あの夏の日、私は君になりたかった。

「人は見た目でその人を判断するってこと? 青山さんのことを『ダサい髪型』って言ったのは、言葉のあやであって――」
「ちゃうちゃう。亜弥ちゃんの見た目が悪かったんや」
「ひどい! 今日までろくに話もしなかったのに、なんでそうなるのよ」

 不満がコロッケに伝わってしまったのか、いびつな形のタネができてしまった。しかも置いたそばから崖崩(がけくず)れのようにぼろりと塊が剥がれ落ちてしまう。

 伊予さんは私の位置にさっと入ると、手際よくタネを丸め出した。

「油の温度見といて」

 最後までやりたかったけれど、なんとかの法則の話が気になる。

「青山さんの立場に立って考えてみ。クラスメイトのひとりが遅刻するようになる。しまいには登校すらも怪しい。髪型や色まで変わっていく。普通やったら避けるやろ?」
「まあ、ね。実際、クラスの子はそうだったし」
「なのに、いろいろ話をしてくれた。それは、亜弥ちゃんの見た目じゃなく内面に()かれたからなんちゃう?」

 伊予さんが、タネを片栗粉と卵液につける。あとを私が引き継ぎ、パン粉を薄くまぶして油のなかへ。

 ――ジュワ。

 唐揚げのときよりも重い音を立てる油。続いて三つ、鍋のなかに投入した。

「青山さんと仲良くなれるのかな……」
「もう仲良くなってるで」

 おかしそうに笑う伊予さんに「でもさぁ」と口を開く。

「その法則で言うと、人の見た目って大事なわけでしょう? 青山さんのことは理解できたけど……」

 無意識に首のペンダントを触っていた。

「どうしてリョウは『髪がかわいそう』って言ったんだろう?」

 同じ見た目になりたくて変えたのに、どうして?

「なんか理由があるんやと思うわ。もっと相手のことを深く知ることが大切やで。なんのために夜中に家を抜け出して会いに行ってるんや」

 伊予さんがいたずらっぽい目で言った。

「げ。……知ってたの?」
「当たり前や」

 胸とお腹をつき出す伊予ちゃん。

「コロッケひっくり返して」

 箸で裏返すと良い焼き色がついている。

「前にも言ったけど、亜弥ちゃんはなんでも好きなことをしたらええ。でも、夏休みの課題はチェックしてるから、さっさとしたほうがええで。進行状況によってはお父さんへの密告もありえるで」

「……わかったよ」

 不満な気持ちを尖らせた唇に乗せる私に、伊予さんは「そやなあ」と宙を見た。

「ひとつ、ウチからも追加の課題を出しといてあげるわ」

 次のコロッケの準備をテキパキ進める伊予さん。

「課題?」
 
油のなかからコロッケを取り出すと、こんがりとキツネ色に輝いている。

「そう、課題や。今度会ったときに、リョウくんを深く理解しようとしてみるんや。見た目だけじゃなく、本当の姿を知る努力をするんや」
「本当の姿って、まるで今が化け物みたいじゃない」
「亜弥ちゃんがそういうフィルターをかけてるんやと思うで。それを外すには、亜弥ちゃんがまずは素直になって話をせんとあかん」

 怖い、と思った。リョウを好きになったことを認めたときから、彼を知るのが怖くなっている。

 もしも深く知ったなら、あと戻りできないほど心が乱されるだろう。恋に落ちていく、自分が自分でなくなるような恐怖、とでも言うのか……。

「大丈夫や」
 
 私の不安を拭うように伊予さんは口の端をニッとあげた。
 ぷくっと膨らんだ頬がハムスターを連想させる。指を一本立てた伊予さん。

「もしも、万が一、ひょっとして、仮にも――」

 思いつく限りの言葉を言っているのだろう。

「最悪なことに、リョウくんって子が亜弥ちゃんの前からいなくなったとするやろ?」

 仮定の話なのに、ほら、こんなにも動揺している。ズキンと打つ胸を隠すように軽くうなずいた。

「そのときに、相手を深く知っていれば悲しみも深いけれど、立ち直れるのも早いんや」
「そうかな……。だって、知れば知るほど情が深くなるでしょう? 余計に引きずりそうじゃん」
「ちゃうねん。ちゃんと相手のことを見ればな、自分のなかにある後悔も減るってもんや。亜弥ちゃんのお父さんを見てみ? 亡くなったお母さんを理解してるからこそ、前を向いて生きてるやろ?」
「ああ……」
「人を好きになるってことは、相手のうわべだけを好きになることやない。本気で好きになったんなら、もっと深く知るべきや。そのほうが後悔は少なくなる」

