山頂から戻って来た母もまた、とてもよかったと笑っていた。
山上駅を出発して電車に乗り込むと、二人が持ち寄った土産話を披露しあう。
撫子には電車に揺られてどれくらいの時間が経ったかは感覚がなかったが、外が暗くなってきたのを感じた。夜に近い場所に差しかかったのがわかった。
「終着駅の一つ手前で降りましょう。終点がすぐ近くの保養地ですから、ここで一泊されるお客様が多いですよ」
「いいね。桃子も行こう」
「ええ、もちろん」
オーナーが言うと、両親は気安く応じた。
「常夏駅ー、常夏駅です」
駅の名前にふさわしく、夏の香りのする空気が撫子たちを出迎えた。
オーナーが先頭を行き、両親がその後ろを並んで歩き、最後尾に撫子が続く。
ホームを出ると、そこは温泉郷のようだった。宿らしき店が軒を連ねていて、動物たちがゆったりと行き来している。浴衣を着ている人型の動物もいた。
大通りから曲がりくねった路地が続いていて、けっこうな広さのある街だった。至るところで湯気を立てている足湯を見かけて、動物たちが気持ちよさそうに浸かっているのが微笑ましい。
店は食事処や休憩所のようだった。さすがに土産物屋はない……と思っていたら。
「あるじゃないか」
団扇や浴衣の専門店があった。花模様のような古風な柄から現代のライブTシャツのような柄まで色とりどりに並べられていて綺麗だ。
店頭で思わず足を止めて見下ろすと、値札がついていない。
周囲の動物たちの買い物を見ていても、お金を払っている様子がなかった。撫子は不思議に思ってオーナーを呼びとめる。
「オーナー、これ」
「何です?」
「死出の世界でお買い物ってどうするんですか?」
「物を受け取るだけです」
「いや、お金は」
「この世で金銭を要求することはありません」
撫子はよくわからなくて首を傾げる。
「人間のお客様には公営という言い方で説明していますが、正確に言えばお上は一切かかわっていません」
「すみません、それって余計わかりません」
お金を渡さずに物を受け取るというのは、果たしてお店といえるのか。撫子の常識では考えが及ばない。
「いいんじゃないか? 欲しいならあげれば」
「お互い幸せでしょう?」
両親の言葉に、撫子はようやく少しわかった気がした。
「……この世ではそういう方ばかりなんですね」
撫子がオーナーを見ると、彼は晴れやかに笑って言った。
「この世ではそういう風に出来ているんです。人間だけの常識で世界は動いていません」
「はい、納得しました」
欲しいものがあればあげる。お金は取らない。そういう世界らしかった。
自分ってまだ人間なんだなぁ。撫子は改めて実感して、あんまり人間らしくなかった両親の後ろをついていく。
そういう風に出来ている世界。オーナーの言葉はそれ以上でもそれ以下でもないのだと思った。
駅を出てから歩くことおよそ数時間は経っても、足も疲れなければ飽きることもなかった。
左右の店は温泉のように次から次へと湧いてくるように多彩なお土産を披露している。温泉の香りが気分をのんびりとしてくれる。
「こちらが、我がホテルと提携している温泉でございます」
やがてオーナーは一つの店の暖簾をくぐった。両親と撫子もそれに続いて中に入る。
「いらっしゃいませ」
白、黒、茶の三色の髪に猫耳が生えている着物姿の男性が出迎えてくれた。
撫子はついまじまじと彼を見てしまった。
「もしかしてお兄さん、三毛猫ですか?」
「その通りでございます」
「生きている間に、ものすごく珍しいって聞きましたけど。三毛猫のオ……男性」
撫子が驚きのままに言ってしまうと、彼は優雅に答えた。
「ええ、モテ過ぎて困ります」
「え?」
「さて、こちらはキャット・ステーション・ホテルのお客様二名様とオーナー……」
茶色の猫目を細めて、三毛猫のご主人は撫子を見る。
「そしてオーナーの奥方の撫子様ですね。お待ちしておりました。今なら貸し切りでございますよ」
彼は一礼して奥の二つの部屋を指す。
「右手が男湯、左手が女湯でございます。どうぞごゆっくり」
「行っていらしてください。私と撫子はここで待っています」
「おや」
「まあ」
両親に勧めたオーナーに二人はにっこりと笑って口々に言う。
「オーナーも一緒に浸かろう」
