冷たく暗い、深い水の底へ沈んでいく様な。

そんな微睡にも似た感覚と共に私は目を閉じた。

錆びた鉄の匂いと共に世界が歪なノイズを奏でて反転する。

そして再び目を覚まし、反転した先に辿り着いた私は。

見知らぬ薄暗い教室で、無機質な天井を見上げて横たわっていた。



ゆっくりと起き上がり、辺りを見渡す。

他には私と同い年くらいの少女が二人倒れている。

一人は溶けるように真っ白な髪をした少女。黒髪の私と対照的にシルクの様な美しい髪を見て私は羨ましいと思った。

もう一人は私と白髪の少女より一回り小さい茶髪の少女。大事そうにクマのキーホルダーを握りしめていて、どことなく幼げな印象を受けた。

「ううん……」



その時、白髪の方の少女が目を擦りながら起きた。髪が白いことを除けば体形やセミロングの髪型は私と良く似ている。

「ここはどこ?」



彼女はそう言って私を見た瞬間、突然怯えた様子で後ずさりした。

「ど、どうしてあなたがここにいるの⁉ どうしてまだ生きているのよ⁉」

「え? 生きてる?」



私の体は傷一つ無い。問題があるとするならば……今までの全く記憶がないことだ。

「どういうこと? もしかして何も覚えてないの?」

「そうみたい。だから私もここがどこか分からないし、あなたが誰かも知らないの」

「ッ……!」



少女は苛立ちと困惑が混ざった表情を浮かべている。その時私はあることに気付いた。

「ねえ、私たちの胸ポケットに何かあるみたい」

「え?」
お互いがポケットからはみ出していた物を取り出すと、それは黒い封筒に包まれた手紙だった。

私は何かに操られるように自分の封筒を開き、中の手紙を読む。



『ケイショウセカイヘヨウコソ アナタハケイショウシャヲ ミキワメルギムガアル ギシキガハタサレタトキ ソレラハヤクメヲオエル』



「継承世界へようこそ。あなたは継承者を見極める義務がある。儀式が果たされた時、それらは役目を終える……?」



何のことだか分からない。

不安で仕方なくなって白髪の少女を見ると、彼女は目を見開いたまま手紙を見つめ、やがて震える手でそれをしまった。

「あの、何て書いてあったんですか? 状況も分からないし、お互いに手紙を見せ合った方がいいと思うんですけど」



私が恐る恐る提案すると、彼女はしばらく私を複雑な表情で見つめてから首を振った。まるで何かを振り払う様に。

「いいえ……大した内容じゃないわ。封筒には手紙と一緒にこれが入ってて、身の危険を感じた時に使いなさいとしか書いてなかった」

「果物ナイフ?」



彼女が取り出したのは小ぶりの果物ナイフだった。急所に刺せば敵を仕留められるけど、女の子が護身用に持つにはあまりに頼りない。

それに彼女の手紙の内容は私と比べて短絡的過ぎる。出来れば確認させて欲しかったけど、彼女はさっさと茶髪の少女に歩み寄って小さな体を乱暴にゆすった。

「ちょっとアンタ、いつまで眠りこけてるのよ! さっさと起きなさい」

「ふにゃ⁉」
茶髪の少女は小動物の様に起き上がり、白髪の少女と私を順番に見つめて言った。

「あ、おはようございます~! すっかりお寝坊しちゃいました」

「寝坊にも程があるわよ。こんな状況で良く寝てられるわね」

「えへへ……だってここの床ヒンヤリしてて気持ちいいから」



そう言って頭に手を当てる少女からさっさと離れ、白髪の少女は私を見つめた。

「あなた、名前は?」

「えっと……小鳥遊加奈(たかなし かな)」

「名前は覚えているみたいね。私の名前は月詠暦(つくよみ こよみ)。これからよろしくね」

「よろしくお願いします」



そう答えつつ、私は奇妙な違和感を覚える。これからよろしくって、まるでこれから長い付き合いになることが分かっているみたい。

「はいはい! ワタシの名前は東雲志乃(しののめ しの)って言います! 気軽にシノって呼んでください!」

「誰もアンタの名前なんか聞いていないわよ!」

「えー! ぐすっ……差別反対ですぅ……」



