食事を終えた後、撫子はドアボーイのチャーリーを探すために玄関まで降りてきた。
「あ、いたいた。チャーリー君」
十五歳くらいの猫耳少年をみつけて声をかけると、彼は無表情で振り返って言う。
「僕は弟のヒューイです」
「あ、ごめん。チャーリー君知らない?」
「今お客様の荷物をお届けするために上階に行っております」
「そっか。お仕事中か。また後で来るよ」
撫子が出直そうと思って踵を返すと、ヒューイに呼びとめられる。
「撫子様はいつでも鈴で呼べるのですから、部屋からお呼びになればよろしいでしょう」
撫子は足を止めて首を傾げる。
「でも手間だし悪いよ」
「僕ら従業員はどの部屋に行くにも一瞬です」
「瞬間移動だって?」
あの世の物理法則はどうなっているのだろう。
そういえば確かに、さっき支配人を呼べと言われた後一瞬でオーナーが来ていた。
「それって私も練習したらできるようになる?」
「従業員名簿に入ればできますが、撫子様は死出の世界の出身ではないので不可能です」
ここの従業員はほとんど死出の世界の住人らしい。残念だが、あの世の世界の特殊能力なら仕方ない。
「ベルボーイを任された以上チャーリーはすぐに参上いたしますので、鈴でお呼びください」
話はこれでおしまいとばかりに、ヒューイはドアの数歩横に立って待機態勢に入る。
「うん、ありがとう。参考になったよ」
職務に忠実な少年のようだ。お礼を言って、撫子は部屋に戻ることにした。
エレベーターに乗ってなでしこのプレートが下がった自室に帰ってくると、リビングに置いてある陶器の鈴を手に取る。
さて、どこで鳴らしたら聞こえるのだろう。電話口ででも鳴らせばいいのだろうか。
でもそうしたらフロントのお姉さんに電話をかけるのと変わらないのでは? 使い方もちゃんと聞いておけばよかったと後悔する。
チリン。
一旦置こうとしたら、鈴が小さな音を立てる。
その途端、撫子は目の前の空気がぶれるのを感じた。
「御用ですねっ!」
声変わり前の少年の声がいきなり割り込んでくる。
「初めまして、撫子様。お呼びがかかるのを今か今かとお待ちしておりましたよ!」
目の前には少し青みがかった毛色の猫耳を持つ、グレーの瞳の少年が立っていた。
「チャーリー君?」
「はい、何でも言ってください!」
撫子は一瞬詰まった息を取り戻そうと、そうっと息を吸う。
「まずは一歩離れて、ちょっと深呼吸してもらえないかな?」
腹筋が耐えられそうにない。きらきらと目を輝かせる少年は、撫子がのけ反るくらい近くに詰め寄っていた。
「失礼しました! つい興奮して」
チャーリーはぴょんと後ろに飛び退いて深呼吸した。上気した顔に照れたような笑顔が浮かんでいるのがかわいらしい。
「よく来てくれたね。本当に一瞬で現れたからびっくりしたよ」
お礼を言うと、チャーリーはいえいえと首を横に振る。
「僕はこのベルボーイが大好きなんですよ。いっぱい構ってもらえるでしょう?」
先ほど同じ顔を見てきただけにギャップが大きすぎる。
「それで何をいたしましょう。料理ですか、お風呂ですか、それとも添い寝ですか?」
「このホテルのサービスについての疑問は置いといて」
サービスとしての領域をぶっちぎってしまっているものが混じっているが、そこを追及しても始まらない。
「私、フィン様というお客様の苦情処理をすることになったんだ。君に事情を訊けば教えてもらえるって、オーナーに言われた」
「ああ、701号室のフィン様ですか。僕がベルボーイを担当しているので何度かお会いしましたよ」
うなずくチャーリーに、撫子は言葉を続ける。
「どんなお客様?」
「そうですねぇ」
チャーリーは指を顎に当てて考える。
「なかなか構ってくださらないお客様ですね。撫子様みたいに」
「いや、私は呼ぶ用がなかったから」
なにせ来てからほとんどずっと寝ていた。それに生きていた頃に泊まったホテルにベルボーイなどというものはなかったから、用途もわからなかった。
「でもお呼びになる時にはもうギリギリの時が多くて」
「ギリギリ?」
「僕はお仕事をたくさんすることが好きなんですけどね。とってもお仕事を増やされるお客様なんです」
