「コウキ、昨日のアメトーーク見た?」
和田くんがコウキの席に行って話しかける。最近、なんとなくコウキの周りに男子が集まるようになった。転校したての頃は、おとなしくて、暗い感じがしてたけど、慣れない場所で緊張していただけで、もともとは元気な男の子なのかもしれない。特にダンスで同じチームの男子たちとは、時々じゃれ合ってるのも見かける。鈴を鳴らしたようなコウキの笑い声が聞こえると、奈津は思わずそっちの方を見てしまう。眼鏡の奥で目がなくなりそうになっている。
「なんかコウキ、よく笑うようになったね。」
まなみが次の時間に提出しないといけない数学の課題を奈津に写させてもらいながら言った。
「コウキみたいな笑い声の男子いなかったっけ?どっかで聞いたことがあるんだけど・・・。」
目と手と口を動かしながらまなみは器用に話す。近くにいた加賀くんも
「そうそう、おれもなんかあの笑い声、聞き覚えがあるんだよな~!サッカー部の後輩とかであんな笑い方するやついなかったっけ?」
加賀くんも思い出せそうで思い出せない・・という感じに答える。奈津は、
「サッカー部にはいないよ~。わたしの周りでは、あんな笑い声の男子いないと思う。」
とコウキの方をチラッと見てから答えた。
「まあ、また、そのうち思い出すやろ!」
まなみは、たいして興味がなさそうに素っ気なく答えると、宿題を写す方に神経を集中させた。
「それな!」
そう言うと、加賀くんも背伸びをしながらあくびをすると机に突っ伏して寝始めた。二人が自分の世界に入ってしまったので、一人取り残された奈津は窓の外を眺めた。窓からは中庭と渡り廊下が見える。休み時間なので、渡り廊下に出ている生徒も多い。奈津は目を窓の外に向けていた。でも、どうしてだか、体中の神経がコウキとその周りの男子たちに向かってる気がする。
「変なの。」
自分でもなぜそうなのかよく分からない・・・そんな状態に最近よく陥る・・・奈津は、ようやく今まで感じたことのない自覚症状に気づいてきたところだった。
「そろそろ数学の林来るぞ~。席戻るか。」
和田くんが大きなよく通る声で言ったので、3組のみんなはそれを合図に自分の席に戻り始めた。
「ギリギリセーフ!!終わった~!」
まなみはノートを両手で天井にかざすと、
「奈津、ありがとう!持つべきものはデキる友だち!」
と言って奈津に抱きついた。
「ハイハイハイ。大げさ!今度学食の塩パンね!」
奈津はそう言うと、自分の席に戻っていくまなみに手を振った。
コウキは和田くんたちが席に戻っていくと、数学の教科書とノートを机から出し始めた。なるべく奈津の方に視線がいかないように気をつけながら。なんで見ないようにするのか自分でも分からない。でも、奈津と悠介が一緒のところを見てからは、奈津と目が合うのが苦しく感じられた・・・。今、奈津が、こっちの席に戻ってくるまなみを見ているのが分かった。コウキは細心の注意を払って教科書を眺めている振りをした。今、顔を上げると目が合ってしまう・・・。奈津がまなみに手を振り終わり、前を向いて席に着いたのが目の端で分かると、ホッと息をついて、コウキはゆっくり顔を上げた。窓からの光が彼女の髪の毛を透かしている。彼女の首と腕・・あんなに細かったっけ・・・?