分かりやすく落ち込む志乃を見て、私はますます違和感を強める。喋らせる気が無いなら、どうしてわざわざ彼女を起こしたのだろう。

「それじゃあとりあえず、ここから出ましょうか。こんな陰気臭い場所にいつまでも居たくないし」

「そうね」



窓から見える景色は紫色の曇天が立ち込めている上に人気も全くない。だけど、ここでいつまでも動かないままよりはずっとマシだと思う。

けれど、暦が開けようとしてもドアは微動だにしなかった。いくら力を込めてもギシギシと耳障りな音を立てるばかりだ。



「おかしいわね……ドアが開かない」
彼女は振り返り、首を振った。

冷静な彼女とは対照的に、私は動揺する。

「それって……ここに閉じ込められたってことなんじゃ……」

「そうなるわね」



一応窓は開くようだけど、見た感じここは校舎の四階。

おまけに何故かベランダもない為、他の教室に移動することも出来ない。

ベランダの無い教室に開かないドア。何者かによって私たちはここに監禁されたのだ。

「どうしよう……どうしよう……」



恐怖のあまりしゃがみ込む私を見て、暦が高圧的に告げる。

「どうもこうもないでしょう。こうなったら脱出する方法を探さなきゃ」

「そんな都合の良い方法があるわけないよ! 私たちはただの非力な女の子なんだよ!」

「チッ……!」



明らかに苛立ちを滲ませるが、暦にも打開策はないみたいだった。

「ねえ、これって何かな?」



その時、志乃が教室の隅に置かれていた段ボールに近寄って中身を開ける。

途端、『わー!』と嬉しそうな声を上げて彼女はそれをこちらに向けた。

中に入っていたのは……少し大きい緑色のカエルだった。

「見て見て~! おっきなカエルさんだよ! シノはクマさんの次にカエルさんが好きなの!」



そう言ってはしゃぐ志乃が抱える段ボールから、カエルが勢いよく飛び出した。

自由の身になったことが余程嬉しいのか、教室の真ん中をピョンピョン飛び回っている。

「ちょっと余計なことしないで! こんなカエルが何の役に立つって言うのよ!」



暦がまたしても声を荒げる。どうしてか分からないけど、よっぽど志乃のことが鼻に突くみたい。

ふと私は段ボールを見てあることに気付いた。

「シノ、ちょっとその段ボールを見せて。底に何か書いてある」

「え?」



私の予感通り、箱の底には黒い太文字で『カエルハトテモシンセツダ』と書かれていた。

「カエルはとても親切……? どういうこと?」
暦が首を捻ると、志乃が掌にクマのキーホルダーをポンと当てて叫ぶ。

「分かった! きっとカエルさんがあのドアの鍵の場所を知ってるんだよ!」

「はあ? そんな都合の良い話があるわけないでしょ?」



呆れる暦を尻目に、志乃は空いた方の手でカエルを抱き抱えて教室を回り始めた。

「お願いカエルさん、鍵はどこにあるのか教えて下さい。カエルさんは親切だからきっと教えてくれるよね?」



カエルに話しかけながら、教室のロッカーや掃除道具入れ、窓際や教壇などを順に回っていく。だけど、カエルは鳴くどころかピクリとも反応しない。

「おかしいなぁ……もしかして本当にただのカエルさんだったのかな? それとも長い間閉じ込められて疲れちゃったのかな?」



志乃はションボリした様子でカエルを見つめる。その様子があんまり気の毒だったので慰めようとしたけど、それを制する様に暦が言い放つ。

「いい加減にしなさいよアンタ! そんなのただのカエルに決まってるでしょ! 第一、教室のどこかに鍵なんてあるわけないのに――」



すると突然、カエルは暦を前にしてジタバタと暴れ始めた。

「ちょっと、急にどうしたのカエルさん⁉」



志乃がなだめようとするも、カエルは必死に手から逃れようと手足をバタつかせる。

「何なのよもう! そんな気持ち悪い生き物、窓から捨てちゃいなさいよ!」



暦が叫ぶと同時に、私はあることに気付いて口を開いた。

「ダメだよ暦、そんなことをしたら。だってそのカエルはとても親切なんだから」

「は?」



視線を向ける暦に、私ははっきりと告げる。

「暦、胸ポケット以外のポケットも見せて」

