私は動揺して叫んだけど、彼女は静かに首を振った。
「もういいの。ここまでされたら流石に諦めるしかないもん」
「何をバカなことを言ってるの⁉」
「大丈夫。このクマさんは加奈ちゃんのことは襲わないから。最初からシノだけを追いかけていたんだよ……そうだよね、クマさん?」
巨大クマは何も答えず彼女に迫り、巨大な豪腕で容赦なく地面に押し倒した。そのまま仰向けの彼女の上にのしかかり、顔面に大きな拳を振り下ろす。
「志乃!」
「ぐああっ! うぐっ……! ごふっ……!」
悲痛な呻き声と共に、詩乃の可愛らしかった顔がブドウの様に潰れていく。
ズシン、グシャ! と振り下ろされる一方的な暴力を前に、私はただ見ていることしか出来ない。
クマはようやく満足したのか、ボロボロになった志乃を摘み上げると大きく口を開く。まさか、志乃を食べるつもり……?
「ごめんね……」
そんなバケモノに対して、志乃は掠れる声で呟いた。
「いつもシノはあなたを手放してしまう。もっとシノが強い子だったら……今頃きっと――」
その後の言葉は、バリポリと骨を噛み砕く音と飛び散る血飛沫にかき消された。
あまりに凄惨な東雲志乃の末路に、思わず私は目を覆う。
志乃は結局、私に何を伝えたかったのだろう? それに最後の言葉の意味は一体……?
考えることで現実逃避をしていた私は、志乃を食べ終えた巨大クマが標的を変えたことに直前まで気づかなかった。
「やめて、こっちに来ないでよ……!」
牙から血を滴らせ、眼前に迫る醜悪な怪物を前に私は後ずさる。
志乃はさっき、このクマは私のことは襲わないと言っていた。だからきっと大丈夫……!
「カナチャン……カナチャン……」
そんな私の思いは、意外な形で裏切られた。
突如言葉を発した怪物の声は、紛れもなく志乃のものだった。
「志乃……? もしかしてそこにいるの……?」
あり得ない。志乃は間違いなくこのバケモノに食われて死んでしまったはず。
だけど、ここは『どんなあり得ないことでもあり得る世界』だ。ならひょっとしたら――
「志乃、意識があるなら返事をして! もしかしたらまだ助かる方法があるかもしれない!」
私が必死に呼びかけると、巨大クマは感情のない瞳で私を一瞬見つめて――
「……タリナイ。オカワリ」
目に留まらぬ速さでクマが私を掴み、その巨大な口を開く。
志乃の血の匂いが混じった生臭い息を吹きつけられ、私は悲鳴を上げた。
「カナチャンオイシソウ……コレデクマサンモマンゾクダヨネ……ソレナラシノモマンゾク……」
もうダメだ。クマと一体化した今、志乃には理性が残っていない。自分の欲求とクマの欲求が混ざり合った結果、私を食べることしか頭にないんだ。
私は観念して目を閉じた。
人が目を閉じる大半は眠る時と死ぬ時だ。
なら、自ら目を閉じることは死を受け入れることと同じはず。みっともなく喚きながら死ぬくらいなら、せめて自分の意志を守って死にたい。
しかしまさに牙が私の命を貫こうとした瞬間、激しい衝撃と共に私はクマの手から投げ出された。
「イタイ……イタイヨォ……」
屋上の床で横倒しになり巨体をバタつかせるクマの上で――その白髪の少女は掌をかざして浮いていた。
振り乱した白髪と銀の光に包まれた体のせいか、それはまるで御伽噺に出てくる強大な魔女の様。
「ユルサナイ……クマサンヲキズツケルヤツハ、ミンナタベテヤル!」
巨大クマは起き上がると、白髪の少女目掛けてジャンプし拳を繰り出した。
