それから三日後、撫子がフィンの部屋の扉を叩いたとき、事件は起こった。
 扉ごしにフィンの不機嫌そうな声に阻まれる。
「もうお前は来なくていい」
 撫子は今日、教えたいことをリストアップしてきた。どうしてと訊こうとして、フィンのうなるような声に口をつぐむ。
「お前、オーナーと結婚してるんだろ」
 撫子はううむとうなる。
 お客様にその辺りの事情を話すにはちょっと障りがあると、放っておいたのが気に食わなかったのだろうか。
「つがいになると、みんなおれのことを邪魔にする!」
 バタバタと部屋の奥に引っ込んでいく音がして、撫子は扉の前で立ち竦んだ。
「フィン様はお寂しい思いを繰り返したくないんですね」
 声がして振り返ると、チャーリーが立っていた。
「どういうこと?」
「ここでは障りがあるお話ですので、こちらへ」
 撫子はチャーリーに連れられて廊下を曲がり、スタッフオンリーの部屋に入る。
「お兄さんがつがいになってから、フィン様は別の家にもらわれていったってことなのかな」
「そのとおりです」
「うう」
 ぴったり当てたくない事実だった。撫子は心が痛んで頭を押さえる。
 今まで飼っていた幼いオスを追い出さなくともいいのにと思った。メスをもらってきたくらいなのだから、数が負担になったわけでもないだろうに。
 うなった撫子に、チャーリーが残酷な一言を告げる。
「フィン様は、別の家に移ってすぐ亡くなっているんです」
 撫子は嫌な予感がして、ごくりと息を飲む。
「まさか。「ウサギは寂しいと死ぬ」って都市伝説じゃないの?」
「そのまさかがあったんでしょうね」
 チャーリーはうなずいて続ける。
「ウサギがストレスに弱いのは事実ですから。今までずっと一緒だった母親代わりのお兄さんと引き離されたことがストレスになったんでしょう」
 そういえばと撫子は思い返す。
 フィンから新しい家に移ってからの話はほとんど聞かなかった。それほどフィンは前の家、もとい兄と一緒にいた記憶の方が大きかったらしかった。
「いやその、私でよかったらばんばん八つ当たりしてくれていい。部屋に入れてもらえないかな?」
 寂しくて死んだウサギを、とても心配で一人にはさせておけない撫子だった。
 焦って言ってから、撫子は顔をくしゃりとゆがめる。
「でも私じゃ駄目なのかな。フィン様が待ってるのは、きっとお兄さんだけだよね」
 彼の生活ぶりからなんとなく感じ取っていたのは、彼はずっと誰かを待っていることだった。
 堅苦しい服でいいと言っていた。いつ会ってもいいようにと。
 一生懸命一人でいろいろなことができるように頑張っていた。誰かに認めてもらいたいと叫んでいるみたいだった。
「フィン様にお知らせするか迷っていることがありまして」
 チャーリーが真剣な顔になって言う。
「フィン様のお兄様が、今日の列車でこの駅にいらっしゃるんです」
「え!」
 死はまったく喜んでいい出来事ではないが、死ぬタイミングとしてはナイスだ。
 撫子は身を乗り出して言う。
「よし! フィン様と引き合わせて、一緒に楽しい休暇を過ごしてもらおうよ」
「そうもいかないんです」
 チャーリーは辺りをはばかるように声をひそめる。
「フィン様のお兄様は休暇を申請していないんです。終着駅まで行かれます」
 バタンと音を立ててスタッフオンリーの扉が開く。
「兄さんが?」
 そこにフィンが立っていて、先ほどのような勢いをすっかり失っていた。
「兄さんはおれのことなんてどうでもいいんだ」
 フィンは赤い目からぽろぽろと涙を落とす。
「兄さん……」
 しゃがみこんで丸くなるフィンに、撫子は慌てて駆け寄る。
「そんなことないですって! お兄様はフィン様がここにいるのを知らないだけですよ!」
 フィンの背をさすりながら、撫子はチャーリーに訊ねる。
「その列車って何時に着く?」
「さあ」
「こういう時こそ時間が要るんだって! 分かった、私が行ってくる! フィン様をお願い!」