「……どうしてそんな必要があるの?」

「カエルは親切だから、不親切な人を嫌う。もし暦がドアの鍵を隠し持っていたなら、カエルはそれに反応して嫌がると思うの」

「はあ? 私はそんなことしてないし、そんなオカルトめいた話があるわけないでしょ」

「ならどうしてさっきこう言ったの?『教室のどこかに鍵なんてあるわけない』って」



一瞬の沈黙の後、暦が告げた。

「普通ならそう考えると思っただけ。でもそこまで疑うなら分かったわよ、確認してみる」



彼女はブレザーの外ポケット、内ポケットと順番に確認し、スカートのポケットに手を入れて動きを止めた。



再び現れた彼女の手には、鈍い光沢を放つ鍵が握られていた。
「ごめんなさい、私も思いもしなかったの。手紙とナイフ以外に何か仕込まれてるなんて」



そう告げる彼女の表情は、心の底から言っている様に見えなくもなかった。

ここで事の真偽を追及しても仕方ない……そう判断した私は黙って掌を差し出した。暦は大人しく鍵を乗せようとして――

突然激しく校舎が揺れ、彼女はよろめいた。

「何⁉ 地震⁉」



ただの地震にしてはまるで世界そのものが生きてるかの様に地面がうねり、校舎が体動する。

私は咄嗟に近くの壁に手をついたけど、壁から離れていた暦と志乃はバランスを崩した。

「危ない!」



私が叫ぶと同時に、志乃の手からカエルが放り出されて暦の胸にへばりついた。

彼女は悲鳴を上げて鍵を持った手でカエルを振り払い、そのまま床に倒れ込む。

振動は十秒ほど経ってようやく収まり、私は二人に駆け寄った。

「暦、志乃、大丈夫?」

「私は大丈夫よ……でもあの忌々しいカエルが私の制服にくっつきやがった……最悪……!」



顔を歪めて胸元を擦りつける暦。その後ろでは志乃が窓際で悲痛な叫びを上げていた。

「カエルさん! カエルさん! イヤだよ、こんな所で死んじゃダメ!」

「志乃どうしたの?」

「カエルさんが……! 壁に叩きつけられて、ぐったりしちゃってるの!」



どうやら暦は余程力を込めて振り払ったらしい。窓下の壁に激突したカエルは完全に伸びてしまっている。

「ごめんなさい……せっかく私たちの役に立ってくれたのに……休んだらきっと元気になるから……!」



必死に励ます志乃の言葉を聞いて、私は大切なことを思い出す。

「暦、そう言えば鍵は?」



すると、彼女は胸元から窓に視線を移しバツが悪そうな表情を浮かべた。



「もしかして……」
「カエルを振り払った時、鍵が窓から飛んで行ってしまったの」

「じゃあ、もうここに鍵はないの……?」

「そうね、ごめんなさい。もし信じられないなら身体検査してくれてもいいけど」



だが彼女の表情を見る限り、今度ばかりは真実だろう。私は力なくその場で崩れ落ちる。

どうしてこんなに悪いことばかり重なるのだろう。まるで世界が結託して私たちをイジメているかのように……イジメているかのように……

ザザッ、と白いノイズがフラッシュバックして。

私の脳裏に朧げな光景が浮かぶ。

そうだ――以前の私も確か、何かにイジメられていた。

それに対して私は何をした? ただ黙って泣いていただけ?



チガウ。チガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウ――



全身を電流が血液の様に駆け巡り、私は淀んだ青い瞳を開く。

淀んだ瞳に移る世界は――何故かとても鮮明ではっきりと輪郭を持っている。

「それにしてもこのクソガエル……やってくれたわね」



後ろでは暦が立ち上がり、志乃とカエルを睥睨していた。

「そいつが飛びついてこなければ鍵を失わずに済んだのに! どうしてくれんのよ!」

「ちょっと、それはあんまりだよ! 親切なカエルさんがいなかったらそもそも鍵は見つからなかったのに!」

「うるさい! 大体アンタだってちゃんとそいつを抱えていればこんなことになってないのよ! 自分にも責任があるって思わないわけ? 挙句の果てに死にかけのカエルを介抱するなんて頭沸いてんじゃないの?」