撫子が首を傾げた時、ぴくっとチャーリーのブルーグレーの耳が動いて後ろを向いた。
「すみません。そのフィン様からお呼びです」
「ああ、行ってきて。私もすぐ行く」
「では」
言うが早いか、次の瞬間にはチャーリーの姿は跡形もなく消え去っていた。某小説のチャシャ猫のようなじわり感もなく、見事な消え方だ。
撫子も部屋を出てエレベーターに乗り、七階に向かう。
降りてすぐの部屋が701号室だった。軽くノックをしたが反応がない。
試しにノブを回したら、鍵は開いていた。
「お邪魔します……うわっ!」
扉を開いてすぐ、部屋の惨状に驚いた。
辺り一面水浸しだった。絨毯は完全に水没していて、腰の辺りまで水が来ている。
「うわぁぁ……って、ん?」
押し流されると目をつぶったが、衝撃はなかった。そろそろと目を開くと、不思議なことに水は扉から外に出て行かずに止まっていた。
「やっぱり物理法則が違う……」
とりあえずこれ以上被害が及ばないように水源を止めなければと、撫子はお風呂場に当たりをつけて水をかきわけながら進んでいく。
部屋の作りは撫子の部屋とあまり変わりなかった。ただ、あちこち散らかっていて同じ部屋とは思えない。枕やボールペンがぷかぷか浮いていたり、机の引き出しが全部開いていて中がかき回された跡があったりする。
「あ、チャーリー君」
「水はもう止まっていますから大丈夫ですよ。さっき栓を開きましたからじきに流れ出るはずです」
お風呂場でチャーリーが水の処理をしていた。
床のあちこちを押すとそこが穴になって、下に水が抜ける仕組みになっているようだ。
「私、下の階見てこようか? 水が染み出てるかもしれない」
「それは大丈夫です。このホテルの部屋は個々で独立していますから、他に影響を及ぼすなんてありえません」
撫子は先ほど戸口で水が止まっていたのを思い出して神妙にうなずく。
「安全第一ですばらしい。ところでフィン様は?」
言ってから、お風呂場のカーテンの向こうにウサギの耳が透けて見えていることに気付いた。
カーテンを横に引くと、湯船のへりにしがみついているフィンの姿をみつける。
「水嫌い……水怖い……」
彼はふるふると震えながら縮こまっていた。その手には鈴があって、命綱のように固く握りしめて離さない。
撫子はかわいそうになってきて、チャーリーを振り向く。
「とりあえずフィン様を安全なところに」
「そうですね。気が回らずすみません」
チャーリーはうなずいて湯船に近付くと、フィンを抱き上げた。
お姫様だっこでベッドの上に連れて行くと、チャーリーは彼を下ろしてにっこりと笑う。
「さあフィン様。お休みになってはいかがでしょう? 僕が添い寝しますから」
どうやら彼のサービスはそれがスタンダードらしい。フィンはしばらく口も利けないでいるようだったが、やがてぽつりと言葉を零す。
「おれはそんな子どもじゃない」
「失礼いたしました」
丁寧に礼をするチャーリーはほのぼのした目をしている。まあまだ十ちょっとの男の子がわがままを言っているようで、かわいいなぁと思ってしまう。
しかし撫子の中にある使命感が、つい厳しい言葉を口にさせた。
「水がお嫌いならどうしてこんなになるまで水を流していらっしゃったんですか?」
ホテルの安全を考えて、質問を決行する。
「丸いものを触ったら水が勝手に出た。流すつもりでやったんじゃない」
ぶすっとして言うフィンに首を傾げると、チャーリーが説明するように口を挟む。
「動物のお客様はホテルの備品の使い方がわからない方がほとんどなんですよ。蛇口も動物だった頃には触ったことがありません。ですからほとんど付きっきりで従業員が生活のお世話をするんです」
チャーリーはベッドの脇に膝をついてフィンと目線を合わせる。
「フィン様も、御用があれば遠慮なくお呼びになってください。わからなくて当然のことなんですから」
優しく諭すチャーリーに、フィンは拗ねたようにそっぽを向いたまま視線を合わせようとしない。
「フィン様。少々よろしいですか」
撫子はその図に思うところがあったので、横に膝をついて意見を言った。
