐれだったんだろう・・・。その証拠にここを離れた途端、奈津とは何の接点もなくなった・・・。昨日・・・わたしの名前を呼んだと思った・・・。でも、それは、やっぱり「錯覚」だった。奈津がずっと握りしめている携帯には、何の連絡も入らない・・・。本気になって、彼の「キス」にまんまと引っかかった自分がバカみたいで惨めだった・・・。奈津は涙と一緒に唇も力任せに拭った・・・。
大好きなBEST FRIENDSを目の前にしているというのに。そして、いつもだったら推しのヨンミンから片時も目を離さないというのに。それなのに、今日は、気になって、気になって、まなみはヒロを見ずにはいられなかった。昨日から電話をしても、ラインをしても、奈津からは何の反応も返ってこない。もう!奈津は分かってない!加賀先輩に気づかれないように、奈津に連絡したり、気になったまま普通に振る舞ったりするのがどんなに骨が折れることなのか・・・。それに、こんなに心配してるのに!でも、そんなことより・・・。
「あのヒロがわたしの席の後ろにいた?」
やっぱり信じられない。改めて、会場に設置されたスクリーンに映し出されるヒロを見る。ヒロは綺麗で輝いていた。伸びのある歌声、しなやかでキレのあるダンス、そして、曲ごとにクルクルと変わる表情。本当に魅力的でオーラ全開だ・・・。確かに、背格好や顔の輪郭、目鼻立ちは似てる・・・気はする・・・。でも・・・。
「ヒロはいつも見てたんだけど、コウキをよく見てなかったんだよね~。いっつもぼやんとした顔してて、全然、まったくイケてなかった気がするんだけど・・・。絶対、こんなにかっこよくないって!」
まなみはファンミの間中、「コウキはヒロ?」「コウキがヒロな訳ないやん!」というバトルを一人でずっとしていた。こんなにギャアギャア独り言を言いながらステージを見てる自分が、マジで自分でも怖い。席が加賀先輩と離れていて本当に良かった!大体、ダンス発表会来てたのに、あの加賀先輩がヒロに気づかないってありえる?わたしだったら、ヨンミンいたら絶対気づく!!
でも、ファンミが進むにつれ、まなみは次第に無口になった。ライブと違ってファンミではステージ上でメンバーたちがゲームなどもする。面白いことがある度にヒロが笑う・・・。コロコロと鈴が鳴るような特徴のある笑い声で・・・。どんなに否定しようとしても、それは、まなみが教室で聞いたことのある笑い声だった。そう言えば、加賀も言ってたっけ?「どっかで聞いたことのある笑い声」って。わたしたち、サッカー部で聞いたんじゃなかったんだ。BEST FRIENDSの動画で聞いてたんだ・・・。
「・・・なんで、奈津の好きな人がこの人なん?」
やっぱり、コウキはヒロなのかも・・・という確信が大きくなる度、まなみはやりきれない思いが強くなった・・・。熱愛もキスもあれは、コウキのスキャンダルだったんだ・・・。ヒロは否定し謝罪したけど、まなみの中ではまだまだグレーのままだった。それに・・・。昨日の奈津を思い出す。
「まなみ、気晴らしができた!ありがと!」
そう笑って奈津は新幹線に乗り込んでいった。おしゃれをした可愛い女の子たちがこぞってヒロの名前を呼んでいた・・・。奈津はどんな思いで昨日の空港での光景を見たんだろう。
「奈津が好きになったのは、普通の男の子だったじゃん・・・。」
ステージ上では質問コーナーが始まっていた。ちょうどヒロの順番が回ってきて、ヒロが質問ボックスに手を入れていた。今も会場は、ヒロの名を呼ぶ黄色い声援で埋め尽くされている。
「ヒロくんの好きな季節は?理由も一緒に!」
男性の司会者が会場に負けないように声を張り上げ、質問を読み上げる。『そりゃあ・・・奈津に連絡する訳ないよね・・・。ヒロにとったら、奈津なんて、この大勢の中の一人にすぎない・・・』まなみがぼんやり考えていると、もう一度司会者の声がした。
「ごめん!ヒロくん、会場の声が大きすぎて聞こえなかった。もう一回!!会場もシーッ」