「撫子さんは私と行きましょ」
二人がぽんと撫子たちの肩を叩いた。
せっかくのお誘いなので、オーナーと父、母と撫子で分かれて温泉に入ることになった。
「おんせんー、おーんせん!」
撫子は適当な鼻唄を歌いながら、脱衣場で服を脱いでからタオルを持って扉を開ける。
「おお……!」
乳白色の湯が湧き出る露天風呂が撫子を出迎えた。青々としげった緑が温泉に微かな影を落として、白い湯気がふんわりと上がっている。
「おいしそうな温泉だ」
食欲が頭の大半を占めている撫子は、一目でクリームのたっぷり乗ったケーキを連想した。
「ふっふー!」
ほくほくした顔をしながら、岩の階段から温泉に入る。
「どんな具合かしら?」
「あ、どうも。お先に頂いています」
少ししたら母もタオルを巻きつけて入って来た。撫子が横にずれると、母は隣に座って浸かる。
「いい湯ねぇ」
「これぞ極楽ですよね」
撫子はタオルを頭に乗せてうんうんとうなずく。
「ホテルの温泉も入りましたけど、露天風呂はまた格別ですね」
体中の力を抜いてくれるような、絶妙の湯加減だった。風が頬と肩を撫でていって、湯の心地よさを際立たせてくれた。
「こちらの生活はどう?」
「いやもう、天国に来た気分ですよ」
実際その通りかもしれないが、撫子の気持ちに一番近い。
「か……桃子さんはどうですか?」
「私もこれ以上ない休暇を過ごせたと思うわ。こんないいホテルに泊まったことも、サービスを受けたことも初めて。オーナーにも従業員の皆さんにも本当に感謝してるの」
母は気負いなくうなずいて答える。
「でも私は亮さんと一緒ならどこも天国なの。地獄でも、亮さんがいるなら行くわ」
「ですよね」
あっぱれなほどの突き抜けた言葉に、撫子は笑いながら返す。
「私は未熟者なのか、地獄は嫌です。両親が生きていた頃には苦しいことがあっても楽しかったんですが……」
薄れ始めている記憶を掘り返して、撫子は少しだけ眉を寄せる。
死ぬ直前に残っている記憶は、撫子に無残な思いを抱かせる。闇の中で一人佇んでいるような、孤独でどうしようもなく寂しい気持ちだった。
「オーナーと結婚なさったんですって?」
黙ってしまった撫子に、母はそっと問いかけてきた。
「本当はまだ結婚したつもりはないんです。ただ別に、今となってはもうそれでもいいのかなって」
撫子は温泉に影を投げかけている木々を仰ぐ。
「この世界に来てから私はいい思いばかりしています。時々これでいいのかと思うくらいに。それをくれたのがオーナーなんです」
オーナーは撫子をキャット・ステーション・ホテルに連れてきて、何不自由ない生活をくれた。
「生きていた頃、生活が全てでした。ごはんが食べられればそれでよかったんです。でもこちらに来てからはちょっと違う」
オーナーがくれた一番のものは、ホテルで働くことだった。
撫子は熱い性格のままに物が言いたかった。
でも両親の借金のために、生きていた頃は言葉を飲みこまなければいけなかった。
「働くのが楽しいです」
キャット・ステーション・ホテルの一員になって、撫子は言いたいことを言った。オーナーは大人だから時々もどかしい顔もしたが、撫子のしたいようにさせてくれた。
「これを生きがいっていうんでしょうか。あ、もう死んでますか。はは」
キャット・ステーション・ホテルには撫子の好きな熱さがこもっていた。先代とオーナーが作り上げた、最高の休暇のための仕掛けが詰まっている。
働くだけなら生きているうちもたくさんしていた。でも心から働きたいと思わせてくれたことに感謝している。
「素敵なひとってことね」
「そう……なりますね」
撫子はちょっと照れながら頬をかく。
「あ、でも最初は怖いかなーって思ったんですよ。笑顔で脅してたりとか。あ、それに……」
撫子は母とオーナーのことをあれこれと話した。列車での出会いの時の会話やフィンに水をかけられた時から始まる顛末、ホテルの乗っ取り騒動の時に少し頼ってくれたこと、事細かく。
それはそのまま、撫子の死出の世界での生活でもあった。母は目を細めながら、時々相槌を打って穏やかに聞いていた。
――おかあさん。ねえおかあさん、きいて……。
生きていた頃、学校から帰って真っ先に母に報告した時のように、撫子は気づけばどんなささいなことも母に話していた。