「このホテルの場合は水が外に流れ出ないという特殊な空間だからいいんですが、普通は水を流しっぱなしにしたら周りにすさまじい迷惑です。そうなる前に、早目にわからないことは聞いて頂きたい」
「お前は何なんだ? 客ならおれの休暇の邪魔をするな」
「私は客ではありません。このホテルの縁者で」
少し考えて、撫子はフィンの前に回り込みながら言う。
「フィン様のお世話を申しつけられました。フィン様が無事ホテル生活に馴染めるまで、お側で使ってください」
「撫子様。ベルボーイは僕の役目ですが」
チャーリーが振り向いて止めようとしたが、撫子は首を横に振る。
「私はオーナーに彼の世話をしてもいいという許可を頂いたから。フィン様は四六時中側にいる者が必要だけど、君はドアボーイで他にも仕事があるでしょう」
「ですが」
「私に任せてもらえないかな?」
面倒な客の応対なら生前の数々のバイトで経験済みだ。
「四六時中側にいる者が必要とは何だ。おれが何もできないみたいじゃないか」
「実際できてないじゃありませんか」
「なっ……」
失礼とわかりつつもぴしゃりと言い切る。
「ですから一からお教えしますと申し上げているのです。人型で生活してみたくてこのホテルにいらしたのなら、人間の私がお教えするのが一番手っ取り早いでしょう」
「客に向かって何だ、その言い方は」
「お客様。わがままもほどほどにしてください」
撫子は睨むようにフィンを見る。
「お客様は他のお客様に迷惑をかけてはいけないのが最低限のルールです」
言いきってから、撫子は多少後悔した。
たぶんこれはオーナーの経営方針とは違う。勝手にお客様の行動を制約してはいけないと、彼なら言うに違いない。
ただ撫子はあまり筋の通らない大人の世界をわりと早い内から見てきた気がする。子どもまで筋の通らないことをしているのを見るとどうにも歯がゆい。
とはいえこれは下手をすればクビかなと苦笑したところで、フィンの耳が前にしなった。
「……る」
ぺたっと耳がへたれて、顔を真っ赤にしながら小声で何か呟く。
「はい?」
「言う通りにしてやる」
叱られた子どもが必死で虚勢を張るように口をへの字にしながら、フィンは撫子を側に置くことに同意したのだった。
「あ、いたいた。チャーリー君」
十五歳くらいの猫耳少年をみつけて声をかけると、彼は無表情で振り返って言う。
「僕は弟のヒューイです」
「あ、ごめん。チャーリー君知らない?」
「今お客様の荷物をお届けするために上階に行っております」
「そっか。お仕事中か。また後で来るよ」
撫子が出直そうと思って踵を返すと、ヒューイに呼びとめられる。
「撫子様はいつでも鈴で呼べるのですから、部屋からお呼びになればよろしいでしょう」
撫子は足を止めて首を傾げる。
「でも手間だし悪いよ」
「僕ら従業員はどの部屋に行くにも一瞬です」
「瞬間移動だって?」
あの世の物理法則はどうなっているのだろう。
そういえば確かに、さっき支配人を呼べと言われた後一瞬でオーナーが来ていた。
「それって私も練習したらできるようになる?」
「従業員名簿に入ればできますが、撫子様は死出の世界の出身ではないので不可能です」
ここの従業員はほとんど死出の世界の住人らしい。残念だが、あの世の世界の特殊能力なら仕方ない。
「ベルボーイを任された以上チャーリーはすぐに参上いたしますので、鈴でお呼びください」
話はこれでおしまいとばかりに、ヒューイはドアの数歩横に立って待機態勢に入る。
「うん、ありがとう。参考になったよ」
職務に忠実な少年のようだ。お礼を言って、撫子は部屋に戻ることにした。
エレベーターに乗ってなでしこのプレートが下がった自室に帰ってくると、リビングに置いてある陶器の鈴を手に取る。
さて、どこで鳴らしたら聞こえるのだろう。電話口ででも鳴らせばいいのだろうか。
でもそうしたらフロントのお姉さんに電話をかけるのと変わらないのでは? 使い方もちゃんと聞いておけばよかったと後悔する。
チリン。
一旦置こうとしたら、鈴が小さな音を立てる。
その途端、撫子は目の前の空気がぶれるのを感じた。
「御用ですねっ!」
声変わり前の少年の声がいきなり割り込んでくる。
「初めまして、撫子様。お呼びがかかるのを今か今かとお待ちしておりましたよ!」
