奈津がサッカー部の集まっている輪の中に消えていった。そう言えば・・・、奈津から香水のような甘い香りがしたことは一度もなかった。彼女からするのはいつも太陽の香りだった。今、コウキの脳裏に奈津の笑顔とともに太陽の香りが蘇ってくる。奈津が「好き」という言葉を口にした・・・。目に涙を溜めて。なんで奈津にあんな悲しい顔をさせてしまったんだろう・・・。コウキの胸がギューッと締め付けられる。まるで心をわしづかみにされ握りつぶされるように・・・。コウキはゆっくり体勢を立て直すと、サッカー部と奈津のいるグランドに背を向け自転車をこぎ始めた。
奈津は何ごともなかったように部活動に戻ると、マネージャーの仕事を始めた。呆けている部員たちのボトルを、
「飲んだ?」
と聞いてから受け取ると、それをかごに戻していった。それを見た1,2年生の部員たちは、自分たちが奈津に怒られた訳でもないのに、すごすごとボトルをかごに戻し始めた。3年生部員とまなみ、そして詩帆は、初めて見た奈津の激昂した様子に言葉を失って、ただただ奈津の動向を見つめるだけだった。悠介も目を見開いたまま、困惑の表情を隠せない。確かに昔から奈津が怒ると怖かった・・・。でも、奈津があんなに感情的になって怒るなんて・・・。奈津とコウキからここまでは距離があり、奈津がなんと言って怒っていたのかは分からなかったが、コウキの胸ぐらを掴んでからの第一声「こっちがふざけるなよ!!」の声だけは大きくグランドにも響いた。悠介は今も自分の目と耳が信じられなかった。固まったままの悠介のボトルに奈津の手が伸びた。悠介は伏し目がちな表情で目の前に現れた奈津に、
「何があった?」
と声をかけた。でも、ちょうどその時、部員たちの輪の外から大きなしわがれ声がした。事の一部始終を部員たちと呆気にとられて見ていた監督の杉山先生だった。
「小沢、どした。どした。何があった?いつも冷静なお前が。」
杉山先生は、ゲーム中、動きの悪くなった部員に声をかけるような調子で奈津に声をかけた。奈津は悠介に伸ばした手を止め、先生の方を振り返ると、
「すみません。つい、カッとしてしまって。でも、たいした事ではありません。彼には明日謝っておきます。」
と言うと、奈津は気をつけをして、ペコッと頭を下げた。杉山先生は大勢の部員たちの前で奈津を問い詰めるのも気が引けたのか、
「お・・・おう、分かった。でも、小沢、いくら怒ったと言っても暴力は絶対いけんぞ!」
とだけ言うと、
「ほらほら!」
と部員たちに次の練習の指示を出した。悠介は奈津に声をかけれないままグランドに向かわされた。
「小沢がノート取りに行った教室にタムラが残ってたんだわ。そん時、小沢となんかあったに違いない。タムラの奴、今日、変だったんだよな。」
グランドに向かい小走りする悠介の横に来て、加賀が話しかけた。悠介は加賀の顔をチラッと見ると、
「加賀、今は練習中だろ。集中!」
と加賀のおしりをポンッと叩き、それだけ言った。
「ハイハイ。悠介が二人のことが気になってるんじゃないかな~と思って。でも、気にすんなって。なんかあったとしても、絶対タムラの片思い!オレが保証する!」
そう言って、悠介のおしりをポンッと叩き返すと、加賀は左サイドの自分のポジションに向かって走って行った。悠介は転がってるサッカーボールを右足で中央に運ぶと、それを足で押さえた。ピーッ。ホイッスルが鳴る。悠介は、
「くっそ!!あいつ、奈津に何やってんだよ!!」
と小さくつぶやくとそのボールを大きく蹴り出した。
部活を終えて、制服に着替えたまなみと詩帆が二人で並んで校舎の横を歩いていた。今日は早々に着替えを済ませて
「じゃ、帰るね。また、明日!!」