「あっ! 撫子様」
 撫子が廊下を走りだすと、チャーリーが滑るように追い付いてきた。
「駅へ! お兄さんに一時下車でもいいから降りてもらって、フィン様に会ってもらう!」
「お兄様はフィン様がここにおられるのを知っているかもしれませんよ」
「フィン様が会いたがってることは知らないかもしれないでしょ!」
「お会いしたいとお客様が希望されたわけではありませんし」
 不思議そうな顔をしたチャーリーに、撫子はきっと睨んで言った。
「あれが会いたくないって態度か! 一流のホテルマンなら空気を読むんだ!」
 チャーリーはぴくりと耳を動かして、目をきらめかせる。
「さすがはオーナーの奥方様」
 目をうるませて、チャーリーは力強くうなずく。
「僕が至りませんでした。すぐに駅に行って参ります!」
「そう! そういうときこそ瞬間移動だ!」
 案の定、チャーリーは一瞬で撫子の前からいなくなった。
 しかし撫子が階段を下りてロビーまで来ると、入り口でチャーリーは足止めされていた。
「ヒューイ君、通して!」
「チャーリーは従業員です。駅まで行く許可は頂いておりません」
 チャーリーと同じ顔に無表情を張り付けて、ヒューイが立っていた。
「でも、ヒューイ。お客様の要望に応えるためなんだから」
「僕たちの役目はドアボーイだ。場所を離れてどうする」
 波の無い声で阻むヒューイを説得する時間が惜しくて、撫子はむっとしながら言う。
「いい。チャーリー君がだめなら私が行く」
「いけません。撫子様もオーナーに外出許可を頂いておりません」
「私はオーナーのものじゃない」
 撫子ははねかえすように言うと、扉を開いて体を滑り込ませる。
「自由も取られるくらいなら、妻なんて立場要るもんか。じゃ」
 ヒューイが伸ばした手をすりぬけて、撫子は扉の外に飛び出した。
 駅に向かって走り出す。駅前のホテルだから、駅自体はすぐ隣だ。
 撫子は構内に駆けこんで改札まで走る。
「うわ、もう来てる!」
 駅には既に列車が入っていた。窓口で猫耳の駅員を捕まえて問う。
「すみません! もう発車しますか!?」
「そうですねぇ。そろそろ」
 撫子の焦りなどどこ吹く風で、駅員がのんびりと言う。
「ホテルのお客様が面会を希望されている方が乗っていらっしゃるんです」
「ああ、そういうことでしたらどうぞ」
 ブチ模様の猫耳駅員はにこやかに改札を開きながら言う。
「汽笛が鳴ったらご降車くださいね。この列車は片道限りなので、戻ることはできません」
「わかりました!」
 撫子は改札が開くが早いか、停車中の列車に駆けこむ。
「ウサギのフィン様のお兄様! いらっしゃったら返事をしてください!」
 一番後ろの車両に乗り込んで、左右を見てウサギを探しながら声を張り上げる。
 撫子が来た時と同じで満員に近かった。虫だらけの車内、あらゆる動物たちの密集地だ。
「フィン様のお兄様! いらっしゃいませんか!」
 この中でウサギ一羽をみつけるのは、森の中から一匹の蝶をみつけるくらい難しいかもしれなかった。
 けれど何としてもみつけかった。毎日慣れない人型で一生懸命頑張ってきたフィンに、兄と引き合わせてあげたかった。
「うわ!」
 ピィと発車の合図の笛が鳴る。
 車両はもう一つあった。撫子は最後の車両に駆けこむ。
 列車が発車してしまう。フィンの兄どころか、撫子も駅に戻れなくなる。
「フィン様のお兄様! いらっしゃいませんか!」
 撫子がひときわ大声で叫んだ途端、ガタンと列車が揺れた。
 ゆっくりと列車がプラットホームを離れていく。
 間に合わなかった。撫子が無力感に泣きたくなったときだった。
 足元を何かに引っ張られる気配がした。
「フィンが俺に会いたがってるのか?」
 一羽の白いウサギが撫子の靴をくわえていた。
「……お兄様?」
 撫子が問いかけると、彼は赤い目でじっと撫子を見上げてうなずく。
「俺はルイ。フィンは俺の妹だ」
 ……妹?
