そのあとジワジワとうれしさがこみあげてくる。ううん、途中からはすごいスピードで体の温度をあげていく。
あんなにウジウジと考えていた自分がウソみたい。
「これからバイト行かなきゃ」
かったるそうな顔のリョウに、
「昼間ってどこでバイトしているの?」
そう尋ねたのは不自然なことではなかったと思う。
「駅前で工事やってんの知ってる? マンション作るやつ。学校行かない日はそこでバイトしてる。まぁ、雑用ばっかだけどさ、時給はめっちゃいい」
そこまで言ってから、リョウは「ん」と顔をしかめた。
「暑いな。だけど俺、夏は好きなんだ」
「私も」
前までは苦手だった夏も、リョウが好きなら私も好きになれるよ。
パタパタと顔をあおぐ私に、リョウは太陽に顔を向けた。
「でもさ、太陽より月のほうが絶対にえらいと思わね?」
まぶしそうに目を細めるリョウ。
「月って、お月様のこと?」
「お月様って、久しぶりに聞いたわ」
体を折って笑ってから、
「そう、そのお月様」
リョウがうなずいた。
「太陽よりもすげえって昔から思ってた」
彼が言うことは、どんなことでも正しい気がした。夏は好きだけど熱いのは苦手。月のほうがすごいんだって、今日からは私も思える。
「月はさ、自己主張しないじゃん。太陽みたいに肌を焼くこともないし、汗を出したりもしない。けど、満ち欠けをくり返すのがすげえし、潮の満ち引きみたいなすごいことをしれっとやってる」
表現がおもしろくて思わず何度もうなずいていた。
「月の光のなかにいるとすごく落ち着く、だから、夜のほうが好きなんだ」
「私もだよ。私もずっと太陽より月のほうが好きだった」
早口で同意すると、「そっか」とリョウはやさしく言った。
それから私の頭に右手をポンと置いた。
あの夜を思い出し、急にさみしくなる。
「こないだは悪かった」
「……え?」
「髪がヘンだとか、ひどいこと言っちゃったな」
「そんなこと……ないよ」
「あるさ。だってめっちゃ傷ついてたじゃん」
なんでもお見とおしなんだね。それくらい私が態度に表してしまっていたのか、それとも気にしてくれているのか……。
「だから謝りにきたんだ」
リョウの言葉にお腹のあたりが急にあたたかくなった。太陽のせいじゃない、言われた言葉が熱を生んでいるのを感じる。
わざわざ謝りに来てくれたんだ……。
「今の髪もよく似合ってる。ただ、俺が言いたかったのはさ――」
「こら、そこなにやってるんだ!」
リョウがつぶやく声に紛れ、校舎から赤ジャージが走ってくるのが見えた。
「やばい。生徒指導の先生だ。怒られちゃう」
私の声にリョウは持っていたヘルメットを、
「ちょっと持ってて」
と渡すと、自分の両手を首に当てて下げているペンダントを取った。
「おい、お前ら!」
どんどん近づいて来る赤ジャージに気を取られていると、
「はい、これ」
リョウが手渡してくる。
「え、これって……」
「忘れ物を届けてもらった、って言えばいいから」
エンジンがかかる音に顔をあげると、軽く右手を挙げてバイクを走らせて行ってしまう。
黄色いヘルメットは届かぬ月。遠く去り行く背中に、なんだか泣きたい気持ちになる。
「なんだ、またお前か」
ゼイゼイ息を切らせた赤ジャージが舌打ちをした。
「すみませんでした。忘れ物を届けに来てもらっていました」
「は? 忘れ物?」
校舎を見ると、いろんな教室の窓から見物している顔が見えた。動物園の檻のなかにいる私を、楽しげに観察している。
前にもこんな感覚になったことがあったっけ……。
手のひらをそっと開いてみる。リョウがいつもつけているネックレスが太陽の光を受けて輝いていた。
シルバーのネックレスチェーンの先に、黄色い三日月型のペンダントトップがちょこんとついている。
「なんだそれ。どこが忘れ物なんだ。お前、本当にいい加減にしろよ」
イラつく赤ジャージが乱暴にペンダントをむしり取った。