会場がヒロの声を聞こうと静かになった。
「ぼくは、ナツが好きです。」
スクリーンにヒロがそっと答える姿が映った。他のメンバーは韓国語で答えていたのに対して、日本人メンバーのヒロの答えは当たり前だが、日本語だった。
「はーい!夏ね!まさに、今だね~!!じゃ、好きな理由は?」
司会者はハイテンションで続ける。
「・・・理由なく好きです。」
ヒロは遠く、空を見るような表情で、またそっと言った。
「だめだめ、ヒロくん!それじゃあ、答えになってないよ~!理由もちゃんと!」
司会者の勢いに、ヒロは少し困った顔をすると、ちょっと考えて、
「まぶしいから・・・。」
と目を細めて言った。その時初めて、まなみはステージ上のヒロがコウキに見えた・・・。そして、ヒロが見つめていた視線の先に、奈津の笑っている姿が見えたような気がした・・・。
ジュンは、ごそごそ人の動く気配で目が覚めた。昨日の日本でのファンミは、ソウルに続いて無事大盛況で終わった。布団の中で、ジュンは達成感と満足感と心地よい疲労感で満たされていた。ヒロが戻った完全体のBEST FRIENDSは、やっと再スタートを切れたと言ってもいい。ヒロのスキャンダルで一時、おあずけ状態になっていた日本デビューの話も、また浮上してくるに違いなかった。こうやって、また、一步一歩進んでいけばいい・・・。自分で言うのもなんだけど、ヒロが戻った完全体のBEST FRIENDSはやっぱり無敵だった・・・。
「うーん!」
と背伸びをすると、ジュンは寝ぼけた目を頑張って開けてみた。どうやらヒロがで出かける支度をしているらしい。
「ん?誰?」
ジュンは寝ぼけながらもう一度目をこすった。ヒロ・・・と思っていたけどなんか違う。そこにいたのは、髪を短く切りそろえた黒髪の少年だった。
「昨日はお疲れ!。」
少年が一旦手を止め、こちらを見る。
「じゃ、行って来る。また、ソウルで!まだ早いからゆっくり寝とけよ。」
少年が顔を近づけてきて、目の前でバイバイと手を振った。
「あ、なんだ、やっぱヒロか・・・。そのかっこで行くの?」
ジュンはヒロの手にタッチをした。
「うん。」
そう言うと、ヒロはもう一つの手に持っていた黒縁の眼鏡をかけた。
ヒロが出ていくと、もう一度、さっきのヒロの姿を思い出してジュンはクスクス笑い出した。
「あいつ、すっげー地味!!」
ステージのヒロとの見た目のギャップが単純に可笑しかった。一通り笑って、ジュンは仰向けになった。そして、ふと思う・・・。今からヒロが会いに行く子は、
「あっちのヒロと恋をしたんだな・・・。」
新幹線のプラットホームで、コウキは新幹線を待っていた。BEST FRIENDSのグッズのトートバッグを肩からかけている少女たちがチラホラ見える。3人前に並んでいる女の子はトートバッグにヒロの缶バッチを4つもつけている。コウキは大きく息を吸い込んだ。奈津に会ったら、言わなくてはいけないことがある・・・。そこまで考えて、コウキは首を振った。そんなこと、今は考えたくない。考えられない・・・。コウキは線路のずっと先を見た。そこに見える光景を思い浮かべるとコウキの心は躍った。奈津が自分の目の前にいる・・・眩しい笑顔で・・・。コウキは胸に手を当てた。「やっと・・・やっと会える・・・。」
奈津の父は、先日の土曜日に休日出張に行ったので、今日は、その振り替えで仕事が休みだった。久しぶりに遅寝で、まだ布団の中にいた。玄関から奈津の元気のいい声が聞こえてきた。
「父さ~ん。今日、夕方、ちょうちん祭りに行って来るね~!悠介に誘われた!だから、夜ご飯お願いね~!」
父は、布団の中から、
「お~い!わかった!」
と返事をした。すると、玄関が開く音と共に、再び大きな声がした。
「行ってきま~す!」
父は、布団からゆっくり体を起こすと、仏壇の母さんの写真に目をやった。そして、写真の母さんにボソッと話しかけた。
「母さん。奈津は悠介くんだったかな?」