 撫子は一瞬思考が止まったが、硬直している場合ではないと気づく。
「ルイ様! 降りましょう!」
 撫子は窓に駆け寄って大きく窓を開く。
 列車はまだ走りだしたばかりで大した速度ではない。
「降りるって……危ないぞ。死んだらどうする」
「もう死んでますから大丈夫!」
 撫子は力強くうなずいていた。
「私に任せてください! お願いします!」
 ルイは一呼吸分だけ黙って、のんびりと言った。
「うん。いいよ」
 撫子はしっかりとルイを腕に抱いて、窓枠に足を駆ける。
 立派な策なんてない。わかっているのは、速さが命ということだ。
「たぁ!」
 撫子は思いきって列車の外に飛んだ。
 線路脇はぱっと見、森のようになっている。草木が茂っているので、たぶん受け止めてくれる。
 しかし意外と列車は高い場所を走っていたらしく、頼りない浮遊感が撫子たちを包んだ。
 撫子は思わず目を閉じて歯を食いしばった。
 無謀という言葉が頭をよぎる。気合でごまかしたが、怖くないわけじゃない。
 落ちる衝撃に耐えられるように身を固くした。時間は必要と言った自分は棚に上げて、こんな時間はさっさと終われと願った。
 けれどいつまで経っても衝撃はこなくて、恐る恐る目を開ける。
「つくづくあなたには呆れます」
 誰かが撫子を包んでいることにようやく気付いて、視線を上げる。
「列車から飛び降りたら死ぬかもしれないことくらい、常識でしょう」
 そこにオーナーの猫目をみつけて、撫子は盛大に息をついた。
 確信なんて何もないが、勝手に体が安心する。
 撫子はすねたようにぼそりと呟く。
「あの世ではいろいろと常識が通用しないので、大丈夫かと」
「そんな都合のよい常識はありません」
 愛想全開な笑顔で、オーナーは眉をひきつらせる。
 撫子がちらりと辺りをうかがうと、オーナーは撫子を横抱きにして枝葉のクッションの中にいた。
 彼はすっきりとした仕草で立ち上がって線路にまで跳ぶと、撫子を下ろす。
 撫子はふと首をかしげる。
「ありがとうございます。……でもオーナーはどうしてここに?」
「そりゃあんたを追ってきたに違いないだろう」
 口を挟んだのはルイだった。
「あんたたち、つがいなんだろ」
「そんな露骨な言い方やめてください!」
 気恥ずかしくなって、撫子は顔を赤くした。
「い、いや、というかそもそも夫婦じゃなくて!」
「そうか? 匂いがするぞ」
「どんな匂いですかそれ!」
 わたわたする撫子に訳知り顔でうなずいて、ルイはオーナーを見る。
「ところで、オーナーというのはどこのオーナーなんだ?」
「はい。キャット・ステーション・ホテルの支配人をしております」
「休暇はいつまで取れるんだろう?」
 ルイは少し困ったように言った。
「その……今からでも申請できるものだろうか? お宅のホテルに少々用事ができたものでね」
 オーナーは恭しく礼を取って、微笑みながら顔を上げた。
「もちろんでございます。必ずお客様のご満足いただける休暇をご用意いたします」
 撫子がみるみるうちに顔を明るくしたのを、オーナーが横目で見ていた。