死出の世界に来てからの時間を考えるのをそろそろやめようかな。
ある朝起きたとき、撫子が思った日のことだった。
「撫子、あなたに会わせたいお客様がいらっしゃいます」
「はい? 私にですか?」
レストラン「ハバナ」で給仕をしていた撫子を呼びとめて、オーナーが手招きをした。
撫子がオーナーの後ろをついていくと、彼は一つのテーブルの前で立ち止まる。
「本日のお食事はいかがですか?」
「うん。大変けっこうだ」
「いつも通りおいしいわ。ありがとう」
男性と女性の声で答えがあって、撫子は声に記憶の引っ掛かりを感じながら首を傾げる。
「オーナーの後ろにいるのは、もしかして撫子さんかな?」
「はい」
「まあ、嬉しい。話をさせてくれる?」
オーナーは振り向いて撫子の肩を叩く。撫子は一礼して前に進み出た。
「僕のことを覚えてる? 委任状を作る時に拇印を押したんだけど」
「あっ!」
あのときと違って帽子を取っているから、とっさには分からなかった。撫子は記憶が蘇って頭を下げる。
「その折にはお世話になりました。えと、どうお礼をすればよいのか」
道理で声に覚えがあるはずだ。撫子は恐縮してしどろもどろになる。
「気にすることないわ。彼は困っている人がいるとすぐにハンコを押しちゃう人なの」
女性がおっとりと言ってくる。
ん? とかすかな違和感があった。
簡単に書類に印を押してしまうとは難儀な方だ。生前はさぞかし苦労なさっただろう。
そういう人に、撫子は一人覚えがあった。
「顔を上げてちょうだい。あなたとお話したいって、オーナーに何度もお願いしたのよ」
撫子は女性の方も声に聞き覚えがあるなと思いながら顔を上げる。
彼らは大学生くらいのカップルだった。いかにも仲がよさそうに寄りそって、人が良さそうな笑顔を浮かべている。
撫子はごくんと息を飲んだ。
撫子は若い二人の顔を交互に見ながら、見覚えがあるというレベルではないことに気付く。
似ているという言葉では片付けられない。彼らはそのものだ。
「……お名前を伺ってもよろしいですか?」
「ああ、ごめんね。自己紹介が遅れた」
彼らはうなずき合って答える。
「僕は水島亮(とおる)」
「私は桃子」
撫子は呼吸が止まったような衝撃を感じていた。
「この間結婚したばかりなんだよ」
照れたように言う男性に、女性が微笑み返す。
「え、まさか、え……っ! ちょっと失礼します!」
撫子はオーナーの袖を引いて裏方まで連れて行くと、そこで勢いこんで言った。
「オーナー! あのお客様……いや、私の知ってる頃よりずっと若いですけど、でも!」
「落ち着きなさい」
オーナーは撫子の口の前に指を立てて言う。
「この世界で休暇を過ごす内に、あの方々からは記憶が抜けて、姿も一番生前覚えが強かった若い姿に戻っています」
「じゃ、じゃあやっぱり……」
一つうなずいて、オーナーは猫目でじっと撫子をみつめながら告げる。
「あなたのお父様とお母様です」
目を見開いた撫子に、オーナーはなお続ける。
「水島夫妻は本日の列車で終着駅に向かって出立されます」
「それって、つまり……本当の」
死と、撫子は言葉にできなかった。
「私はご送迎のため同行いたします。あなたはどうしますか?」
たぶんそれは言葉にできない以上に、考えたくないことだった。
もしそれを考えたら、認めてしまうことになる。だから撫子は心に蓋をして言っていた。
「ご一緒させてください!」
オーナーの答えはあっさりとしていた。
「では着替えてフロントにいらっしゃい。水島夫妻の用意が出来次第出発いたします」
オーナーはそっけなく撫子の横を通り過ぎていく。
「父さん……母さん……」
撫子は亡くなった両親に会えたことの衝撃が強すぎて、自分が嬉しいのか悲しいのかさえわからなかった。
だからオーナーが振り返って撫子をみつめていたことも、撫子は気づくことがなかった。
