奈津は7月の刺すような陽射しの中、自転車を走らせ、自分の母校でもある野々宮小学校に向かった。奈津は、何がどうなってるのか分からないのと、心配なのとで、すっかり冷静さを欠いていた。いつも、のんびりゆっくり走る奈津の自転車が、今日は、途中、車にクラクションを鳴らされたり、歩いている人とぶつかりそうになったりと、かなり危なっかしい。凛太郎が学校を飛び出すなんて、今まで一度もなかった。飛び出すどころか、これまで学校で問題らしい問題を起こしたことなどなかった。いったい何があったんだろう・・・。それに今、凛太郎はどこにいるんだろう・・・。そんなことばかりがぐるぐると頭を巡り、奈津はいてもたってもいられなかった。いつもの道が今日はやけに遠く感じる。やっと野々宮小学校に着くと、校舎の脇に自転車を停め、かごからひったくるように鞄を取ると、足早に玄関に向かった。その時、奈津の前でキキーッという音をたてて自転車が止まった。
「自転車こぐの速っ」
自転車に乗って、息をきらしたコウキが目の前に現れた。びっくりして、大きい目をさらにまんまるくしている奈津にはおかまいなしに、コウキは自転車を停めると、奈津の前に立った。そして、おもむろに、
「一緒に行くから。」
と言うと、言葉を失って立ちすくんでいる奈津の手首を掴み、コウキは野々宮小学校の玄関に向かって歩き始めた。奈津は今、自分に何が起こっているのか理解できずにいた。朝から、自分のキャパを越えるような出来事が続き、今にもその渦にまかれ、沈んでしまいそうになっていた。外界との繋がりを全く感じられず、独りでさまよっているようだった・・・。でも、今、独りだと思っていた奈津の手首は、力強く握られている・・・。奈津はコウキに連れられるままに歩いた。
午後の授業が始まっているのか、廊下には小学生の姿は見えなかった。職員室の前まで来ると、コウキは奈津から手を離し、奈津の目をまっすぐ見た。奈津はコウキに向かって頷くと、深呼吸をして職員室の戸をノックした。
「失礼します。わたし、小沢凛太郎の姉です。」
奈津が戸を開け、あいさつすると、戸の一番近くに座っている50歳くらいの女の先生が席を立った。そして、職員室の前の方に向かって、
「教頭先生、6年生の小沢君の家族が来られました。」
と大きな声を出した。すると、白髪交じりの恰幅のいい男の先生が難しい顔をしながら、奈津の方に向かって歩いて来た。そして、
「廊下で話しましょう。」
と奈津に促し、一緒に職員室を出た。職員室の戸を閉めて、話を始めようと顔を上げた時、教頭先生がコウキの姿を見つけた。教頭先生は怪訝そうな顔をし、
「こちらは?」
と奈津に向かって訊いた。いきなりの質問に、奈津が困って、「えっと、えっと・・・。」と口ごもっていると、コウキは、
「ぼくはいとこです。お姉さんと同じ高校に通っています。心配だったのでついてきました。高校の先生にはちゃんと了承をもらっています。」
とすまして言った。
「うむ、そうかね。それじゃあ・・。今、担任の先生は凛太郎君を探しに出てるので、わたしの方から。周りにいた子たちの話によると、昼休みに同じクラスの石田君とおしゃべりしていた凛太郎君が、突然、石田君を突き飛ばしたんだそうです。突き飛ばされた石田君は机の角で頭を切ったので、今、病院に行っています。」
そこまで聞くと、奈津は両手を口に持っていった。青ざめていた顔がますます青くなっていく。
「石田君は・・・大丈夫なんですか・・・?」
震える声で奈津が訊く。教頭先生は重たい口調で話を続ける。
「さっき連絡が入り、出血はひどかったんですが、縫うのは3針ですんだそうです。でも、出血にびっくりしたんでしょう。養護の先生が来て応急処置をしている間に、凛太郎君は学校を飛び出してしまって・・・。すぐに職員と学校の周りを探したんですが、見つからないんです。私たちも凛太郎君が一方的に悪いとは思っていません。まだ、双方から話が聞けていない状況です。でも、相手にけがをさせてしまったことは事実です。ですから、そのことについては凛太郎君が見つかってから話しましょう。しかし、何はともあれ、、凛太郎君を探すことが先決です。お二人にも探すのをお願いできますか?」
教頭先生の言葉に奈津は震えながらうん、うん、と頷くことしかできなかった。
