ペタペタと静かなフローリングの上を歩く音が響く。しんと静まり返っているこの家には、まだ私一人しかいない。
「ご飯、食べなきゃ」
誰に言うわけでもなく、独り言のようにポツリとこぼした。冷蔵庫には何があっただろうか。ふらりと冷蔵庫のそばまで行き、扉を開けてみる。中にあるのは卵と玉ねぎ、鶏胸肉とビールだけ。それらを取り出し、玉ねぎを薄くスライスする。鶏胸肉はすでにカットされていたのでそのまま使おうと、フライパンに放り込む。バチバチと油が跳ね、けたたましい音が響く。それをかき消すように玉ねぎを入れ、かき混ぜる。バチバチという音からじゅわっという音に変わった。火を弱めて蓋をして蒸し焼きのようにしている間、卵を溶く。案外、卵の殻というのは脆く、こぼれでる卵の白身や黄身は思ってたほど美しくなかった。
「あっ…」
2つ目の卵を割ろうとしたとき、失敗して黄身が破れてしまった。卵の混ざった中身がドロドロと流れ出している様は、さながら私の心の鏡のようだった。
「あーあ…ヘタクソ」
このまま使うわけにもいかないので台所のゴミ箱に捨てる。新しい卵を取り出してカシャカシャと切るように卵を混ぜる。あまり混ぜすぎると怒られてしまう。
フライパンの蓋を開け、蒸気が立ち上る中で鶏胸肉に火が通っているか確認した。うん、大丈夫そうだ。溶き卵を回し入れ、めんつゆと塩コショウを入れて軽くかき混ぜる。固まってきたらご飯の上に乗せて出来上がりだ。
「我ながら上出来じゃない。いただきます」
ふるふると揺れるほど半熟の卵と硬すぎない鶏胸肉、しんなりとして甘みが増している玉ねぎ。どれも教えて貰った通りのレシピだ。
「うん、さすが私。美味しいじゃない」
誰も褒めてくれる人は隣にいない。
「もうちょっと塩コショウ多くてもよかったかな」
教えてくれた人も喜んで褒めてくれた人も、もういない。
「ねぇ…どうしたらもっと上手くなるかなぁ?」
ポツリポツリとこぼした言葉はテーブルに滲んで消えていく。
「…美味しくない」
同じ親子丼を作ったはず。だけど、そうだ。卵はもっと固くて、玉ねぎはたくさんで、塩コショウよりめんつゆの方が多くて汁ダクで、鶏肉じゃなくて豚肉を使うことも多かった。
私が好きだったのはそんな不器用な親子丼だ。
「美味しくないよ…ねぇ…」
きっとそばにいたなら褒めてくれただろう。随分上達したと、美味しいと、もっと作ってと。
「ただいま。帰ってるのか?」
こぼした言葉たちを飲み込み、拭い、帰ってきた人を出迎える。
「おかえりなさい、お父さん」
「あぁ、ただいま」
「こんばんは」
「あ、おかあさんも。おかえりなさい」
私はもういない“理想の家族だった人達”へ縋りながら、今日も美味しくない晩御飯を作って家族の帰りを待っている。
朝日が差し込むこの部屋は布団が干したてのようにふわふわになる、日当たりのいい角部屋。春風が少しすかした窓から花の香りをのせて忍び込む。
「そろそろ起きなよ。もう昼だよ」
扉を1枚挟んだキッチンからやれやれと言わんばかりの呆れ声で、起きるよう促される。もぞもぞと布団から這い出るように身じろぎしていると、ガラッと扉が開かれた。その手には香りが際立つダージリン。コトっとテーブルに置かれた紅茶はほんのりと湯気を上らせている。
「今日から新学期だよ?いい加減ちゃんとしなきゃ」
「君がいるからちゃんとしなくても大丈夫なの。だってせっかく一緒に住んでるんだからさー持ちつ持たれつ、でしょ?」
ピシッとデコを弾かれる。
「あたしがいなかったらどうするのよ。1人でもちゃんとやってけるようにしなきゃ」
「えぇー…1人にされちゃうのー?」
「もしもってことがあるでしょ」
ちょっとだけ赤くなった耳に髪をかきあげる。照れたり恥ずかしかったりするときの君の癖。
ん、と両手を広げると仕方ないなぁなんて装いながら、飛び込んでくる。君からはふわりと春の匂いがした。
--あぁ、なんと幸せな夢でしょう
「ねぇ」
満面の笑みを浮かべて見上げる君は、まっすぐにこちらを見つめてニカッと笑う。
「大好きだったよ」
目が覚めると土砂降りの雨音が響き渡る角部屋。ベッドもテーブルも、もうない。壁に寄りかかるようにして、いつの間にかうたた寝していたようだ。
「ゆめ…」
いやいや、確かに夢であったが夢ではない。君は確かにここに存在し、ここで共に過ごし、ここを去った。アレは紛れもなく現実だった。
「…春の匂いのせいか」
夢の最後がどうしても思い出せない。いつも通りの朝を迎えて、いつも通りのバカをやって、いつも通りの好きを伝えていたはずだ。なのになぜ、最後の君の『大好きだったよ』のときの表情が思い出せないのだろう。
ねぇ、あのとき君は笑っていた?泣いていた?怒っていた?
