陽炎の揺らめくアスファルトを木陰からのんびり眺めていた。サクッと土をふむ音がして振り返ると、夏らしい白いワンピースを着たあなたが立っていた。
「やぁ、久しぶりだね」
あなたは僕の方を見てクスッと笑う。両手いっぱいに赤い花を抱えて、涼しそうに風を全身に浴びていた。
「今日はね、君に話があるの」
花束を小さな花瓶に差して僕の隣に腰を下ろす。僕の方を見るわけでもなく、遠くを目を細めて眺めている。
「なんだい?改まって」
「まずはあの日のこと、謝りたくて」
一瞬、風がやんだ気がした。
「あの日、私のせいで--」
やめてくれ、という声すら出やしない。出たとしてもあなたに届きもしない。
「私を助けてくれて、ありがとう。私のせいで君の未来を奪って、ごめんなさい」
「あれは、僕がしたくてしたことで…なにも負い目なんて感じなくていいんだよ…?」
「本当は君の気持ち、知ってたの…私を好きでいてくれたの、知ってた」
遠くを見ていたあなたは目を伏せて、自分の足元に視線を落とした。
「いいんだ…それが伝わっていたなら…」
「気付かないふりして、ごめんなさい。たくさん傷つけてごめんなさい」
気丈なあなたが瞬き1つすると、雫がこぼれた。振られるのは分かっていたから、気にしなくていいのに…
「ねぇ、謝らないで…?」
「あなたを傷つけて、すべて奪った私だけど…今でも私の幸せを願ってくれる、かな…」
この時ようやく僕は悟った。あなたが涙を零したのは、僕を傷つけたことに対する罪悪感や後悔からだと思っていた。でも違う。
この次の言葉を、僕は遮ってしまいたかった。
「私ね」
遮ることは叶わない。
「結婚するの」
あなたの涙は、僕を過去にしようとすることに罪悪感を感じていたんだね。
「ごめんなさい…」
いつの間にかあなたの肩が震えていた。キュッと唇を引き結び、泣くまいと瞬きすらせずにいる。
「私、次は絶対守るから…もう、好きな人失いたくないの」
顔を上げたあなたの表情は今までにないほど凛々しく、力に溢れていた。
「まったく…なんて人だ」
何も変わらない。昔からこうと決めたら絶対に意思を曲げない時の顔だ。こういうときのあなたには適わない。
「…幸せになってよ」
「話は、それだけよ。ごめんなさいね急に」
ゆっくりと立ち上がるとワンピースを軽くはたき、日向へ足を踏み出す。
「ねぇ、大好きだったの。君のこと」
「何を馬鹿なことをいってるんだい」
「今度、彼を連れてくるわ。またね」
陽炎に揺らめいてあなたの姿は消えていく。さんさんと照る太陽の元、まっすぐ歩くあなたの姿は、新しい未来へ進む様そのものだった。
なんとも簡単に棘を抜かれたものだ。あなたは僕を『好きな人』と呼んだ。『大好きだった』とも。あなたは嘘をつけない人だから、それが本心だったのだろう。失いたくなかったと思うほど、深く愛されていたのを今になって知った。あまりに真っ直ぐなあなただから今が幸せなことが伝わってくる。僕にはこれからのあなたを幸せにすることは出来ないのに。
「幸せになった姿を見るの、楽しみにしてるから」
死人に口はないもの、だからね。
僕らのコレは互いの傷を舐め合うだけの、ほんの些細な儀式のようなものだった。軽く唇に触れ合うだけの子供っぽいキスを交わし、『好きだよ』などと言葉にする。だけど決して僕と君の目は合わない。君の瞳に映っているのは僕ではなく、彼であり、僕の瞳には君ではなく彼女が映っているのだから、視線など合わずとも当然だ。
「ねぇ、好きだよ、--くん」
僕の首に腕を回して擦り寄ってくる君は愛おしそうに彼の名を呼ぶ。ぎゅっと力の入った腕は小さく震えていた。そっと背中をトントンと叩いてやると少しだけ和んだように腕から力が抜ける。
「好きだよ…--」
そう呟くとそっと頭を撫でられる。彼より少し大きな手で少し荒っぽくわしゃわしゃと撫で回す君は、少しガサツだ。
「ねぇ--くん、なんで私じゃダメなの…?私の何が足りなかった?なんであの子なの、なんで裏切ったの、やめてよ私の前であの子と居ないで…」
狂ったようになんで、どうしてと繰り返す君は縋るように、祈るように、贖罪するかのように彼への言葉をポロポロと零す。いや、零れるのだ。これが僕らの関係。
「ほんと、なんでだろうな…なんで、僕達が…」