少女はそれを軽やかに宙返りで交わすと、空を切った腕に手刀を振り下ろす。
クマの剛腕が千切れ飛び、中から真っ赤に染まった綿が血の様に吹き出した。
「ガアアアアアアアアアアアッ!」
志乃の声で絶叫する怪物に向かって、少女は再び掌をかざすとクマは喉元を抑えてもがき始めた。
「耳障りだから黙ってくれる? 単なるコマの分際でルールを破って私に逆らおうとするなんて……最後の最後まで、アンタは使えないクズだったわね。さようなら」
彼女が容赦なく拳を握りしめると、同時に巨大クマの体が圧縮されていく。
あれほど巨体だったクマの体は見る見るうちに元のサイズよりも小さくなり――最後、宙を舞う子グマのつぶらな瞳が私を見つめた。
「ネエ……シノハドウシテウマレテキタノカナ?」
そんな哀切な彼女の言葉を最後に――ちいさな爆発音を残してクマは消滅してしまった。
ゴーン……と三度目の鐘の音が学校中に響き渡る。もしかしたら今ので最後だろうか。最後であって欲しい、私は願いつつその少女の名を呼ぶ。
「……暦」
彼女は振り返ってゆっくり地面に降り立った。
「加奈」
暦は地面にうずくまっている私の側まで歩いてくると……しゃがんで私の頬を叩いた。
「いたっ……⁉ 何するの?」
「ごめん。でもやっぱり我慢出来ない。アンタはさっき喰われかけた時、どうして目を瞑ったの?」
暦は本気で怒っているみたいだった。彼女は命の恩人だけど、やっぱり何を考えているのか分からなくて怖い。
「私に刺された時には、散々悪態を吐いていたくせに……記憶を失ったアンタは綺麗な死に方を選ぶってわけ? 虫が良すぎるにも程があるわよ!」
「私に刺された……? どういう意味なの⁉」
「その被害者面の口調をやめなさい! ここであの子みたいにアンタを捻り潰してもいいのよ⁉」
暦は憎しみに満ちた目で私を射抜いて……それから気持ちを落ち着ける様に大きく息を吸い込んだ。
「落ち着くのよ暦……ここで暴走したら、全てが台無しになる……」
「さっきから何を言っているの⁉ いい加減私のことを教えてよ!」
私は思わず暦の肩を掴んだけど、謎の力によって数メートルも弾き飛ばされてしまった。
地面に頭を打ち付け、私は痛みに呻き声を上げる。鈍痛が走る中、遠くから暦が無慈悲に告げる声がした。
「急ぎなさい加奈。あなたが記憶を取り戻せなければ、あなたも私も目的を達成出来ない。急いで……あの空の時計が、あなた自身を刻み終える前に」
そして再び、月詠暦は黒い穴へと消え失せた。
一人屋上に取り残された私は、ゆっくりと空を仰いだ。
時計の針は相変わらず時を刻み続けていて、立ち込める雲は少し赤くなっている気がする。
「……行かなくちゃ」
私は重い体を引きずって立ち上がる。
暦の言葉通りなら、私は自分の力で記憶を取り戻さなきゃいけない。
その答えはきっと、この場所のどこかにあるはずだ。
屋上から再び校舎内に戻ると、血の色をした足跡が点々と廊下に続いていた。
ここまで親切に導いてくれるなんて、どうやら時間がないのは本当みたい。
私がそれを辿っていくと、やがて足跡は教室の中へと入っていった。
足跡を追って私も教室に入った瞬間、激しい耳鳴りで私は思わず両耳を塞いだ。
ノイズと共に視界が乱れて色彩が消え失せる。モノクロと化したその教室は、さっきとは別の場所に変わっていた。ここは確か……私が通っていた中学校?