夢の続きはもう見れない。同じ夢を見ることも出来ない。願わくば、夢の最後は君の笑顔でありましたように…
--あぁ、なんと不幸せな夢でしょう。
陽炎の揺らめくアスファルトを木陰からのんびり眺めていた。サクッと土をふむ音がして振り返ると、夏らしい白いワンピースを着たあなたが立っていた。
「やぁ、久しぶりだね」
あなたは僕の方を見てクスッと笑う。両手いっぱいに赤い花を抱えて、涼しそうに風を全身に浴びていた。
「今日はね、君に話があるの」
花束を小さな花瓶に差して僕の隣に腰を下ろす。僕の方を見るわけでもなく、遠くを目を細めて眺めている。
「なんだい?改まって」
「まずはあの日のこと、謝りたくて」
一瞬、風がやんだ気がした。
「あの日、私のせいで--」
やめてくれ、という声すら出やしない。出たとしてもあなたに届きもしない。
「私を助けてくれて、ありがとう。私のせいで君の未来を奪って、ごめんなさい」
「あれは、僕がしたくてしたことで…なにも負い目なんて感じなくていいんだよ…?」
「本当は君の気持ち、知ってたの…私を好きでいてくれたの、知ってた」
遠くを見ていたあなたは目を伏せて、自分の足元に視線を落とした。
「いいんだ…それが伝わっていたなら…」
「気付かないふりして、ごめんなさい。たくさん傷つけてごめんなさい」
気丈なあなたが瞬き1つすると、雫がこぼれた。振られるのは分かっていたから、気にしなくていいのに…
「ねぇ、謝らないで…?」
「あなたを傷つけて、すべて奪った私だけど…今でも私の幸せを願ってくれる、かな…」
この時ようやく僕は悟った。あなたが涙を零したのは、僕を傷つけたことに対する罪悪感や後悔からだと思っていた。でも違う。
この次の言葉を、僕は遮ってしまいたかった。
「私ね」
遮ることは叶わない。
「結婚するの」
あなたの涙は、僕を過去にしようとすることに罪悪感を感じていたんだね。
「ごめんなさい…」
いつの間にかあなたの肩が震えていた。キュッと唇を引き結び、泣くまいと瞬きすらせずにいる。
「私、次は絶対守るから…もう、好きな人失いたくないの」
顔を上げたあなたの表情は今までにないほど凛々しく、力に溢れていた。
「まったく…なんて人だ」
何も変わらない。昔からこうと決めたら絶対に意思を曲げない時の顔だ。こういうときのあなたには適わない。
「…幸せになってよ」
「話は、それだけよ。ごめんなさいね急に」
ゆっくりと立ち上がるとワンピースを軽くはたき、日向へ足を踏み出す。
「ねぇ、大好きだったの。君のこと」
「何を馬鹿なことをいってるんだい」
「今度、彼を連れてくるわ。またね」
陽炎に揺らめいてあなたの姿は消えていく。さんさんと照る太陽の元、まっすぐ歩くあなたの姿は、新しい未来へ進む様そのものだった。
なんとも簡単に棘を抜かれたものだ。あなたは僕を『好きな人』と呼んだ。『大好きだった』とも。あなたは嘘をつけない人だから、それが本心だったのだろう。失いたくなかったと思うほど、深く愛されていたのを今になって知った。あまりに真っ直ぐなあなただから今が幸せなことが伝わってくる。僕にはこれからのあなたを幸せにすることは出来ないのに。
「幸せになった姿を見るの、楽しみにしてるから」
死人に口はないもの、だからね。
僕らのコレは互いの傷を舐め合うだけの、ほんの些細な儀式のようなものだった。軽く唇に触れ合うだけの子供っぽいキスを交わし、『好きだよ』などと言葉にする。だけど決して僕と君の目は合わない。君の瞳に映っているのは僕ではなく、彼であり、僕の瞳には君ではなく彼女が映っているのだから、視線など合わずとも当然だ。
「ねぇ、好きだよ、--くん」
僕の首に腕を回して擦り寄ってくる君は愛おしそうに彼の名を呼ぶ。ぎゅっと力の入った腕は小さく震えていた。そっと背中をトントンと叩いてやると少しだけ和んだように腕から力が抜ける。
「好きだよ…--」
そう呟くとそっと頭を撫でられる。彼より少し大きな手で少し荒っぽくわしゃわしゃと撫で回す君は、少しガサツだ。
「ねぇ--くん、なんで私じゃダメなの…?私の何が足りなかった?なんであの子なの、なんで裏切ったの、やめてよ私の前であの子と居ないで…」