思わず僕の口からも零れる。捨てられた子猫が身を寄せ合うように、僕達はお互いに身を寄せていた。寒さに震えるように身を震わせ、誰かに拾ってくれと訴えるかのようになき声を漏らし、小さな箱から出られずにいる。
「じゃあ、また明日」
「うん、ありがとう」
君を玄関先まで見送った僕は、見てはいけないものを見た。
「…どうしたの?」
僕の様子を見て何かを察した君は僕の視線を辿る。
「ぁ…」
君の瞳が見開き、固まる。怯えるかのように肩を震わせ、視線を逸らせず、その目を塞ぐことしか出来なかった。その視線の先には君が何よりも見たくないモノが幸せそうに並んでいたのを、僕は気づいていた。気付いていたのに何も出来なかった。
「なんで…」
そう呟いて両目を覆う僕の手を濡らした。まだ君の中から彼は消えていない。
「送るよ、大丈夫だから安心して」
そんな在り来りの言葉しか出てこない。
「…なんであんたはそんななの」
目を塞いでいたはずの君はいきなり僕の方を振り向いて目を赤くしながら何故か怒る。
「ごめん」
「違うでしょ…なんであんたはあんたを利用してるだけの私を守ろうとするの?」
「それはだって--」
『お互いいてくれなきゃ困るから』
君は驚いたことに僕と全く同じ言葉を発した。僕達はお互いを利用する関係だった。僕は君を彼女に見立てて、君は僕を彼に見立ててたくさんの懺悔と後悔とたくさんの何故を繰り返していた。ずっと誰にも届かないままなのにも関わらず…。
「嘘つき」
君の言葉に思わず目を見開く。君は悲しそうに笑っていた。
「あんたの目にはもう、あの子は映ってないじゃない。もうあんたは私を置いて進み始めてるくせに」
何度も見たことのある表情でぎこちなく笑う。彼を責める時、真実を知る時、虚勢を張る時、いつもこんな顔をしていた。
「本当はもう私なんて要らないくせに、なんで私を守ろうとするの」
そう、君は異様な程に勘が良かった。とっくに見透かされていたのだろう。
「同情のつもり?」
勘が良いが故に誰よりも深く傷ついていた。
「僕は、まだ君が必要だよ」
嘘ではない。ただ必要な理由が変わっただけだ。
「馬鹿じゃないの…私が気付かないとでも思ったわけ?」
「素直に話せば君は受け入れてくれたかい?」
「私は変わらない。関係性を変えても良いけど、私はまだあんたを利用することしか出来ない」
「それでいいんだ」
本当は君が僕にしか寄る辺がないことが嬉しかった。本当はお互い依存している関係性が心地よかった。本当はもう僕は吹っ切れていた。
でもそうしたら君は優しいから一方的な利用をするようなことは許さないだろう。だから言わなかった。
「元々は傷の舐め合いから始まった関係だ。今のままでも今と変わってしまっても僕は構わない」
そう、僕らはお互い捨てられた存在だった。その寂しさを、辛さを、後悔を、懺悔を紛らわせるためだけの関係だった。それしか縋る術がなかった。
「馬鹿みたい」
そう言って笑う君は見透かしていた僕の気持ちを受け止めてくれる。
「彼女を愛してたよ、誰よりも。いっそこの手で殺めてしまいたいくらいには。だけど僕はもう前に進む」
なんとも自分勝手で申し訳ないが、同時に安堵する。
「彼を愛しているよ、誰よりも。この手で殺めて私だけのものになるのなら喜んで殺す。今も、ずっと」
似て非なる感情に溺れた僕たちは復唱するように、確かめるように見つめたまま今初めてはっきりと口にする。

僕らは捨て子、寄り添い痛みを和らげるためにそばに居る。
「私もうすぐ消えるの」
振り向きざまに彼女はそう、笑顔で言った。目が痛いほどの赤に照らされた道に透けた足元をこちらに向けず、眩しいほどの笑顔だけを僕に向けている。
「なん、で…」
いいや、僕の問いもおかしいことはわかっている。何せ彼女はもう既に『死んでいる』のだから、今更何が起ころうと驚くことではない。
「あっはは!あたしを初めて見た時よりも驚いた顔してるよ」
カラカラと笑う彼女は皆が知っている彼女となんら遜色ない。
「なんで、消えるんだよ…なんで笑ってんだよ…!死にきれなくて今だってここにいるくせに、まだそれやり残してるくせになんで笑ってられるんだよ…!」
「あたしは死ぬべきだったからいいの。今も、あたしは消えるべきだってわかってるから」
慈愛に充ちた優しげな眼差しを道路に落として微笑むように笑う。
「なんで、何をしたって言うんだよ」
「人を殺したの」