「死にかけなんかじゃない! カエルさんはちゃんと元気になるもん!」

「黙れ!」



暦は志乃の背中を思いきり蹴飛ばした。志乃は呻き声を上げてカエルを庇う様にうずくまる。

「もう用済みなんだからそんなカエルさっさと死ねばいいのよ! どうせ私たちもここで死ぬんだから!」

「やめて……お願い……やめて……!」



響き渡る打撲音と、鳴りやまない怒号。

私はそれを無視して立ち上がると、転がっていた段ボールの箱まで歩いて底の裏を確認する。

「……やめなよ、暦」

「何よ加奈! あなたまで志乃を庇うつもり?」



声を荒げる彼女に、私は淡々と告げる。



「違う。それ以上続けても意味がないから」
「だったらこのまま彼女とカエルを許すって言うの?」

「うん。許してあげるべきだと思う。だってカエルは用済みなんかじゃないし、私たちもここで死んだりなんかしないから」

「……?」

疑問符を浮かべる二人に向かって、私は段ボールの底の裏面を見せた。



『カエルハサイゴマデシンセツダ』



「カエルは最後まで親切……?」

「そう。どんなことがあってもカエルは最後まで親切でいてくれる。だからせめて許してあげようよ」



段ボールを投げ捨て、あっさり言い放った私に志乃が縋りついてきた。

「うわあああん! ありがとう、加奈ちゃん……シノとカエルさんを助けてくれて……!」

「大したことじゃないよ」

「加奈ちゃんはもうシノのお友達だよ! あ、加奈ちゃんが嫌じゃなければ、だけど……」

「いいよ、お友達になってあげる。志乃とも、親切なカエルさんとも」



私は志乃を引きはがすと、混乱した様子の暦に近づいた。

「暦、ちょっとさっきの果物ナイフを貸してくれる? やらなきゃいけないことがあるから」

「え? どうしてよ? これ凄く大切なものなんだけど」



暦が露骨に警戒した目で私を見る。

そんな彼女に、私は出来るだけにこやかに微笑んだ。

「どうしても必要なの。お願い、私は暦の味方だから」

「……分かったわよ」



逡巡の末、差し出されたナイフを私は受け取る。

それからぐったりとしているカエルに近づいて。

しゃがみ込んでポツリと、精一杯の慈愛を込めて告げる。



「ごめんね――でも、私のお友達ならきっと許してくれるよね?」



迷いなく振り下ろされた先端部分から鮮血迸って。

泣き叫ぶ志乃を振り払い私は淡々と作業を続けて。

そして変わり果てたカエルの臓物に手を突っ込み。

赤く染まった掌上で輝く鍵を二人の前にかざして。



「ほらね。カエルはやっぱり最後まで親切だったでしょ?」
カエルが残してくれた鍵を使って教室を出た私たちは、校舎の薄暗い廊下を歩いていた。

ドアを開けた瞬間、ゴーン……と荘厳な鐘の音が辺りに響いたけど、特に何も起きなかった。

後ろからはずっと志乃の啜り泣きが聞こえてくる。

私自身、自分の行動が未だに信じられない。いくら自分たちが助かる為とは言え、あれほど冷酷に生き物の命を奪うだなんて。

「ねえ……何か思い出した?」



恐る恐ると言った様子で暦が尋ねた。流石の彼女も、さっきの一件はショックだったのかな。

「ううん、具体的なことは何も。ただ……」

「ただ?」



私は言葉の続きを言いかけて、そして怖くなってやめた。

「やっぱり何でもない」

「何よ、気になるじゃない」

「聞いてもきっと、誰も幸せにはならないから」



――カエルを刺した時の感覚が何故か懐かしく感じた、だなんて言えるわけがない。それが例え私の過去に繋がるヒントだとしても、考えたくもない。

私の返答を聞いて、暦は露骨につまらなそうな表情を浮かべた。

一体何を期待しているのだろう? 私の過去を掘り起こすことで、彼女に良いことでもあるのかな?

「あっそ。それよりさ、さっきから後ろでグズグズうるさいんだけど何の音? この学校は幽霊でも出るの?」



彼女は振り返ると、志乃をジッと見つめてその視線が手元で止まった。

「さっきから何なのそのキーホルダー。幽霊のくせにお守り?」

「これは……私のお母さんの形見なの。いつも肌身離さず持っておきなさいって」

「ふうん、ちょっと見せて」



志乃は怯えて首を振った。

「大丈夫よ。もし何かしたらこのナイフで私を刺して構わないから」



彼女は果物ナイフを取り出すと、それを強引に彼女の手に押し付けた。

志乃は怯えた目つきでナイフと暦を見つめていたけど、やがて観念した様子でクマのキーホルダーを暦に渡す。

「へえ、形見って言う割には何の変哲もないのね」



暦は全く興味のない様子で、顔の前でキーホルダーをブラブラさせる。

「あの……そろそろ返して欲しいんだけど」



「ん? ああこれ? ごめんやっぱり欲しくなったから返せないわ」