と言って、さっさと更衣室を出て行った奈津が、今、自転車に乗って校門を出ていく所だった。
「結局、訊いても、奈津、なんにも言わなかったね。」
まなみがポツリと詩帆に言った。そして、続けて
「あ~あ、あの二人、なんかいい感じだったのに・・・。」
とボソッとつぶやいた。その言葉を聞くと、詩帆は、パッと横を歩くまなみの顔を見て、
「先輩もそう思ってました?わたしも、奈津先輩、あの人のこと好きなのかも?って、思ってました。」
とびっくりしたように言った。そして、少し間があった後、二人は顔を見合わせると、一緒にため息をついた。
「でも、なんか、最悪のシナリオっぽいね・・・。」
まなみの力ない言葉に詩帆も肩を落とした。二人が歩きながら、奈津の出ていった校門の方をぼんやり見ていると、自転車置き場の方から1台の自転車が出てきた。その自転車は立ちこぎをして、何かを追いかけるように猛スピードで校門を出て行った。
「悠介!」
まなみが声を出した。
「やっぱ、この二人がお似合いか~。」
まなみは元気を取り戻すと、声のトーンを上げて言った。
「なんか、奈津さ~、いっつも近くにいるから、悠介の良さ分かんないんかもね。だから、あんな悠介と真反対の地味~で陰のありそ~なあいつにちょっと惹かれただけなんかも。何があったか知らないけど、奈津をあんなに怒らせるなんて、やっぱそんな奴ダメ!!悠介よ、悠介!奈津にはやっぱり悠介!!」
まなみはバンザイ!の格好をした。
「ね!詩帆ちゃんもそう思うでしょ!」
まなみの突然の振りに、
「え・・・あ、はい!もちろん!」
詩帆は満面の笑顔で答えた。・・・でも、きっと。もっと明るかったら、それが泣き顔に近い笑顔だったと、まなみにも気づかれてしまったに違いなかった・・・。
「奈津!!おい、奈津!!」
悠介は少し前を走っている自転車に向かって声をかけた。けっこうとばしたつもりだったが、やっと追いついたのは、もうだいぶ野々宮地区に近いところだった。日もかなり落ちてきていた。声をかけられて、奈津が自転車を止めて振り返ると、そこには、いつもの歯だけが白くて、真っ黒な顔の悠介が、自転車に乗ってこちらに向かって来るところだった。悠介が追いつくと、二人は自然に並んで走り始めた。悠介は一回咳払いすると、
「単刀直入に訊くぞ。あいつとなんかあった?」
と言った。
「あ~、あんなところ見たら、何も無かった・・・って言っても通用しないよね?」
と奈津は少し困ったように言った。
「当たり前じゃん。あんなお前初めて見た。」
悠介は前を向いたまま、遠くを見ながら強めの口調で言った。
「悠介は、昔っからの友達だもんね・・・。まなみにもまだ言ってないんだけど・・・。わたし・・・フラれた。」
奈津の言葉は、あまりにも突然で、あまりにも軽やか過ぎて、悠介はしばらく自分が失恋してしまったことに気づかないくらいだった。
「それは・・・、奈津があいつを好きだってこと?」
奈津の顔を見ることできず、やっぱり前を向いたまま、やっと悠介が訊いた。
「うん。」
奈津は小さい声ではあったが、戸惑わずに答えた。その時、初めて悠介に衝撃が走った・・・。みぞおちにサッカーボールがモロに当たったときよりも苦しい・・・いつも横にいると思っていた奈津。奈津のことは自分が1番知っていると思っていた・・・。その奈津が突然自分の知らない人のように遠ざかっていく感覚・・・。
「また、傷が癒えたら悠介にも聞いてもらうね。すっごいフラれ方した・・・。そして、見ての通りのわたしの逆ギレ!ほんと、わたしってバカだぁ・・・。」
と奈津は気丈に言った。
「そっか・・・。」
悠介はそれだけしか言えなかった。苦しくて言葉が出なかった。奈津ももうこれ以上はカラ元気を出すことができず、口をつぐんだ。
