撫子に二人分の拇印つきの委任状を返すと、ヒューイは言った。
「女将がいつ妨害してくるともわかりませんので、チャーリーをお連れください。僕は扉を守る役目がありますので」
「クビにされちゃうよ。一緒に行こう」
「僕の仕事は、どんな時でもここで「ようこそ」と「いってらっしゃいませ」を申し上げることですから」
自分より若くても、彼はプロなのだ。撫子は苦笑して、わかったと言った。
撫子はロビーを離れて、チャーリーと早足で廊下を歩く。
「お客様に当てはおありですか?」
「それが……」
残るはあと一人のお客様の同意のみとなったが、撫子は誰に拇印を求めるべきか思いつかなかった。
「お世話したのはフィン様くらいしかいないし。ルイ様にももらっちゃったし」
「では僕がベルボーイとしてお世話した方を当たってみましょう」
チャーリーにうなずいて、撫子は個々にお客様の部屋を当たることにした。
わかってはいたものの、お客様の反応はよくなかった。
「あなたのことは私、よく知らないから」
同じ一人のお客様である撫子に託すことが難しいのは、仕方ないことだった。
「元気出してください、撫子様。どなたかは同意をくださいますよ」
「どうかなぁ……」
チャーリーは慰めてくれたが、撫子は苦い顔で言う。
「私だって見ず知らずの人にハンコは押せないもん」
気弱なことを言いながら部屋を回った。
こうしている間にオーナーに何かあったらどうしよう。
ヴィンセントに頼んで先にホテルを守るのを決めたけど、やっぱり何においてもオーナーの救出を最優先にした方がよかったんじゃないだろうか。
肉体的な疲労より精神的なプレッシャーに負けそうになりながら、廊下の角を曲がった拍子に誰かとぶつかる。
「ごめんなさい!」
「僕はいいよ。大丈夫?」
手を差し伸べてくれたのは洗いざらしのシャツにラフなジーンズをはいた、若い男性だった。
「これ、落としたよ」
「わ、うわぁ! すみません、ありがとうございます!」
委任状を手渡されて、撫子は謝りつつお礼を言った。
「そんなに慌ててどうしたの。君って」
背の高い男性だった。帽子を被っていて顔はよく見えないが、何か考え込むような素振りを見せる。
「困ってる顔だね?」
「え、いや、確かにそうですが」
「言ってごらんよ。僕にできることもあるかもしれない」
年齢は大学生くらいで、おっとりとした声の男性だった。
「……まあ、話半分に聞いて頂ければいいんですど」
撫子はわらにもすがる思いで委任状を作ろうとしていることを説明する。
その男性はうんうんとうなずきながら聞いていて、一言返した。
「いいよ」
「え? 何がですか?」
「拇印をあげる」
撫子は聞き間違えたかと思って硬直する。
「本当ですか? で、でもどうして」
もちろん撫子が世話したこともないお客様だ。あっさりと同意をくれるというのが信じられなかった。
「困ってるなら手を貸したいと思ったんだ」
帽子の下で微笑む気配がした。撫子は何かを思い出しそうになったが、事態の緊急性に意識を引き戻される。
「で、ではお願いします!」
本当に拇印をもらえて、撫子はぺこぺこと何度も頭を下げる。
「ありがとうございます。その内に必ずお礼を」
「大したことじゃないよ。大変だね」
心配そうに言われて、撫子は涙ぐみそうになる。
「おっと。急いでるんだってね。じゃあ僕はこれで。がんばって、撫子さん」
「え、私の名前を御存じなんですか?」
男性はうなずいて言う。
「うん。また会えるよ」
それだけ言って、男性は通り過ぎていった。
「やりましたよ、撫子様!」
撫子は夢から覚めたように、チャーリーの声にはっと我に返る。
「そ、そうだね。じゃあ早速」
撫子は胸に委任状を抱きしめながら宣言する。
『代理権発動!』
言葉にした途端、撫子は雷に打たれたように立ち竦む。
テロップが流れ込んでくるように、頭の中が情報量で埋め尽くされる。
「うわ……あ」
体が鉛のように重くなった。自力では指一本持ち上げられないくらいになって、撫子は床に倒れ込む。
「代理権……重っ!」