教室の窓際では、数人の人影が一人の女の子を取り囲んでいる。人影の一人はハサミを持っていて、女の子は額から血を流していた。
「アンタがいけないのよ。髪を切ろうとする時に暴れたりするから、手元が狂ったじゃない」
ハサミを持った女の子が笑う。
「私はアンタみたいな綺麗な髪をした子が大嫌い。そして、それが当たり前の様な顔をしているアンタが死ぬほど嫌い」
確かにそのイジメっ子の髪は少しくすんだ狼の様な灰色をしている。そうだ――私が彼女の『獲物』になったのはこの時からだった。
「そうだ、アタシが教育してあげる。アンタをとことん追い詰めれば、その忌々しい髪も真っ白になるかもしれないもの」
「やめて……こんなの酷いよ……!」
「だったら、このハサミでその髪を全部刈り取ったら? そしたら許してあげる」
そう言って彼女は少女の足元にハサミを投げつけ、ケタケタと笑いながら取り巻きを連れて踵を返す。
こちらに歩いてくるのが見えた瞬間、私の背筋が凍った。彼女の双眸は、まるで空洞が空いているかの様に真っ暗だったからだ。
イジメの一味が去っていった後、少女はぼんやりとハサミを見つめていた。切られた前髪の下から滴る血が涙の様に頬を伝う。
どうしよう。声をかけるべきかと迷っていると、少女は徐にハサミを掴んでそれを自分の首元にあてた。
「……⁉ ダメ!」
私が叫ぶと同時にハサミの切っ先が喉を切り裂き、血だまりの中に少女が倒れる。
少女が虚ろな目で指を動かし、床に血で数字を書くのが見えた……『3』。
「いやああああああッ!」
自分の叫び声で我に返ると、私は誰もいない元の教室に立っていた。
私は半ば逃げる様にしてよろめきながら教室を出る。
確かにあれは私の記憶だ。だけど、私はあの場で死んだりなんかしてない!
その時、またしても耳鳴りがして私は頭を抑えた。
視界が灰色に染まり、人気のない廊下で私がさっきの少女に髪を掴まれている。
「ねえ、お金が払えないってどういうこと?」
どうやら今度はカツアゲにあっている様だった。
「お金がないのなら、アンタのこのご自慢の髪を売ればいいじゃない!」
彼女が乱暴に手を揺らし、過去の私の髪がプツプツと千切れていく。
「もうやめて!」
現在の私は見ていられなくて少女に突進する。でも、彼女の体は幽霊の様に虚しく私をすり抜けた。
「もう許して。私を坊主にしても構わないから……それで満足なんでしょ?」
過去の私が虚ろな声で言ったが、彼女はつまらなさそうに笑った。
「ダーメ。そんなことをしてもすぐにまた生えてくるでしょう? 私はアンタ自身を奪い尽くすまでやめないから」
彼女はそう言い残して立ち去る。そして過去の私はゆっくり立ち上がると、廊下の窓を開いて――
「やめてッ!」
そんな私の叫びも虚しく、彼女は虚空へ身を躍らせた。
私が駆け寄って見降ろした先にあったのは、地面を覆う真紅とバラバラになった自分の欠片。
そして千切れた飛んだ指先には、地面に書かれた血文字の……『2』。
灰色の廊下が元に戻ると同時に、私はその場から走り出した。
もうたくさんだ。過去を目の当たりにする度に、私は謎の数字を残して死んでしまう。そんな光景を見続けるなんてこれ以上ない悪夢だ。
だけど廊下を曲がろうとしたその時、扉をドンドンと叩く音がして私は思わず立ち止まる。
「助けて! 誰かここから出して!」
見ると、どうやら理科準備室に誰かが閉じ込められているらしい。
私は迷った挙句、扉に駆け寄って思いきり体当たりした。
今度こそ過去の自分を助けられれば、何かが変わるかもしれない。
だけど、扉はしっかりと施錠されていてビクともしなかった。その間にも、扉を叩く音は激しさを増していく。
早くしないとまた取り返しがつかないことになる。その時、私はあることに気付いてポケットに手を突っ込んだ。
……あった。一番最初の教室で、あのカエルの体内から取り出したカギだ。
私はそのカギを鍵穴に差し込むと、ガチャッと音を立ててロックが外れる。やった、あのカエルは死んでも尚親切だったのだ。私はカエルに感謝しながら急いで扉を開き――