狂ったようになんで、どうしてと繰り返す君は縋るように、祈るように、贖罪するかのように彼への言葉をポロポロと零す。いや、零れるのだ。これが僕らの関係。
「ほんと、なんでだろうな…なんで、僕達が…」
思わず僕の口からも零れる。捨てられた子猫が身を寄せ合うように、僕達はお互いに身を寄せていた。寒さに震えるように身を震わせ、誰かに拾ってくれと訴えるかのようになき声を漏らし、小さな箱から出られずにいる。
「じゃあ、また明日」
「うん、ありがとう」
君を玄関先まで見送った僕は、見てはいけないものを見た。
「…どうしたの?」
僕の様子を見て何かを察した君は僕の視線を辿る。
「ぁ…」
君の瞳が見開き、固まる。怯えるかのように肩を震わせ、視線を逸らせず、その目を塞ぐことしか出来なかった。その視線の先には君が何よりも見たくないモノが幸せそうに並んでいたのを、僕は気づいていた。気付いていたのに何も出来なかった。
「なんで…」
そう呟いて両目を覆う僕の手を濡らした。まだ君の中から彼は消えていない。
「送るよ、大丈夫だから安心して」
そんな在り来りの言葉しか出てこない。
「…なんであんたはそんななの」
目を塞いでいたはずの君はいきなり僕の方を振り向いて目を赤くしながら何故か怒る。
「ごめん」
「違うでしょ…なんであんたはあんたを利用してるだけの私を守ろうとするの?」
「それはだって--」
『お互いいてくれなきゃ困るから』
君は驚いたことに僕と全く同じ言葉を発した。僕達はお互いを利用する関係だった。僕は君を彼女に見立てて、君は僕を彼に見立ててたくさんの懺悔と後悔とたくさんの何故を繰り返していた。ずっと誰にも届かないままなのにも関わらず…。
「嘘つき」
君の言葉に思わず目を見開く。君は悲しそうに笑っていた。
「あんたの目にはもう、あの子は映ってないじゃない。もうあんたは私を置いて進み始めてるくせに」
何度も見たことのある表情でぎこちなく笑う。彼を責める時、真実を知る時、虚勢を張る時、いつもこんな顔をしていた。
「本当はもう私なんて要らないくせに、なんで私を守ろうとするの」
そう、君は異様な程に勘が良かった。とっくに見透かされていたのだろう。
「同情のつもり?」
勘が良いが故に誰よりも深く傷ついていた。
「僕は、まだ君が必要だよ」
嘘ではない。ただ必要な理由が変わっただけだ。
「馬鹿じゃないの…私が気付かないとでも思ったわけ?」
「素直に話せば君は受け入れてくれたかい?」
「私は変わらない。関係性を変えても良いけど、私はまだあんたを利用することしか出来ない」
「それでいいんだ」
本当は君が僕にしか寄る辺がないことが嬉しかった。本当はお互い依存している関係性が心地よかった。本当はもう僕は吹っ切れていた。
でもそうしたら君は優しいから一方的な利用をするようなことは許さないだろう。だから言わなかった。
「元々は傷の舐め合いから始まった関係だ。今のままでも今と変わってしまっても僕は構わない」
そう、僕らはお互い捨てられた存在だった。その寂しさを、辛さを、後悔を、懺悔を紛らわせるためだけの関係だった。それしか縋る術がなかった。
「馬鹿みたい」
そう言って笑う君は見透かしていた僕の気持ちを受け止めてくれる。
「彼女を愛してたよ、誰よりも。いっそこの手で殺めてしまいたいくらいには。だけど僕はもう前に進む」
なんとも自分勝手で申し訳ないが、同時に安堵する。
「彼を愛しているよ、誰よりも。この手で殺めて私だけのものになるのなら喜んで殺す。今も、ずっと」
似て非なる感情に溺れた僕たちは復唱するように、確かめるように見つめたまま今初めてはっきりと口にする。
僕らは捨て子、寄り添い痛みを和らげるためにそばに居る。
「私もうすぐ消えるの」
振り向きざまに彼女はそう、笑顔で言った。目が痛いほどの赤に照らされた道に透けた足元をこちらに向けず、眩しいほどの笑顔だけを僕に向けている。
「なん、で…」
いいや、僕の問いもおかしいことはわかっている。何せ彼女はもう既に『死んでいる』のだから、今更何が起ころうと驚くことではない。
「あっはは!あたしを初めて見た時よりも驚いた顔してるよ」
カラカラと笑う彼女は皆が知っている彼女となんら遜色ない。
