校舎から中庭に出ると、辺りは芝生と鬱蒼とした茂みが広がっていた。

中からは分からなかったけど、建物はどうやら随分使われていないらしく完全に廃墟みたいだ。

その廃墟を太い植物のツルが巻き付いてる様は、どこか退廃的な古城を思わせる。

空は相変わらず紫色の雲が蠢いていて、その中心部には丸い物体が見えた。……あれはもしかして時計?

耳を澄ませてみると、微かに針が時を刻む音が聞こえてくる気がした。暦を見ると、彼女は焦った表情で時計の浮かぶ空を見上げている。

「ねえ暦、あの時計って――」

「無駄話してる時間なんてないでしょ? さっさとあのダサいキーホルダーを探すわよ」



話を遮って暦は奥へ進んでしまう。さっきあれほど志乃をイジメていたのに、急にその相手の探し物に積極的になったり……暦の行動は歪な歯車みたいに矛盾だらけだ。

しかし茂みを進んで木々が増えていくにつれて、私は段々憂鬱な気持ちになってきた。

こんな場所にキーホルダーが落ちたのだとしたら、三人でも発見まで時間がかかるかもしれない。そうしている間にまた地震が起こったら危険だし、天空で時を刻む謎の時計のことも気がかりだ。

「どうしたの? そんなに不安そうな顔をして」



歩きながら志乃がヒョコっと私を覗き込んだ。暦はとっくに先に行っていて、今ここには私たちしかいない。

「ううん……ちょっと考え事をしてただけ」



私はそう答えて、彼女から顔を逸らした。

カエルを殺した後、志乃と話すのはこれが初めてだ。仕方なかったとは言え、彼女はきっと私を恨んでいるに違いない。

「あ……カエルさんのこと? それならもう気にしなくていいよ」



しかし、意外にも志乃は私の心中を察して笑いかけた。

「加奈ちゃんはシノたちを助けようとしてくれたんでしょ? だったら仕方ないことだったってシノは思うの」

「ありがとう……そう言ってくれると、胸が少し軽くなる気がする」



私が正直に思いを伝えると、志乃は無邪気な笑顔のまま答えた。



「――出来れば、カエルさんにお別れをする時間くらいは欲しかったけどね」
彼女の丸い瞳に一瞬、赤い光が灯る。

ゾッと背筋に悪寒が走る。私は必死に話題を逸らしたくて質問を返した。

「ねえ、志乃にとってあのキーホルダーはそんなに大切なものなの?」

「うん! もちろん!」

「どうしてそこまで大切なの? 私は形見とか持ってないから、よく分からなくて」



すると、志乃は俯いて珍しく寂しげな声で答える。

「シノはね……元の世界でイジメられてたんだ」

「え? 志乃は記憶があるの?」

「うん、断片的にだけど。私ってほら、こんな性格だから凄くイジメやすかったんだと思う。色んな嫌がらせをされたなあ。教室に閉じ込められたり、大切な物を隠されたり、暴力を振るわれたり」