うめきながら、撫子は頭の中に浮かぶ言葉をつぶやく。
呪文のようなそれを形にするのは難しくなかった。
「今、女将の名前に斜線を引いたよ」
従業員名簿の遠隔操作はあっさりとできた。ただ、体が重くてとにかくしんどい。
今は撫子がホテルを代理している。もし撫子が代理権を放棄したら所有者のいないホテルになって、女将がすぐに舞い戻って来ないとも限らない。
うずくまる撫子にチャーリーが慌てて駆け寄る。
「撫子様、具合が悪いのですか?」
「正直きついけど、駄目……」
呼吸をするのも苦しい。でも撫子にはやるべきことがあった。
「今ならホテル内のことなら全部わかる。今がチャンスだ。オーナーをみつけよう」
「は、はい! お手伝いします!」
撫子は頭の中に流れ込んでくる情報から、地図を呼び出す。
「あっちみたい。ごめん、チャーリー君。背負ってくれる?」
代理権が重すぎて意識が途切れがちで、ほとんど病人のようだった。
撫子はチャーリーに背負われながら、なんとかオーナーの気配の方向を示す。
「倉庫ですね」
気配は地下から漂ってきていた。チャーリーは扉を開け放って明かりをつける。
「うぐ……!」
撫子は悲鳴をあげた。倉庫の中にある無数の記憶が邪魔して、ただでさえ微かなオーナーの気配が混ざる。
「だめだ。こんな広いところじゃ」
途方にくれて泣き言を言ったとき、目の前の空気が揺らいだ。
「大丈夫ですよ。ここからは任せてください」
ヴィンセントの声が聞こえたかと思うと、次々と従業員の猫たちが倉庫に現れた。
「みな、手分けして前オーナーを探しなさい」
「ヴィンセントさん……」
「私たちは鼻が利きます。ここまで限定できていればすぐにみつけられますよ」
安心させるように撫子に笑いかけて、ヴィンセントは従業員たちに指示を出し始めた。
彼らは俊敏な動きで倉庫の四方八方に散っていく。
「ここです!」
声が上がるまでものの数刻もかからなかったと思う。
撫子はチャーリーに背負われながらその声の場所まで辿り着く。
「この箱の中です」
縞猫の従業員が示したのは、古ぼけた青色の箱だった。上に物が積み重なっていて、従業員の皆で手分けしてどける。
「鍵がかかっていますね」
「女将が持っていないかな……?」
「先ほど調べましたが、それらしいものは見当たらないようです」
「わかった。待って」
撫子はチャーリーの背中から下りる。
「マスターキーで……開けてみる……」
青い箱にしがみついて、撫子は頭の中をひっくり返す。
「えーと、ホテルのマスターキー……」
電波状況が悪いように意識が途切れ途切れで、検索がうまくいかない。
「うーん、絶対できるはずだ。開け……」
うめき声を上げながら、撫子は必死で青い箱のふたを引っ張る。
「出てこい、出てこい……」
呪文というよりはただの願望なんじゃないかと自分で思う。
権限とか代理権なんて忘れそうになりながら、撫子は力任せにふたを引っ張った。
「戻って来てください、オーナー。こんな重いもの、他に使えるひとなんていません……!」
歯を食いしばりながら、撫子はなお言葉を続ける。
「いいんですか? 実家帰っちゃいますよ?求婚しといて、まだ夫婦らしいこと何もしてないですけど……!」
目を閉じながら、撫子は叫ぶ。
「私だって乙女なんですよ! ちゃんと責任とってください……っ!」
その時だった。
パキっという音が手の先で響いた。
箱に細かい亀裂が入っていって、あふれる光の中に白い猫が見えた。
「それは私からのプロポーズを受けるということでいいのですね?」
目を開けた先にはオーナーがいて、撫子は彼に抱きついているような格好で座り込んでいた。
撫子は目をぱちくりとさせて、そして胸にこみあげてくる感情のまま叫ぶ。
「オーナーぁ! オーナー!」
首にかじりついて騒ぐと、彼は撫子の頭をぽんぽんと叩いて言う。
「私以外にこのホテルのオーナーがいますか」
「いません! オーナーがオーナーです!」
撫子はちょっとよくわからないことを叫んでオーナーにしがみついた。
「認めましたね。では私へオーナーの権限を渡してください。あなたの体では重すぎるのでしょう」