いつもと変わらぬ笑顔でポツリとそう言う。固まる僕を宥めるように優しく頭を撫でながら、言い聞かせるように目を見つめながらゆっくりと口を開いた。
「あたしは、人を殺したの。誰よりも大好きだった人を、罪もないあの人を。許されないことをしたあたしは存在をもって裁かれるべきなの」
わかる?とでも言うように小首を傾げる。わかるわけが無い、だって僕は死ぬ前の彼女を知っている。誰にでも優しく、皆に慕われ、人に囲まれ、いつも笑っていた。そんな彼女が『消されなければならない存在』なわけがない。
「そんなの、有り得ないよ…だって、それなら、きっと殺された人に問題があるんだ、だから…」
「本当にそうかな?」
ゾッとした。僕の心の中を見透かすみたいに透き通っていて、それでいて光を宿さない瞳に気圧される。そしてなにより、そこまで彼女に心酔している僕自身に。
「それなら君は、自分は殺されて然るべきだと思うのかな?」
触れられないはずの彼女の指がトンっと僕の胸を突く。感触はないはずなのにその1本の人差し指に体が揺られる。半歩後ずさった僕は何も言えなかった。
「ねぇ、もしもその人が誰か君がわかったらさ」
フッとのしかかっていた重い空気が消えたように笑った彼女はいつもの彼女だった。
「その人に伝えて欲しいの。ごめんなさい、愛していましたって」
「なんで、僕に…?」
「君にしか出来ないからだよ。あっそうそう、それからあなたを殺したことを後悔していませんとも」
その時になって彼女の本当の罪に気付いた。人を殺したことが彼女の罪ではない。彼女の罪は…
「その人を殺したことを、悪い事だとは思ってないの?」
「うん。だって、彼のことが好きだったんだもの。好きな人を独占したいと思うのは当たり前でしょ?」
罪を罪と知っていながら罪悪感など持ち合わせていないこと。
「むしろ幸せだった。あたしだけのものになってくれたから」
その時の彼女は誰よりも優しい目をしていた。
「そろそろかな」
先ほどより幾分か消え始めている彼女の手を見つめながら、僕はただ一つだけ消える前に伝えたいことがあった。
「許すよ、あんたの全てを、この僕が」
やっとわかった。いや、思い出した。ここは冥界、天国と地獄の狭間。そして彼女を赦せるのは僕だけだということを…。
誰よりもそばにいた。誰よりも知っていた。
いつか離れていくこともわかっていた。
「ねぇ、見て。綺麗に咲いたでしょう?」
そんなことも知らずに、無邪気に君は笑う。汚れたこの狭い箱庭の中で、たった一輪の小さな命を美しいと笑う。
「えぇ、とても。ですが、そんなところにいてはお身体に触ります。せめて上に何か羽織って……」
「平気よ、これくらい!それよりも見て、とても美しい深紅の薔薇!」
愛おしそうにうっとり微笑む我が主はとても愛らしい方だった。
たとえその身が汚れていても、それすらもその色を纏っているかのように。
どんな服も着こなしてしまうかの如く、その身は色褪せない。
「ねぇ、貴方もそう思うでしょう?」
彼女が纏う深紅は、ただの赤いドレスに過ぎない。
「えぇ、さすがでございます」
その薔薇の深紅がただのニセモノでも、身に纏うドレスが汚れていても、人の道を踏み外していても。
「綺麗な花を咲かせるコツがわかったのよ。若いほうがいいの」
無邪気さをそのまま守るのが私の使命。だからずっと笑っていてください。
「だから次は」
貴女が望むのなら、私は喜んでこの身を捧げましょう。
「あなたが私の薔薇になってね」
あぁ、可哀そうに。つい最近彼女の身の回りの世話を始めたばかりの新人の彼が怯えてしまっている。最近若い使用人を求めるようになったのは歳が近い相手が欲しいわけではなく、ただの肥料として必要だっただけ。たまたまそれに選ばれてしまったのはお気の毒、だけれど私は彼女を……主を悲しませるわけにはいかないのです。
だからどうか、大人しく殺されてください。

私の肥料となるために――
僕らは家族だった。いやいやもちろん血の繋がった姉弟ではないのだけれど。勘違いしないで欲しいのが、私たちにはそれぞれ恋人がいてそれぞれが幸せだったこと。
「最近どうなの?」
何の気なしに恋バナをしたくて話を振る。
「まぁぼちぼちかな」
私はその言葉をまに受けすぎていた。もっと警戒すべきだった。なぜなら弟の彼女を幸せにするために身をけずっていたからだ。 あの子はそんなことを知った私がなにか思うことを知っていたからこそ何も言わなかった。