「手玉に取るの楽しい?・・・お前、最低。」
コウキの冷たい声がコウキの冷たい目とともに何度も頭の中でリピートされる・・・。
結局、二人は何も話さないまま分かれ道まで来た。日は落ちたが、今日は月も満月に近いらしく、お互いの姿がはっきり見えるくらいに明るかった。街灯もほとんどない田んぼ道だったが、今日は街灯がある通りのように明るい。でも、明るい、暗いの問題ではなく、悠介はこんな田んぼだけの殺風景な場所に、今日だけは奈津を一人にしておけなかった。
「近くまで送る。」
悠介はそう言うと、奈津が曲がるのに合わせて自分も曲がった。いつもなら、
「いいって!」
と言って、悠介の申し出を断って一人で帰る奈津だが、今日は悠介の申し出が心底ありがたかった。今の自分は、一人になるとその場で崩れてしまいそうなくらい不甲斐なかった・・・。家にはお父さんはまだ帰っていなかったとしても、凛太郎が待ってる・・・。そうだ、ご飯作らないと!きっと、このグチャグチャの心も何かをやっていたら紛れるに違いない。それまでは自分を保たなくっちゃ・・・。奈津は必死に自分に言い聞かせた。
家の手前まで来ると悠介は、
「じゃ、オレ、帰るわ。元気出せよ!」
と自転車を減速し向きを変えた。
「ありがと。」
奈津は自転車を降り、悠介に手を振ると、そのまま自転車を押しながら家に向かって歩いた。すると、
「奈津!!」
後から悠介の声が聞こえた。奈津が振り返ると、帰っていたはずの悠介が自転車を停め、立って、こちらを見ている。そして、いつになくかしこまると、そこから奈津に聞こえるように
「奈津、オレと付き合おう。」
と言った。奈津は、「悠介のわたしを元気づけるための冗談か・・・。」と思ったが、今日の奈津は悠介の冗談に付き合えるような精神的状態ではなかった。奈津は力なく笑うと、
「冗談でもうれしい。ありがとう!」
奈津は軽くそれだけ言って、また、家に向かって進み始めた。
「ばか!奈津!冗談なんかじゃないって!」
悠介は強い口調でそう言うと、奈津に向かって歩き始めた。それでも奈津は家に向かって歩くのをやめず、
「わたしがフラれたからって気を遣わんでもいいよ。」
と言った。
「違う!」
悠介が答える。
「悠介はモテるんだから、こんなお手軽に簡単にわたしなんかで済ませたらいけんって。」
奈津は少し投げやりな感じになりながら言った。
「違う!」
すると、その声と共に奈津の肩を悠介の日焼けしてがっしりした両腕が覆った。悠介の頭が奈津の肩に乗る・・・。気がつくと、奈津は背中から悠介に抱きしめられていた。
「手軽じゃない。簡単じゃない。奈津は、奈津は、オレには誰よりも何よりも難しいって・・・。好きなんだ。ずっと・・・。」
奈津の耳の横で悠介の声が震えていた。奈津も突然のことで体中が震えた。悠介がわたしを好き・・・?奈津も悠介が小さい頃から大好きだった・・・。でも、それは・・・。
「ごめん・・・。」
奈津は震える声で小さく答えた。少しの間沈黙が流れる・・・。悠介の体が震えているの伝わってくる・・・。
「ハハ。5回目・・・。奈津にフラれるの。」
悠介はそう言うと、奈津の肩にコツンと自分の頭を当て、奈津に回していた手をゆっくりほどいた。
「ごめん。悠介、ごめん。」
奈津は悠介に何度も謝った。悠介は、月を仰ぐように上を向くと、
「また、奈津にフラれた~!!」
と月に向かっておどけるように言った。そして、奈津の頭をポンッと叩くと、、
「もう、オレに謝るな。・・・奈津・・・あいつが好き?」
と奈津に訊いた。奈津は少し考えると、首を振って、
「・・・嫌いになりたい・・・。」