「えと、どうやって?」
撫子の問いかけに、オーナーは自身の額を指さす。
「……熱をはかるんじゃありません」
撫子が自分の額とオーナーの額両方に手を当てると、オーナーはにっこりと力のある笑みを返した。
「私があなたに死出の世界の住人の証を与えたのと同じ方法です」
「……あー」
撫子は間延びした声を上げてから、ちょっと照れた。
そんなこと日本人の自分がしたことはない。今回は業務連絡みたいなものだけど、照れるものは照れる。
「目、閉じててくださいね」
オーナーが目を閉じると、その端正な顔立ちをついみつめてしまってかえって恥ずかしくなった。
「……えいっ!」
実は女将に立ち向かうより勇気が要ったと思う。
撫子は勢いでオーナーの額に口づけた。
瞬間、撫子の体から一気に重みがなくなる。
「私がこのキャット・ステーション・ホテルのオーナーです」
オーナーは撫子を抱きかかえて立ちあがると、従業員たちを見回す。
「雀の女将をここへ」
「はい、オーナー」
従業員たちは一礼して、その内の一人が進み出る。
「坊や、まさか」
その従業員の手の上には、わなわなと震える一羽の雀がいた。たぶんこれが雀の女将の本来の姿なのだろう。
「さて、あなた方雀は猫を食べませんが」
オーナーは笑みを深めて告げる。
「……私たち猫は雀を食べます」
びくっと雀の女将が跳ねるように震えたのがわかった。
従業員たちの猫目が細められて、口が笑みの形を刻む。
撫子は息を飲んで、えと、と声を上げた。
「オーナー」
「何ですか、撫子。かわいそうだとでも?」
撫子はオーナーの服を少し引っ張って言う。
「いえ、女将がしたことは許せないですけど。ただ女将も長年この世で宿を経営しているんでしょう。女将がいなくなったら困る従業員やお客様もいらっしゃるんじゃないでしょうか。ほら、今回のうちのホテルみたいに」
女将のせいだと言われればそこまでかもしれないが、ここしばらくのホテルは大混乱だった。
今休暇に来ている動物たちもたくさんいる中、いきなりホテルの主がいなくなったらせっかくの休暇が台無しになる。
「何かの罰がないと従業員のみんなも納得しれない……っていっても別に死人が出たわけじゃなく」
撫子は言いながら、自分の勝手な感情かもしれないと首をひねる。
「食べちゃうのはちょっとやりすぎです!」
頭がごちゃごちゃしてきたので、撫子はこの際はっきり言ってしまうことにした。
オーナーは従業員たちに視線を投げかけて問う。
「皆は処罰を望みますか?」
従業員の猫たちは肯定も否定もしなかった。
「オーナーの決定に従います」
ヴィンセントが代表するように告げる。それに、オーナーは一つうなずいた。
「日頃の皆の働きにご馳走を与えるというのも一つの選択ですが」
雀の女将を横目で見ながら、オーナーは告げる。
「千年以上続く女将の宿には我がホテルも学ぶところが大いにあります」
ヴィンセントが何かを察して、オーナーに従業員名簿を差し出す。
オーナーはそれに、ペンで何かを書き加えた。
「雀の女将を当ホテルのブラックリストに登録し、以後当ホテルへの立ち入りを禁じます」
では、ごきげんよう。
オーナーが告げると、従業員が女将を放した。
彼女は大急ぎで飛び立っていって、後には羽だけが散らばっていた。
「ふう……よかった。あっ!」
撫子が一息つくと、オーナーがぐらりと体勢を崩す。
「オーナー、どこか怪我でも? あ、もしかして魂が傷んだりしてませんよね!?」
「平気です。疲れただけで」
「駄目です!」
撫子はオーナーの腕から下りると、彼の肩を支えるように腕を回す。
「お迎えがきたらどうするんですか!? 皆さん、オーナーは少し休ませます。いいですよね!」
撫子が断固として主張すると、ヴィンセントが微笑んで告げた。
「どうぞお願いします。ホテルの修復は私が指揮いたしますので、ご心配なく」
従業員のみんなもうなずいた。撫子はオーナーを支えながら歩き出す。
オーナーは自分の力で歩いていた。けど時折撫子を支えに立ってくれるのが、少しは撫子も頼りにしてくれるのだとわかって嬉しかった。