「姉さん…助けて」
ある日の夜に助けを求める弟の連絡があった。その時初めて彼の恋は幸せなどではなかったことを知った。
「ばか!なんでもっと早く言わなかったんだ!」
「姉さんの嫌いなタイプの子だから、もめてほしくなくて」
「その子はあんたがそうなってること、知ってるの?」
「知るわけないよ」
初めて沢山話を聞いた。私は彼が幸せならそれでよかったのに、どんなに聞いても幸せそうに見えない。
「別れてよ、そんな相手なら」
「嫌だ」
「幸せじゃないじゃん!傷付いてばっかじゃんか!」
そこからはずっと同じやり取りをしていた。別れて、嫌だの応酬だけ。まるで私が彼と付き合いたいみたいに聞こえるが、私は彼氏がいるし幸せだ。ただ幸せであって欲しかっただけなのだ。きっと、他人に理解されないだろうけど。私は自分で幸せにしたい人を恋愛、幸せになるなら誰とでも良い人を友愛だと思っている。それを、彼も知っている。
「お願いだから、幸せになってくれよ…」
涙ながらにそう訴えるが彼の心は変わらない。
「ごめん、姉さん」
「どうしてもか」
「うん」
僕達の互いに思う心は同じ。そして譲らないのも分かっている。彼の心は変わらない、それもこうと決めたら一生変えない。それくらいは私でもしってる。
「姉さんの気持ちもわかってるよ」
「死ぬまで、変えんなよ…じゃなきゃあんたなんか弟じゃないんだから」
精一杯無理やり納得させて虚勢を張る。お互いのことを誰よりも知っていた、誰よりも姉弟だった。だから私が納得しないことも、彼もわかっていた。
どうか誰よりも努力家で馬鹿な弟が幸せになってくれますように。そのための力は惜しまないから。いつも同じだった私たちの初めての衝突は変わらない心同士のぶつかり合いだった。

数年後、無事にそれを乗り切り結婚すると聞いた。そんな彼は誰よりも幸せそうに見えた。これは私か望んだ未来だ。どうか彼を死ぬまで愛してくれますように、もう傷つけないように。
その願いを込めて私はスピーチをする。彼から直々に頼んでもらえたのだ。私はあの日どちらも心を折らなかったことを今では感謝している。
さようなら手のかかる可愛い弟。
お疲れ様心配性な姉さん。
あの日見た光景を忘れられない。『お前一筋だ』なんて馬鹿らしい言葉を口にする君はあまりに愚かで、でもそんな君から離れられない私は愚の骨頂で、なぜ復縁などしたのだろうと頭を抱えた。否、答えはわかっている。好きだからだ。だけどその一言では片付けきれないくらいの不満が募る。何故あんなことをしたのか、どういう気持ちだったのか、何を聞いても信じ難く、いつの間にやら自分の気持ちまでも疑心暗鬼になってしまった。
「本当に本気でお前だけ愛してるんだ」
「…2度はないから」
この心は果たして本当に恋なのか、はたまた執着か、それすら分からなくなっている。
「まだ俺の事好きでいてくれる?」
「もちろん」
今はこれだけでよかった。手を伸ばせば暖かい体に触れられて、少なくとも今だけは自分のモノであることに安堵する。あぁ、なんて愚かなのだろうか。
「愛してる、本当に」
言葉を重ねる度にその言葉はドロドロと手のひらから落ちていく。ソレは気持ち悪くすらあったことに今更ながら気付いた。『ウソツキ』と誰かが叫んでいる。それは私か、それとも彼女の声かもしれない。
「お前は?俺の事、好き?」
「す--」
言葉が出なかった。彼を挟んだ向こう側から私と同じくらいの少女が何かを必死に叫んでいる。『ウソツキを信じれるの?』と。途端に押さえ込んでいた気持ち悪さが増してうずくまる。信じたものが痛い目をみる世の中、私はこの人のことを本気で愛せるだろうか。答えは--
「…ごめん。やっぱり私、君の愛は受け取れない」
こんな苦しいならいっそ信じようとすることを諦めてしまえばいい。そう思った。
「だって今、まだ俺のこと好きでいるって」
慌てたように、あるいは困惑したように私を見つめる。
「うん、好きだよ。でも、君の好きを信じれないんだ」
死にたいくらい辛い、苦しい、こんなの、望んでいないのに…。
「俺が……したから、か…?」
「そうかもね」
置きっぱなしにしてたカバンをまとめて私は立ち上がる。
「俺、ほんとに心入れ替えて、お前のことだけ愛してるから!だから…」
「その言葉だけで十分だよ。でも信じれない相手からの愛を受け取っても猜疑心しかなくなるから、だからごめんね」