とつぶやいた。悠介は右手の小指を出すと、
「いいか!今日からオレを幼なじみとして見るな。約束!ちゃんと他の奴らみたいに恋人候補にあげろ!まだ、試合終了じゃないからな!覚悟しとけ!オレはどんな体勢からでもシュートを打つ男だからな!」
と言った。そして、もう一度、奈津の頭をポンッと叩くと、
「恥ずかしいから見送るなよ。今日はなんも考えずさっさと寝ろ!傷心のオレもそうする!」
そう言って自転車にまたがり、月明かりの中を後ろを振り返らずに帰って行った。
見送るなと言われたが、奈津は悠介が見えなくなるまで佇んでいた。奈津は遠ざかる悠介を見て、コウキのことを思い浮かべていた。「悠介、ごめん。」奈津は、また、悠介に謝った。わたしは、こんな時でも、あんなに優しい悠介ではなく、コウキのことの方を思い浮かべている・・・。悠介の姿が道の向こうに消えると、奈津は家に向かって力なく自転車を押し始めた。あんなひどいことを言われたのに、今、悔しいくらい思い出すのは、冷たいコウキではなく、目を細めて優しく笑うコウキの方だった。奈津は自転車を停め、かごから荷物を取り上げた。
「ふう・・・。」
奈津はため息をついた。ため息と一緒に涙が溜まる・・・どうもため息は涙腺を緩めてしまうようだ・・・。そう思った時、
「手玉に取るの楽しい?・・・お前、最低。」
また、コウキの冷たい声と目と一緒に、あの言葉が蘇ってきた・・・。奈津は思わず、
「バカコウキ!!そっちが最低!!」
と半泣きのような声で毒づいた。すると、どこかからかすかに、
「ごめん・・・。」
空耳がしたような気がした・・・。でも、そんなはずはなかった・・・。大きく息を吸って目を閉じると、今度は奈津の目の奥に笑顔のコウキが浮かんできた。奈津はそのコウキがなんとなく憎らしく思えてきて、もう一度声を出した。。
「好きってうそだからね!ほんとは大嫌いだからね!」
それはやっぱり、ちょっと拗ねたような半泣きのような声だった・・・。すると、
「それは、嫌だ・・・。」
とやっぱり声がした。奈津が声のする方を恐る恐る見ると、月明かりに照らされた玄関の前に、誰かが座っているのが見えた・・・。
奈津は何ごともなかったように部活動に戻ると、マネージャーの仕事を始めた。呆けている部員たちのボトルを、
「飲んだ?」
と聞いてから受け取ると、それをかごに戻していった。それを見た1,2年生の部員たちは、自分たちが奈津に怒られた訳でもないのに、すごすごとボトルをかごに戻し始めた。3年生部員とまなみ、そして詩帆は、初めて見た奈津の激昂した様子に言葉を失って、ただただ奈津の動向を見つめるだけだった。悠介も目を見開いたまま、困惑の表情を隠せない。確かに昔から奈津が怒ると怖かった・・・。でも、奈津があんなに感情的になって怒るなんて・・・。奈津とコウキからここまでは距離があり、奈津がなんと言って怒っていたのかは分からなかったが、コウキの胸ぐらを掴んでからの第一声「こっちがふざけるなよ!!」の声だけは大きくグランドにも響いた。悠介は今も自分の目と耳が信じられなかった。固まったままの悠介のボトルに奈津の手が伸びた。悠介は伏し目がちな表情で目の前に現れた奈津に、
「何があった?」
と声をかけた。でも、ちょうどその時、部員たちの輪の外から大きなしわがれ声がした。事の一部始終を部員たちと呆気にとられて見ていた監督の杉山先生だった。
「小沢、どした。どした。何があった?いつも冷静なお前が。」
杉山先生は、ゲーム中、動きの悪くなった部員に声をかけるような調子で奈津に声をかけた。奈津は悠介に伸ばした手を止め、先生の方を振り返ると、
「すみません。つい、カッとしてしまって。でも、たいした事ではありません。彼には明日謝っておきます。」