「女将がいつ妨害してくるともわかりませんので、チャーリーをお連れください。僕は扉を守る役目がありますので」
「クビにされちゃうよ。一緒に行こう」
「僕の仕事は、どんな時でもここで「ようこそ」と「いってらっしゃいませ」を申し上げることですから」
自分より若くても、彼はプロなのだ。撫子は苦笑して、わかったと言った。
撫子はロビーを離れて、チャーリーと早足で廊下を歩く。
「お客様に当てはおありですか?」
「それが……」
残るはあと一人のお客様の同意のみとなったが、撫子は誰に拇印を求めるべきか思いつかなかった。
「お世話したのはフィン様くらいしかいないし。ルイ様にももらっちゃったし」
「では僕がベルボーイとしてお世話した方を当たってみましょう」
チャーリーにうなずいて、撫子は個々にお客様の部屋を当たることにした。
わかってはいたものの、お客様の反応はよくなかった。
「あなたのことは私、よく知らないから」
同じ一人のお客様である撫子に託すことが難しいのは、仕方ないことだった。
「元気出してください、撫子様。どなたかは同意をくださいますよ」
「どうかなぁ……」
チャーリーは慰めてくれたが、撫子は苦い顔で言う。
「私だって見ず知らずの人にハンコは押せないもん」
気弱なことを言いながら部屋を回った。
こうしている間にオーナーに何かあったらどうしよう。
ヴィンセントに頼んで先にホテルを守るのを決めたけど、やっぱり何においてもオーナーの救出を最優先にした方がよかったんじゃないだろうか。
肉体的な疲労より精神的なプレッシャーに負けそうになりながら、廊下の角を曲がった拍子に誰かとぶつかる。
「ごめんなさい!」
「僕はいいよ。大丈夫?」
手を差し伸べてくれたのは洗いざらしのシャツにラフなジーンズをはいた、若い男性だった。
「これ、落としたよ」
「わ、うわぁ! すみません、ありがとうございます!」
委任状を手渡されて、撫子は謝りつつお礼を言った。
「そんなに慌ててどうしたの。君って」
背の高い男性だった。帽子を被っていて顔はよく見えないが、何か考え込むような素振りを見せる。
「困ってる顔だね?」
「え、いや、確かにそうですが」
「言ってごらんよ。僕にできることもあるかもしれない」
年齢は大学生くらいで、おっとりとした声の男性だった。
「……まあ、話半分に聞いて頂ければいいんですど」
撫子はわらにもすがる思いで委任状を作ろうとしていることを説明する。
その男性はうんうんとうなずきながら聞いていて、一言返した。
「いいよ」
「え? 何がですか?」
「拇印をあげる」
撫子は聞き間違えたかと思って硬直する。
「本当ですか? で、でもどうして」
もちろん撫子が世話したこともないお客様だ。あっさりと同意をくれるというのが信じられなかった。
「困ってるなら手を貸したいと思ったんだ」
帽子の下で微笑む気配がした。撫子は何かを思い出しそうになったが、事態の緊急性に意識を引き戻される。
「で、ではお願いします!」
本当に拇印をもらえて、撫子はぺこぺこと何度も頭を下げる。
「ありがとうございます。その内に必ずお礼を」
「大したことじゃないよ。大変だね」
心配そうに言われて、撫子は涙ぐみそうになる。
「おっと。急いでるんだってね。じゃあ僕はこれで。がんばって、撫子さん」
「え、私の名前を御存じなんですか?」
男性はうなずいて言う。
「うん。また会えるよ」
それだけ言って、男性は通り過ぎていった。
「やりましたよ、撫子様!」
撫子は夢から覚めたように、チャーリーの声にはっと我に返る。
「そ、そうだね。じゃあ早速」
撫子は胸に委任状を抱きしめながら宣言する。
『代理権発動!』
言葉にした途端、撫子は雷に打たれたように立ち竦む。
テロップが流れ込んでくるように、頭の中が情報量で埋め尽くされる。
「うわ……あ」
体が鉛のように重くなった。自力では指一本持ち上げられないくらいになって、撫子は床に倒れ込む。
「代理権……重っ!」
うめきながら、撫子は頭の中に浮かぶ言葉をつぶやく。