ゆっくりと振り向いた私は一体どんな顔をしていただろうか。せめて優しい顔してられたらなと思う。
「もう君の愛を信じない」
泣きそうになるのを堪えながらその場をあとにする。早足で人気のない道まで辿り着くとポロポロと涙が溢れて止まらない。きっとこれは悲しい時の涙だ。後悔じゃない、自責でもない、好きな人と自ら離れることにした悲しみの涙。やっぱり私はまだ君を愛してたよ。心の底から好きだったよ。
「信じれなくて、ごめんなさい…」
もう誰にも届かないその言葉をまじないのように呟く。いつかまた信じられる日が来たら、その時は君が好きだと言ってくれたとびきりの笑顔で楽しく話せたらと思う。
誰しも人に言えない秘密がある。トラウマだったり傷ついたことだったり好きな人の事だったり…多かれ少なかれ抱え込むものはあるだろう。かく言う僕もそうだ、人に言えない秘密がある。それは--
「お疲れ様、頑張ってるわね」
ピトッと缶コーヒーが頬に温もりを伝える。
「お疲れ様です。えぇ、おかげさまで」
「よしよし…頑張ってる君にご褒美をあげよう。なにがいい?」
そういうとドヤ顔をした彼女は楽しげに僕を見据える。そう、彼女が僕の秘密。何故かって?
「じゃあ今夜、いいですか」
僕は彼女が好きで彼女もそれを知っているからだ。
「…あんまり遅くまではいられないわよ?旦那が帰ってきちゃうから」
そして僕たちのそれは世間で言う不倫にあたるからだ。
「わかってます」
初めは僕からだった。慣れない職場でサポートしてくれたり、落ち込んだら面白い話をして元気付けてくれたり、僕のミスを彼女が代わりに頭を下げてくれたり…上司として当たり前のことなのかもしれないが、そんなかっこいい素敵な人に惚れないはずがなかった。もちろん結婚していることも知っていたし打ち明けるつもりなんてなかった。しかしある日の飲み会で泥酔した彼女は
「あんな浮気野郎捨ててやりたい」
そうこぼしたのだ。近くにいた僕にしか聞こえなかったはずの声で呟くと、さらに酒を煽った彼女の介抱を任されたので水を飲ませ休ませていた。その時つい、僕も一言こぼしてしまったのだ。
「僕なら、そんな思い絶対させないのに」
聞こえなくていいととても小さな一言だったはずなのに、泥酔していた彼女は聴き逃してはくれなかった。
「じゃあ、私を愛してよ」
その日から僕達の秘密は始まった。
「おじゃましまーす」
「お疲れ様です、コーヒーとココアとホットミルク、どれがいいですか?」
2人とも仕事を終え、少しタイミングを変えて僕の家に帰ってきた彼女に飲みたいものを聞く。
「ホットミルクがいい!」
その声ははしゃいでいるようだった。外ではコーヒーを好んで飲むのに家で飲むのはホットミルクが1番お気に入りらしい。
「ありがとー!不思議と君がいれてくれたホットミルクは美味しくて好きなんだよねー」
嬉しそうにコクコクと飲む彼女は満足気だ。しかしその表情は一瞬曇る。
「どうかしたんですか?」
パッとこちらを振り向いた時は一切そんな顔は見せない。しかし『なんでもないよ』の一言はいくら待っても出てこなかった。代わりに出てきたのは困ったような笑い顔で一言だけ
「もうやめにしよ?こういうの」
正直ショックだった。同時にやっぱりなと思ったのも事実だ。いつまでも続くわけがないとわかっていた。だけど僕はいい子では無いので嫌だと拒否する。
「旦那にバレたの。同じことされて初めてわかった、お前だけは死んでも手離したくない、相手の男と別れてきてくれ、じゃなきゃ…」
「じゃなきゃ?」
「んーまぁそんな感じでね、今日はお別れを言いに来たの」
「そんなの…」
「私も覚悟、決めたから。やっぱり旦那を捨てるわけにはいかないんだ。君はまだ若いしこれからたくさんの人に出会う、その中で幸せになって欲しい。巻き込んでしまってごめんなさいね」
そこまで言われてしまってはもう僕に勝ち目はないということだろう。所詮不倫、僕は二番目、それでよかった。
「わかり、ました…」
「ごめんね。今まで、ありがとう。…さよなら」
そうして僕の初恋はあっけなく終わりを迎えて秘密にするようなことは何も無くなった。
しかし翌日も翌々日も彼女は職場に来ていない。どうしたのかと問うと忙しそうな先輩はただ一言
「亡くなったらしい」