と言うと、奈津は気をつけをして、ペコッと頭を下げた。杉山先生は大勢の部員たちの前で奈津を問い詰めるのも気が引けたのか、
「お・・・おう、分かった。でも、小沢、いくら怒ったと言っても暴力は絶対いけんぞ!」
とだけ言うと、
「ほらほら!」
と部員たちに次の練習の指示を出した。悠介は奈津に声をかけれないままグランドに向かわされた。
「小沢がノート取りに行った教室にタムラが残ってたんだわ。そん時、小沢となんかあったに違いない。タムラの奴、今日、変だったんだよな。」
グランドに向かい小走りする悠介の横に来て、加賀が話しかけた。悠介は加賀の顔をチラッと見ると、
「加賀、今は練習中だろ。集中!」
と加賀のおしりをポンッと叩き、それだけ言った。
「ハイハイ。悠介が二人のことが気になってるんじゃないかな~と思って。でも、気にすんなって。なんかあったとしても、絶対タムラの片思い!オレが保証する!」
そう言って、悠介のおしりをポンッと叩き返すと、加賀は左サイドの自分のポジションに向かって走って行った。悠介は転がってるサッカーボールを右足で中央に運ぶと、それを足で押さえた。ピーッ。ホイッスルが鳴る。悠介は、
「くっそ!!あいつ、奈津に何やってんだよ!!」
と小さくつぶやくとそのボールを大きく蹴り出した。
部活を終えて、制服に着替えたまなみと詩帆が二人で並んで校舎の横を歩いていた。今日は早々に着替えを済ませて
「じゃ、帰るね。また、明日!!」
と言って、さっさと更衣室を出て行った奈津が、今、自転車に乗って校門を出ていく所だった。
「結局、訊いても、奈津、なんにも言わなかったね。」
まなみがポツリと詩帆に言った。そして、続けて
「あ~あ、あの二人、なんかいい感じだったのに・・・。」
とボソッとつぶやいた。その言葉を聞くと、詩帆は、パッと横を歩くまなみの顔を見て、
「先輩もそう思ってました?わたしも、奈津先輩、あの人のこと好きなのかも?って、思ってました。」
とびっくりしたように言った。そして、少し間があった後、二人は顔を見合わせると、一緒にため息をついた。
「でも、なんか、最悪のシナリオっぽいね・・・。」
まなみの力ない言葉に詩帆も肩を落とした。二人が歩きながら、奈津の出ていった校門の方をぼんやり見ていると、自転車置き場の方から1台の自転車が出てきた。その自転車は立ちこぎをして、何かを追いかけるように猛スピードで校門を出て行った。
「悠介!」
まなみが声を出した。
「やっぱ、この二人がお似合いか~。」
まなみは元気を取り戻すと、声のトーンを上げて言った。
「なんか、奈津さ~、いっつも近くにいるから、悠介の良さ分かんないんかもね。だから、あんな悠介と真反対の地味~で陰のありそ~なあいつにちょっと惹かれただけなんかも。何があったか知らないけど、奈津をあんなに怒らせるなんて、やっぱそんな奴ダメ!!悠介よ、悠介!奈津にはやっぱり悠介!!」
まなみはバンザイ!の格好をした。
「ね!詩帆ちゃんもそう思うでしょ!」
まなみの突然の振りに、
「え・・・あ、はい!もちろん!」
詩帆は満面の笑顔で答えた。・・・でも、きっと。もっと明るかったら、それが泣き顔に近い笑顔だったと、まなみにも気づかれてしまったに違いなかった・・・。
「奈津!!おい、奈津!!」
悠介は少し前を走っている自転車に向かって声をかけた。けっこうとばしたつもりだったが、やっと追いついたのは、もうだいぶ野々宮地区に近いところだった。日もかなり落ちてきていた。声をかけられて、奈津が自転車を止めて振り返ると、そこには、いつもの歯だけが白くて、真っ黒な顔の悠介が、自転車に乗ってこちらに向かって来るところだった。悠介が追いつくと、二人は自然に並んで走り始めた。悠介は一回咳払いすると、