「なんで、消えるんだよ…なんで笑ってんだよ…!死にきれなくて今だってここにいるくせに、まだそれやり残してるくせになんで笑ってられるんだよ…!」
「あたしは死ぬべきだったからいいの。今も、あたしは消えるべきだってわかってるから」
慈愛に充ちた優しげな眼差しを道路に落として微笑むように笑う。
「なんで、何をしたって言うんだよ」
「人を殺したの」
いつもと変わらぬ笑顔でポツリとそう言う。固まる僕を宥めるように優しく頭を撫でながら、言い聞かせるように目を見つめながらゆっくりと口を開いた。
「あたしは、人を殺したの。誰よりも大好きだった人を、罪もないあの人を。許されないことをしたあたしは存在をもって裁かれるべきなの」
わかる?とでも言うように小首を傾げる。わかるわけが無い、だって僕は死ぬ前の彼女を知っている。誰にでも優しく、皆に慕われ、人に囲まれ、いつも笑っていた。そんな彼女が『消されなければならない存在』なわけがない。
「そんなの、有り得ないよ…だって、それなら、きっと殺された人に問題があるんだ、だから…」
「本当にそうかな?」
ゾッとした。僕の心の中を見透かすみたいに透き通っていて、それでいて光を宿さない瞳に気圧される。そしてなにより、そこまで彼女に心酔している僕自身に。
「それなら君は、自分は殺されて然るべきだと思うのかな?」
触れられないはずの彼女の指がトンっと僕の胸を突く。感触はないはずなのにその1本の人差し指に体が揺られる。半歩後ずさった僕は何も言えなかった。
「ねぇ、もしもその人が誰か君がわかったらさ」
フッとのしかかっていた重い空気が消えたように笑った彼女はいつもの彼女だった。
「その人に伝えて欲しいの。ごめんなさい、愛していましたって」
「なんで、僕に…?」
「君にしか出来ないからだよ。あっそうそう、それからあなたを殺したことを後悔していませんとも」
その時になって彼女の本当の罪に気付いた。人を殺したことが彼女の罪ではない。彼女の罪は…
「その人を殺したことを、悪い事だとは思ってないの?」
「うん。だって、彼のことが好きだったんだもの。好きな人を独占したいと思うのは当たり前でしょ?」
罪を罪と知っていながら罪悪感など持ち合わせていないこと。
「むしろ幸せだった。あたしだけのものになってくれたから」
その時の彼女は誰よりも優しい目をしていた。
「そろそろかな」
先ほどより幾分か消え始めている彼女の手を見つめながら、僕はただ一つだけ消える前に伝えたいことがあった。
「許すよ、あんたの全てを、この僕が」
やっとわかった。いや、思い出した。ここは冥界、天国と地獄の狭間。そして彼女を赦せるのは僕だけだということを…。
誰よりもそばにいた。誰よりも知っていた。
いつか離れていくこともわかっていた。
「ねぇ、見て。綺麗に咲いたでしょう?」
そんなことも知らずに、無邪気に君は笑う。汚れたこの狭い箱庭の中で、たった一輪の小さな命を美しいと笑う。
「えぇ、とても。ですが、そんなところにいてはお身体に触ります。せめて上に何か羽織って……」
「平気よ、これくらい!それよりも見て、とても美しい深紅の薔薇!」
愛おしそうにうっとり微笑む我が主はとても愛らしい方だった。
たとえその身が汚れていても、それすらもその色を纏っているかのように。
どんな服も着こなしてしまうかの如く、その身は色褪せない。
「ねぇ、貴方もそう思うでしょう?」
彼女が纏う深紅は、ただの赤いドレスに過ぎない。
「えぇ、さすがでございます」
その薔薇の深紅がただのニセモノでも、身に纏うドレスが汚れていても、人の道を踏み外していても。
「綺麗な花を咲かせるコツがわかったのよ。若いほうがいいの」
無邪気さをそのまま守るのが私の使命。だからずっと笑っていてください。
「だから次は」
貴女が望むのなら、私は喜んでこの身を捧げましょう。
「あなたが私の薔薇になってね」
あぁ、可哀そうに。つい最近彼女の身の回りの世話を始めたばかりの新人の彼が怯えてしまっている。最近若い使用人を求めるようになったのは歳が近い相手が欲しいわけではなく、ただの肥料として必要だっただけ。たまたまそれに選ばれてしまったのはお気の毒、だけれど私は彼女を……主を悲しませるわけにはいかないのです。
だからどうか、大人しく殺されてください。
私の肥料となるために――