 断言する伊予さんに、思わずムッとしてしまう。

「まだつき合ってもないのに、別れる前提で話をしないでよ」

一瞬手を止めた伊予さんが、「あ」と目を見開いた。

「ほんまやな。こりゃ失礼しました」

 おかしく笑ってから、ふいに真顔になった伊予さんに戸惑う。

「あのな、前にも言ったけど『実』で生きるのは難しいんよ。ウチかて、この家にいるときが本当の自分かと言われたら違う気がするし」
「あ、うん」

 それはなんとなくわかる。本当の私を出したくて、教室でもひとりでいることを選んでいる。でも、明日香と楽しく話す私も、また本当の私のような気がしているし。

「『実』の反対語は、虚無の『虚』って言うねん。誰しも、毎日のなかで無意識にこのふたつを使いわけているんかもなぁ」
「ジツとキョ?」
「虚無というのは、嘘の世界のことや。亜弥ちゃんは心の逃げ場所を作るために、ちゃんと相手のことを見てないんちゃうかな? 自分に都合のいい嘘の部分を作ってるんやと思うわ」
「私は、まだ虚を生きているってこと?」

 急に不安になり尋ねると、伊予さんは大きくうなずいた。

「亜弥ちゃんが本当の自分になれる場所があるとええな。そのためにも、『虚』やなくて『実』の自分を見つけてほしい。それがウチの望みや」

 なんか、今日でお別れみたいな話だ。最後のメッセージみたいで気分が重くなってしまう。

 雰囲気を察したのか、
「さ、残りのコロッケも揚げるで。明日はコロッケパンを食べるとええわ」
 ガハハと笑う伊予さん。


 それが『実』なのか『虚』なのか、私には判断する術もない。









【第五章】

夏はスピードを上げて








 リョウを見かけたのは偶然だった。

 偶然? ううん、本当は無意識に探していたんだと思う。

 だって昼間の駅前なんてほとんど遊びに来たことがないし、誰かと約束したわけでもない。
 本屋さんに行く、という指令を自分に出し、駅ビルへ向かう午後。そこには、リョウに会いたい気持ちがあった。

 透明のラップに包んだみたいに隠しきれない感情が、太陽の下でさらされている気分。今日も快晴で、少し前の梅雨が嘘みたい。

 駅前の大通り、といってもそれほど大きくない道幅だけど、その向こう側でマンションの建設が行われていた。

 リョウのバイト先はここなのかも……。

 ブルーシートで(かこ)われたなかで、たくさんの人や重機(じゅうき)が動いている。カンカンと甲高い音がずっとしていた。
 黄色いショベルカーの手前で何人かの作業員が立ち話をしている。

 好きな人ならすぐにわかる。真ん中あたりにいるリョウに視線がロックされた。
 バイクと同じ黄色いヘルメットをかぶり、年上の人たちになにか言われている。顔を斜めにして、じっと聞いているリョウの目は鋭い。

 怒られているのかな……。

 入り口に隠れるように立つ。
 年配らしき作業員がリョウの頭をパコンと叩いた。ビクッと体が飛びあがりそうになるほど驚いたけれど、その作業員の顔は穏やかな表情を浮かべていた。
 つられるようにリョウも表情をやわらかくしてなにか言った。周りから笑い声が生まれ、今度こそリョウが顔をくしゃくしゃにして笑う。
 おかしそうに笑う声に、私の表情も緩んでしまう。

 セミの声が夏を割るように鳴き、ふいに我に返った。

「……なにやってるんだろ」

 これじゃあストーカーじゃん。

 急ぎ足で駅ビルの本屋へ向かった。

 自動ドアが開くと、冷房が体を一気に冷ましてくれる。
 額に浮かぶ汗を、もつれる手を落ち着かせハンカチで拭いた。

「もう……」

 かなり重症だ、と自分に診断を(くだ)す。

 結局、夏休みになってから、ひとりでPASTには行っていない。それどころか夜の街歩きも行けずじまい。
 明日香たちとの作戦までは大人しくしておこう、とか、伊予さんに勘づかれていることも理由のひとつ、ふたつみっつ。