「単刀直入に訊くぞ。あいつとなんかあった?」
と言った。
「あ~、あんなところ見たら、何も無かった・・・って言っても通用しないよね?」
と奈津は少し困ったように言った。
「当たり前じゃん。あんなお前初めて見た。」
悠介は前を向いたまま、遠くを見ながら強めの口調で言った。
「悠介は、昔っからの友達だもんね・・・。まなみにもまだ言ってないんだけど・・・。わたし・・・フラれた。」
奈津の言葉は、あまりにも突然で、あまりにも軽やか過ぎて、悠介はしばらく自分が失恋してしまったことに気づかないくらいだった。
「それは・・・、奈津があいつを好きだってこと?」
奈津の顔を見ることできず、やっぱり前を向いたまま、やっと悠介が訊いた。
「うん。」
奈津は小さい声ではあったが、戸惑わずに答えた。その時、初めて悠介に衝撃が走った・・・。みぞおちにサッカーボールがモロに当たったときよりも苦しい・・・いつも横にいると思っていた奈津。奈津のことは自分が1番知っていると思っていた・・・。その奈津が突然自分の知らない人のように遠ざかっていく感覚・・・。
「また、傷が癒えたら悠介にも聞いてもらうね。すっごいフラれ方した・・・。そして、見ての通りのわたしの逆ギレ!ほんと、わたしってバカだぁ・・・。」
と奈津は気丈に言った。
「そっか・・・。」
悠介はそれだけしか言えなかった。苦しくて言葉が出なかった。奈津ももうこれ以上はカラ元気を出すことができず、口をつぐんだ。
「手玉に取るの楽しい?・・・お前、最低。」
コウキの冷たい声がコウキの冷たい目とともに何度も頭の中でリピートされる・・・。
結局、二人は何も話さないまま分かれ道まで来た。日は落ちたが、今日は月も満月に近いらしく、お互いの姿がはっきり見えるくらいに明るかった。街灯もほとんどない田んぼ道だったが、今日は街灯がある通りのように明るい。でも、明るい、暗いの問題ではなく、悠介はこんな田んぼだけの殺風景な場所に、今日だけは奈津を一人にしておけなかった。
「近くまで送る。」
悠介はそう言うと、奈津が曲がるのに合わせて自分も曲がった。いつもなら、
「いいって!」
と言って、悠介の申し出を断って一人で帰る奈津だが、今日は悠介の申し出が心底ありがたかった。今の自分は、一人になるとその場で崩れてしまいそうなくらい不甲斐なかった・・・。家にはお父さんはまだ帰っていなかったとしても、凛太郎が待ってる・・・。そうだ、ご飯作らないと!きっと、このグチャグチャの心も何かをやっていたら紛れるに違いない。それまでは自分を保たなくっちゃ・・・。奈津は必死に自分に言い聞かせた。
家の手前まで来ると悠介は、
「じゃ、オレ、帰るわ。元気出せよ!」
と自転車を減速し向きを変えた。
「ありがと。」
奈津は自転車を降り、悠介に手を振ると、そのまま自転車を押しながら家に向かって歩いた。すると、
「奈津!!」
後から悠介の声が聞こえた。奈津が振り返ると、帰っていたはずの悠介が自転車を停め、立って、こちらを見ている。そして、いつになくかしこまると、そこから奈津に聞こえるように
「奈津、オレと付き合おう。」
と言った。奈津は、「悠介のわたしを元気づけるための冗談か・・・。」と思ったが、今日の奈津は悠介の冗談に付き合えるような精神的状態ではなかった。奈津は力なく笑うと、
「冗談でもうれしい。ありがとう!」
奈津は軽くそれだけ言って、また、家に向かって進み始めた。
「ばか!奈津!冗談なんかじゃないって!」
悠介は強い口調でそう言うと、奈津に向かって歩き始めた。それでも奈津は家に向かって歩くのをやめず、