そう言い残してせかせかとやることをやりにこの場を去った。『亡くなった』…?そこから先はよく覚えていない。お通夜や葬儀は身内だけで済ませたらしい。彼女のご両親が会社に来て僕に渡したいものがあると呼び出された。
「突然ごめんなさいね、実はあの子からあなたに預かりものがあるの。受け取ってもらえるかしら」
そういうと取りだしたのは茶色い封筒。宛名は僕で、彼女の筆跡で間違いなかった。
「…心中だったの。あの子の旦那さんがあの子を殺してその後、旦那さんも…」
ふつふつと怒りが湧き上がるがぶつける相手も今はもう居ない。
その後、封筒を受け取ると家に帰り開いてみた。
『これを見てるってことは私は死んだってことだろうと思う。あの日あったことをここに記します。君がどう思うか分からないけれど、黙ったままは嫌だから、読みたくなければ捨ててくれていいよ。』
そんな言葉から始まった。読まずに捨てるなんてことは出来なくてさらに読み進める。
『君に別れようって言ったあの日、旦那にバレて相手の男を殺しに行くと言って聞かなかったの。でもそれだけは絶対にさせたくなくてすぐ別れてきたよって話したんだけど相手は誰だとかどこのやつだとか問い詰められて、でもこれ以上迷惑をかけたくなくて文字通り命懸けで君の情報を守った。だから最後まで私たちふたりのヒミツだから安心して欲しい。私はきっと旦那に殺される。旦那もきっと私と一緒に死ぬ。だから最期に一つだけ言わせて欲しい』
待ってくれ、もしかして僕があの日打ち明けたりしなければ彼女は…。
『旦那よりも君の方が大事だったよ。本当は最後まで誰よりも1番愛してたよ』
あの日の別れ際の言葉は僕を突き放すためだと知った。同時に僕を守るためのものだったことが今になってわかった。
『どうか生きて、幸せになってください』
僕はなんて不幸な愛を選んでしまったのだろうか。彼女の幸せも生きる権利も奪ってしまって、もう全て失った僕はこの愛を選ばなければよかったと後悔した。
最期までカッコイイ人だった。自惚れていいのなら最愛の人のために命はって挙句幸せになってくれという。悔しくて不甲斐なくて涙は止まらないが彼女の想いは全て受け取った。いつか死んだ時に呆れられないようにまずはまだ生きていなければならない。次に顔を合わせた時に約束、守りましたよって笑って言えるように。
目を覚ますと白い天井。目がチカチカして思わず目を瞑った。自分はなぜこんなところにいるのだろうとぼんやりした頭で記憶を辿る。
「ん…」
拙い記憶を手繰り寄せていると左から小さな呻きが聞こえた。そういえば左手が異様に暑い気がする。ゆっくりと眩しさに慣れ始めた目を左手にやると、僕の手を握りしめて眠っている君がいた。同時に手首から腕にかけて巻かれた包帯を見て何故ここにいるのかを思い出す。
「…しくじったんだ」
ゆらゆらと視界が揺れる中、ボソッと呟く。そう、僕は失敗したのだ。本当はこの世界に別れを告げている予定だった。眠ったままもう起きるつもりなどなかった、はずだった。
「ん…起きた…?気分はどう?」
眠りこけていた君が僕のつぶやきによってか、はたまたたまたまか分からないが起き上がるとナースコールを鳴らし、僕が目を覚ましたことを告げる。その君の顔と言ったら酷いなんてものじゃない。目は真っ赤に腫れ、充血し、変な体勢で寝てしまったが故に寝た痕がついている。
「君が、見つけたの?」
君の問いには答えず今の状況の説明を求めた。
「そうだよ。あと少しでも遅れていたら危なかったんだから…」
そういうとまた涙を滲ませる。その涙を優しく拭ってやると君は生きていることを確かめるかのように左手に頬擦りした。暖かい、優しい、慈しむような頬には涙が乾いた跡がいくつも残っている。
「お願いだから、死ぬかもしれないようなことはしないで…死なない範囲なら目を瞑るからさ」
『死ぬかもしれないようなこと』、すなわち大量の睡眠薬を酒で煽ったりするな、ということだろうか。『死なない範囲』とは左腕の無数の傷のことだろうか。
「…ごめん」
このごめんを君はどう捉えただろうか。君はいつも通り笑って『いいよ』なんて言う。