山上駅を出発して電車に乗り込むと、二人が持ち寄った土産話を披露しあう。
撫子には電車に揺られてどれくらいの時間が経ったかは感覚がなかったが、外が暗くなってきたのを感じた。夜に近い場所に差しかかったのがわかった。
「終着駅の一つ手前で降りましょう。終点がすぐ近くの保養地ですから、ここで一泊されるお客様が多いですよ」
「いいね。桃子も行こう」
「ええ、もちろん」
オーナーが言うと、両親は気安く応じた。
「常夏駅ー、常夏駅です」
駅の名前にふさわしく、夏の香りのする空気が撫子たちを出迎えた。
オーナーが先頭を行き、両親がその後ろを並んで歩き、最後尾に撫子が続く。
ホームを出ると、そこは温泉郷のようだった。宿らしき店が軒を連ねていて、動物たちがゆったりと行き来している。浴衣を着ている人型の動物もいた。
大通りから曲がりくねった路地が続いていて、けっこうな広さのある街だった。至るところで湯気を立てている足湯を見かけて、動物たちが気持ちよさそうに浸かっているのが微笑ましい。
店は食事処や休憩所のようだった。さすがに土産物屋はない……と思っていたら。
「あるじゃないか」
団扇や浴衣の専門店があった。花模様のような古風な柄から現代のライブTシャツのような柄まで色とりどりに並べられていて綺麗だ。
店頭で思わず足を止めて見下ろすと、値札がついていない。
周囲の動物たちの買い物を見ていても、お金を払っている様子がなかった。撫子は不思議に思ってオーナーを呼びとめる。
「オーナー、これ」
「何です?」
「死出の世界でお買い物ってどうするんですか?」
「物を受け取るだけです」
「いや、お金は」
「この世で金銭を要求することはありません」
撫子はよくわからなくて首を傾げる。
「人間のお客様には公営という言い方で説明していますが、正確に言えばお上は一切かかわっていません」
「すみません、それって余計わかりません」
お金を渡さずに物を受け取るというのは、果たしてお店といえるのか。撫子の常識では考えが及ばない。
「いいんじゃないか? 欲しいならあげれば」
「お互い幸せでしょう?」
両親の言葉に、撫子はようやく少しわかった気がした。
「……この世ではそういう方ばかりなんですね」
撫子がオーナーを見ると、彼は晴れやかに笑って言った。
「この世ではそういう風に出来ているんです。人間だけの常識で世界は動いていません」
「はい、納得しました」
欲しいものがあればあげる。お金は取らない。そういう世界らしかった。
自分ってまだ人間なんだなぁ。撫子は改めて実感して、あんまり人間らしくなかった両親の後ろをついていく。
そういう風に出来ている世界。オーナーの言葉はそれ以上でもそれ以下でもないのだと思った。
駅を出てから歩くことおよそ数時間は経っても、足も疲れなければ飽きることもなかった。
左右の店は温泉のように次から次へと湧いてくるように多彩なお土産を披露している。温泉の香りが気分をのんびりとしてくれる。
「こちらが、我がホテルと提携している温泉でございます」
やがてオーナーは一つの店の暖簾をくぐった。両親と撫子もそれに続いて中に入る。
「いらっしゃいませ」
白、黒、茶の三色の髪に猫耳が生えている着物姿の男性が出迎えてくれた。
撫子はついまじまじと彼を見てしまった。
「もしかしてお兄さん、三毛猫ですか?」
「その通りでございます」
「生きている間に、ものすごく珍しいって聞きましたけど。三毛猫のオ……男性」
撫子が驚きのままに言ってしまうと、彼は優雅に答えた。
「ええ、モテ過ぎて困ります」
「え?」
「さて、こちらはキャット・ステーション・ホテルのお客様二名様とオーナー……」
茶色の猫目を細めて、三毛猫のご主人は撫子を見る。
「そしてオーナーの奥方の撫子様ですね。お待ちしておりました。今なら貸し切りでございますよ」
彼は一礼して奥の二つの部屋を指す。
「右手が男湯、左手が女湯でございます。どうぞごゆっくり」
「行っていらしてください。私と撫子はここで待っています」
「おや」
「まあ」
両親に勧めたオーナーに二人はにっこりと笑って口々に言う。
「オーナーも一緒に浸かろう」
「撫子さんは私と行きましょ」