「お姉さんたちは、まず、家を確認してください。家に帰っているかもしれません。もし、見つかったらすぐに学校に連絡ください。わたしが待機していますから。」
と教頭先生が言った。固まってしまって、答えることのできない奈津に代わって、コウキは、
「分かりました。見つかり次第連絡します。」
と言うと、教頭先生に深々と頭を下げた。それに促されて奈津も慌ててて深々と頭を下げた。
「行こう。」
コウキは頭を下げている奈津に声をかけ、2人一緒に外に出た。7月の太陽が容赦なく照らしている。コウキは手の平で陽射しを遮りながら奈津を見ると、
「一緒に奈津んちに行こう。」
と目を細めて言った。そして、不安そうな奈津に向かって、もう一度、
「大丈夫。」
と付け加えた。
家に向かう道を二人は急いだ。そうじゃない、ぞうじゃない・・・と奈津は自分に言い聞かせるけれど、どうしても「お母さんがいないから・・・。」という答えにたどり着いてしまう・・・。その度に奈津は頭を振った。一旦消えても、しばらくするとまた浮かんでくる。「お母さんがいないから、乱暴な子に育ったんだ・・・。」そう考えてしまって、奈津はまた頭を振った。すると、
「おーい。奈津、前前。頭振ってないで、ちゃんと前見ないと。」
と後ろからコウキの声が聞こえた。奈津がハッと我に返って振り向くと、コウキはギョッとして、自転車をふらつかせた。
「だから、前見てって。」
コウキは自転車を立て直すとホッとした顔をした。コウキのその一連の動きがなんだか可笑しくて、奈津はクスッと笑った。そして、奈津は、その時やっと、今日は朝から雲が1つもない青空が広がっていることを思い出した。
家に到着すると、奈津は自転車を停め、玄関の鍵を開けた。家に入る前に振り返ると、そこには自転車にまたがったコウキの姿が見えた。奈津の心の中の独りぼっちの風景はいつのまにか独りぼっちではなくなっているようだった。
「凛太郎!凛太郎!」
奈津は家に入ると、凛太郎の名前を呼んだ。でも、返事は返ってこない。一応、ひと部屋ひと部屋確認してみたが、やはりいない。トイレにもお風呂にも・・・。最後に、2階の凛太郎の部屋のドアを開けた。いつも通り散らかった部屋だった。グルッと部屋を見回すと、机の上にサッカーボールの形をした貯金箱が転がっているのが目に入った。奈津は駆け寄ると、貯金箱を手に取り、中を見た。
「姉ちゃん、オレ、貯金箱に2000円はたまったぞ!」
と何日か前の夕食の時、ドヤ顔で話していた凛太郎を思い出した。でも、今、貯金箱の中は空っぽだった。凛太郎は1回うちに帰ってお金を持って出たに違いなかった。奈津は階段を駆け下りると、急いで外に出た。強い陽射しの下、汗をにじませたコウキがさっきと同じ佇まいでそこにいた。
「凛太郎の貯金箱が空なの。お金を持って出たみたい。」
奈津は自分でも分かるくらい慌てた声で言った。コウキは、
「あれは凛太郎君の自転車?」
と家の横に停めてある自転車を指さした。
「あ、うん。」
奈津はそちらを見て、自転車を確認してから返事をした。
「じゃあ、歩いて出てる。お金をとりに寄ったんだったら、乗り物に乗ろうとしてるのかも・・。バスかな?」
コウキが言うと、奈津はハッとして、
「バス・・・じゃなくて、汽車かも・・・。そう!きっと汽車!」
奈津は、そうコウキに言うと、玄関の鍵を閉め、急いで自転車に乗った。
「野々宮駅!」
奈津はコウキにそう言うと、野々宮駅に向かった。
「オッケー!急ごう!」
とコウキも奈津の後に続いた。野々宮駅は家から自転車で5,6分くらいのところにある。二人は田んぼの中の道を急いだ。車の通る道に出てしばらく走り、交差点を左に曲がると、木造のかわいい建物が見えた。野々宮駅だ。今、ちょうど汽車が入った所だった。二人は自転車を停めると、急いで構内に入った。野々宮駅は無人駅なので、話が訊ける駅員さんはいない。二人はプラットホームを見た。5、6の人が汽車に乗り込んでいる。その中にひとり、子どもの姿が見えた。凛太郎だ。
「凛太郎!!」
奈津は名前を呼ぶと、夢中で無人の改札を抜け、プラットホームを走り、凛太郎を追いかけて汽車に飛び乗った。
「ピーッ」
笛の音と共に汽車の扉が閉まり、汽車が動き出した。動き出した汽車の揺れで、奈津は一瞬よろめいたが、座席に座って窓の外を見ている凛太郎の姿を見つけると、ホッとして近寄って行った。
「凛太郎。」