教室に閉じ込められたり……大切な物を隠されたり……

思わず足を止めた私の動揺に気付いた様子もなく、志乃は続ける。

「だけどね、あのお母さんの形見のクマさんだけは失いたくなかった。だからずっとこの手で持っていたの。何があっても離さなければ、誰にも奪われないでしょ?」

「志乃」



私は屈んで目線を合わせると、彼女の頬に両手を添えた。

「だったら……どうしてさっき手放したりしたの?」



志乃は答えなかった。

ただ答えることなく静かに笑って……でもその大きな瞳からは、一筋の涙が流れて私の手を伝う。

涙に触れた瞬間、私の脳裏が弾けてまたしても白い記憶がフラッシュバックする。

それは私がまだ、ありのままの私だった頃の記憶。

あの頃の私ならきっと、誰かの涙を見て平気でいることなんて出来なかった。



「――ここで待ってて」



私は志乃から手を放すと、林の中を駆けだした。

早く暦に追いつかないと手遅れになる。そうなる前に――

ようやく前方に人影を見つけて、私は息を切らしながら立ち止まった。あのキーホルダーが投げ出された窓からあまり離れていない茂みだ。

そこで暦は一人で立っていた。キーホルダーは持っていないけど、その両手は土で汚れていた。



「か、加奈⁉ 急に現れないでよ、びっくりするじゃない」
動揺して両手を後ろに隠す暦に私は歩み寄る。

「暦、志乃のキーホルダーをどこに隠したの?」

「隠したって何のことよ。私たちはあの子のキーホルダーを探しに来たんでしょ?」



またとぼけるつもりなのね……私は暦に近づき、彼女の汚れた手を掴んだ。そんな私を見て、暦は本当に驚いた様子で見つめ返す。

「加奈どうしたの? もしかして今度こそ記憶が戻ったの?」

「……違う。完全じゃない」

「うん、そうよね。もし戻ったのだとしたら絶対に――あなたは誰かの為にこんなことしない」



一瞬暦の瞳に怒りの色が浮かび、私は彼女を見つめる。

「やっぱり……暦は私の過去を知っているんだね。それもかなり詳細に」

「そうかもね。だけど教えない。だって私は誰かをイジメるのが大好きだから」
彼女は私の手を振り払い、口元を歪ませて笑った。

「そして今からはあなたも標的よ、加奈。そうしなきゃきっと私の本気は伝わらないから」

「それはどういう意味? 暦は一体どこまでこの世界の真実を知っているの?」

「さあね。でも一つだけ教えてあげる。今更あの泣き虫女を庇っても無駄よ。あの子は単なる操り人形に過ぎないんだから」

「志乃のことを言ってるの? それって操り人形ってどういうこと⁉」



だけど暦はそれを無視してシニカルに笑って……刹那、彼女の周囲が歪んで黒い穴が現れる。

暦は自らバックステップを踏んでその中へと吸い込まれていった。

「暦!」



私の叫び声は虚しく木々の隙間に木霊する。

暦を止めなきゃ。さっきの話と言い、今の異能と言い……もしかしたら彼女はこの世界を統べる神の様な存在なのかもしれない。

真っ向から挑んでも絶対に勝てない。だったら、別のやり方で暦の思惑を挫くしかない。

彼女は志乃のキーホルダーを隠した。なら、それを見つけてしまえば彼女の目的を阻止できるかもしれない。

私は素早く辺りを見渡し、地面に薄っすら残る足跡を見つけた。暦は私がこんなに早く来ることを想定していなかったから、隠した痕跡を残す時間がなかったんだ。

予想通り、私が足跡辿って進んでいくとすぐに大きな木の根元に辿り着いた。地面が微かに盛り上がっていたので、私は素手でそれを掘る。



遂に掘り出したクマのキーホルダーは……ナイフでズタズタに引き裂かれていた。
ゴーン……と辺りに二度目の鐘の音が鳴り響いた。同時に、私の背後に小さな足音が近づいてくるのが聞こえる。