二人がぽんと撫子たちの肩を叩いた。
せっかくのお誘いなので、オーナーと父、母と撫子で分かれて温泉に入ることになった。
「おんせんー、おーんせん!」
撫子は適当な鼻唄を歌いながら、脱衣場で服を脱いでからタオルを持って扉を開ける。
「おお……!」
乳白色の湯が湧き出る露天風呂が撫子を出迎えた。青々としげった緑が温泉に微かな影を落として、白い湯気がふんわりと上がっている。
「おいしそうな温泉だ」
食欲が頭の大半を占めている撫子は、一目でクリームのたっぷり乗ったケーキを連想した。
「ふっふー!」
ほくほくした顔をしながら、岩の階段から温泉に入る。
「どんな具合かしら?」
「あ、どうも。お先に頂いています」
少ししたら母もタオルを巻きつけて入って来た。撫子が横にずれると、母は隣に座って浸かる。
「いい湯ねぇ」
「これぞ極楽ですよね」
撫子はタオルを頭に乗せてうんうんとうなずく。
「ホテルの温泉も入りましたけど、露天風呂はまた格別ですね」
体中の力を抜いてくれるような、絶妙の湯加減だった。風が頬と肩を撫でていって、湯の心地よさを際立たせてくれた。
「こちらの生活はどう?」
「いやもう、天国に来た気分ですよ」
実際その通りかもしれないが、撫子の気持ちに一番近い。
「か……桃子さんはどうですか?」
「私もこれ以上ない休暇を過ごせたと思うわ。こんないいホテルに泊まったことも、サービスを受けたことも初めて。オーナーにも従業員の皆さんにも本当に感謝してるの」
母は気負いなくうなずいて答える。
「でも私は亮さんと一緒ならどこも天国なの。地獄でも、亮さんがいるなら行くわ」
「ですよね」
あっぱれなほどの突き抜けた言葉に、撫子は笑いながら返す。
「私は未熟者なのか、地獄は嫌です。両親が生きていた頃には苦しいことがあっても楽しかったんですが……」
薄れ始めている記憶を掘り返して、撫子は少しだけ眉を寄せる。
死ぬ直前に残っている記憶は、撫子に無残な思いを抱かせる。闇の中で一人佇んでいるような、孤独でどうしようもなく寂しい気持ちだった。
「オーナーと結婚なさったんですって?」
黙ってしまった撫子に、母はそっと問いかけてきた。
「本当はまだ結婚したつもりはないんです。ただ別に、今となってはもうそれでもいいのかなって」
撫子は温泉に影を投げかけている木々を仰ぐ。
「この世界に来てから私はいい思いばかりしています。時々これでいいのかと思うくらいに。それをくれたのがオーナーなんです」
オーナーは撫子をキャット・ステーション・ホテルに連れてきて、何不自由ない生活をくれた。
「生きていた頃、生活が全てでした。ごはんが食べられればそれでよかったんです。でもこちらに来てからはちょっと違う」
オーナーがくれた一番のものは、ホテルで働くことだった。
撫子は熱い性格のままに物が言いたかった。
でも両親の借金のために、生きていた頃は言葉を飲みこまなければいけなかった。
「働くのが楽しいです」
キャット・ステーション・ホテルの一員になって、撫子は言いたいことを言った。オーナーは大人だから時々もどかしい顔もしたが、撫子のしたいようにさせてくれた。
「これを生きがいっていうんでしょうか。あ、もう死んでますか。はは」
キャット・ステーション・ホテルには撫子の好きな熱さがこもっていた。先代とオーナーが作り上げた、最高の休暇のための仕掛けが詰まっている。
働くだけなら生きているうちもたくさんしていた。でも心から働きたいと思わせてくれたことに感謝している。
「素敵なひとってことね」
「そう……なりますね」
撫子はちょっと照れながら頬をかく。
「あ、でも最初は怖いかなーって思ったんですよ。笑顔で脅してたりとか。あ、それに……」
撫子は母とオーナーのことをあれこれと話した。列車での出会いの時の会話やフィンに水をかけられた時から始まる顛末、ホテルの乗っ取り騒動の時に少し頼ってくれたこと、事細かく。
それはそのまま、撫子の死出の世界での生活でもあった。母は目を細めながら、時々相槌を打って穏やかに聞いていた。
――おかあさん。ねえおかあさん、きいて……。
生きていた頃、学校から帰って真っ先に母に報告した時のように、撫子は気づけばどんなささいなことも母に話していた。