奈津は席に着いた。あの雨の日、一緒に登校して以来、コウキは奈津と目が合うと、目を細めて笑ってくれた。初めはどういう顔をしていいか分からなくて困ったが、こっちも笑顔で返すのに慣れると、いつの間にか、あの笑顔が自分に向けられるのを心待ちにするようになっていた。それなのに、今週に入ってから、あの笑顔が見られなくなった・・・。正確に言うと、コウキと目が合わなくなったのだ・・・。なんでなんかな・・・。そう思ったとき、奈津は無意識に廊下側、一番後ろのコウキを振り返っていた。
「えっ。」
午後の陽射しの中、突然時間が止まったように、コウキの視線とぶつかった。眼鏡の奥の優しい目がこちらを見ている・・・。思いもかけないとっさのことだったので、奈津は思わず目をそらし、無視するように前を向いてしまった。コウキも慌てて目をそらすと、ノートに視線を落とした。奈津はドキドキと音をたて始めた胸を手でトントンとなだめるが、その音はなかなか鳴り止まなかった・・・。コウキも下を向くと、どぎまぎしてる自分に気づいた・・・。そして、奈津がこっちを向いたことを嬉しいと思ってしまっている自分にも・・・。でも・・・。
「何やってんだ・・・こんな時に・・・」
コウキは握りしめたシャーペンをギューッとノートに押しつけた。
朝から雨が降りそうで降らない・・そんな天気の土曜日。サッカーの高校総体準々決勝が行われた。相手は古豪の宇部農高だったが、3対1で山口東高校が勝利を収めた。悠介が、前、後半に1点ずつ決め、ボランチの鷹斗が後半、相手ファールからもらったフリーキックを危なげなく決めた。終了間際に、宇部農高にカウンターで1点返されてしまったが、試合全般を通して山口東がおしており、準々決勝としては満足のできる内容だったと奈津は思う。ただ、明日の準決勝は優勝候補の西宮高校。今日のように簡単にカウンターを食らうようでは通用しない。そのことは、解散の時、監督も力強く選手たちに語っていた。明日の大一番を控えて選手たちも気を引き締めてるようだった。
いつものように自転車で一緒に帰っても、今日の悠介は口数が少ない。今日の勝利より、気持ちはもう明日の西宮戦に向かっているのが分かる。
「あ、今日、蛍まつりなんだ・・。」
奈津は一の坂川のところまで来ると、出店が出ているのを見てつぶやいた。出店を見つけたのか、前を走っている悠介も振り返って、
「奈津!蛍まつり!この時期どうしてもサッカーの試合とぶつかっちゃって行けないな~。クラブチームの時は、よくみんなと来たのにな。」
と奈津に向かって言った。
「そうだったね~!蛍より、お店巡りだったけどね!」
奈津が懐かしそうに笑って話すと、悠介も思い出して、ハハハと笑った。
悠介と別れて家に着くと、奈津はすぐにシャワーを浴びた。湿度が高く、汗で体がべとべとしていたので、冷たいシャワーを浴びるとスーッと汗が引いてとても気持ちがいい。奈津は濡れついでに髪も洗った。さっぱりして着替えてリビングに入ると、小学6年の弟、凛太郎がテレビを見るのをやめて、拝むような格好をして奈津の方を向いた。
「姉ちゃん、姉ちゃん!」
「ん?」
奈津は頼み事をされるのを覚悟しながら返事をした。
「オレ、蛍まつり行きたい!あっちで友だちと合流するから、一の坂川まで一緒に行ってくれん?校区外だから保護者が一緒じゃないとダメなんだって。」
凛太郎は合掌した手をこすりあわせながら懇願してくる。奈津は明日の試合のことを考えてしばらく黙っていたが、
「しょうがないなあ。姉ちゃん、明日は試合で早いから、あんまり帰りが遅いのはいけんよ。」
と凛太郎の頼み事をきくことにした。奈津は歳の離れた弟の凛太郎には弱く、ついつい甘やかしてしまう。
「8時には解散予定!よっちゃんたちと5人で回る!」
願いが叶いそうなので、凛太郎の目が輝いてきた。奈津は「はいはい、いつものメンバーね。」ともう慣れっこになった付き添いを承諾した。
「今何時?」
奈津が訊くと、
「4時過ぎ!」
凛太郎が飛び跳ねながら答えた。奈津は、
「5時過ぎのバスに乗って一の坂川まで行って、帰りはお父さんに連絡とって乗せて帰ってもらうっていうのはどう?友だちとの待ち合わせは大丈夫?」
と凛太郎とハイタッチをした。
「もう、決めてあるから大丈夫!!」
「よし!じゃあ、準備して行こう!」
「行こう!行こう!」
凛太郎は急いで自分の財布を2階に取りにあがった。そんな凛太郎を見て、奈津も急いでドライヤーで髪を乾かし始めた。
コウキは土曜日の昼に市内のホテルのロビーで男性と会っていた。机を挟んでカフェオレ2杯で、3時間ほど話をした。お互い黙ったまま無言の時間も多かった。別れ際、その男性は
「また、連絡してから来るよ。」
そう言って、コウキの背中をポンポンと叩き、タクシー乗り場に向かった。男性を乗せたタクシーが走り去るのを見送ると、コウキは腕時計に目をやった。
「もう、山口東の準々決勝は終わってるな・・。」
大きなため息と共につぶやいた。もう、4時前だった。自転車で来ていたコウキはすぐには家に帰る気になれず、自転車をこぎ始めると、当てもなく自転車で走り始めた・・・。
蛍まつり会場の近くのバス停で降りると、凛太郎はすぐ駆け出した。蛍まつりに来た人々で会場は賑わっていた。家族連れも多いが、カップルもなんと多いこと!