「加奈ちゃん……?」



振り返ると、光彩を失った目で志乃が私の手を見つめていた。

「ごめん志乃……間に合わなかった。暦は最初からこうするつもりだったの。彼女は敵だよ」



志乃は何も答えなかった。大切な母の形見を失った今、もはやその顔は抜け殻の様に虚ろだ。

「ごめんなさいクマさん……また守ってあげられなくて……せっかく復讐してカミサマになったのに……自ら悪魔に身を堕として……そしてこの世界でもクマさんを失って……」

「志乃? カミサマになったってどういうこと? 自ら悪魔に身を堕としたって何⁉」



だけど、彼女は深い深海の様な瞳でキーホルダーの残骸を見つめるだけだった。

私は彼女に問いただしかったけど、今はそんな余裕がないことも分かっていた。

現実世界で志乃の身に起こったイジメと、この世界で起こる出来事はリンクしている。

教室に閉じ込められ、大切な物を隠され、そして次に起こるのは――

「志乃、とりあえずここから離れよう! このままじゃ私たちは危険なの!」

「…………」



茫然と立ち尽くす志乃の手を掴んだその時、片手に持っていたクマのキーホルダーの破片がバラバラに弾けた。

「どうして僕を見捨てたりしたの……?」



黒い霧と共に破片が集まって形を取り戻し、あっという間に膨れ上がっていく。

「絶対に僕を手放さないって言ったのに……」



そして膨張が収まった時、そこには優に三メートルを超える禍々しいクマが屹立していた。この大きさになると、キーホルダーというより本物の巨大熊みたいだ。

「違うの……私だって手放したくなかった……ごめんなさい……ごめんなさい!」

「志乃! 逃げるよ!」



私は、謝り続ける志乃の手を無我夢中で引いて林の中に駆けだした。
巨大クマは布で出来ているとは思えない程の地響き上げて後を追ってくる。

志乃は元々小柄な上に力が抜けきっていてスピードはかなり遅い。このままでは追いつかれてしまう。

私は何とか林を抜けると、志乃の手を引いて再び校舎に向かった。

このまま外を走っていたら間違いなく捕まる。なら、クマが追いかけづらい場所に逃げ込んだ方がいい。

「志乃、こっちだよ!」



フラフラと手を引かれる志乃を誘導して昇降口に入った瞬間、すぐ後ろから巨大クマがガシャン! と凄い音を立ててガラス戸に突っ込んだ。

無理やり昇降口に入ろうとして、巨体が挟まった様だ。これでしばらく時間稼ぎができそう。

しかし、ジタバタとドアの隙間で暴れるクマを見届けて私が振り返ると……忽然と志乃の姿は消え失せていた。



「……志乃?」



私は志乃を探して校舎内を駆け回った。

もう何が何だか分からない。一体私と暦は何者なのか、この世界はなぜ存在しているのか、どうして志乃は私を置き去りにしたのか。

全てがゴチャゴチャで、頭がいっぱいで叫び出したかった。誰かに助けを求めたかった。



――誰も助けてなんかくれない。



まただ。また誰かの声が脳裏にフラッシュバックする。



――だから、私が神になるしかないんだ。



神? 一体何の話? もういい加減私の思考を邪魔するのはやめてよ!



――さもなくば、弱い私が生きていくことなんて出来ない。



ピタ、と私はそこで足を止める。

きっとかつての私は極限まで追い詰められていた。そんな時私がよく行く場所があった。

そこはとても見晴らしがよくて――飛び降りて楽になりたいと考えてしまうくらい素敵な場所。



そして恐らく、今の東雲志乃はそんな時の私と同じ気持ちのはずだ。
東雲志乃は、学校の屋上で吹き付ける風に煽られながら立ち尽くしていた。

紫色の空を仰ぐ彼女の背中に、私は乱れた息を整えながら叫ぶ。

「志乃! 待って!」



彼女はゆっくり振り返り……汗に塗れた私を見て、静かに微笑んだ。

「待つって、何を待つの? もうそんな必要なんてないのに」

「そんなことない! 志乃がここで自殺したら何も分からないままなんだよ! それでもいいの?」

「ううん、違うよ。ここに来たのはあのクマさんから逃げる為。そして、加奈ちゃんに真実を伝える為」

「真実?」

「この世界のルールを破れば、シノは解放されるから。シノはね……もう疲れちゃったの」



彼女は弱々しく微笑む。

「解放と言っても行き着く先は地獄だけれど。それでも、これ以上この世界に束縛されるよりはずっとマシだから」

「何を言って……」

「よく聞いて。私の正体はこの世界で『役割』を命じられた悪魔。そして加奈ちゃんは——」



しかし、私は志乃の言葉を最後まで聞くことは出来なかった。

激しい振動音が彼女の言葉を遮り、屋上の床に亀裂が走ったからだ。

「そんなまさか……」



振動は更に大きくなっていき、亀裂は無数に広がって……噴火の様に吹き飛んだ床から、巨大クマが飛び出して派手に屋上へ着地する。

志乃と出会うまでは気配を感じなかったのに。きっと校舎に侵入した後、私たちに悟られないよう屋上の下まで這って移動して来たんだ。



「志乃! 逃げなきゃ!」
私は動揺して叫んだけど、彼女は静かに首を振った。

「もういいの。ここまでされたら流石に諦めるしかないもん」

「何をバカなことを言ってるの⁉」

「大丈夫。このクマさんは加奈ちゃんのことは襲わないから。最初からシノだけを追いかけていたんだよ……そうだよね、クマさん?」



巨大クマは何も答えず彼女に迫り、巨大な豪腕で容赦なく地面に押し倒した。そのまま仰向けの彼女の上にのしかかり、顔面に大きな拳を振り下ろす。

「志乃!」

「ぐああっ! うぐっ……! ごふっ……!」



悲痛な呻き声と共に、詩乃の可愛らしかった顔がブドウの様に潰れていく。
ズシン、グシャ! と振り下ろされる一方的な暴力を前に、私はただ見ていることしか出来ない。

クマはようやく満足したのか、ボロボロになった志乃を摘み上げると大きく口を開く。まさか、志乃を食べるつもり……?