 ――違う。

 作戦の前に店に行ったって構わないし、伊予さんだって好きにすればいいと言ってくれている。

 なのに、行けていないのは私自身の問題だ。

 リョウを意識するほどに、どうやって会話をしていいのかわからなくなっている。
 夜の街歩きをすることで、本当の自分になれた気がしていたのに、これまで知らなかった私が顔を出している。 
 
 リョウが好き。もっと彼のことを知りたい。でも、知りたくない。
 こんな複雑な気持ち、これまで感じたことはなかった。

 新刊の文庫を見るともなしに眺め深呼吸をする。吐き出した二酸化炭素が重い。
 ふと、誰かが私を見ているような気がして顔をあげる。昼間には似合わない紺のサマースーツを着た男性がこっちを見ていた。
 目を逸らしかけて気づく。

「あ、木月さん?」

 よく見るとPASTの木月さんだ。

「やっぱり亜弥さんですよね」

 にこやかな表情で木月さんは、するすると人の間を抜けて来た。

「よく似た人がいるなって思っていたんですけど、自信がなくて。普段着だと雰囲気が全然違いますね」
「そう……ですか?」

 自分じゃよくわからないので、あいまいに答える。そう言う木月さんも、暖色の照明の下でしか見たことがなかったので、まるで絵本のなかから抜け出してきたみたいに現実味がない。
 うんうん、と満足そうに木月さんはうなずいている。

「夜に(まぎ)れるような黒い服装しか見たことがなかったので新鮮です。とてもお似合いですよ」

 さらっと褒めてくれる木月さんに、もう私は言葉を選べない。本当に絵本の登場人物がしゃべっているみたい。

「お買い物ですか?」

 首をかしげる仕草がいちいち様になっている。

「べつに読みたい本があるわけじゃないんですけど……。木月さんは?」
「僕は出勤前にはだいたい小説を買ってから行きます。ピークまではヒマですから、一週間で三冊は読めちゃいます」

 たしかに手には文庫本が三冊あった。
 タイトルをのぞきこむと、どの本もタイトルの最後に『殺人事件』と書かれてあった。私の視線に気づいたのか、扇子(せんす)を広げるように見せてくれる。

「ミステリー好きなんですよ。特にクローズド・サークルものが好きでして……」
「クローズド・サークル?」
「嵐の山荘や、無人島に登場人物が閉じこめられるという設定のものです。ひとりずつ殺されていく、という趣味の悪いものです。ラストに明かされる犯人に毎回びっくりしてしまうんです」

 細い目を丸くした木月さんに私も(なら)う。青春系の爽やかな物語がお似合いなのに、見た目とのギャップが激しい。

「私、あんまり小説は読まないんですよね」
「このジャンルはお勧めですよ。とはいえ、クローズド・サークルも出尽くした感は(いな)めませんけどね」

 普段はクールな人だと認識していたけれど、ミステリーのことを話す木月さんの目は輝いている。

 それが、木月さんの『実』ということなのかも。

「そういえば」

 木月さんがなにかを思い出すように白い照明を見やった。

「リョウくんがさみしがっていましたよ」
「え?」
「夏休みなのにちっとも来ない、って。まあ、夜の繁華街でやっている店ですので、あんまり熱心に誘うのも問題ですがね」

 そう言ってから木月さんは、私の反応を(うかが)うように少し黙った。なにか言わなくちゃ、と口を開く。

「明日行く予定なんです。友達をふたり連れていくのでよろしくお願いします」
「じゃあ明日は特製のセットをご用意しますね」

 不思議な会話だった。木月さんとは普通に話ができるのに、明日リョウに会うことを考えると緊張しかない。

 唇をへの字に曲げていることに気づき、軽く咳をしてごまかす私に、木月さんは「あ」と言った。

「そういえば、リョウくんがこの近くの工事現場でバイトをしてることをご存じですか?」

 知ってるし、さっき見た。なんて言えるわけがなく、首を縦と横に一回ずつ振った。怪しまれないようにと気をつけるほど、ボロが出ているみたい。

「よかったら見に行きませんか? すぐ近くですし」

 そんなことを提案してくる木月さん。

「え、あの……。でも、バイト中ですし」
「休憩時間だと思いますよ。ちょうどメールが来たところですし。待っててください。お会計してしまいますから」

 笑顔を残してレジに走る木月さんを見送る。頼りないメモリしかない頭で考えたところ、ついていくのが得策だと判断。
 木月さんの同伴なら、リョウに怪しまれずに済むだろうから。

 お会計を済ませた木月さんは、私の返事を聞くこともなく「こっちです」と、当たり前のように店を出て歩き出した。

 足が長いのでついていくのが大変。引いたばかりの汗がすぐに額ににじみ出す。
 空の青よりも濃い色のシートが、交差点の向こうに見えている。

 どうしよう。どんなふうに話せばいいの?