ある朝起きたとき、撫子が思った日のことだった。
「撫子、あなたに会わせたいお客様がいらっしゃいます」
「はい? 私にですか?」
レストラン「ハバナ」で給仕をしていた撫子を呼びとめて、オーナーが手招きをした。
撫子がオーナーの後ろをついていくと、彼は一つのテーブルの前で立ち止まる。
「本日のお食事はいかがですか?」
「うん。大変けっこうだ」
「いつも通りおいしいわ。ありがとう」
男性と女性の声で答えがあって、撫子は声に記憶の引っ掛かりを感じながら首を傾げる。
「オーナーの後ろにいるのは、もしかして撫子さんかな?」
「はい」
「まあ、嬉しい。話をさせてくれる?」
オーナーは振り向いて撫子の肩を叩く。撫子は一礼して前に進み出た。
「僕のことを覚えてる? 委任状を作る時に拇印を押したんだけど」
「あっ!」
あのときと違って帽子を取っているから、とっさには分からなかった。撫子は記憶が蘇って頭を下げる。
「その折にはお世話になりました。えと、どうお礼をすればよいのか」
道理で声に覚えがあるはずだ。撫子は恐縮してしどろもどろになる。
「気にすることないわ。彼は困っている人がいるとすぐにハンコを押しちゃう人なの」
女性がおっとりと言ってくる。
ん? とかすかな違和感があった。
簡単に書類に印を押してしまうとは難儀な方だ。生前はさぞかし苦労なさっただろう。
そういう人に、撫子は一人覚えがあった。
「顔を上げてちょうだい。あなたとお話したいって、オーナーに何度もお願いしたのよ」
撫子は女性の方も声に聞き覚えがあるなと思いながら顔を上げる。
彼らは大学生くらいのカップルだった。いかにも仲がよさそうに寄りそって、人が良さそうな笑顔を浮かべている。
撫子はごくんと息を飲んだ。
撫子は若い二人の顔を交互に見ながら、見覚えがあるというレベルではないことに気付く。
似ているという言葉では片付けられない。彼らはそのものだ。
「……お名前を伺ってもよろしいですか?」
「ああ、ごめんね。自己紹介が遅れた」
彼らはうなずき合って答える。
「僕は水島亮(とおる)」
「私は桃子」
撫子は呼吸が止まったような衝撃を感じていた。
「この間結婚したばかりなんだよ」
照れたように言う男性に、女性が微笑み返す。
「え、まさか、え……っ! ちょっと失礼します!」
撫子はオーナーの袖を引いて裏方まで連れて行くと、そこで勢いこんで言った。
「オーナー! あのお客様……いや、私の知ってる頃よりずっと若いですけど、でも!」
「落ち着きなさい」
オーナーは撫子の口の前に指を立てて言う。
「この世界で休暇を過ごす内に、あの方々からは記憶が抜けて、姿も一番生前覚えが強かった若い姿に戻っています」
「じゃ、じゃあやっぱり……」
一つうなずいて、オーナーは猫目でじっと撫子をみつめながら告げる。
「あなたのお父様とお母様です」
目を見開いた撫子に、オーナーはなお続ける。
「水島夫妻は本日の列車で終着駅に向かって出立されます」
「それって、つまり……本当の」
死と、撫子は言葉にできなかった。
「私はご送迎のため同行いたします。あなたはどうしますか?」
たぶんそれは言葉にできない以上に、考えたくないことだった。
もしそれを考えたら、認めてしまうことになる。だから撫子は心に蓋をして言っていた。
「ご一緒させてください!」
オーナーの答えはあっさりとしていた。
「では着替えてフロントにいらっしゃい。水島夫妻の用意が出来次第出発いたします」
オーナーはそっけなく撫子の横を通り過ぎていく。
「父さん……母さん……」
撫子は亡くなった両親に会えたことの衝撃が強すぎて、自分が嬉しいのか悲しいのかさえわからなかった。
だからオーナーが振り返って撫子をみつめていたことも、撫子は気づくことがなかった。