「いいか、理事の娘だかなんだか知らんが、俺は特別扱いしない。他の生徒と同じように指導していくからそのつもりでいろ。だいたい、最近の態度はなんだ。いつから不良になったんだ」
「先生、ありがとうございます」
「は?」
バカにされたと思ったのだろう、ジャージと同じ色になる先生の顔に、私は首を振った。
「特別扱いしてくれなくていいです」
「……ん」
「普通に接してくれてうれしいです。でも、そのペンダントは返してください。亡くなった母の形見なんです」
手のひらを広げた私に赤ジャージは、狸に化かされたかのようにきょとんとしている。
しばらくフリーズしてから、また舌打ちを鳴らしたあと、
「ほら」
返してくれた。
リョウから預かった物を取り返せるなら、嘘なんて平気でつける。なんでもやるよ、こんな幸せな気持ちをもらえるのなら。
「早く教室に戻れ」
「はい」
歩き出すと、生ぬるい風が揺れる。
赤ジャージが登場する前にリョウが私に言った言葉が胸に残る。
彼は私の耳に顔を寄せて言った。
『ただ、俺が言いたかったのはさ、髪がかわいそうだなって』
やさしくて悲しい声だった。
三日月のペンダントを持つ手に力を入れると、チェーンの留め具が指に食いこむよう。
切ない痛みに唇をかんでいた。
もう、ごまかすことなんてできない。
――私は、リョウに恋をしているんだ。
【第四章】
実《じつ》と虚の間
子供の頃から夏休みはあまり好きじゃなかった。
暑さは体力ややる気を奪う力を持つ魔物みたいなもので、外に出てしまうとHPが削られるようなイメージだった。一日中クーラーの効いた部屋でだらだら時間を過ごすことが多く、それを注意してくるのは明日香くらいのものだった。
なのに、リョウの『夏は好きなんだ』の言葉だけで、気持ちを改めている自分がいる。今年の夏休みは、すごいことが起きるような気さえしている私は、きっと単純なのだろう。
リョウへの気持ちは日々加速しているみたいだった。会いたい気持ちはミルフィーユみたいに層を重ねていて、逆にそのぶん、PASTへの足を鈍らせていた。
どんな顔をして会えばいいのだろう?
どんな会話を交わせばいいのだろう?
好きな気持ちが募るほど臆病になっていく。そんな気分で夏休みの数日を過ごしていた。
そんなときに明日香から『ヒマ?』というメールが来た。
結局、終業式の日もろくにしゃべれなかったから、本当は気になっていた。
きっと明日香は私が変わっていくことを怖がっている。
誤解だよ。私はなんにも変わってないよ。
そう伝えたかった。
できるならリョウのことも相談したかったから、ふたつ返事で出かけることにした。
――それなのに。
待ち合わせ場所である駅前のファストフード店。ポテトとコーラをトレイに載せいちばん奥の席まで進むと、明日香の隣には会いたくない人が座っていた。
青山さんだった。
また嫌な予感がムクムクと沸いてくる。緊張した顔でうつむく青山さんの前に座ると、明日香が「全員集合」とわざとらしく明るい声で言った。
「あのね、今日は三人で会いたかったんだ」
司会を務めるつもりの明日香にわざとらしくため息をつく。こういうところは昔のままだ。
小学生のときも、男子たちが暴走してケンカになったときや、女子で仲間外れになりかけた子がいたときは、立ち上がってクラスをまとめていた。
『陰の学級委員長』と呼ばれるほど、トラブルが起きたときの明日香は正義感の塊と化している。
「怒らないで聞いてよ。最近の私たち三人の関係について見直したいの。ほら、ちょっと今までと違うから……」
こういうときの明日香が気弱さを無理して隠していることも知っている。今だって、語尾が自信なさげになっているし。
これまでなら私は大人しく聞いていたと思う。だけど、今日は違った。
「今までってなに? べつに変わんないよ。ていうか、ふたりで会うんじゃなかったの?」
