メイク用品は持ってきていなかったので、丁寧に顔を洗い、バッグをひっくり返して見つけた小さなチューブ入りの薬用クリームを塗って、ほう、と安堵の息を吐く。
普段はハンドクリーム代わりに使っている薬用クリームを、前回バッグを使った際に入れて、取り出すのを忘れていたのだろう。
リップとか、ハンドクリームとか、こういう小さなものをメイク用品の入ったポーチに入れず、ポケットなどにポイと入れてしまうのは、香耶の悪い癖だけれど、今回はそれが役立った。
普段はいけないと思っていることも、役立つことがあるんだなぁ。
香耶は変なところに納得しながら、少しだけ、自分を肯定できたことに気づいて、小さく笑う。
そして、そんな自分に気づき、香耶はもう一度、小さく微笑んだ。
この旅行で、こういう瞬間が何度か訪れたらいいな。
香耶は、思う。
付き合いや、儀礼的な笑顔じゃなく、こうして自然な笑いが浮かんだのは、もうずっと前のことのような気がする。
あの夜の、彼の言葉を聞いたあの時から、香耶の表情筋はずっと固く、心はいつでも冷たく、こわばっていた。
『結婚してるんだ』
あの時、言われた言葉が頭を離れない。
『だから……香耶、おまえとは結婚できないよ』
あの時、ショックだったのは、どちらの言葉だったのか……
物思いに沈む香耶を、着陸の衝撃が軽く揺らした。