呪文のようなそれを形にするのは難しくなかった。
「今、女将の名前に斜線を引いたよ」
従業員名簿の遠隔操作はあっさりとできた。ただ、体が重くてとにかくしんどい。
今は撫子がホテルを代理している。もし撫子が代理権を放棄したら所有者のいないホテルになって、女将がすぐに舞い戻って来ないとも限らない。
うずくまる撫子にチャーリーが慌てて駆け寄る。
「撫子様、具合が悪いのですか?」
「正直きついけど、駄目……」
呼吸をするのも苦しい。でも撫子にはやるべきことがあった。
「今ならホテル内のことなら全部わかる。今がチャンスだ。オーナーをみつけよう」
「は、はい! お手伝いします!」
撫子は頭の中に流れ込んでくる情報から、地図を呼び出す。
「あっちみたい。ごめん、チャーリー君。背負ってくれる?」
代理権が重すぎて意識が途切れがちで、ほとんど病人のようだった。
撫子はチャーリーに背負われながら、なんとかオーナーの気配の方向を示す。
「倉庫ですね」
気配は地下から漂ってきていた。チャーリーは扉を開け放って明かりをつける。
「うぐ……!」
撫子は悲鳴をあげた。倉庫の中にある無数の記憶が邪魔して、ただでさえ微かなオーナーの気配が混ざる。
「だめだ。こんな広いところじゃ」
途方にくれて泣き言を言ったとき、目の前の空気が揺らいだ。
「大丈夫ですよ。ここからは任せてください」
ヴィンセントの声が聞こえたかと思うと、次々と従業員の猫たちが倉庫に現れた。
「みな、手分けして前オーナーを探しなさい」
「ヴィンセントさん……」
「私たちは鼻が利きます。ここまで限定できていればすぐにみつけられますよ」
安心させるように撫子に笑いかけて、ヴィンセントは従業員たちに指示を出し始めた。
彼らは俊敏な動きで倉庫の四方八方に散っていく。
「ここです!」
声が上がるまでものの数刻もかからなかったと思う。
撫子はチャーリーに背負われながらその声の場所まで辿り着く。
「この箱の中です」
縞猫の従業員が示したのは、古ぼけた青色の箱だった。上に物が積み重なっていて、従業員の皆で手分けしてどける。
「鍵がかかっていますね」
「女将が持っていないかな……?」
「先ほど調べましたが、それらしいものは見当たらないようです」
「わかった。待って」
撫子はチャーリーの背中から下りる。
「マスターキーで……開けてみる……」
青い箱にしがみついて、撫子は頭の中をひっくり返す。
「えーと、ホテルのマスターキー……」
電波状況が悪いように意識が途切れ途切れで、検索がうまくいかない。
「うーん、絶対できるはずだ。開け……」
うめき声を上げながら、撫子は必死で青い箱のふたを引っ張る。
「出てこい、出てこい……」
呪文というよりはただの願望なんじゃないかと自分で思う。
権限とか代理権なんて忘れそうになりながら、撫子は力任せにふたを引っ張った。
「戻って来てください、オーナー。こんな重いもの、他に使えるひとなんていません……!」
歯を食いしばりながら、撫子はなお言葉を続ける。
「いいんですか? 実家帰っちゃいますよ?求婚しといて、まだ夫婦らしいこと何もしてないですけど……!」
目を閉じながら、撫子は叫ぶ。
「私だって乙女なんですよ! ちゃんと責任とってください……っ!」
その時だった。
パキっという音が手の先で響いた。
箱に細かい亀裂が入っていって、あふれる光の中に白い猫が見えた。
「それは私からのプロポーズを受けるということでいいのですね?」
目を開けた先にはオーナーがいて、撫子は彼に抱きついているような格好で座り込んでいた。
撫子は目をぱちくりとさせて、そして胸にこみあげてくる感情のまま叫ぶ。
「オーナーぁ! オーナー!」
首にかじりついて騒ぐと、彼は撫子の頭をぽんぽんと叩いて言う。
「私以外にこのホテルのオーナーがいますか」
「いません! オーナーがオーナーです!」
撫子はちょっとよくわからないことを叫んでオーナーにしがみついた。
「認めましたね。では私へオーナーの権限を渡してください。あなたの体では重すぎるのでしょう」
