先生がいてくれるなら①【完】





プロローグ





高校二年生になった4月、始業式の次の日の朝のこと。


朝からしとしとと雨が降っている。

昨日の晴天が嘘みたいだ。



いつもは親友の美夜(みや)ちゃんと学校の最寄り駅で待ち合わせているが、今日は寝坊したらしい。


【ごめーん、いま起きた! ギリギリになりそうだから、先に行ってて!】


と言うメッセージが来ていた。



普段はテニス部の朝練がある美夜ちゃん。

今日は雨のため朝練は中止。

きっと気が緩んで二度寝しちゃったに違いない。




ほとんどの運動部が朝練は中止のようで、通学路には同じ学校の人はまだ誰も歩いていない。


ひとりで歩くと、なぜだかいつもとは少し風景が違って見える。



傘に付いた雨粒も、雨粒が自身の重みに耐えられなくなってポロリポロリと傘のふちから滴り落ちるのも。



「綺麗……」



雨粒が傘にあたる音さえも、とても大事なものに感じて──。


正門をくぐり、昇降口の前で自分の周囲に誰もいない事を確認して。



──傘をゆっくりと、くるりと回した。



傘に付いた雨粒が自分の周りをキラキラ光りながら、少し勢いを付けてひゅんっ、と飛んでいく。



幼稚園ぐらいの頃は、よくやったな。

お母さんには「人の迷惑になるから、傘は回しちゃ駄目よ」って、言われたっけ。



傘を畳んで、私は校舎へと入っていった──。



* * * * *


朝のHRのチャイムが鳴る直前に、美夜ちゃんが教室に駆け込んで来た。


「明莉(あかり)、今朝はごめんね~! 起きたら待ち合わせの時間で、超ビックリした!」


息を切らせながら、美夜ちゃんが私に謝る。


「ううん、大丈夫。それより、間に合って良かったね」

「走ったよー! 傘あるから、めっちゃ走りづらくて。死ぬかと思ったー!」


美夜ちゃんの席は私の一つ前。



『滝川 美夜(たきがわ みや)』『立花 明莉(たちばな あかり)』──。



出席番号順に座ると、美夜ちゃんと私は前後になる。


去年、一年生の時に座席が前後だった縁で、私たちは親友になった。


今年も同じクラス、前後の席でのスタートだ。



ホームルーム開始のチャイムが鳴り、先生が入って来た。


あれ? 担任じゃない。

えっと、副担任だっけ。


「今日は担任の福原先生は出張です」


副担任の先生はそう言って、諸連絡を始めた。


名前、何だっけこの先生。確か数学の先生だった気がする。



「……と言うことです。質問がある人はいますか」

「はーーーい!! 藤野先生は、彼女はいますかー?」


クラスの男子がふざけて質問をする。


そうか。

藤野。

藤野先生だ。と、男子のおかげで思い出す私。


「……そう言う質問は受け付けていません」

「うっわ、その返事ずるい! じゃ、好きな人はいますかー?」

「その質問も却下ですね」


先生は、見たところ動揺すらしていない。


若い割には見た目が残念すぎるので、男子がからかいたくなるのも分からなくも無いけど。


「質問は無いようなので、これで終わります。あ、このクラスの数学係は、誰?」


数学係!

そう、昨日の始業式の後の委員と係決めで、私は半ば無理矢理、数学係にされたんだった。


はい、と手を上げようとしたその時──




「はいはいはーーーい!!!」


隣の席の、倉林悠斗(くらばやし ゆうと)が私の手を取って、高く掲げた。


そして、その手をもぞもぞと動かし、指を絡めるようにしてしっかりと握り直す。



……って、ちょっと待って。


これって俗に言う、恋人繋ぎって言うやつでは……?



