撫子がホテルの外に出た時、既にヴィンセントは来ていた。
「ご足労頂いて申し訳ありません」
「いえ、そんなことより」
 撫子は上がった息を収められないままに訊ねる。
「ヴィンセントさん! こ、ここは……!」
 息継ぎをしようと撫子が言葉を切ると、彼は落ち着いた様子で言った。
「このキャット・ステーション・ホテルの支配人は、白猫のオーナーでございますね」
 撫子は目を見開いてごくんと息を呑む。
「みんな忘れちゃったのかと……っ!」
「どうぞお声を低く。女将に聞き咎められてしまいます」
 撫子は慌てて両手で口を塞いだ。ヴィンセントは一歩近づいて、ささやくように告げる。
「私はオーナーにおなりになる前のあの方を存じております。従業員名簿から名が消えても記憶から消えることはありませんでした」
 ひとまず安堵の息を吐くと、撫子は膝に手を当てて頭を垂れる。
 でも従業員名簿が女将の手にある以上、いつヴィンセントの名も消されてもおかしくない。
 撫子は焦りを押し殺して顔を上げる。
「どうしたらいいんでしょう? 女将から従業員名簿を取り返せば、オーナーは戻ってきますか?」
「女将に近づくのは危険です。あの方は妖怪ですから」
「だって」
 撫子が顔をくしゃりと歪めると、ヴィンセントは首を横に振る。
「オーナーの気配が感じられません。ホテルのどこかに閉じ込められているようですね」
「まさか川にでも捨てられていたり……もしかしたら、た、食べられてたり……」
 後半は血の気が引きながらの言葉だった。ヴィンセントは落ち着いて答える。
「従業員名簿はただのホテルとの契約です。一方的に除名をしてつながりを断つことはできても、命を奪えるものではないのです。それに雀は猫を食べません」
 ヴィンセントはじっと撫子をみつめて問う。
「オーナーは何か仰っていませんでしたか?」
 撫子はオーナーとの短いやり取りを思い出しながら言う。
「私はオーナーの部屋にいるように、と。あと、すぐに戻るって」
 ヴィンセントは安心させるように微笑んでうなずく。
「オーナーは伊達に支配人ではありませんよ。ホテルで誰より主にふさわしい力がございます。戻るとおっしゃったならば、必ず御戻りになりましょう」
 撫子はヴィンセントの言葉に素直にうなずけなかった。
 オーナーは、ソファーで寝ているくらい疲れていても皮肉を言って平気だと笑う。撫子には弱いところを見せてくれない。
 でも誰だってつらいときはある。無理をしてはいないだろうか。傷ついてでも、自分だけで何とかしようと思っているんじゃないだろうか。
 撫子は顔を上げる。
「心配です。私にも何かさせてもらえませんか?」
 ヴィンセントはふと笑ってつぶやく。
「オーナーは良い奥方をお持ちになりましたね」
 撫子が聞き返す前に、ヴィンセントは言葉を続けていた。
「だからオーナーは撫子様を巻き込みたくなかったのでしょう。ひとまずオーナーのお部屋に向かってください。そこが一番安全です」
 撫子が口をへの字にすると、ヴィンセントは言った。
「オーナーの行方は私の方で探ってみます。撫子様に手伝っていただくのはそれからです」
 撫子は迷ったが、仕方なくうなずく。
 やみくもにホテルをうろついて、雀の女将にまた変な術をかけられないとも限らない。
 撫子はオーナーの部屋で落ち合うことを約束して、ひとまずヴィンセントと別れた。
 撤去され始めて使えないエレベーターを通り過ぎて、階段でオーナーの部屋に向かう。
 ただ撫子はオーナーの部屋に行く前に、一つだけ寄り道した。
 オーナーの部屋の隣、自室の前で立ち止まると、扉に下がっているなでしこのプレートを手に取る。
「この模様だ」
 記憶を吸い込んだ時に、撫子はこの模様を目にした。
 先代のオーナーが、なでしこの模様のプレートを「オーナーの鍵」と呼んでいた。自分の助けが必要になったら使いなさい、とも。
 鍵の形ではないけど、何かの助けになるかもしれない。撫子はプレートをぎゅっと握りしめてオーナーの部屋に向かう。
「お邪魔します」
 合鍵でオーナーの部屋に入ると、後ろ手に扉を閉める。
 その途端、パンっという破裂音が部屋に響いた。
「ラップ音?」
 ラップをぴんぴんに張ってお皿に巻くような……ラップ音ってそういう意味じゃなかったと、遅れて思い出した。
 気を取り直して、撫子は部屋を見回す。
 音の出所を探したが、電気もまだつけていないし、不審な気配はしない。
 撫子は手探りで鍵を閉めようとした。
「え、ええっ!?」
 扉がない。今入って来たはずの扉が、ただの白い壁になっていた。
 探してみても継ぎ目すら見当たらない。
 扉が消えるという現象には遭遇したことがないが、無いものは無い。
「あの世だからな。仕方ない」
 撫子は動揺した心を収めようと無理やり自分に言い聞かせて、部屋に踏み込むことにした。
 室内を歩いていると、奥の部屋から音が聞こえた。
 ビー……という、どこかで聞いたことのある低い音だ。
「上映開始の音?」
 撫子は廊下を通り過ぎて音の方向に向かう。
 ベッドルームの扉を開け放つと、どうやら音源はそこのようだった。
――ただいまより上映が始まります。
 少年の声のアナウンスは、部屋の中央に下りているスクリーンから聞こえてくる。
 何度も掃除に来ていたが、こんな設備がオーナーの部屋にあるなんて知らなかった。
――オーナーの鍵でお入りください。
 声はなお続けてくる。
 オーナーの鍵。撫子は握りしめたプレートを見た。やっぱり鍵の形はしていない。
 そうこうしている内に上映開始音は止んでしまった。撫子は慌ててプレートを取り落とす。
 落ちた途端、プレートが割れた……ように見えた。
「ごめんなさい! わざとじゃないんです!」
 とっさに顔を覆って指の隙間からのぞきみると、プレートのなでしこの花の部分だけが外れていた。
 複雑なぎざぎざはそのままに、何かに差しこめるような形になる。
「鍵ってこれ?」
 撫子はそれを拾い上げて、スクリーンに向かう。
「えーと、鍵穴は」
 しかし鍵穴らしいものは見当たらない。白いスクリーンが広がっているだけだ。
「えいや!」
 わからなかったので、撫子はなでしこの花をおもいきってスクリーンにおしつけた。
 その瞬間、撫子がまったく予想していなかった出来事が起きた。
「うわぁ!」
 なでしこの花はスクリーンの中に吸い込まれた。それと一緒に、渦に引き込まれるように撫子の体も引っ張りこまれる。
「ひぃ!」
 中で撫子の手がつかまれた感触があった。
「怖いんで離してください! 入ります! 自分で入りますから!」
 叫んでみても離してもらえなかった。ますます強くつかまれて引きずりこまれる。
「ぐぐっ!」
 水底に一気に沈められるような圧迫感が撫子を包み込んだ。
――上映開始。
 息が詰まるような感覚の中、少年の声は高らかに宣言した。