でもそこにはもう、私の命はどこにもなかった。
私は扉の前で倒れている自分自身と、手にしている毒性の薬品の入った瓶を交互に見つめる。
私の死に顔は安らかだった。もはや、こうなることが定めなのだと受け入れているような――
「……ごめんね」
私はそう言って、顔にかかる乱れた髪を整えてあげた。自分でも言うのもなんだけど、確かに彼女の髪はとても綺麗だと思う。あの子に激しく嫉妬されても仕方ないくらいに。
死ぬ前に血を吐いたらしく、彼女はそれを使って床に『1』と書き残していた。
もうそれを見ても何も思う気力がない。私は静かに手を合わせてから、理科準備室を後にして昇降口まで降りた。
私がいじめにあっていたこと。そして過去の私の死が避けられないこと。この二つを知った以上、もうここにいても仕方ない気がしたから。
でもロッカーに差しかかった途端、またしても視界が眩んで色彩のない世界に私はいた。
目の前では、過去の私が自分のロッカーを開ける所だった。途端に中から大量の虫の死骸が溢れ出し、過去の私は驚いて飛びのく。
「……アンタにはそっちの方がお似合いよ」
振り向くと、先ほどのイジメっ子が右手に手紙らしきものをヒラヒラさせて立っていた。
「あなたが持っている物は何?」
「これ? アンタには関係ないものよ。だから代わりに可愛いアンタのお仲間と交換してあげたの」
仲間とはこの虫けらのことだろう。そして彼女が持っているものは恐らく――
「返して」
「だったら、力づくで奪ってみれば?」
彼女はポケットに手紙をしまい、そのまま過去の私の横を素通りしていく。
黙ってそれを見送る自分自身を見て、私は首を振った。どうせまたこの後彼女は死ぬのだからここにいても意味がない。
しかし、次の瞬間私が見たのは思いがけない光景だった。
過去の私は、急に突然目を見開くと真っすぐ前へ歩き出す。
その瞳に『0』の血文字がくっきりと浮かび上がるのが見えた瞬間――過去の私は走り出してロッカー前の花瓶を抱え上げ、昇降口から出ようとしていたイジメッ子に向けて思いきり投げつけた。
鈍い音と共に彼女は声もなく倒れ、落ちて砕け散った破片が辺りに散乱する。
鈍痛と一緒に記憶がなだれこみ、現在の私は頭を抑えてよろめく。
そうだ……この時だけは私は逃げなかったんだ。これは紛れもなく過去の私がやったことだ。
だとしたら、この後に起きるのは――
「それを見ちゃダメ!」
しかし過去の私は駆け寄って奪われた手紙を彼女のポケットから探り出すと、素早くそれを開いた。
『ばーーーーーーーーーーーーーーーか! wwwww』
手紙を持つ私の手が震え、涙が落ちて文字を滲ませていく。
かつての私の目に、これ以上ないほどの憎しみが浮かぶ。怒りの権化と化した少女は、壺の破片を握りしめると目の前の物言わぬ体躯に思いきり突き立てて――
鮮血が飛び散ると同時に、黒く虚ろな穴が現れて二人を包み込んだ。穴に吸い込まれていく自分自身に、私は必死に手を伸ばして――
気づけば、また私は薄暗い昇降口で一人立ち尽くしていた。
私は暫く茫然とした後、昇降口を出てあてどもなく木々に覆われた中庭を歩く。
過去の私……中学時代の私は、かつて私をイジメていた相手に復讐を果たした。
でも、それ以降の記憶は依然として戻らない。さっき、あの巨大な穴に吸い込まれた先で二人に何があったの? そしてその後私はどのようにして生きてきたの?
ふと前を見ると、血の足跡がまたしても前へ続いていた。私は得体の知れない恐怖を振り払い、その足跡を追う。
足跡は中庭の外れにある体育館倉庫の前で途切れていた。私は扉の前で深呼吸すると、意を決して中に入る。
煤けた倉庫内に人気はなかった。薄暗く狭い室内を進んでいくと、私は床におびただしい血痕と果物ナイフが落ちているのを見つける。
「果物ナイフ……?」
これは確か、月詠暦が大切にしていたものだったはず。
私がそれを拾い上げようとした瞬間、雷鳴が轟き再び世界から色彩が消え失せる。
血痕があった場所には誰かがお腹を抑えてうずくまっていて――その目の前では、月詠暦が凄絶な表情を浮かべて立っていた。