「数学係の、倉林と立花でーす!」


倉林君が元気に答える。


「ちょっと、倉林君っっ!」


私は小声で抗議するが、倉林君は聞こえなかったかのように繋いだ手を上げたままニコニコと笑っている。


一斉に、クラスの女子全員(美夜ちゃんを除く)が私を睨んだ気がする……。


いや、気のせいでは無い、なんか周りの女子からの無言の圧力がスゴイ……。



「……数学係は、昼休みに数学準備室に追加の教材を取りに来るように」



藤野先生はそう言って、さっさと教室から出て行ってしまった。


「って、ちょっと、倉林君、先生に変に思われたじゃない~」

「あはは、別にいいじゃん。インパクト強い方が覚えてもらえるし」

「変に覚えられて成績下がったら、倉林君のせいだからね?」

「大丈夫、俺、数学得意だから分かんない所は手取り足取り教えてあげるよ?」



そうだった。


倉林君は、見た目はチャラいけど、なぜか数学を始めどの教科も成績が良くて、所属するサッカー部でも一年からレギュラーで、先輩からも後輩からも人気があって。


だけど、極めつけはそのルックス。


もし校内イケメンコンテストなんてあったら、絶対1位になる事間違いなしなのだ。


私は一年生の時も倉林君と同じクラスだったから、彼の人気っぷりは日常的に見てきた。


倉林君を一目見ようと押しかける女子の数たるや、それはもう……。


性格も明るくて誰とでも仲良く話すから、男子全員と仲が良いと言う感じだし。



クラスの女子全員を敵に回して、私はこの先大丈夫なんだろうか──。




数学係の仕事






「立花~。数学準備室、行くぞ~」


私と一緒に数学係をやる事になっている倉林君が、お弁当を食べている私の頭をポンポンと叩いた。


「えっ、待って、私まだお弁当食べ終わってないっ」

「おっ、じゃあ手伝ってあげようか?」


私のお弁当に伸びてきた倉林君の手を、美夜ちゃんがペチっと叩いた。


「いてー、何すんだよ滝川~」

「窃盗は犯罪です!」

「残念でした、お手伝いは窃盗ではありませ~ん」

「同意を得ていないので犯罪でーす!」


美夜ちゃんと倉林君がじゃれ合っているうちに私は慌てて残りのお弁当を口に運んで、食べ終わったお弁当箱を鞄に仕舞った。



「倉林君、お待たせ。行こっか」


立ち上がろうとすると、倉林君がスッと手を差し出して「お手をどうぞ、姫」なんてふざけながらニッコリ笑っている。


「あはは、ありがとう。でも私、姫じゃ無いからひとりで立てるよ」


私も調子を合わせてあげれば良いんだろうけど、どうもそう言うのは照れくさくて……。



数学準備室は、特別教室A棟の1階にあるらしい。


去年作られた部屋で、それまでは倉庫とか物置とか、そんな感じだったみたいだけど、特別教室棟の奥であまり用事も無いので私は初めて足を踏み入れるエリアだ。


私の2年5組の教室からは、渡り廊下を渡ったり階段を降りたり……地味に離れている。


そんな数学準備室への道中──。


「なぁ~、そろそろさぁ、俺のこと下の名前で呼んで欲しいんだけど」


倉林君が唐突にそう言った。


「え? なんで?」

「えーっ、だって、俺らもう付き合いも長いじゃん?」

「ごめん、意味分かんない」

「ひでえ! いいじゃん! 減るもんじゃなし!」

「今更な気がするんだけど……」


倉林君とは去年も同じクラスで、私の中では唯一仲の良い男子だ。


しかしいくら仲が良いと言っても、もう一年間も名字で呼んで来たのに急に下の名前で呼ぶって、いくらなんでも、なんか気恥ずかしい。


「俺もさ、お前のこと、明莉って呼ぶから」

「……私の名前は、まぁ、いいけど……」

「うっしゃー! じゃあ早速……」


そう言って、倉林君は私の肩を抱き寄せて、耳元で「明莉……」と囁いた。



「……っ!!!」



ちょっ、ちょっと待って!

下の名前で呼んで良いとは言ったけど、耳元で囁けとは一言も言ってない!


「な、ななな、何をっ……!!!」


焦って真っ赤になる私を見て、肩を抱き寄せたままクスクスと笑う倉林君。


「あれっ、感じちゃった?」


なんて、しれっと言って笑ってる。


「ちちち、ちがっ……!」

「ね、明莉も、俺のこと悠斗って呼んでよ」

「……えっ、む、無理っ!」

「えーっ、いいじゃん。ほら、悠斗って呼んでみ?」

「やだっ」


「……明莉」


もう一度、わざと耳元で囁く倉林君。


「ちょっ……、分かったから、離してっ」

「だーめ。“悠斗” って呼んでくれたら離してあげる」


倉林君は私の事を今度は正面からギュッと抱きしめて、また耳元に顔を近づける。


「あ、か、り……」


「っ、ちょっと、待って……!」


いくら昼休みの特別教室棟はひとけが無いからって、さすがにこんな所を見られるのはマズい。


特に倉林君のファンの女の子達に見られたりしたら、とんでもない事になりそうだ。


「ねぇ、早く言って。言わないと離さないから」

喋るたびに耳に息がふわりとかかり、どうすればいいのか分からない、何とも落ち着かない感覚に襲われる。


私は観念して、小さな声で「ゆうと」と口にした。


「もっかい。ちゃんと聞こえるように言って」


「……悠斗」

私はとにかくこの状況から早く脱したい一心で、名前を口にした。

「う〜ん、明莉~~~」


抱き締めた腕にギュッと力が込められ、悠斗は私の頬にチュッとキスをした。


……えっ!?

「っっっ! ちょっ、ゆ、悠斗っ!?」


脱するどころか、悪化するとは……。

「ねぇっ、離してっ……! こ、こんなところ誰かに見られたら……」


悠斗の腕から逃れようともがくけど、ちっとも力を緩めてくれない。

それどころか、更にギューッと密着して悠斗の身体に完全に包み込まれ、私は呼吸が苦しくなる。


「俺は別に誰かに見られてもいいけど?」

「だ、駄目だよ! それに、教科係の仕事しに来たんだから!」


そう言うと、悠斗は少しだけ腕を緩めて私の顔を覗き込み——今度はおでこにキスをした。

「……っ! ゆ、悠斗っ!!」

「……明莉、顔、真っ赤だね」

悠斗が嬉しそうに笑う。

「も、もうっ! やめてってば!」


私は悠斗の腕からなんとか抜け出して、数学準備室へと逃げるように急いだ。