目の前には少し青みがかった毛色の猫耳を持つ、グレーの瞳の少年が立っていた。
「チャーリー君?」
「はい、何でも言ってください!」
撫子は一瞬詰まった息を取り戻そうと、そうっと息を吸う。
「まずは一歩離れて、ちょっと深呼吸してもらえないかな?」
腹筋が耐えられそうにない。きらきらと目を輝かせる少年は、撫子がのけ反るくらい近くに詰め寄っていた。
「失礼しました! つい興奮して」
チャーリーはぴょんと後ろに飛び退いて深呼吸した。上気した顔に照れたような笑顔が浮かんでいるのがかわいらしい。
「よく来てくれたね。本当に一瞬で現れたからびっくりしたよ」
お礼を言うと、チャーリーはいえいえと首を横に振る。
「僕はこのベルボーイが大好きなんですよ。いっぱい構ってもらえるでしょう?」
先ほど同じ顔を見てきただけにギャップが大きすぎる。
「それで何をいたしましょう。料理ですか、お風呂ですか、それとも添い寝ですか?」
「このホテルのサービスについての疑問は置いといて」
サービスとしての領域をぶっちぎってしまっているものが混じっているが、そこを追及しても始まらない。
「私、フィン様というお客様の苦情処理をすることになったんだ。君に事情を訊けば教えてもらえるって、オーナーに言われた」
「ああ、701号室のフィン様ですか。僕がベルボーイを担当しているので何度かお会いしましたよ」
うなずくチャーリーに、撫子は言葉を続ける。
「どんなお客様?」
「そうですねぇ」
チャーリーは指を顎に当てて考える。
「なかなか構ってくださらないお客様ですね。撫子様みたいに」
「いや、私は呼ぶ用がなかったから」
なにせ来てからほとんどずっと寝ていた。それに生きていた頃に泊まったホテルにベルボーイなどというものはなかったから、用途もわからなかった。
「でもお呼びになる時にはもうギリギリの時が多くて」
「ギリギリ?」
「僕はお仕事をたくさんすることが好きなんですけどね。とってもお仕事を増やされるお客様なんです」
撫子が首を傾げた時、ぴくっとチャーリーのブルーグレーの耳が動いて後ろを向いた。
「すみません。そのフィン様からお呼びです」
「ああ、行ってきて。私もすぐ行く」
「では」
言うが早いか、次の瞬間にはチャーリーの姿は跡形もなく消え去っていた。某小説のチャシャ猫のようなじわり感もなく、見事な消え方だ。
撫子も部屋を出てエレベーターに乗り、七階に向かう。
降りてすぐの部屋が701号室だった。軽くノックをしたが反応がない。
試しにノブを回したら、鍵は開いていた。
「お邪魔します……うわっ!」
扉を開いてすぐ、部屋の惨状に驚いた。
辺り一面水浸しだった。絨毯は完全に水没していて、腰の辺りまで水が来ている。
「うわぁぁ……って、ん?」
押し流されると目をつぶったが、衝撃はなかった。そろそろと目を開くと、不思議なことに水は扉から外に出て行かずに止まっていた。
「やっぱり物理法則が違う……」
とりあえずこれ以上被害が及ばないように水源を止めなければと、撫子はお風呂場に当たりをつけて水をかきわけながら進んでいく。
部屋の作りは撫子の部屋とあまり変わりなかった。ただ、あちこち散らかっていて同じ部屋とは思えない。枕やボールペンがぷかぷか浮いていたり、机の引き出しが全部開いていて中がかき回された跡があったりする。
「あ、チャーリー君」
「水はもう止まっていますから大丈夫ですよ。さっき栓を開きましたからじきに流れ出るはずです」
お風呂場でチャーリーが水の処理をしていた。
床のあちこちを押すとそこが穴になって、下に水が抜ける仕組みになっているようだ。
「私、下の階見てこようか? 水が染み出てるかもしれない」
「それは大丈夫です。このホテルの部屋は個々で独立していますから、他に影響を及ぼすなんてありえません」
撫子は先ほど戸口で水が止まっていたのを思い出して神妙にうなずく。
「安全第一ですばらしい。ところでフィン様は?」
言ってから、お風呂場のカーテンの向こうにウサギの耳が透けて見えていることに気付いた。
カーテンを横に引くと、湯船のへりにしがみついているフィンの姿をみつける。
「水嫌い……水怖い……」