鋭い言いかたになってしまう。べつに話し合うことなんてないし、リョウの話がこれじゃあできない。
「そうなんだけどね……」
消え入りそうな明日香の隣で、もっと体を小さくしている青山さんをチラッと見やった私は、
「あれ?」
思わず声を出していた。
いつもの丸メガネはそのままだけど、トレードマークであるひとつに結わえられた髪がない。少し明るい色で肩のあたりで揃えてある。
「髪……」
思わずつぶやく私に、照れたように青山さんはさらにうつむく。
「少しだけ……切ったの」
へぇ、とうなずきながら瞬時に思い当たる、手が止まる、時間が止まる。
前に私、なにか言わなかったっけ……。
ああ、そうだ。『ダサい髪型』だと言った記憶が再生される。
ひょっとして私のせいで青山さんは……。
視線を明日香に戻すと大きくうなずいている。急に襲われる罪悪感に私は視線を冷めていくポテトに落とした。
「この間はごめんなさい」
青山さんの声に思わず首を振っていた。
私のせいだ。私があんなこと言ったから……。
リョウに髪のことを言われたとき、あんなに傷ついたのに同じことをしてしまった。
重い空気を払拭するように、
「でね、亜弥に提案なんだけどさ」
と明るい声で明日香は手をぱちんと叩いた。
「あたしたちも亜弥の街歩きに参加したいの」
「お願い、します」
小さな声で頭を下げた青山さん。窮屈そうにひとつに結わえられていた髪が、自由を謳歌するように肩のあたりで踊っている。
きっとふたりで話し合ってきたのだろうな。
「それって……本気で言ってるの?」
ぎこちなく言葉を落とす。視線も落ちる。
「私たち、亜弥と一緒に夏休みの思い出を作りたいな、って思ったんだ」
明日香の声が耳に届いても素直にうなずけない。
黙りこむ私に青山さんが下唇をそっと噛んだ。
「急に言われても困るよね。ごめんなさい……」
頭を下げると青山さんは、もうポテトとにらめっこするくらいうつむいてしまう。
その姿にあの夜の自分を重ねる。
リョウの言葉で傷ついた私は、あの日からずっとお腹にモンスターを飼っていたようなもの。モヤモヤとイライラの炎を吐く怪獣は、なにかにつけてあの日の彼を思い出し、悲しい悲鳴をあげていた。
それがリョウと会ったとたん重荷はどこかへ飛んで行き、幸せな気持ちに包まれたんだ。
やるせない気持ちを知っているのに、同じことをしてしまっている……。
私に歩み寄ろうとしてくれた青山さん。最近はあまり話をすることがなくなった明日香。そして、モヤモヤ怪獣の成長を止められない私。
同じ年で同じクラスで、だけど私たちはまったく似ていない。
急に肩の力が抜けるのを感じた私は、体を少し前にしてふたりに顔を近づけた。
「あのさ、相談があるんだけどさ」
切り出す私にふたりは黙ってうなずいている。
「何回か行った店があるんだけど、ちょっと最近行けてないんだよ」
「あ、リョウさんの店のこと?」
勘のいい明日香があどけなく聞いた。返事の代わりにひとつうなずく。
「もしよかったら、一緒に行く?」
「行く」
瞬時に青山さんが答えた。
「でもさ、そのお店、夜しか開いてないんだ。深夜カフェってやつらしくてね」
「それでも行く」
もう決めた、というように青山さんは手帳を取り出すとメモし出す。
「明日香はどうする? 門限は確実に越えちゃう時間になるけど」
「えっと……」
迷う明日香に青山さんは「簡単だよ」と言った。
「私の家に集まって勉強することにしよう。うちから前もって、喜久川さんのお母さんに連絡入れるから大丈夫」
「じゃあ、うちの伊予さんにもお願いできる? なんでも屋さん……家庭教師兼家政婦みたいな人なんだけど」
「もちろん。こう見えても私、クラス委員だから。お盆の時期とかはどうかな?」
「お盆ならいいかも。あ、お店やってるか確認しておくね」
ここ数年で最多の発言数を更新している気がする。