 流されるように歩いているけれど、進むにつれて、不安で足が重くなっていく。

「リョウくんの――」

 木月さんの言葉が遅れて頭に入って来た。隣を歩く木月さんの細い指が私の胸元を指している。

 ん? と視線だけで聞き返す私に、木月さんは細い目を線にした。

「そのペンダント、リョウくんがつけている物に似ています」

 三日月の形のペンダントトップがキラキラと光を放っている。

「あ、はい。これ、リョウのペンダントなんです。今度会ったら返さないとって思ってて……」

 返さないといけない物を勝手につけているなんて、ちょっとまずいかも。意味もなく隠すように握りしめた。
 木月さんはなんでもないように「そうですか」と涼しげな目を前に向けた。

形見(かたみ)ですからね」

 さらりと放たれた言葉が(やいば)のように突き刺さった気がした。

 形見……? この間、赤ジャージに言った嘘のこと?

 でも、木月さんはあの場所にはいなかったのに。
 足を止めた私に、木月さんはハッと握った拳を口元にやる。

「すみません、また余計なことを言ってしまいました。てっきり亜弥さんにはお話しされているのかと……。本当に私はおしゃべりですね」
「いえ……」

 聞きたいことはたくさんある。けれど、きっと木月さんはこれ以上は話さないだろう。
 形見ってどういうこと? 誰かが亡くなったってことだよね。それは……誰?

 考えをジャマするようにセミの声が大きくなる。この街は駅前だって緑が多くて、夏はセミの合唱がこだまのように時間差で騒ぐのだ。

「亜弥さんは、PASTの店名の意味って知ってますか?」

 話題を変える木月さんに、
「PAST……過去、ですか?」
 と中学で習った意味を答えた。

「そうです。過去、です」
「過去……」
「それだけ聞くとさみしいイメージですよね。でも、PASTにはほかにも意味があるのですよ」

 と口にした木月さんの足が急に止まった。

「あ、リョウくんだ」

 平坦な声に、ビクッと体が震えてしまった。

 すぐ先の自動販売機の受け取り口に手を伸ばしていたリョウが、私たちを見て目を丸くしている。

「こんにちは」

 近所の人にするように、木月さんは腰を折って挨拶をした。つられて私も頭を下げた。

 いぶかしげに眉をひそめたリョウが、
「なんで?」
 と短く問うた。

 なんで木月さんがここに。
 なんで亜弥がここに。
 なんでふたりがここに。

 どの『なんで』を尋ねているのかわからない。言葉に詰まる私をかばうように、木月さんが一歩前に出た。

「駅前の本屋さんでばったり亜弥さんに会いました。亜弥さんが会いにいきたいと言うので一緒に来ました」

 日記を朗読(ろうどく)するように説明する木月さんにギョッとする。それじゃあ、まるで私が会いたがっていたみたいに聞こえてしまう。
 アワアワしていると、木月さんが薄い笑みを一瞬見せた。

 これは……確信犯だ。

 信じられない。木月さんとのやわらかい会話がぜんぶ嘘に思えてしまう。

「んだよ。驚かせんなよな」

 ミネラルウォーターを一気に半分ほど飲んだリョウの目は、言葉と裏腹にやさしい。これは私の感情がそう思わせているの?
 作業着から見える腕が、はちみつ色に焼けている。ヘルメットを取った髪は、はじめて会った日と同じ、金色を思わせた。

「ちょうど今、バイト終わったところだから」

 肩をすくめたリョウに、
「あれ? 今日は遅くなるって言ってませんでした?」
 今度は木月さんが驚きを声にした。

「昨日ちゃんと言ったろ?」
「そうでしたかねぇ。じゃあ、仕こみはお願いできるんでしょうか?」
「たまには半日のんびりする。これも昨日言ったはずだけど」

 ため息をついてみせるリョウに、木月さんはがっくりと肩を落とした。

「しょうがないですね。観念して仕こみはやらせていただきます。それじゃ、亜弥さん、明日お待ちしていますね」
「え……はい」

 仰々しくお辞儀をして去っていく木月さんを、ぽかんと見送る。

 急にふたりっきりにされるなんて予想外のこと。

 どうしよう……。


あの夏の日、私は君になりたかった。

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