「待って、待って、凛太郎!今6時前だから、8時にいつもの『穴場』で待ち合わせね!時間厳守よ!」
奈津は凛太郎の背中に向かって大きな声をかけた。
「分かってるって。じゃあ行ってくる!姉ちゃん、今日は連れてきてくれてありがとう!」
凛太郎は笑顔で手を振ると、あっという間に人混みに消えていった。1人残された奈津は蛍まつりの雰囲気を少しだけ味わうと、家族で「穴場」と呼んでいる、人があまり来ないけど、蛍もちゃんと飛んでいて雰囲気のいい河原へと向かった。彼氏でもいるなら、お祭りを回って、きゃいきゃい言ってるだろうけど!何が悲しくてこのカップルが多い中、1人でさみしく回らんといけんの!とブツブツ言いながら・・・。
奈津が「穴場」に着くと、そこには自転車が1台停まっていた。どうやら先客がいるようだった。なんか「小沢家」だけの秘密の場所を乗っ取られたみたいでちょっと悔しい。自転車の持ち主らしい人が土手を降りる階段に腰掛けているのが見えた。その階段は奈津のお気に入りの場所だった。奈津はその階段は自分のもの!とでもいうように、その人がいるのもおかまいなしに、その人より、ちょっとだけ離れた上の段に腰をおろした。腰をおろした奈津は、一息つくと空を見上げた。お祭りの賑やかな音が向こうの方から聞こえてくる。まだ明るい空に、気の早い蛍が一匹スーッと飛んでいるのが見えた。その蛍のやわらかい光を見てると昨日のコウキの視線を思い出した。コウキの眼鏡の奥のいつも優しい目・・・奈津の胸はまたトクン・・と鳴った。
和田くんがコウキの席に行って話しかける。最近、なんとなくコウキの周りに男子が集まるようになった。転校したての頃は、おとなしくて、暗い感じがしてたけど、慣れない場所で緊張していただけで、もともとは元気な男の子なのかもしれない。特にダンスで同じチームの男子たちとは、時々じゃれ合ってるのも見かける。鈴を鳴らしたようなコウキの笑い声が聞こえると、奈津は思わずそっちの方を見てしまう。眼鏡の奥で目がなくなりそうになっている。
「なんかコウキ、よく笑うようになったね。」
まなみが次の時間に提出しないといけない数学の課題を奈津に写させてもらいながら言った。
「コウキみたいな笑い声の男子いなかったっけ?どっかで聞いたことがあるんだけど・・・。」
目と手と口を動かしながらまなみは器用に話す。近くにいた加賀くんも
「そうそう、おれもなんかあの笑い声、聞き覚えがあるんだよな~!サッカー部の後輩とかであんな笑い方するやついなかったっけ?」
加賀くんも思い出せそうで思い出せない・・という感じに答える。奈津は、
「サッカー部にはいないよ~。わたしの周りでは、あんな笑い声の男子いないと思う。」
とコウキの方をチラッと見てから答えた。
「まあ、また、そのうち思い出すやろ!」
まなみは、たいして興味がなさそうに素っ気なく答えると、宿題を写す方に神経を集中させた。
「それな!」
そう言うと、加賀くんも背伸びをしながらあくびをすると机に突っ伏して寝始めた。二人が自分の世界に入ってしまったので、一人取り残された奈津は窓の外を眺めた。窓からは中庭と渡り廊下が見える。休み時間なので、渡り廊下に出ている生徒も多い。奈津は目を窓の外に向けていた。でも、どうしてだか、体中の神経がコウキとその周りの男子たちに向かってる気がする。
「変なの。」
自分でもなぜそうなのかよく分からない・・・そんな状態に最近よく陥る・・・奈津は、ようやく今まで感じたことのない自覚症状に気づいてきたところだった。
「そろそろ数学の林来るぞ~。席戻るか。」
和田くんが大きなよく通る声で言ったので、3組のみんなはそれを合図に自分の席に戻り始めた。
「ギリギリセーフ!!終わった~!」
まなみはノートを両手で天井にかざすと、
「奈津、ありがとう!持つべきものはデキる友だち!」
と言って奈津に抱きついた。
「ハイハイハイ。大げさ!今度学食の塩パンね!」
奈津はそう言うと、自分の席に戻っていくまなみに手を振った。
コウキは和田くんたちが席に戻っていくと、数学の教科書とノートを机から出し始めた。なるべく奈津の方に視線がいかないように気をつけながら。なんで見ないようにするのか自分でも分からない。でも、奈津と悠介が一緒のところを見てからは、奈津と目が合うのが苦しく感じられた・・・。今、奈津が、こっちの席に戻ってくるまなみを見ているのが分かった。コウキは細心の注意を払って教科書を眺めている振りをした。今、顔を上げると目が合ってしまう・・・。奈津がまなみに手を振り終わり、前を向いて席に着いたのが目の端で分かると、ホッと息をついて、コウキはゆっくり顔を上げた。窓からの光が彼女の髪の毛を透かしている。彼女の首と腕・・あんなに細かったっけ・・・?