奈津は外を見ている凛太郎に声をかけた。その声でこちらを向いた凛太郎は、奈津の顔を見てびっくりした。そして、バツの悪そうな顔をすると、
「お姉ちゃん・・・。お兄ちゃんも・・・。」
と言うと、唇をかんで下を向いてしまった。
「え、お兄ちゃん?」
奈津が振り返ると、扉のところで額の汗を拭いながら立っているコウキがいた。
「ふう・・、もう、走るのも、速いって。」
そう言って、コウキがこちらを向いて笑っていた。
「自転車こぐの速っ」
自転車に乗って、息をきらしたコウキが目の前に現れた。びっくりして、大きい目をさらにまんまるくしている奈津にはおかまいなしに、コウキは自転車を停めると、奈津の前に立った。そして、おもむろに、
「一緒に行くから。」
と言うと、言葉を失って立ちすくんでいる奈津の手首を掴み、コウキは野々宮小学校の玄関に向かって歩き始めた。奈津は今、自分に何が起こっているのか理解できずにいた。朝から、自分のキャパを越えるような出来事が続き、今にもその渦にまかれ、沈んでしまいそうになっていた。外界との繋がりを全く感じられず、独りでさまよっているようだった・・・。でも、今、独りだと思っていた奈津の手首は、力強く握られている・・・。奈津はコウキに連れられるままに歩いた。
午後の授業が始まっているのか、廊下には小学生の姿は見えなかった。職員室の前まで来ると、コウキは奈津から手を離し、奈津の目をまっすぐ見た。奈津はコウキに向かって頷くと、深呼吸をして職員室の戸をノックした。
「失礼します。わたし、小沢凛太郎の姉です。」
奈津が戸を開け、あいさつすると、戸の一番近くに座っている50歳くらいの女の先生が席を立った。そして、職員室の前の方に向かって、
「教頭先生、6年生の小沢君の家族が来られました。」
と大きな声を出した。すると、白髪交じりの恰幅のいい男の先生が難しい顔をしながら、奈津の方に向かって歩いて来た。そして、
「廊下で話しましょう。」
と奈津に促し、一緒に職員室を出た。職員室の戸を閉めて、話を始めようと顔を上げた時、教頭先生がコウキの姿を見つけた。教頭先生は怪訝そうな顔をし、
「こちらは?」
と奈津に向かって訊いた。いきなりの質問に、奈津が困って、「えっと、えっと・・・。」と口ごもっていると、コウキは、
「ぼくはいとこです。お姉さんと同じ高校に通っています。心配だったのでついてきました。高校の先生にはちゃんと了承をもらっています。」
とすまして言った。
「うむ、そうかね。それじゃあ・・。今、担任の先生は凛太郎君を探しに出てるので、わたしの方から。周りにいた子たちの話によると、昼休みに同じクラスの石田君とおしゃべりしていた凛太郎君が、突然、石田君を突き飛ばしたんだそうです。突き飛ばされた石田君は机の角で頭を切ったので、今、病院に行っています。」
そこまで聞くと、奈津は両手を口に持っていった。青ざめていた顔がますます青くなっていく。
「石田君は・・・大丈夫なんですか・・・?」
震える声で奈津が訊く。教頭先生は重たい口調で話を続ける。
「さっき連絡が入り、出血はひどかったんですが、縫うのは3針ですんだそうです。でも、出血にびっくりしたんでしょう。養護の先生が来て応急処置をしている間に、凛太郎君は学校を飛び出してしまって・・・。すぐに職員と学校の周りを探したんですが、見つからないんです。私たちも凛太郎君が一方的に悪いとは思っていません。まだ、双方から話が聞けていない状況です。でも、相手にけがをさせてしまったことは事実です。ですから、そのことについては凛太郎君が見つかってから話しましょう。しかし、何はともあれ、、凛太郎君を探すことが先決です。お二人にも探すのをお願いできますか?」
教頭先生の言葉に奈津は震えながらうん、うん、と頷くことしかできなかった。
「お姉さんたちは、まず、家を確認してください。家に帰っているかもしれません。もし、見つかったらすぐに学校に連絡ください。わたしが待機していますから。」
と教頭先生が言った。固まってしまって、答えることのできない奈津に代わって、コウキは、
「分かりました。見つかり次第連絡します。」
と言うと、教頭先生に深々と頭を下げた。それに促されて奈津も慌ててて深々と頭を下げた。
「行こう。」