「わたしがフラれたからって気を遣わんでもいいよ。」
と言った。
「違う!」
悠介が答える。
「悠介はモテるんだから、こんなお手軽に簡単にわたしなんかで済ませたらいけんって。」
奈津は少し投げやりな感じになりながら言った。
「違う!」
すると、その声と共に奈津の肩を悠介の日焼けしてがっしりした両腕が覆った。悠介の頭が奈津の肩に乗る・・・。気がつくと、奈津は背中から悠介に抱きしめられていた。
「手軽じゃない。簡単じゃない。奈津は、奈津は、オレには誰よりも何よりも難しいって・・・。好きなんだ。ずっと・・・。」
奈津の耳の横で悠介の声が震えていた。奈津も突然のことで体中が震えた。悠介がわたしを好き・・・?奈津も悠介が小さい頃から大好きだった・・・。でも、それは・・・。
「ごめん・・・。」
奈津は震える声で小さく答えた。少しの間沈黙が流れる・・・。悠介の体が震えているの伝わってくる・・・。
「ハハ。5回目・・・。奈津にフラれるの。」
悠介はそう言うと、奈津の肩にコツンと自分の頭を当て、奈津に回していた手をゆっくりほどいた。
「ごめん。悠介、ごめん。」
奈津は悠介に何度も謝った。悠介は、月を仰ぐように上を向くと、
「また、奈津にフラれた~!!」
と月に向かっておどけるように言った。そして、奈津の頭をポンッと叩くと、、
「もう、オレに謝るな。・・・奈津・・・あいつが好き?」
と奈津に訊いた。奈津は少し考えると、首を振って、
「・・・嫌いになりたい・・・。」
とつぶやいた。悠介は右手の小指を出すと、
「いいか!今日からオレを幼なじみとして見るな。約束!ちゃんと他の奴らみたいに恋人候補にあげろ!まだ、試合終了じゃないからな!覚悟しとけ!オレはどんな体勢からでもシュートを打つ男だからな!」
と言った。そして、もう一度、奈津の頭をポンッと叩くと、
「恥ずかしいから見送るなよ。今日はなんも考えずさっさと寝ろ!傷心のオレもそうする!」
そう言って自転車にまたがり、月明かりの中を後ろを振り返らずに帰って行った。
見送るなと言われたが、奈津は悠介が見えなくなるまで佇んでいた。奈津は遠ざかる悠介を見て、コウキのことを思い浮かべていた。「悠介、ごめん。」奈津は、また、悠介に謝った。わたしは、こんな時でも、あんなに優しい悠介ではなく、コウキのことの方を思い浮かべている・・・。悠介の姿が道の向こうに消えると、奈津は家に向かって力なく自転車を押し始めた。あんなひどいことを言われたのに、今、悔しいくらい思い出すのは、冷たいコウキではなく、目を細めて優しく笑うコウキの方だった。奈津は自転車を停め、かごから荷物を取り上げた。
「ふう・・・。」
奈津はため息をついた。ため息と一緒に涙が溜まる・・・どうもため息は涙腺を緩めてしまうようだ・・・。そう思った時、
「手玉に取るの楽しい?・・・お前、最低。」
また、コウキの冷たい声と目と一緒に、あの言葉が蘇ってきた・・・。奈津は思わず、
「バカコウキ!!そっちが最低!!」
と半泣きのような声で毒づいた。すると、どこかからかすかに、
「ごめん・・・。」
空耳がしたような気がした・・・。でも、そんなはずはなかった・・・。大きく息を吸って目を閉じると、今度は奈津の目の奥に笑顔のコウキが浮かんできた。奈津はそのコウキがなんとなく憎らしく思えてきて、もう一度声を出した。。
「好きってうそだからね!ほんとは大嫌いだからね!」
それはやっぱり、ちょっと拗ねたような半泣きのような声だった・・・。すると、
「それは、嫌だ・・・。」
とやっぱり声がした。奈津が声のする方を恐る恐る見ると、月明かりに照らされた玄関の前に、誰かが座っているのが見えた・・・。