君は泣き虫だ。僕の言葉一つに傷付いて僕の行動一つで涙を流す。僕は今まででも散々傷付けてきたはずなのに君はいつまでも離れようとはしてくれない。突き放しても『いいよ。待ってる』なんて言って僕の気持ちが落ち着くまで静かに泣いては待ち続けた。僕はそんな君が愛おしく、同時に邪魔だった。君がいる限り僕は死なせてもらえないからだ。大切なもの一つあれば生きていけるなんて戯言だ、僕は大切なもの一つのためにこの世界と共存する選択肢を選べない。1番大切な人を最も残酷に傷つけることになったとしても、だ。何か一つでも自分を傷つけると傷つけられたのかと言うほど泣き、心配し、僕という存在の価値を訴えかける。そんな生き方はもうしたくない。誰かを傷つけてまで生きていたくないのだ。もっとも、死のうとしなければいいだけの話だがそこまで生に対する執着がないのだから仕方がない。
「うん、身体も大丈夫そうだね。念の為今日は泊まっていきなさい」
ナースコールで呼ばれた看護師と医者が診察してくれた。後遺症も何も無いらしい。いっそ壊れてしまった方が楽だろうにカミサマはそんなことはさせてくれないらしい。なんとも皮肉な話だ。
「じゃあまた明日迎えに来るね」
「…うん」
そう言い残して面会時間ギリギリに君は帰っていく。きっと明日も面会時間同時に僕に会いに来ることだろう。その前にやらなければならない。幸運なことにこの病院は何度目かであり、構図は把握している。さらに言えばピッキングという特技を習得した場所でもある。
僕は夕飯を終え、巡回で軽く話したあと部屋を抜け出した。君の使い込んでる上着を羽織って向かったのは屋上だ。本来施錠されている鍵たちは僕には手馴れたものでカチャカチャとほんの数秒で開くようになっている。誰にも見つかることなく屋上に辿り着くとフェンスをよじ登る。
「ごめんね」
誰にも届かないその一言は闇に溶けて消えていく。あの時言った『ごめん』はこういう意味だった。もう何度目かになる未遂、その度に僕を世界に引き止めていた君に今度こそ終止符を打つつもりだった。足場のない先に一歩踏み出すと体が地面に吸い寄せられるように勢いよく吸い込まれていく。
--あぁ、やっと終われる。

目を覚ますと白い天井。目がチカチカして思わず目を瞑った。自分はなぜこんなところにいるのだろうとぼんやりした頭で記憶を辿る。僕はまた死ねなかったことに気づく。
「おはよう」
隣で微笑む君は天使で悪魔だ。今日も僕は死なせてくれなかった。
僕は今、恋をしている。なんてことないありふれたおとぎ話のようなほんの少し非日常的な恋。それは雨の降る夜を境に起こった。家族の都合で都会に引っ越してきたばかりだったある日、僕は寝付けなくてウロウロと散歩をしていた。雨の中散歩するなんておかしいと思うかもしれないが、雨に打たれながら歩くのが好きだった。ちょっとした厨二病を拗らせたものかもしれない。雨が肌を伝って雫を落とす感触や肌に張り付く感じが好きだった。そうしていつも通りと言える散歩をしていると、人気の少なそうな木々に囲まれた小高い丘のような場所を見つけた。細い小道はあるものの整備と言える程は整っていなかったため人目につかなさそうだと思ったのだ。
「もう夜中なのにこんなにも明るいのか」
丘から見下ろす街並みは昼間とは全く違う表情をしている。ビルやマンション、終電と思われる電車にタクシーや車と様々な明かりが忙しなく点滅していた。
「都会では星は地上に降るのよ」
いきなりそう聞こえた声は凛としていて鈴のようによく通る声だった。驚いて振り向くと涼し気なショートカットの女が立っていた。
「随分ロマンチックだね。君は?」
「ここの先住人ってとこかしら」
そういうと僕の隣に並ぶようにして彼女のいう地上に降る星をしばらく眺めていた。
「田舎では星は空に降るものだったでしょう?どうかしら、都会の星も好きになれそう?」
まるで見透かしているみたいだった。家族の都合でとは言え知らない土地に田舎と異なる文化の中に放り込まれた僕はあまり都会が好きではなかった。
「そうだね、雨の夜でも見れるって言うのは大きな魅力かな」
田舎では確かに空に星が降っていた。だけど僕の好きな雨の夜にはそれは見えないもので少し残念に思っていたものだ。
「ここは私のお気に入りの場所なの。他の人には内緒にしてね、あまり人に知られたくないの」
そう約束して以来、雨が降っていない日もいつもあの場所に通った。彼女は不思議な人だった。僕のことをよく知っているかのように心中を言い当ててくるし、僕の好む答えを持ち合わせている。いつの間にか彼女に惹かれ、心地よくすらあった。あれだけ好きではなかった都会が少しずつ好きになっていく。