コウキは頭を下げている奈津に声をかけ、2人一緒に外に出た。7月の太陽が容赦なく照らしている。コウキは手の平で陽射しを遮りながら奈津を見ると、
「一緒に奈津んちに行こう。」
と目を細めて言った。そして、不安そうな奈津に向かって、もう一度、
「大丈夫。」
と付け加えた。
家に向かう道を二人は急いだ。そうじゃない、ぞうじゃない・・・と奈津は自分に言い聞かせるけれど、どうしても「お母さんがいないから・・・。」という答えにたどり着いてしまう・・・。その度に奈津は頭を振った。一旦消えても、しばらくするとまた浮かんでくる。「お母さんがいないから、乱暴な子に育ったんだ・・・。」そう考えてしまって、奈津はまた頭を振った。すると、
「おーい。奈津、前前。頭振ってないで、ちゃんと前見ないと。」
と後ろからコウキの声が聞こえた。奈津がハッと我に返って振り向くと、コウキはギョッとして、自転車をふらつかせた。
「だから、前見てって。」
コウキは自転車を立て直すとホッとした顔をした。コウキのその一連の動きがなんだか可笑しくて、奈津はクスッと笑った。そして、奈津は、その時やっと、今日は朝から雲が1つもない青空が広がっていることを思い出した。
家に到着すると、奈津は自転車を停め、玄関の鍵を開けた。家に入る前に振り返ると、そこには自転車にまたがったコウキの姿が見えた。奈津の心の中の独りぼっちの風景はいつのまにか独りぼっちではなくなっているようだった。
「凛太郎!凛太郎!」
奈津は家に入ると、凛太郎の名前を呼んだ。でも、返事は返ってこない。一応、ひと部屋ひと部屋確認してみたが、やはりいない。トイレにもお風呂にも・・・。最後に、2階の凛太郎の部屋のドアを開けた。いつも通り散らかった部屋だった。グルッと部屋を見回すと、机の上にサッカーボールの形をした貯金箱が転がっているのが目に入った。奈津は駆け寄ると、貯金箱を手に取り、中を見た。
「姉ちゃん、オレ、貯金箱に2000円はたまったぞ!」
と何日か前の夕食の時、ドヤ顔で話していた凛太郎を思い出した。でも、今、貯金箱の中は空っぽだった。凛太郎は1回うちに帰ってお金を持って出たに違いなかった。奈津は階段を駆け下りると、急いで外に出た。強い陽射しの下、汗をにじませたコウキがさっきと同じ佇まいでそこにいた。
「凛太郎の貯金箱が空なの。お金を持って出たみたい。」
奈津は自分でも分かるくらい慌てた声で言った。コウキは、
「あれは凛太郎君の自転車?」
と家の横に停めてある自転車を指さした。
「あ、うん。」
奈津はそちらを見て、自転車を確認してから返事をした。
「じゃあ、歩いて出てる。お金をとりに寄ったんだったら、乗り物に乗ろうとしてるのかも・・。バスかな?」
コウキが言うと、奈津はハッとして、
「バス・・・じゃなくて、汽車かも・・・。そう!きっと汽車!」
奈津は、そうコウキに言うと、玄関の鍵を閉め、急いで自転車に乗った。
「野々宮駅!」
奈津はコウキにそう言うと、野々宮駅に向かった。
「オッケー!急ごう!」
とコウキも奈津の後に続いた。野々宮駅は家から自転車で5,6分くらいのところにある。二人は田んぼの中の道を急いだ。車の通る道に出てしばらく走り、交差点を左に曲がると、木造のかわいい建物が見えた。野々宮駅だ。今、ちょうど汽車が入った所だった。二人は自転車を停めると、急いで構内に入った。野々宮駅は無人駅なので、話が訊ける駅員さんはいない。二人はプラットホームを見た。5、6の人が汽車に乗り込んでいる。その中にひとり、子どもの姿が見えた。凛太郎だ。
「凛太郎!!」
奈津は名前を呼ぶと、夢中で無人の改札を抜け、プラットホームを走り、凛太郎を追いかけて汽車に飛び乗った。
「ピーッ」
笛の音と共に汽車の扉が閉まり、汽車が動き出した。動き出した汽車の揺れで、奈津は一瞬よろめいたが、座席に座って窓の外を見ている凛太郎の姿を見つけると、ホッとして近寄って行った。
「凛太郎。」
奈津は外を見ている凛太郎に声をかけた。その声でこちらを向いた凛太郎は、奈津の顔を見てびっくりした。そして、バツの悪そうな顔をすると、
「お姉ちゃん・・・。お兄ちゃんも・・・。」
と言うと、唇をかんで下を向いてしまった。
「え、お兄ちゃん?」
奈津が振り返ると、扉のところで額の汗を拭いながら立っているコウキがいた。
「ふう・・、もう、走るのも、速いって。」
そう言って、コウキがこちらを向いて笑っていた。