結局、リョウの店には八月中旬に行くことになった。それまで、各自が小出しに『今度、友達の家で勉強会をやる』と、親たちに伝えることになった。
小声で作戦を決めていると、なんだか友達みたいでこそばゆい。
ポケットのなかで、リョウに借りたペンダントが鼓動を打っているような気がした。
行きはよいよい、帰りはもっとよい。
駅前を通りかかったとき、確実に行きよりも足取りは軽かった。
青山さんの登場には驚いたし逃げ出しそうにもなったけれど、ちゃんと話ができてよかった。ぎこちない関係から一歩前に進めたのは明日香のおかげだ。
あとでメッセージでお礼を言おう。
横断歩道が赤の信号を光らせ、足を止めた。
「亜弥ちゃん?」
ふいにうしろから声がかかったので振り向くと、うさぎさんが立っていた。
真っ白なワンピースに身を包んだうさぎさん。明るい町に明るい服のせいか、黒髪がやけに映えている。
「やっぱり亜弥ちゃんだ~」
腕を絡めてくるうさぎさんから香水がやさしく香る。フルーツ系の匂いかな。
「こんにちは。今日はお仕事ですか?」
「そうなのよ。今から遅いランチを買いにいくところなの。亜弥ちゃんは買い物かなにか?」
満面の笑顔を浮かべたうさぎさん。ふと、前に思ったことが頭に浮かぶ。
『うさぎさんは、きっと彼のことを好きなんだろうな』
あのときからずっと心の奥で、ざわざわとその声が聞こえている気がしていた。
声が聞こえるたびに『そんなことない』『いや、ありえる』と自問自答をくり返しているなんて、これまでの自分じゃありえないことだった。
予感に無理やり蓋をして、
「友達と遊んでました」
笑顔で言えた。
「いいなぁ。あたし、友達少ないからうらやましい」
冗談かと思った。うさぎさんは大人だしきれいで明るい性格。たくさんの友達に囲まれている姿が、容易に想像つく。
私の考えていることがわかったのか、
「本当だよ」
とうさぎさんはすねた顔をした。
「早くして独立するとけっこう大変なんだ。仲が良かった友達からも嫉妬されるし、周りは結婚ラッシュだし」
「そうなんですか」
信号が青に変わる。うさぎさんが歩き出さないので、そのまま点滅し出す信号を見送るしかなかった。
「お店の常連さんっていっても、結局はお客様だからプライベートでは仲良くできないからさー」
「意外ですね」
私よりもきれいで、私よりも満たされていると思っていた。どこか大げさに言っているにしても、うさぎさんが孤独を感じているのは伝わってくる。
大人って大変なんだな……。
「そうそう」
急に思い出したようにうさぎさんがスマホを取り出した。
「これ見て。新しいカットモデルなの」
きれいな指先でスマホを操るうさぎさんがうれしそうに一枚の写真を見せてきた。
クールなまなざしで私を見つめる男子。リョウだった。
「無理言って写真撮らせてもらったの。今度ホームページに載せようと思って」
「あ、そうなんですか」
「リョウは見た目がいいから人気出そうじゃない?」
クスクス笑ううさぎさんの向こうで、また横断歩道が青に変わった。
「いいですね。リョウならピッタリです」
「でしょう? あとあたし、木月さんもカットモデルにしたいんだけど――」
「ごめんなさい。帰らないといけなくて」
気づけばうさぎさんの話を遮っていた。彼女は気にした様子もなく、「ごめん」と笑った。
「あたしばっかり話しちゃってた。またお店でね」
「はい」
ペコリと頭を下げ、青になったばかりなのに横断歩道を駆け足で急ぐ。
渡り終え振り向くと、うさぎさんは大きく右手を振ってくれた。
なんてまぶしくて生き生きしているんだろう。
軽く頭を下げてから、急ぐフリで帰路に着く。
うさぎさんはリョウのことをやっぱり好きなんだろうか。自分の問いにも、前みたいに強気に首を横に振れない。
さっきまで感じていた楽しい気分はどこかへ吹き飛んでしまっていた。
行きはよいよい、帰りはブルー。
太陽がやけにまぶしく、私を焼いていた。