「えと、どうやって?」
撫子の問いかけに、オーナーは自身の額を指さす。
「……熱をはかるんじゃありません」
撫子が自分の額とオーナーの額両方に手を当てると、オーナーはにっこりと力のある笑みを返した。
「私があなたに死出の世界の住人の証を与えたのと同じ方法です」
「……あー」
撫子は間延びした声を上げてから、ちょっと照れた。
そんなこと日本人の自分がしたことはない。今回は業務連絡みたいなものだけど、照れるものは照れる。
「目、閉じててくださいね」
オーナーが目を閉じると、その端正な顔立ちをついみつめてしまってかえって恥ずかしくなった。
「……えいっ!」
実は女将に立ち向かうより勇気が要ったと思う。
撫子は勢いでオーナーの額に口づけた。
瞬間、撫子の体から一気に重みがなくなる。
「私がこのキャット・ステーション・ホテルのオーナーです」
オーナーは撫子を抱きかかえて立ちあがると、従業員たちを見回す。
「雀の女将をここへ」
「はい、オーナー」
従業員たちは一礼して、その内の一人が進み出る。
「坊や、まさか」
その従業員の手の上には、わなわなと震える一羽の雀がいた。たぶんこれが雀の女将の本来の姿なのだろう。
「さて、あなた方雀は猫を食べませんが」
オーナーは笑みを深めて告げる。
「……私たち猫は雀を食べます」
びくっと雀の女将が跳ねるように震えたのがわかった。
従業員たちの猫目が細められて、口が笑みの形を刻む。
撫子は息を飲んで、えと、と声を上げた。
「オーナー」
「何ですか、撫子。かわいそうだとでも?」
撫子はオーナーの服を少し引っ張って言う。
「いえ、女将がしたことは許せないですけど。ただ女将も長年この世で宿を経営しているんでしょう。女将がいなくなったら困る従業員やお客様もいらっしゃるんじゃないでしょうか。ほら、今回のうちのホテルみたいに」
女将のせいだと言われればそこまでかもしれないが、ここしばらくのホテルは大混乱だった。
今休暇に来ている動物たちもたくさんいる中、いきなりホテルの主がいなくなったらせっかくの休暇が台無しになる。
「何かの罰がないと従業員のみんなも納得しれない……っていっても別に死人が出たわけじゃなく」
撫子は言いながら、自分の勝手な感情かもしれないと首をひねる。
「食べちゃうのはちょっとやりすぎです!」
頭がごちゃごちゃしてきたので、撫子はこの際はっきり言ってしまうことにした。
オーナーは従業員たちに視線を投げかけて問う。
「皆は処罰を望みますか?」
従業員の猫たちは肯定も否定もしなかった。
「オーナーの決定に従います」
ヴィンセントが代表するように告げる。それに、オーナーは一つうなずいた。
「日頃の皆の働きにご馳走を与えるというのも一つの選択ですが」
雀の女将を横目で見ながら、オーナーは告げる。
「千年以上続く女将の宿には我がホテルも学ぶところが大いにあります」
ヴィンセントが何かを察して、オーナーに従業員名簿を差し出す。
オーナーはそれに、ペンで何かを書き加えた。
「雀の女将を当ホテルのブラックリストに登録し、以後当ホテルへの立ち入りを禁じます」
では、ごきげんよう。
オーナーが告げると、従業員が女将を放した。
彼女は大急ぎで飛び立っていって、後には羽だけが散らばっていた。
「ふう……よかった。あっ!」
撫子が一息つくと、オーナーがぐらりと体勢を崩す。
「オーナー、どこか怪我でも? あ、もしかして魂が傷んだりしてませんよね!?」
「平気です。疲れただけで」
「駄目です!」
撫子はオーナーの腕から下りると、彼の肩を支えるように腕を回す。
「お迎えがきたらどうするんですか!? 皆さん、オーナーは少し休ませます。いいですよね!」
撫子が断固として主張すると、ヴィンセントが微笑んで告げた。
「どうぞお願いします。ホテルの修復は私が指揮いたしますので、ご心配なく」
従業員のみんなもうなずいた。撫子はオーナーを支えながら歩き出す。
オーナーは自分の力で歩いていた。けど時折撫子を支えに立ってくれるのが、少しは撫子も頼りにしてくれるのだとわかって嬉しかった。