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その夜。

私は勇気を出して5階へ続く階段を上がった。
手の中に封筒に入れた10万円を持って。

べ、別に話をしたい訳ではない。…ただ10万もする浴衣を買って貰ったままでは忍びないからだ。

扉の前まで来て、足を止める。馬鹿みたいに緊張している自分がそこにいた。コンコンとノックをすると、中から物音が響いて直ぐに扉は開けられた。


私の顔を見るなり驚いた表情を浮かべて、「何だよ」と悪態をつく。けれどその口調にいつもの力は無かった。

扉を開けた瞬間に真央の匂いが体中を通り抜けていく。私、この香水の匂いが好き。それが好きだと気づいたのは…私がきっとこの人を好きだと気づいたからだ。

どうして好きになってしまったんだろう。どう考えたって成就しないであろう恋。それでも何故人は人に恋をしてしまうのだろう。駄目だと分かっていながらも、叶わない相手を想うという事。

もううんざりだったはずだ。たっくんの件で。今度は私を好きになってくれる人と恋をしようと思っていた矢先に、何故に出会ってしまったのだろう。

「まぁ…入れば?」

それは全然意地悪な言い方ではなくって、視線を上に上げて少しだけ気まずそうに言う。
どんなに意地悪をしたって優しい人だって言う事位とっくに気づいていたけれど。

「おじゃましま~す…」

少しだけ余所余所しい雰囲気。せっかくちょっと近づけたと思えば、直ぐに離れて行って、その距離がもどかしい。

でも分かっている。普通だったら出会えなかったような人で、自分とは世界の違う人だった事。本来であるのならば、会話をするのさえおこがましい立場でありながら、ちょっと優しくされたくらいで思い上がって…

あぁ、自分が恥ずかしい。