彼はふるふると震えながら縮こまっていた。その手には鈴があって、命綱のように固く握りしめて離さない。
撫子はかわいそうになってきて、チャーリーを振り向く。
「とりあえずフィン様を安全なところに」
「そうですね。気が回らずすみません」
チャーリーはうなずいて湯船に近付くと、フィンを抱き上げた。
お姫様だっこでベッドの上に連れて行くと、チャーリーは彼を下ろしてにっこりと笑う。
「さあフィン様。お休みになってはいかがでしょう? 僕が添い寝しますから」
どうやら彼のサービスはそれがスタンダードらしい。フィンはしばらく口も利けないでいるようだったが、やがてぽつりと言葉を零す。
「おれはそんな子どもじゃない」
「失礼いたしました」
丁寧に礼をするチャーリーはほのぼのした目をしている。まあまだ十ちょっとの男の子がわがままを言っているようで、かわいいなぁと思ってしまう。
しかし撫子の中にある使命感が、つい厳しい言葉を口にさせた。
「水がお嫌いならどうしてこんなになるまで水を流していらっしゃったんですか?」
ホテルの安全を考えて、質問を決行する。
「丸いものを触ったら水が勝手に出た。流すつもりでやったんじゃない」
ぶすっとして言うフィンに首を傾げると、チャーリーが説明するように口を挟む。
「動物のお客様はホテルの備品の使い方がわからない方がほとんどなんですよ。蛇口も動物だった頃には触ったことがありません。ですからほとんど付きっきりで従業員が生活のお世話をするんです」
チャーリーはベッドの脇に膝をついてフィンと目線を合わせる。
「フィン様も、御用があれば遠慮なくお呼びになってください。わからなくて当然のことなんですから」
優しく諭すチャーリーに、フィンは拗ねたようにそっぽを向いたまま視線を合わせようとしない。
「フィン様。少々よろしいですか」
撫子はその図に思うところがあったので、横に膝をついて意見を言った。
「このホテルの場合は水が外に流れ出ないという特殊な空間だからいいんですが、普通は水を流しっぱなしにしたら周りにすさまじい迷惑です。そうなる前に、早目にわからないことは聞いて頂きたい」
「お前は何なんだ? 客ならおれの休暇の邪魔をするな」
「私は客ではありません。このホテルの縁者で」
少し考えて、撫子はフィンの前に回り込みながら言う。
「フィン様のお世話を申しつけられました。フィン様が無事ホテル生活に馴染めるまで、お側で使ってください」
「撫子様。ベルボーイは僕の役目ですが」
チャーリーが振り向いて止めようとしたが、撫子は首を横に振る。
「私はオーナーに彼の世話をしてもいいという許可を頂いたから。フィン様は四六時中側にいる者が必要だけど、君はドアボーイで他にも仕事があるでしょう」
「ですが」
「私に任せてもらえないかな?」
面倒な客の応対なら生前の数々のバイトで経験済みだ。
「四六時中側にいる者が必要とは何だ。おれが何もできないみたいじゃないか」
「実際できてないじゃありませんか」
「なっ……」
失礼とわかりつつもぴしゃりと言い切る。
「ですから一からお教えしますと申し上げているのです。人型で生活してみたくてこのホテルにいらしたのなら、人間の私がお教えするのが一番手っ取り早いでしょう」
「客に向かって何だ、その言い方は」
「お客様。わがままもほどほどにしてください」
撫子は睨むようにフィンを見る。
「お客様は他のお客様に迷惑をかけてはいけないのが最低限のルールです」
言いきってから、撫子は多少後悔した。
たぶんこれはオーナーの経営方針とは違う。勝手にお客様の行動を制約してはいけないと、彼なら言うに違いない。
ただ撫子はあまり筋の通らない大人の世界をわりと早い内から見てきた気がする。子どもまで筋の通らないことをしているのを見るとどうにも歯がゆい。
とはいえこれは下手をすればクビかなと苦笑したところで、フィンの耳が前にしなった。
「……る」
ぺたっと耳がへたれて、顔を真っ赤にしながら小声で何か呟く。
「はい?」
「言う通りにしてやる」
叱られた子どもが必死で虚勢を張るように口をへの字にしながら、フィンは撫子を側に置くことに同意したのだった。