「ごめんね……」



そんなバケモノに対して、志乃は掠れる声で呟いた。

「いつもシノはあなたを手放してしまう。もっとシノが強い子だったら……今頃きっと――」



その後の言葉は、バリポリと骨を噛み砕く音と飛び散る血飛沫にかき消された。
あまりに凄惨な東雲志乃の末路に、思わず私は目を覆う。

志乃は結局、私に何を伝えたかったのだろう? それに最後の言葉の意味は一体……?

考えることで現実逃避をしていた私は、志乃を食べ終えた巨大クマが標的を変えたことに直前まで気づかなかった。

「やめて、こっちに来ないでよ……!」



牙から血を滴らせ、眼前に迫る醜悪な怪物を前に私は後ずさる。

志乃はさっき、このクマは私のことは襲わないと言っていた。だからきっと大丈夫……!

「カナチャン……カナチャン……」



そんな私の思いは、意外な形で裏切られた。

突如言葉を発した怪物の声は、紛れもなく志乃のものだった。

「志乃……? もしかしてそこにいるの……?」



あり得ない。志乃は間違いなくこのバケモノに食われて死んでしまったはず。

だけど、ここは『どんなあり得ないことでもあり得る世界』だ。ならひょっとしたら――

「志乃、意識があるなら返事をして! もしかしたらまだ助かる方法があるかもしれない!」



私が必死に呼びかけると、巨大クマは感情のない瞳で私を一瞬見つめて――



「……タリナイ。オカワリ」



目に留まらぬ速さでクマが私を掴み、その巨大な口を開く。

志乃の血の匂いが混じった生臭い息を吹きつけられ、私は悲鳴を上げた。

「カナチャンオイシソウ……コレデクマサンモマンゾクダヨネ……ソレナラシノモマンゾク……」



もうダメだ。クマと一体化した今、志乃には理性が残っていない。自分の欲求とクマの欲求が混ざり合った結果、私を食べることしか頭にないんだ。

私は観念して目を閉じた。

人が目を閉じる大半は眠る時と死ぬ時だ。

なら、自ら目を閉じることは死を受け入れることと同じはず。みっともなく喚きながら死ぬくらいなら、せめて自分の意志を守って死にたい。

しかしまさに牙が私の命を貫こうとした瞬間、激しい衝撃と共に私はクマの手から投げ出された。

「イタイ……イタイヨォ……」



屋上の床で横倒しになり巨体をバタつかせるクマの上で――その白髪の少女は掌をかざして浮いていた。
振り乱した白髪と銀の光に包まれた体のせいか、それはまるで御伽噺に出てくる強大な魔女の様。

「ユルサナイ……クマサンヲキズツケルヤツハ、ミンナタベテヤル!」



巨大クマは起き上がると、白髪の少女目掛けてジャンプし拳を繰り出した。

少女はそれを軽やかに宙返りで交わすと、空を切った腕に手刀を振り下ろす。

クマの剛腕が千切れ飛び、中から真っ赤に染まった綿が血の様に吹き出した。

「ガアアアアアアアアアアアッ!」



志乃の声で絶叫する怪物に向かって、少女は再び掌をかざすとクマは喉元を抑えてもがき始めた。

「耳障りだから黙ってくれる? 単なるコマの分際でルールを破って私に逆らおうとするなんて……最後の最後まで、アンタは使えないクズだったわね。さようなら」



彼女が容赦なく拳を握りしめると、同時に巨大クマの体が圧縮されていく。

あれほど巨体だったクマの体は見る見るうちに元のサイズよりも小さくなり――最後、宙を舞う子グマのつぶらな瞳が私を見つめた。



「ネエ……シノハドウシテウマレテキタノカナ?」



そんな哀切な彼女の言葉を最後に――ちいさな爆発音を残してクマは消滅してしまった。

ゴーン……と三度目の鐘の音が学校中に響き渡る。もしかしたら今ので最後だろうか。最後であって欲しい、私は願いつつその少女の名を呼ぶ。

「……暦」



彼女は振り返ってゆっくり地面に降り立った。

「加奈」



暦は地面にうずくまっている私の側まで歩いてくると……しゃがんで私の頬を叩いた。