奈津は席に着いた。あの雨の日、一緒に登校して以来、コウキは奈津と目が合うと、目を細めて笑ってくれた。初めはどういう顔をしていいか分からなくて困ったが、こっちも笑顔で返すのに慣れると、いつの間にか、あの笑顔が自分に向けられるのを心待ちにするようになっていた。それなのに、今週に入ってから、あの笑顔が見られなくなった・・・。正確に言うと、コウキと目が合わなくなったのだ・・・。なんでなんかな・・・。そう思ったとき、奈津は無意識に廊下側、一番後ろのコウキを振り返っていた。
「えっ。」
午後の陽射しの中、突然時間が止まったように、コウキの視線とぶつかった。眼鏡の奥の優しい目がこちらを見ている・・・。思いもかけないとっさのことだったので、奈津は思わず目をそらし、無視するように前を向いてしまった。コウキも慌てて目をそらすと、ノートに視線を落とした。奈津はドキドキと音をたて始めた胸を手でトントンとなだめるが、その音はなかなか鳴り止まなかった・・・。コウキも下を向くと、どぎまぎしてる自分に気づいた・・・。そして、奈津がこっちを向いたことを嬉しいと思ってしまっている自分にも・・・。でも・・・。
「何やってんだ・・・こんな時に・・・」
コウキは握りしめたシャーペンをギューッとノートに押しつけた。
朝から雨が降りそうで降らない・・そんな天気の土曜日。サッカーの高校総体準々決勝が行われた。相手は古豪の宇部農高だったが、3対1で山口東高校が勝利を収めた。悠介が、前、後半に1点ずつ決め、ボランチの鷹斗が後半、相手ファールからもらったフリーキックを危なげなく決めた。終了間際に、宇部農高にカウンターで1点返されてしまったが、試合全般を通して山口東がおしており、準々決勝としては満足のできる内容だったと奈津は思う。ただ、明日の準決勝は優勝候補の西宮高校。今日のように簡単にカウンターを食らうようでは通用しない。そのことは、解散の時、監督も力強く選手たちに語っていた。明日の大一番を控えて選手たちも気を引き締めてるようだった。
いつものように自転車で一緒に帰っても、今日の悠介は口数が少ない。今日の勝利より、気持ちはもう明日の西宮戦に向かっているのが分かる。
「あ、今日、蛍まつりなんだ・・。」
奈津は一の坂川のところまで来ると、出店が出ているのを見てつぶやいた。出店を見つけたのか、前を走っている悠介も振り返って、
「奈津!蛍まつり!この時期どうしてもサッカーの試合とぶつかっちゃって行けないな~。クラブチームの時は、よくみんなと来たのにな。」
と奈津に向かって言った。
「そうだったね~!蛍より、お店巡りだったけどね!」
奈津が懐かしそうに笑って話すと、悠介も思い出して、ハハハと笑った。
悠介と別れて家に着くと、奈津はすぐにシャワーを浴びた。湿度が高く、汗で体がべとべとしていたので、冷たいシャワーを浴びるとスーッと汗が引いてとても気持ちがいい。奈津は濡れついでに髪も洗った。さっぱりして着替えてリビングに入ると、小学6年の弟、凛太郎がテレビを見るのをやめて、拝むような格好をして奈津の方を向いた。
「姉ちゃん、姉ちゃん!」
「ん?」
奈津は頼み事をされるのを覚悟しながら返事をした。
「オレ、蛍まつり行きたい!あっちで友だちと合流するから、一の坂川まで一緒に行ってくれん?校区外だから保護者が一緒じゃないとダメなんだって。」