「やぁ、来たね」
お互い昼に会おうとか連絡先の交換をしようなどとは言わなかった。私生活にはお互い触れなかったし、知りたいと踏み込むこともない。それはきっと何かを感じあっていたのだ。触れてほしくない、触れてしまったら今には戻れなくなると…。だけど今日は違った。
「たぶんね、もう会えなくなると思うの」
何故と問うと彼女は僕に背中を向けた。タイムリミットが近づいてるのかもしれない。僕は気付いていた、彼女は--。
「君が叶えてくれちゃったから」
「どういう…」
「気付いてるんでしょ」
くるりと振り向いた彼女の足はもうほとんど消えかけていて今日が最後であることを僕に見せつける。
「…成仏、するんだね」
そう、初めて会った時から気付いていた。あの日、雨が降っていたにも関わらずどこも濡れていなかったこと。毎晩同じ時間に同じ場所に立っていたこと。昼間会おうとしなかったのも、昼は会えないからだと分かっていたからだ。それでもよかった。毎日通ううちにいつかふらっと何も言わず消えていたらどうしようと不安はあったが、僕が彼女を好きになった頃にはある種の信頼関係が成り立っていて最後であることを匂わせるくらいはしてくれるだろうと信じていた。そしてそれは運良くその通りだったらしい。
「未練、なくなったんだね」
「うん」
幸せそうに微笑む彼女はぐっと背伸びをした。
「素敵な恋ができたから」
そういうと触れられないはずの手をそっと僕の手に重ねた。もちろん暖かくも冷たくもない。
「私に素敵な恋をさせてくれてありがとう」
「僕も君に恋して毎日が幸せになった、ありがとう」
抱きしめることも叶わないふわふわとした実態のない彼女を少しでも感じようとふわりと腕を回す。
「ずっと好きでした」
「私も」
「君が消えてしまうまで、こうして寄り添っててもいいかな」
「もちろん」
最後の幸せを噛み締めようと必死だった。本当は失いたくなんてない、成仏しないままでいい。だけどそんなこと言えるはずがなかった。そしてそれは恐らく彼女も同じ思いだったことだろう。
「私初恋が出来なかったのが心残りだったの」
「僕なんかでよかったの?そんな大事なこと」
「君じゃなきゃダメだったんだよ。じゃなきゃ出会ってないし成仏も出来ない」
確かに、と笑うと重みの無い体をこてんと預けてくる。大切な人を失う痛みを今初めて痛感している。どうすれば一番いいのか分からないまま、夜明けが来るまで寄り添い続けた。少し周りが明るくなった頃には体のほとんどが透けてしまっていた。もうお別れなのかと思わず涙がこぼれそうだった。
「ちょっと、泣かないで見送ってよ」
「ご、ごめん…」
「私も、泣いちゃうじゃない…」
泣きそうな顔をした僕達は顔を見合わせるとふっと笑えた。
「今までたくさんありがとう」
「これからも、私が居なくてもちゃんとしてよね」
「…僕、君と一緒に--」
「生きて幸せになって、またここにその報告しに来てよ。成仏しても私はここにいるから」
あとを追いかけることすら許してくれない彼女は意地悪だ。
「またね」
「…また、いつかどこかで」
僕達の間にはそれだけで十分だった。
あっという間に登ってきた朝日に君の姿はかき消された。そこにもう君はいなかった。

「残された僕は彼女の言いつけ通り、そのあと幸せになってたまに報告をしに行くそうです。おわり」
「えー!じゃあはなればなれになっちゃったままなの?」
可愛い娘がそんなの可哀想だと騒ぎ始める。
「まだちょっと話するには難しかったかな?」
「むぅ…そんなことないもん!ちゃんと分かったもん!」
「そのお話大好きだもんねー大きくなったらまた違う感想になるかもね」
この世で一番愛してる妻が娘を宥める。他にこんなに幸せなことがあるだろうか。
「じゃあ父さんは少し出かけてくるな」
「いってらっしゃい」
儚い恋だったけど今も律儀にこまめに報告に行く。娘には本当にあったことを噛み砕いて絵本のように読み聞かせている。随分この話が気に入ったようで何度も読み聞かせてとせがんでくるようになった。
「なぁ、君の言う通りの幸せになれたかな。君は今もこんなぼくを望んでくれているのかな」
そういうと返事をするかのように木々のざわめきが強くなる。そっと1本のバラを供えると、また来ると言い残して家に帰る。地上に降る星を眺めて--。