凛太郎は合掌した手をこすりあわせながら懇願してくる。奈津は明日の試合のことを考えてしばらく黙っていたが、
「しょうがないなあ。姉ちゃん、明日は試合で早いから、あんまり帰りが遅いのはいけんよ。」
と凛太郎の頼み事をきくことにした。奈津は歳の離れた弟の凛太郎には弱く、ついつい甘やかしてしまう。
「8時には解散予定!よっちゃんたちと5人で回る!」
願いが叶いそうなので、凛太郎の目が輝いてきた。奈津は「はいはい、いつものメンバーね。」ともう慣れっこになった付き添いを承諾した。
「今何時?」
奈津が訊くと、
「4時過ぎ!」
凛太郎が飛び跳ねながら答えた。奈津は、
「5時過ぎのバスに乗って一の坂川まで行って、帰りはお父さんに連絡とって乗せて帰ってもらうっていうのはどう?友だちとの待ち合わせは大丈夫?」
と凛太郎とハイタッチをした。
「もう、決めてあるから大丈夫!!」
「よし!じゃあ、準備して行こう!」
「行こう!行こう!」
凛太郎は急いで自分の財布を2階に取りにあがった。そんな凛太郎を見て、奈津も急いでドライヤーで髪を乾かし始めた。
コウキは土曜日の昼に市内のホテルのロビーで男性と会っていた。机を挟んでカフェオレ2杯で、3時間ほど話をした。お互い黙ったまま無言の時間も多かった。別れ際、その男性は
「また、連絡してから来るよ。」
そう言って、コウキの背中をポンポンと叩き、タクシー乗り場に向かった。男性を乗せたタクシーが走り去るのを見送ると、コウキは腕時計に目をやった。
「もう、山口東の準々決勝は終わってるな・・。」
大きなため息と共につぶやいた。もう、4時前だった。自転車で来ていたコウキはすぐには家に帰る気になれず、自転車をこぎ始めると、当てもなく自転車で走り始めた・・・。
蛍まつり会場の近くのバス停で降りると、凛太郎はすぐ駆け出した。蛍まつりに来た人々で会場は賑わっていた。家族連れも多いが、カップルもなんと多いこと!
「待って、待って、凛太郎!今6時前だから、8時にいつもの『穴場』で待ち合わせね!時間厳守よ!」
奈津は凛太郎の背中に向かって大きな声をかけた。
「分かってるって。じゃあ行ってくる!姉ちゃん、今日は連れてきてくれてありがとう!」
凛太郎は笑顔で手を振ると、あっという間に人混みに消えていった。1人残された奈津は蛍まつりの雰囲気を少しだけ味わうと、家族で「穴場」と呼んでいる、人があまり来ないけど、蛍もちゃんと飛んでいて雰囲気のいい河原へと向かった。彼氏でもいるなら、お祭りを回って、きゃいきゃい言ってるだろうけど!何が悲しくてこのカップルが多い中、1人でさみしく回らんといけんの!とブツブツ言いながら・・・。
奈津が「穴場」に着くと、そこには自転車が1台停まっていた。どうやら先客がいるようだった。なんか「小沢家」だけの秘密の場所を乗っ取られたみたいでちょっと悔しい。自転車の持ち主らしい人が土手を降りる階段に腰掛けているのが見えた。その階段は奈津のお気に入りの場所だった。奈津はその階段は自分のもの!とでもいうように、その人がいるのもおかまいなしに、その人より、ちょっとだけ離れた上の段に腰をおろした。腰をおろした奈津は、一息つくと空を見上げた。お祭りの賑やかな音が向こうの方から聞こえてくる。まだ明るい空に、気の早い蛍が一匹スーッと飛んでいるのが見えた。その蛍のやわらかい光を見てると昨日のコウキの視線を思い出した。コウキの眼鏡の奥のいつも優しい目・・・奈津の胸はまたトクン・・と鳴った。